2008年05月16日
日本サッカー協会は15日に開いた理事会で、7月に改選を迎える役員の選出に関し、次期役員候補推薦委員会を設置することを決めた。
同委員会は川淵三郎会長を委員長に10人で構成。6月下旬に会合を開き、理事候補、会長、副会長、専務理事予定者の案を作成する。会長、副会長候補は7月12日現在で70歳未満が条件。現在71歳の川淵三郎会長は退任となる。
[ 時事通信 2008年5月15日 20:02 ]
数日前からそろそろこのような発表がなされるであろうと気になっていた。
一説によれば、川淵三郎氏に後継を打診された小倉純二副会長が固辞した…との一部見方もあり、具体的な候補者名はまだ聞こえてきていない。
『次期役員候補推薦委員会を設置することを決めた。 同委員会は川淵三郎会長を委員長に10人で構成…』
“就任時70歳以上”定年制や会長給の付与など、この“独裁”とも言われた『3期・6年の長期政権』の中で、彼はさまざまな“ヘンかく”をJFA内にも齎した。目に見える公益の部分で良い部分もたくさんあったのだろうが、閉ざされた見えない部分で権力者の私益につながる様々な“仕掛け”もまた驚くほど構築されてきたのかも知れない。
“権力”とは、いずれ違わずそんなものなのだろうと僕は思う。
この6年を振り返れば、ここへきてやや翳りも見られるというものの、サッカーというエンターテイメントとしての、広告会社主導の商業的価値の創出・向上には目覚しい進化があったと断言できるが、一方ではその行過ぎたコマーシャリズムの台頭によって、サッカーの純然たるスポーツとしての尊厳が踏みにじられるような選択やシーンも数々見せ付けられもしてきた。
そしてその“均衡”を欠いたここまでの、一連の流れ…について、僕たち日本のサッカーを愛するニンゲンたちが、ある種の畏れや危機感を理解・共有し、声を上げ立ち向かってゆかなければならない状況にまで至ってしまっているのではないか…と僕は切実に考えている。
以前、フローラン・ダバディ氏が、開かれたJFA会長選の実施…を提唱されていたと思うが、それが当たり前の常識としてJFA組織内や各サッカー協会員、そしてメディア、日本のサッカー界全体に認識される日の到来を、僕も待ちわびている。
4年に一度、WCに期限をそろえて、
1.自らの指針と目標
2.技術委員長&代表監督候補者
の少なくともこの2点をマニフェストとして公約した上で、しかるべき数の推薦人を擁して、自由に立候補・選挙活動できるデモクラシーの概念が、JFAにも用いられるべきである。投票者は今の日本サッカー協会後援会(会費13,000円/入会金 5,000円)を拡充・発展させてもいいだろうし、各協会登録員、少なくとも少年サッカーの指導者に至るまで、幅広く門戸を広げて実施される事が当然であると考える。
そのサッカーの民意によって選ばれた権威こそが、正当にこの国のサッカーの在り方を、未来を、模索し開拓してゆくのが自然な姿なのだと僕は思う。
また私企業ではないJFAは、財務諸表における各項目の詳細にいたるまで徹底してディスクローズしてゆく責任が在るものと僕は考える。あらゆる取引について公正な契約や手続きがなされているかどうか、経費の詳細が妥当なものかどうか…等について、常にその開かれた情報へのアクセスを整備しておかなければならない。会長職や理事などの個人資産や年次申告の開示なども、強制や義務でなくとも、やましい所がなければ可能なはずである。そこに確固たる“透明性”を確保・維持することこそが、組織そのものの活力と信任に繋がるものと僕は思うし、私益と公益の均衡を保つ唯一の有効な“仕掛け”なのだと考える。
6月下旬には実質的に“新会長”は決まるだろう。確かに多少見栄えは良くなるのかも知れないが、誰がなったとしても今の在り方では、サッカーの民意から乖離したままの組織運営がただ脈々と続いてゆくだけである。
庶民なる者がただ無責任に政治に対する文句を言い放ち、政権を担う政治家の側が意図的に“民意”を取り違えて己の集票システムに“利権”を垂れ流す…。
仮にこの現状認識が正しければ答えはカンタンだ。庶民なるものが投票権を行使して、悪徳な政治を駆逐すれば良いだけの話である。本当にそれができれば、する気があるのであれば、その過去は背負わなければならないが、未来だけは変えられるのだ。
しかし正当なデモクラシーが機能し得ない組織ではどうだろうか…淀んだ水はその核心から腐敗し、その組織に連なる世界全体に影響を及ぼすことだろう。
FIFAが提唱するフェアプレーの概念が、サッカー指導教本にこう書いてある。
1 ルールを正確に理解し、守る
2 ルールの精神、安全・公平・喜び
3 レフェリーに敬意を払う
4 相手に敬意を払う
JFAが“プレイヤー”だとすれば、“レフェリー”とはまさしく僕らでなくてはならない。
そしてここで言う“相手”を僕は広く『サッカー』と定義する。
が、フェアプレーがどうのこうの…という前に、ここにはその前提となるべき“ルール”というコンセンサスが無いのだ…。
それはどのような“精神”に基づき、どうやって“安全”で“公平”なものとし、互いに“喜び”を分かち合える環境を創造してゆくのか…。その為のルールが、サッカーとJFAと僕らの間にも必要なのではないだろうか…。
JFAとともに、僕たち一人ひとりのサッカーファンそのものに向かって僕は再度問いかけてみたいと思っている。この国のサッカーの未来に対する、僕たち一人一人が担うべきひとつの責任として…。
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posted by 桐谷 |
11:22
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JFAについて |
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2008年05月08日
ジェフ千葉、リーグ戦初勝利おめでとう!!!
明日から数日PCを開けずコメント対応ができない為、新しいエントリーではなく、ここでお祝いの言葉だけ書き残させていただきます。
冷たい雨に打たれながらスタジアムで声を枯らしたジェフサポの皆さん、TV越しにその熱気と気迫が伝わってきました。応援ご苦労様でした。そして日本全国のジェフファンの皆さん、本当におめでとう!
ゲームそれ自体に関してはもはや言及すべき事はない。
毎試合、毎試合、負けるべくして順当に負けている。どこ、ここ、がどうである…と、もはや言ってもしょうがない。悲しいがこれが現実であり、クゼ監督はこの現実に対してきっと打つ手が無かったのだろうし、そのモチベーションも既に失われていたように僕には見受けられた。
浦和のエンゲルス就任の際にも僕はその“2年契約”について疑問を呈したのだが、このクゼさんの、一説には3年×40万ドルという情報にも開いた口が塞がらなかった。これには1年5000万円という報道もあるが、欧州の報道ではやはり確かに3年×40万ドルとなっていた筈である。それが交渉の土台であったとしたならば、最終的にルワンダ代表監督の契約を破棄して日本へ来る…という彼の決断が、1年約40万ドルで片付いた…とは考え辛く、やはりそれ相応のコストが支払われていたのではないか…と僕は考えている。
いつも思うのだが、なぜ、どうして、まったく成功の保証も根拠も無い“新監督”に対して、日本のクラブは安易に長期の契約を提示してしまうのだろうか?開幕していきなり連敗して求心力を失ったら…クラブはそのようなリスクについて、ハナから“予測”し“考える”ことさえしていないのだろうか?
雇用される側…から見れば、当然長期契約を望むものなのだろうが、それらの可能性を考えてなお、リスクを厭わぬ初期投資…をしなければならない訳が僕にはさっぱり理解できない。
しかもこの数日のクゼ監督“辞任”or“解任”の内部リークとも思われる新聞報道、おそらくは違約金に関わるジェフフロントの駆け引き…とも取れるコトの成り行きは、非常に浅ましく不快なものに僕の目には映った。実際のところは定かではないが、シミッたれるのならこの期に及んで…ではなく、契約前に、事前にトコトン、シミったれもすれば、ガツガツと駆け引きもすべきである。クゼ氏にとっても、これは気持ちのよい終幕ではなかった筈だ。ピッチの内部であれば、僕は日本人にもっともっとズルくなって欲しいと願っているが、ピッチの外で恥知らずな振る舞いだけは決してして欲しくない…と思っている。
僕は欧州の契約事情に詳しい訳ではないが、もし仮に僕がGMであって、欧州からの指導者を招きたいと考えるのであれば、彼らのタイムスケジュールを考え、まずは1月から6月までの半年契約で充分だとさえ思っている。チームの進化や指導者自身の言動一致が見られなければ、6月までに解雇すればいいし、であれば、雇用される者もあちらの新シーズンに対する求職活動に都合が良いだろう。また日本に馴染めずホームシックに陥る欧州人も非常に多いと聞く。彼らにとってもそれはさほど不都合な契約形態ではないだろう…と考える。そしてそれを承諾し得る者の範囲内で、最良と思われる若い人材を探す。可能であればそんな人材を、チームコンセプトと突き合せて常に1~2人チーム内に留保しておく事が望ましい…とさえ思っている。
今回のこのクゼ招聘が前社長の裁量によるものか、或いは現強化部長のそれによるものなのかは僕には判らないが、もし欧州での報道にある3年契約か、或いはそれに相応の代価を要した契約内容であったとするならば、まったく“ありえない”最悪の決断であった…と僕は考える。
阿部勇樹を売り、水本裕貴も売り、羽生直剛も売り、山岸智、佐藤勇人も売った…それによって一説には優に10億を超える移籍金を、新たなチームへの投資資金を得た…にも関わらず、坂本將貴や馬場憂太などへの移籍金、そしてアマルやジョルジェビッチへ対する違約金等によって、すでにそのほとんど全ての蓄えを吐き出してしまっている…とも聞く。
多くのサポーターが、多くのサッカーファンが考え得る、そして予想し得る…その範囲を遥かに飛び越えた、史上最低のJクラブチームのフロントである…と僕は思う。
消えてなくならないのは、彼らフロントの手腕などではない。
このクラブの長く輝かしい伝統と地盤、そして裏切られても、負け続けてもなお、今こうしてスタジアムに足を運び続けてくれる温かいサポーター達が居るおかげ…である。
フロントも、そして厳しいようだが選手たち自身も…彼らジェフサポーターの優しさを、思いやりを、そしてそのチームに対する情熱、愛情を、決して片時も忘れないでいて欲しい。彼らの為に今何をすべきか…その出来ること全てに、命を懸けて取り組んで欲しい。きっと彼らのそれは、その思いは、勝ち負けの問題…ですら既に無いのだと僕は思う。それほどまでに彼らは、ジェフを深く理解し、そして一途に愛しているのだ…と僕は思う。
埼玉スタジアムの赤一色の歓喜の情景の中で、片隅の黄色い一団が、悔し涙に唇を噛み締めながら、それでも手を頭上に高く掲げ、無残に敗れ去った者たちを、拍手で迎えていたシーンを僕は忘れない。そこには厳しく冷徹な現実もあったが、またそれを正面から受け止め、それでも乗り越えてゆこうとする強いニンゲンたちの意志、揺るがぬ感情の、しなやかな美しさと、胸を打つ感動が在った。
結果、勝てなくてもいい…と僕は思う。
サッカーなんて、いつだってそんなものだ…と僕は諦観している。
けれども彼や彼女たちに対して、このままではいけない。絶対にイケナイ…と僕は思う。
彼や彼女たちを、喜ばせなければならない。敗れ去ったとしても、“納得”だけはしてもらわなければならない。未来に対する夢や希望だけは、絶対に繋いでもらわなければならない…。
断っておくが、僕はジェフサポーターではない。
にも関わらず、ここまで変わり果ててしまったジェフのサッカーを、それでも今もこうして見続けてきたのは、いつもフクアリで見る、彼や彼女たちのその姿に心打たれてきたからである。今やっと気付いた。僕はジェフサポではないが、ずっとジェフサポのサポであったのかも知れない…。
声を張り上げることもなく、いつもフクアリのSAのシートにデンと腰を下ろし、ピッチと彼や彼女らの姿をただ眺めてきた。そんな僕だからこそ、少し恥ずかしいが、ここでは大きな声を張り上げてこう叫びたい…。
頑張れ、ジェフサポ!
闘え、ジェフサポのみんな!
そして最後の最後まで、絶対に諦めんなっ!
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posted by 桐谷 |
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ジェフ千葉 |
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2008年05月06日
僕は悔しかった。
それはフッキの強引さゆえの失敗が…ではなく、それに対する我々ニッポン人の評価が…である。
“なんでパスを出さないの?”
“どうして一人でやろうとするの?”
“確率の低いシュートを、なんで、どうして、打ってしまうの?”
僕が彼であれば、そんな批判にいちいちにこう答えるだろう。
“やってみたかったから”
そうして、
“きっとやれる…と思ったから!”
自分の限界はどこにあるのだろうか?
それが判れば、きっと判断はたやすいし、今より賢いプレーができるだろう。
けれどもその限界を認め、限定された可能性の中に、彼が自分のプレーを探し始めたとしたらどうだろうか…?きっと僕はこの21歳の若者にこんなにもトキメクことはもはやないだろう。
若き日のエジムンドも、ロマーリオもアドリアーノも、常に限界のその先の…プレーを捜し求めていたストライカー達であった。そして今それを、僕たちはニッポンで、Jリーグで、見ているのである。結果、彼がどれほどの到達点に辿り着くのかは僕には判らない…。中東の果てでただ金の為にそのポテンシャルを燻らせたまま終わるのかも知れないし、もしかしたら欧州に渡り、メッシやテベスのようなタレントたちとバロンドールを争う選手にまで上り詰めるのかも知れない…。それはまったく判らない。が、その2つの可能性の均衡の中で、21歳の若さにして、このニッポンでそのプレーを披露してくれた選手は、このフッキが初めてである…と、僕はそれだけは断言できる。彼に訪れる未来が、そのどちらであったとしても、僕はまったく驚かない。
そしてその未来が、より実りあるモノになるように、
『パスじゃない。一人で行け。シュートまで行ける。できるっ。やれるよっ!』
そうTVの前で一人呟きながら、今彼のプレーを見ている。
ジョージ・ベスト、マラドーナ、エリック・カントナ、そしてエトオ、ルーニー…。飛びぬけた次元を有するタレントたちが、いつも少々クレイジーであることは世界の常識からすれば“当たり前”のことなのかも知れない。そして僕は、なぜかそんな彼らの物語が“嫌い”ではないのだ。アルシンド、ストイチコフ、ストイコビッチ、エムボマ、ウェズレイ、エメルソン…Jリーグにおいても、こうして光り輝いたタレントたちは、僕らの“規準”からみれば、多少なりともクレイジーな気質…を持ち合わせていた筈である。
僕はそれも含めて、今このフッキのプレーを愉しんでいる。プレーにしろ、キャラクターにしろ、その突き抜けたスケールであり、クラスを味わっているのだ。
東京ヴェルディVS横浜マリノス。
前半42分頃のプレーである。
1点のリードを得た前半残り3分ほどの時間帯。バイタルの少し手前の、状況的に可能性の見えない局面から、フッキは強引にゴールへ向かって左足を振りぬいた…。フッキであれば20回に1度は“入る”局面である。が、日本人であれば100回に1度しか“入らない”局面である。
その瞬間、スカパー解説の原博実さんであったと思うが、残念そうな声をあげた。そうだ。いつものあれ“なぜ、確率の低いシュートを打ってしまうのか…”というあの嘆きである。
100歩譲って、0-1のビハインドの局面、前半残り3分の局面でのその“嘆き”であれば、僕も甘んじて聞き流したい…と思う。けれども1点リードして、残り3分。ゲームは終始マリノスのポゼッションに押し込まれているし、展開が開けていた局面ではない。少々強引であろうとも
“シュートで終わる”
そのシチュエーションに、僕はあれ以上正しい選択など無かったと思っている。
そしてこれこそがニッポンの問題であり、大きな“壁”なのだな…と改めて思う。
ストライカーが育たない…という。
そしてニッポン人はシュートを打たない…という。だから敵にとって“怖く”無いのだ…と。
大きな森を仰いで、僕らはつねにそう嘆くが、一つ一つの木を見ながら、果たしてそんな“嘆き”に正しく向き合ってきたのだろうか…。日本を代表する元ストライカーのそんな言葉を聞いて、僕は小さくない焦燥と不安に苛まれたりもする…。
そして改めてフッキに、そしてニッポンのストライカーたちに、心の底からこう叫びたい。
やれる。きっとやれる。
パスじゃない、シュートまで行ける!…と。
そして、何度でも、失敗していいんだ…それがサッカーなんだ…と。
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Jリーグ |
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2008年04月22日
サンフレッチェ広島+セレッソ大阪+『?』
今年のJ2昇格レースを、事前に僕はそう予想していた。
おそらく昨年のJ2を見てきた多くの方達も、きっと同じような感覚で今年のJ2を捉えていたのではないかと考える。
これまでいくつかのゲームを見てきた中で、ゲーム内容とそのクオリティに目をやれば、やはりサンフレッチェ広島のそれは頭一つ抜け出している感があるが、その他のチーム、FC岐阜にしろ、モンテディオ山形にしろ、そして現在11位のアビスパ福岡にいたるまで、本当に差の無い実力を有している。J2下位といえども、先日の日本代表バーレーン戦のような“夢も希望も”見出せないようなサッカーをしているチームなどひとつも無い。今年のJ2序盤戦は、昨年以上に“混戦”を予想させる立ち上がりとなった。
そんな中、この4月20日に行われたサンフレッチェ広島VSヴァンフォーレ甲府のゲームは、僕にとって今年一番“熱く”そして“美しい”試合だった。
きっと多くのヴァンフォーレ甲府サポーターの方々と同様に、僕も今年の彼らの苦戦を予想していた。即戦力でチームの核となれるような助っ人は望むべくもないし、また昨年のこのチームの攻撃を担った主力選手たちの幾人かもJ1へと去っていった。基本のベースを失うことはないとしても、茂原岳人の存在無くしてそのクオリティをキープする事は至難の業であると実際思っていたし、またそれをキープしたところで、そこからどうやってフィニッシュまで持ち込むか…といった課題は、J2においてもなお引き続き厳しく問われ続けるものと考えていたからである。
結果やはり苦戦は免れなかった…。が、それでも選手、そしてサポーターたちは、この難しい局面を、厳しいJ2での序盤戦を、様々な不運やミスジャッジの数々に苛まれながらも必死で戦ってきた。そしてここまで希望を繋ぎ続けてきた。その戦いのひたむきさ、その熱さ、そして極限の泥臭さの中に見出すその“美しさ”に、昨年同様、今年も僕はたくさんの感動的なシーンに巡り会わせてもらった。
この強いサンフレッチェ広島を倒すとしたら、きっとそれはヴァンフォーレ甲府やアビスパ福岡のようなチームなのではないだろうか?そう思って、僕はこの日の試合をずっと楽しみにしてきた。そして前半の彼らの、そのリスクを厭わぬ強烈な前からのプレスを垣間見、早々の失点にも関わらず必ず彼らは甲府らしいサッカーを見せてくれる…と確信したし、実際その激しい闘志と運動量で、あの広島のビルドアップとポゼッションを、前半彼らは見事に粉砕してみせてくれた。このゲームは、今年のJリーグで一番見るものの情感に訴える“熱”を放射していたと思うし、時に2バック、数的不利の最終ラインの危機を度々招きながら、それでも恐れず怯まずに後半開始早々から繋いで、組み立ててきたサンフレッチェ広島の、ペトロヴィッチの、その信念と揺るがぬ哲学に、この誇り高き両チームの、サッカーに対するその志の高さ、尊さに、改めて心の底から深い感動を覚えた。
サンフレッチェ広島には、このスタイルで、そしてこのペトロヴィッチのサッカーで、必ずJ1に返り咲きそこで花を咲かせて欲しい。またヴァンフォーレ甲府には、今は苦しんで、苦しんで、この困難を乗り越え自らの力として蓄積していって欲しい。そしてやはりいつの日か、J1の舞台に再び辿り着き、そこでこの誇り高い甲府のサッカーを、J1のファン達に見せ付けて欲しい。
クローズとオープンを自在に使い分ける判断力と柔軟性をこの一年でしっかりと学んで欲しい。また時に蹴りこむことを厭わずに、それによって更にこのクローズに光を当てる術を会得して欲しい。そしてゲーム状況において、前か後ろか…の守備、その決断を共有し、押し込まれる局面においても4-4-2の3ラインをベースに、敵のアタックを弾き返し、さらにその喉元に絶えず2枚の刃を突きたてる揺るがぬ闘志を貫いて欲しい。そうなってはじめて、僕はこのヴァンフォーレ甲府のサッカーが“完成”するのではないか…と思っている。
吉田豊、輪湖直樹という、このニッポンに希求される将来性豊かな素晴らしいサイドプレーヤーがいる。そして藤田健という日本を代表するレジスタがいるし、石原克哉という凡庸な、とてつもなく凡庸な、小瀬の、そして僕のヒーローが居る。刀折れ矢尽きるまで、前へ、できるだけ前へ、と踏み出す勇気を失わないで欲しい。そして敗れ去ったとしても、常に夢と希望を繋ぐ内容と、心を繋ぐその気迫…をピッチ上に描き続けて欲しい。
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ヴァンフォーレ甲府 |
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2008年04月21日
浦和レッズ0-0大宮アルディージャ
これが今現在の浦和レッズの在りのままの“実力”なのだと思う。
エンゲルス体制に変わり、ここまで“気持ち”で戦い勝ち点を積み上げてきたが、この連戦の中で、やはりどこまでも“それだけ”でやり通せる訳ではない。大宮のボールに対する厳しいプレスと、徹底したデニス・マルケスへの配球、その個力からの推進力・展開力に苛まれたゲームだったように思う。
今現在のJ1で、しっかりとしたポゼッションを構築し、組織でクリエイティブな攻撃を組み立てられているのは、鹿島アントラーズと名古屋グランパス、それにガンバ大阪と不完全ながらFC東京、ジュビロ磐田が在るぐらいで、その他健闘といえる成績を残しているチームの殆どは、日本人でしっかりと中盤から後ろの守備を固め、ブラジル人アタッカーにボールを預けるスタイルで、得点と勝ち点を拾っている。
こう言っては語弊があるかもしれないが、浦和レッズは従来そのスタイルを、2人のJ最高レベルの助っ人アタッカーを駆使して、最も成功させてきたチームであり、ポンテを欠きエジミウソンが不完全なまま燻っているこの現状では、むしろここ最近の連勝と王者鹿島からの勝利は大健闘と評価しなければならないものである…と僕は考えている。
この試合を見た方には、大宮デニス・マルケスの迫力ある仕掛けとそのキープ力ばかりが、目についたものと思うが、本来エジミウソンも決してこのデニス・マルケスに引けを取るタレントではない。が、にも関わらず、未だこのチームに馴染めず自らの実力を発揮できないのは、やはり浦和というビッククラブ、スター軍団ゆえの難しさがあるのだろうし、1トップ、3トップといった制約の中で、これまで新潟で与えられていたフリーロールの役割を基盤とする、自由なイマジネーションとそのプレーする喜びが失われつつあることもその原因のひとつなのではないだろうか…と僕は思っている。
この現状であれば、エジミウソンと競わせるべきは高原直泰であるべきで、田中達也が使えるのであれば2トップの一角は彼と永井雄一郎に任せて、むしろ両サイドのスペースを広く使われたほうが相手チームとしては的が絞りづらいのではないだろうか…と僕は考える。もちろん、それだけでチームがうまく回るなどと言うつもりは無いが、全体にスペースでボールを受ける意識が欠けている現状、動けるFWと内外の使い分けは、攻撃のダイナミズムを取り戻す良いキッカケとなるかも知れない。エジミウソン覚醒のためにも、一度トライしてみて欲しい試みである。
また大宮のボールサイドに厳しいディフェンスは、ヴィッセル神戸同様今のJ1で最もアクティブな守備体系であり、非常にシンプルでありながら、見るものの情感に訴えかけてくる“熱い”ものを感じる。三浦俊也監督時代に一度大きく躓いて方向性を見失いつつあったこのチームが、今また力強い基盤を構築し、未来に向けて新しい一歩を踏み出そうとしているその姿に改めて感銘を受けた。片岡洋介のような優れたタレントが厳しい競争にさらされている現状を見る限り、チーム内にも正当な競争原理が働いているのだろう。樋口靖洋監督のこれからの仕事も注視していきたい。
土曜日に行われた鹿島アントラーズVSガンバ大阪は0-0ながら、今年度のJ最高のクオリティを感じさせる好ゲームであったし、今後の優勝争いを展望した場合、現時点ではやはりこの2つのチームの質の高さが少し抜けているようにも感じる。この2チームに絡んでいくのは、横浜マリノスなのか、あるいは名古屋グランパスなのか…それともFC東京なのか、あるいは浦和レッズの復活はあるのか…。これからが選手層の厚さ、そして本当のチーム力が試される局面である。
この5月の厳しい連戦を乗り越えた先に、果たして何チームが優勝戦線に生き残れるだろうか?
長友佑都をはじめとした新しいタレントたちのさらなる成長と共に、今年のJ1最初の正念場、その生き残りをかけた熱い戦いを、これからの一ヶ月興味深く見守ってゆきたい。
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2008年04月17日
浦和レッズVS鹿島アントラーズ
現時点でこれをH&Aで10戦闘えば、鹿島アントラーズの5勝3分け2敗ぐらいが妥当な結果なのではないだろうか…と僕は思っている。実際に0-2で敗れたこの4月13日のゲームを見ても、90分間の大半を“支配”していたのは鹿島アントラーズであったし、特に1点リードされてからの後半残り40分間の磐石なポゼッションと、そのぶ厚い攻撃は、現在の鹿島アントラーズというチームの戦術完成度の高さとその“凄み”をまざまざと見せ付けた。
そして浦和レッズにとっては、“だからこそ”価値ある勝利であったと思うし、ギリギリの攻防の中で必死に繋いだその“希望”を、絶やすことなく今後の厳しい戦いの中で大切に守り通していって欲しいと願う。
これはスキルでも、戦術でもなく、ただ“気迫”と“執念”でもぎ取った勝利であったと思う。これまで氷結していた選手達の“戦う気持ち”が、ピッチに溶けて流れ出て、そして熱くたぎって沸点に達し、瞬間瞬間の攻防に決死の気迫となって迸っていた。
大事なのは、勝つこと、負けることよりも、まず“闘う”ことである。
勝負とは、そしてサッカーとは、そういうものなのだ…と僕は思っているし、この日の浦和レッズの選手たちは、それを如実に証明してくれたように思う。
ベンチからの指示もあったのかも知れないが、前線近くでゲームに入った闘莉王が、後半押し込まれた時間にはバイタルや最終ラインで、必死に敵のアタックを弾き返していた。彼の存在はまさに“リベロ”の呼称に相応しいもので、欧州においても今現在これだけ“リベロ”的な個性と躍動感を有したタレントを僕は知らない。Jにもたくさんの外国人DFは居るが、闘莉王以上の存在感とパワーを有した選手は一人も居ない。あらためて彼の“価値”を再認識したし、指導者にとっては彼やフッキのようなタレントを上手に使いこなすもう一つの力量、人間の度量のようなものが試されるわけで、サッカー監督とはつくづく難しい仕事なのだなと改めて感じる。
また先日の東京V対FC東京戦、その後にフッキのどんな暴言があったにせよ、あの2枚目のイエローはTV観戦から推し量る限り到底妥当なものとは思えない。それが狭量な日本文化的価値観の偏見や予断とどこかで結びつき、或いは干渉しているのだとすれば、お互いにとって非常に残念なことだと思う。
先日のヴァンフォーレ甲府VSセレッソ大阪戦においても見受けられだが、同じ誤審であっても、有ったコトを見落とす誤審と、無かったコトに対して予断や思い込みで下す誤審とでは、その過ちの“重さ”は歴然と異なるものと考える。同じ処分や罰則を下すものとしても、この両者の相違には明確な“区別”を希望したい。
日本においては今現在続くフッキとチームとのドタバタのように、組織や既存のシキタリになじまぬ者=非…といった短絡的価値観が平然とまかり通るが、そもそも組織やシキタリといったものはニンゲンの前に存在するものではない。むしろニンゲンの共存共栄の為の“方便”のひとつと考える事が妥当であり、有用な者を用立て従来の仕組みの中にどう融合させ、またどうやってより良いモノに作り変えてゆくか…こそが指導者の手腕にかかっているのだと僕は思う。言うまでも無く、サッカーとは世界のスポーツである。その作業を放棄していては、欧州トップリーグの“マネージャー”など誰にも勤まるものではないし、この日本においても、本当に優れた指導者とはキチンとした理論と実践にプラスして、その人間としての度量と魅力をも同時にあわせ持つものである…と僕自身は考える。
日本のサッカー界ももう少し、強烈な個性と能力をあわせ持つ、日本文化にとっての“異端”のタレント達を鷹揚な視点で受け入れてみてはどうだろうか?あのピクシーをアセーン・ベンゲルが受け入れたように。そして同じくドラガン・ストイコビッチを、イビチャ・オシムが見事に懐柔し手懐けたように。
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2008年04月10日
浦和レッズが帰ってきた。
去年の…ではなく、一昨年の、良い時の浦和レッズが戻ってきたのである。
無論、ワシントンやエメルソンが居る訳ではなく、フィニッシュに至るまでの攻め上がりの人数は1人2人増員せねばならない。それによりディフェンス面で度々スリリングな状況に出くわす事は多くなったが、僕はこれこそがレッズサポーターの求めてきた“スタイル”であると思うし、本来ニッポンのサッカーに与えられた“挑戦”なのだと考える。
今日本を代表するビッククラブ浦和レッズと、それを率いる監督ゲルト・エンゲルスが、その原点に立ち返りニッポンサッカーのダイナミズムを取り戻そうとしてくれている事に、僕は大きな喜びを感じている。当然“危うさ”を秘めた守備である。しかし、この“危うさ”こそが、サッカーのスペクタクルの原点であると僕は考えるし、むしろこの“危うさ”こそがサッカーの刺激であり、快楽の源泉である…とさえ思っている。そんな浦和レッズを取り返してくれたエンゲルスと選手たち、クラブフロントと、そしてサポーター達の情熱に心から敬意を表したいと思う。彼らの“思い”がその怯まぬ“行動力”が、こんなにもドラスティックにチームを変貌させたのである。
一方、日本代表は結局この岡田武史体制に対する“決断”に踏み切れなかったらしい…。
それぞれがそれぞれに居心地の良い曖昧な立場に立脚し、“決断”も“判断”もせぬままにこの場をやり過ごすことを“得策”と考え、二度と巡り来ぬこの6月までの8週間を岡田武史氏へあずけた。“覚悟”を強いられているのは岡田武史ただ一人であり、それを全力で支えるのが我々の責任…というのが小野剛氏はじめとする技術委員会の今現在の立場…である…という事なのだろう。そして場合によっては“責任”をとる“覚悟”はある…ということなのかも知れない。
今現在の“責任”には目を背けたままで、結果如何によっては“覚悟”しなければならない…と。
“責任”とは何なのだろうか?
それを彼らは彼らの立場で、どう理解し果たしているつもりなのだろうか?
『責任は俺が取る…』
これはサッカー界でも、代表監督人事においても非常によく聞かれる言葉であるが、実際にその“責任”を果たし全うした人物を、僕は加藤久元強化委員長(現京都サンガ監督)以外に知らない。
多くの者が、この“責任”を自らの職務を辞する覚悟と捉え、またこの国にはそれを“追認”する空気すらあるが、僕はそれを“責任”であるとはまったく思わない。例えば小野剛氏が6月に敗れ、技術委員長の職を辞し“責任”を取ったとしても、それは原状回復にもならなければ、僕らにとって一銭の利にも満たない行為に過ぎぬからである。
“償い”に通じない“責任”など、なんの意味があるのか?
僕はそれを“責任”と認めない。
“責任”とは、“義務”を果たすことである。
その“義務”に対して、日々、一秒一秒、命を賭して立ち向かうことである。
そして彼らのその“義務”とは、日本代表をワールドカップに出場させる…という“結果”であるとは僕は思わないし、“結果”的に強くした…という実績である…とすら思わない。
その為に、どのような判断をし、どのような決断をしたのか…それにどれだけ“真摯”に“全力”で取り組み、向かい合ったのか…それこそが彼らに与えられた“義務”であり、また彼らだけが果たし得る“責任”なのだと僕は思う。
問われているのは過去でもなければ未来でもない。
今、この瞬間なのだ。
だから僕は、彼らを“結果”では判断しない。
彼らの“今、この瞬間”を凝視し、自分の中での決断を下すのだ。
1996年、加藤久は確かに無力だったのかも知れない。
けれども彼が抱いた理想、折れない心、そして約束されたアカルイミライを放り捨ててまでも果たそうとした、その“義務”と“責任”に対する“信念”を、僕はこの先何十年経とうと忘れることはないだろう。1996年のあのたった一人の孤独な戦いの、その結末ではなく魂を僕は決して忘れない。
そしていつかの日か彼に続く者たちが、この暗鬱な閉塞状況を打ち破る事を期待している。この国のサッカーに光射す瞬間(とき)の再来を、僕はこれからも信じて、見守ってゆこうと思っている。
そして今一度、技術委員長小野剛氏に問いたい…。
あなたの“責任”とは何ですか?
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posted by 桐谷 |
11:05
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JFAについて |
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2008年03月30日
オシムの現場復帰を望まない…。
それは彼の生命にとって危険すぎる選択である。現実にそんな事が可能な筈はない…。というのが、僕の記した【岡田武史との訣別】に対する、反対意見のほとんどの方の主張だったと思います。
人への敬意の払い方、そして愛情の表し方というのは、人それぞれなのでしょう。皆さんには皆さんの、僕には僕の、そしてオシムさんにはオシムさんの、さらにJFAにはJFAのそれがあるのだと思います。
そしてそれを僕は否定するつもりはまったくありません。他人の感性へ立ち入ることなど、誰にも許された権利ではないのですから。皆さんのオシムさんへの配慮と愛情に対して、そしてこれほどまでに日本の皆さんに愛されたイビチャ・オシムという人物に対して、僕は改めて敬意を表したいと思います。
僕の肉親にも2人脳梗塞を患ったものがおります。どちらもICUで生命の危機に瀕したものの数ヶ月ののち無事退院し、半身にごくわずかな後遺症は残るものの普通に生活できていますし、充足した日々を送っております。
その他にも少なくない知人が同病を患いました。そしてそんな経験の中で、お医者様から与えていただいた僕の知識として言える事は、この病気はその後遺症も予後も、十人十色、百人百色であり、社会復帰される方の割合は、一般に皆様がイメージされる%よりもずっと期待値の高いものではないか…という印象です。
もちろん、オシムがその限りであるかは、僕には判りません。
そして僕の性分として、判らないものは判らない…という理解と諦観に基づいてこれまでもあらゆる事象を考察してきました。今回の件における意思の表明も、その信条において行ったものです。
僕はよくオシム危篤の報に接した時のことを思い出します。
あの時川淵三郎氏は『脳が異常にはれている』『命だけはとりとめて欲しい』という家族が望まない情報発信をメディアを通じて涙ながらにされました。彼の発言により、僕自身、オシムさんが死ぬか、植物状態でただ生きながらえなければならないか…その二者択一ぐらいの状況を想像させられました。
けれども実際にはそうはならなかった。
故意か過失かに関わらず、ある意味僕らは情報操作された…と考える訳です。
僕らはあの段階における川淵発言によって、完全にオシム現場復帰への希望を、あのメディア露出によって打ち砕かれた訳です。
その後の結果はご存知の通りです。オシムが目覚めるたった数日前に岡田氏の就任が周知され、オシムには事後報告がなされた。その場に立ち会った訳ではありませんが、その後のオシムさんへの報告は“すんなり”とはゆかなかった…と、噂の範疇ではありますが僕は聞きかじりました。真意の程は定かではありません。
そしてあの一連の流れの意図するものが、まず『新監督招聘ありき』=『岡田氏招聘ありき』のプロジェクトであったとするならば、僕があの時希望した、状況的にもっとも自然な流れであっただろう『暫定』は、やはり有り得なかったのでしょうし、であるとすればあの一連の流れは、やはり自然にして合理的だったな…と僕は考えたりもします。
その可能性を、そしてそうではなかった可能性を、そのどちらもを排除はできない…というのが“知り得ない真実”というものに対する、僕の一貫した“理解”の在り方です。
世の中に公平な報道などといったものは絶対に存在し得ません。
あらゆるニンゲンの意図から開放された“真実の報道”などといったものは絶対に有り得ないのです。
僕らが見るチベットの映像、道路特定財源に関する新聞報道、そして一連の川渕発言に対する各メディアの扱い方…それは報道するかしないか…を決する時点で、或いはどれぐらい大きく取り上げるか取り上げないかを判断する時点で、ニンゲンの意図、ニンゲンの価値観から逃れ得ない。僕らは常にそんな疑いの視点と、自らの無知への自覚によって、真実という実体の輪郭を、自らで思い描いていかなければならないのだと思います。
それだけが、この世界で“真実らしきもの”に触れるたったひとつの道筋である…と僕は考えます。
最後にニンゲンの意図、ニンゲンの価値観から唯一逃れることが許されたデータ(数値)と、オシムさんの意志だけをこの場に書き記させていただきます。
脳梗塞の死亡率…約20%
脳梗塞の再発率…3年間に約12.5%
脳梗塞の社会復帰率…約40%弱(年々上昇中とのこと)
*もしこの情報に大きな誤りがあれば訂正させていただきます。
そしてオシムさんは、この夏ユーロを見に欧州へ飛ぶ予定である…という事です。
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前回【岡田武史との訣別】で残念ながら、いくつかのコメントによって、この場の唯一のルールである『他者に対する思いやりと敬意』が踏みにじられたものと僕は理解しました。
よって今回コメント欄を閉鎖させていただきます。
一部の人間の身勝手によって、他の多くの方々に開かれた場が奪われてしまう。不条理なようでいて、これは紛れも無いひとつの現実でもあります。ご迷惑をおかけする多くの方々にここで謝罪します。本当に申し訳ございません。コメント欄の再開については今一度検討してから、皆様へ改めてお伝えしたいと思っております。
posted by 桐谷 |
21:58
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2008年03月29日
*現在暫定的にではありますが、コメント欄を開放しております。参加を希望される方は、ご面倒をおかけ致しますが【スポナビ、そしてサッカーに集うすべての皆様へ】にて当ブログのコメント欄に対するコンセプションをご確認のうえ、コメントをお寄せいただきたいと思っております。
「劇的に何かを変えるのはリスクが大きかった。 我慢してきたこともいろいろあった」
「これからは俺のやり方でやる。(敗戦は)高い授業料だったが、これで吹っ切れた」
現日本代表監督、岡田武史“さん”の言葉である。
僕はちっぽけな一サッカーファンとして、今こう言わせてもらおう。
『岡田さん、僕もこれで吹っ切れました』
『この難局を男気で引き受けてくれたあなたの“義”に報いるために、僕は就任以来あなたのサッカーにずっと我慢してきました。良い所をすくい上げ、不満なところには極力目を瞑るようにしてきた…。そしてやはりどうやってもこのサッカーは許容することができなかった…僕のこのサッカーに対する感性を、あなたへの“義”の為に裏切り続ける事はついにできませんでした』
『これからは言いたいことを言わせていただきます。思いのままに書かせていただきます。そして高い授業料でしたが、やはり“これ”を引き受けてくれたあなたの心意気には今でも感謝しています。最後に心からありがとう…と付け加えさせていただきます。そしてここから、僕は僕の書きたいことを書きます。思いのままに綴らせていただきます』
次のオマーン戦、敗れたら彼は潔くこの職を辞するつもりなのだろう。
が、責任論として極めて妥当なその筋道に対して僕には異論がある。
6月2日に敗れるか引き分けた時、もうその5日後には過酷なアウェイのオマーン戦が控えている。そしてその1週間後にはさらに過酷な酷暑のタイ戦が続く。まともな監督交代のタイミングなど6月には既に無いのだ。
もし緒戦で躓いた時、その求心力は保たれるのだろうか。この人に着いて行こう、このサッカーで闘おう…と選手たちは切り替えられるだろうか?
負ける…と言っているのではないが、そうなってしまえばチームは建て直しが効かない。そして協会が、技術委員会が、今ここで“動かない”というのであれば、それはこのサッカーと心中の決意を固めた…という事なのだと思う。そして結果は判らないが、その如何に関わらず、このシチュエーションにおけるその“決断”は、“誤り”であると僕は思っている。
バーレーン戦。ただ蹴り込んで来ると判っている相手に、自陣に攻め残りの敵をわらわらと残したままで、ボール奪取後、そのまま敵陣に蹴り込ませている。当然奪われてまた蹴られ、そのままの態勢で攻撃に転じられる…。きっと“逃げ”のサッカーをやりたかったのだろうが、戦術としても、また戦略としても、まったく合理に欠けた、“意味不明”の90分間であった。そしてこれだけは言わせてもらおう。
これはオシムのサッカーではない。むしろその“対極”に在るものである。
オシムの“思考”は決して死んではいない。
左半身に障害があったとして、さらに発声能力に不自由な部分があったとして、ユースの指導ができるまでに回復しているとするならば、せめて総監督という立場であっても指揮を取ることは可能なはずだ。オシムがそれを望んでいない…とは、どうしても僕には思えないのだ。
『やっていただけますか?』
と聞けば『ああ、いいですよ』と答える。きっとオシムは死ぬまでサッカーと共に在りたいのだと、僕は思っている。そして今の状況を一番歯がゆく思っているのは、やはりオシム自身である…と。
その医療スケジュールを把握しながら、眠りから醒めるオシムを恐れるかのように、そそくさとオシム路線の継承をうたい新監督招聘を決めたJFA川淵三郎氏と技術委員会。岡田さんの立場を思えばこそ、ここまで忍従に忍従をかさねてきたが、もう僕はためらわない。
彼らは“卑劣”である。
①オシム監督の土台を大切にそこから積み上げられる人物
②強烈な求心力、リーダーシップを持っていること
③コミュニケーションが取れること
これが技術委員長、小野剛氏の岡田武史氏招聘の3つの理由である。
僕がジャーナリストであるならば、今一度彼の自宅へ駆けつけてでも、これをもう一度復唱してもらうだろう。さあ、いま一度唱えてくれ!
知人から聞いた。小野剛さんが『オシムの代表監督復帰はない』と断言していたという。
WC予選は過酷過ぎるからだ…という事らしい。死なれでもしたら…困る、という事なのだろう。
が、果たしてオシムはその覚悟なくこの国に留まってきたのだ…と小野さんは思っているのだろうか?その覚悟無くして、オシムがここまで日本代表監督の職責を担ってきた…と本心で小野剛さんは思っているのだろうか?
僕は決して思わない。彼は死ぬ覚悟で、戦ってきた。その人生の最後に、この苛酷な戦いに挑んできたのだ。
僕ももう中年である。加齢臭漂う、立派なおっさんである。こんなちっぽけな人間であってさえ、人生の最後に何か成し遂げられるものがある…とするならば、今この命を捨てることなどいとわない。今すぐにでも、命を投げ打つ覚悟…を持って、僕はこの穏やかな日常を暮らしている。ちっぽけすぎるゆえに、僕はそう思うのかも知れない。が、男ならば、きっとみんな、少なからずそんな気持ちを抱きながら、生きているのだ…と僕は思っている。
不自由な左足を引きずって、彼はロッカールームからピッチへと続く通路をゆっくりと歩いている。頬はこけ、顔はすこし歪んでいるが、その瞳の奥には、邪気のない子供のような輝きが宿っている。大歓声のスタジアムの中、すでに試合は始まっていることだろう。介添え人の補助を断り、一言二言軽口を叩いた後で、杖に凭れ掛かるようにして彼は、一歩一歩自らの在るべき場所へと向かって、ゆっくりと歩をすすめる。その視線の先に…彼のサッカーがある。彼の…そして、ほんとうのサッカーがそこに在る。
その情景は、サッカーの感動を超えて、一人の闘う男のその闘争する魂の軌跡として、永遠に僕たちの記憶に刻まれる事だろう。サッカーの伝説として永遠にその命を生き続けるだろう。
僕はそんな情景に触れたい…と願っている。もし彼がそれを望むなら、そのサッカーに賭けた物語のラストシーンを、まっとうさせてあげたいと思っている。今再び、僕は心から、イビチャ・オシムの帰還を待ち望んでいる。
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posted by 桐谷 |
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