2007年10月25日

木村浩嗣はかく語りき その弐

スペシャルゲスト、『フットボリスタ』編集長の木村浩嗣氏を招いて

サンクチュアリを探し求めて 第三回

「とにかくブログを毎日更新してください」と後輩のS君は嘆願してきた。S君は、僕がもっているもうひとつのブログに登場するサンボマスター好きの男子だ。さらに「更新されたと思ったら・・・宣伝だし」と畳み掛ける彼。「何かを考えたり感じたりして書いた文章が読みたいんですよ。それに木村さんのインタビューの続きはいつなんですか?」と容赦ない。

今週は、選手と監督へのインタビューが続いた。まず、西村卓朗選手(大宮)と4時間30分の会話。藤本主税選手(大宮)と1時間。佐久間悟監督(大宮)と1時間。山根巌選手(柏)と1時間。どっぷりとサッカーに関わった1週間だった。それでは、木村さんへのインタビューの続きをどうぞ。


■スペイン代表のサッカーはロマンチックだ

――木村さんが考える良いサッカーとスペインサッカーは同じものですか?

敵地で八割以上はせめたい。だからラインを高くしないとダメ。自分の陣地を空けなければいけない。チームにタレントとか個人技がない場合は、集団で攻めるしかないんです。ぼくは、チームを作るのにバルサのサッカーを参考にしました。

――この間、バルサの指導者が日本に来て、少年サッカーの教室を開きました。その時に、通訳とコーチをされていましたが、日本の少年サッカーに関してどんなイメージをもちましたか?

小学校から戦術を教えないというのが日本。ドリブルで抜こうとする。賢くないサッカーにしか見えなかった。まず周りを見えるようにして・・・それから個人技で抜いていけと教えた方がいい。日本とスペインはどちらが育成に成功しているのか? 20歳以下の大会で、実績を残しているのは日本よりスペインです。

ある少年サッカーの試合を見ていて、日本は、やみくもにドリブルする子が多いと思った。何百万の子供たちが、サッカーを楽しいと思って続けるためには、集団でプレーすることを学ばなければいけない。そういうサッカーを続けていくことが日本を強くすることになる。個別に、個人の上手い人を集めても、先はないと思います。

――スペインで少年サッカーを指導していたとき、子供たちの親は、何か言ってきますか?

親は、負けたときは文句をいう。でも「守りに徹してくれ」とは言わない。「引いて守っていればよい」とは言わないんです。「良いサッカーだった」と言います。「勝った勝った」というよりも、良いサッカーだったという。

――スペインでライセンスを取ろうとしたきっかけは?

友人からライセンスのことは聞きました。最初に、97年10月から98年5月までの講習期間でライセンスを取ったんです。次に、98年1月から99年5月でふたつ目の上の段階のライセンスを取った。最初のは、18歳以下のチームを教えられる。ふたつ目は、3部リーグまでの監督ができる。あとは年齢制限がないから。高校大学でも教えられた。試験は、筆記10科目。筆記で元選手は、だいたい落ちてしまうんです。実技は、サッカーボールを蹴るわけではなく、蹴らせるわけですよね。だから、俺が通ったのかもしれないんだけど(笑)。もちろん、自分で見本をみせなければいけばい場面があるから、最低限のことはやる必要がある。個人技の練習であっても、チームをまかされて組織化する。アビリティーをアップするための、10分間の練習メニューをそこで作る。グランウンドでの手本は、上手い奴にやらせればいいから。「お前とお前」と言って選んでやらせる。ちゃんとできなかったら注意して。それが戦術でもありフィジカルトレーニングでもあり、あとメトゾロフィアと言ってメソッドですね。答えを導きだしてやるやり方とか、あるいはこっちが答えを全部教えてやらせるやり方とか。

――その後は、どんな経過をもったのですか?

98年、99年のライセンスを取ったときに、「お前はかなり成績優秀だった」と話されて、「上のライセンス取らないか」と助言されました。それを受講するためには、どこかのチームに入っていなければいけないんです。それで、少年サッカークラブのコーチをやる必要があった。そこのクラブは、10―11歳を対象としていました。

――指導は、ボランティアですか?

ボランティアです。スペインの少年サッカーの監督は、ほとんどボランティアです。たまに何かの機会でもらえて、年間3万円くらいだったな(笑)。少年サッカーは、一年間教えなかった時期があって、それ以外は98年10月から去年まで続けました。


■「ぼくはダメ人間だったんですよ」

――ところで、木村さんスペインに行ったのはいつですか?

94年4月です。

――それはなぜですか?

仕事が嫌になっちゃったんですね。仕事は、「日経ホーム出版社」で編集者をしていました。『日経マネー』とか経済系の雑誌です。あそこはライターに原稿を依頼するのではなく、編集者自らが記事を書く会社なんです。

――じゃあ、「編集長」といういまの仕事に違和感がないですね。

そうですね。

――スペインに行ったのは、サッカーに関係していたんですか?

いや、サッカーとは全然関係ないですよ。ぼくは・・・仕事が、全然できなかった。だからもう嫌になって、海外に行きたかったんですよね。ぼくはダメ人間だったんですよ。

――木村さんがですか?

「どうにかして嫌な毎日を打破することはできないものか」と逃避のためにスペインに行ったんですよ。日本を脱出したいと思っていた。それに、ダメ人間だったから、人と会ったり話をするのが嫌だった。当時は原稿を書くのがヘタだったんです。ぼくは書くことにむかないと思った。仕事がちゃんとできない、ダメな自分が嫌になったんですよ。

――会社辞めて・・・それまでサッカーをやられていたんですか?

いや、中学、高校の体育だけですね。

――なんでスペインだったんですか?僕は明確だったんです。言語学者でソシュールという人がスイスにいたんです。彼は、存命中に自分の考えや言語理論を本にして世に問わなかった。『一般言語学講義』というソシュールの名前で出版された本があるのですが、それは彼の弟子がソシュールの没後に授業に出ていた学生のノートをまとめて出版したものなんです。ソシュールが出版を念頭にして残した草稿がジュネーヴ大学の図書館に保管されいていて、その資料を調べるためには、ジュネーヴ大学に行く必要があったんです。

僕も明確だったんです。ひとつは、欧州をずっと旅行していたことがあった。当時勤めていた会社からわがままを聞いてもらって八ヶ月休みをもらった。それは日経ホーム出版社に勤める前にいた小さな編集プロダクションだったんですが。その旅行で訪れたスペインの印象がとても良かったんです。人が優しいなと思いました。すごくやわらかい感じがして。ここだったら、外から人が来ても、受け入れてくれるんじゃないか、という漠然とした感覚をもちました。そのとき1ヶ月間滞在したんです。オスタルという民宿で1泊500円だった。

それにスペイン語が、言葉として日本で一番使えるんじゃないかと考えました。まあ、当時、行きっぱなしになるとは思わなかったですね。できればずっと永住できれば、とは思っていましたが。確かそれは、87年だったかな。8ヶ月旅行してこんな楽しいことがあるのかなと。


■二年間毎日11時間行なったスペイン語学習

――それまでスペイン語の勉強は?

NHKのスペイン語講座と、語学学校に半年くらい週一回通いました。

――スペイン語は、どれくらいのレベルだったんですか?

どのレベルかな・・・。自己紹介ができる程度。「私は、誰々です。仕事は何々をしています」程度かな。

――スペインで指導者のライセンスを取得するためには、相当のスペイン語力が必要ですよね。語学力はどのように身に付けたのですか?

僕は二年間毎日11時間勉強して。96年に公立のスペイン語の語学学校を卒業した。卒業すると、海外でもスペイン語の先生ができますという証明書がもらえる。文法はそれでいい。単語は辞書をそのつどひいて。会話は、続けました。学校が4時間ですね。厳しい語学学校に入ると宿題がとても多いんです。だから宿題に時間がとられる。家での7時間は、宿題をするのにかなりの時間が使われました。土日は、学校がないので映画を見る。僕は映画をそれで見るようになったんです。「フィルムセンタ-」という場所があって、そこに登録して毎日時間があったら映画を見ていました。

――最初からサラマンカに住んだのですか?

マラガに1ヶ月いました。語学学校に入ると、アパートをあっせんしてくれます。日本人は、一つの学校に7、8人いましたね。その頃ぼくは、32歳だった。現地では全然働かなかったです。貯金けっこうあったんですよ。それに当時は、年間100万円で生活できた。もちろん、外食しないで、アパートはシェアでした。雑誌『宝島』の仕事が入ってきて、スペインのカルチャーガイドを書いたりしました。それは、知り合いのイラストレーターの紹介だったんです。140頁くらい書いたかな。

――サッカーについて書くようになったのはいつからですか?

「トラベルジャーナル」の雑誌の仕事をしはじめて・・・「あっ、もの書いてもいいな」ってはじめて思ったんです。全部で200頁中で140頁書きました。25日間で朝8時から夜11時まで書き続けて。言葉が次から次へと湧き出てきたんです。スペインの文化とか風俗とかを書いていて、ひとつのテーマとしてスペインを語る上で、サッカーはかかせないと思うようになった。スペインサッカーに応援に行っているような人とか、サッカーの話をしている場所とか、サッカー周辺の環境とかそれが好きだった。2002年までは、「2002年クラブ」というWEBサイトがあって、2002年以降は「スポナビ」に書くようになりました。


■ある恋愛が自分を変えてくれた

――スペインに行った32歳の頃の自分といまの自分を比較すると、ずいぶん変わりましたか?

当時の俺がね、人間じゃなかったというか・・・恋愛に関してもちゃんと恋愛することを知らなかった。いま振り返ると、ちょっとむかしの自分が想像できない。文章もいまとは別人みたい。

――木村さんを変えたきっかけって何ですか?

変わったきっかけは、恋愛したことかな。『宝島』の仕事をしていたときは、ほとんど記憶がない。ちょうどプライベートでもいろいろあって・・・断片しか残っていない。どんな生活をしていたのかも、覚えていないんです。死んだような毎日だった。瞬間瞬間の記憶しか残っていない。そんなんじゃ恋愛なんてできないですよ。

恋愛。俺にとってはあの子が一番好きかな。彼女は俺を解放してくれた。ぼくは、人前でかまえるところがあった。だから、相手に自分を見せることができなかった。自分の弱さを見せたくないというか・・・。そんなぼくに彼女は、「自分をこうしてちゃんと表現するのよ」って教えてくれた。

――彼女に言われたことで、印象に残っている言葉はありますか?

「あなたはいつも白か黒よね」
「人生って灰色もあるのよ」
この言葉は、よく覚えています。彼女は別の場所で好きだった人がいた。俺は両方好きというのが嫌だった。俺なんかは、道徳的に嫌だと思った。だから相手を責める。そして自分の型にはめようとした。ぼくがスペインに一人でいて、彼女とは三年間くらいは付き合ったかな。ものすごく楽しかった。彼女が僕にしてくれたような「こうして自分をちゃんと表現するんだよ」ってことを、今度は誰かに伝えられるようになれればと思っています。

――読書家で映画好きの木村さんが、おすすめする作品は何ですか?

SF作品なんですが『すばらしい新世界』ハッスリー著(講談社)。これは何回も何回も読んでいます。未来の理想社会について書かれている。僕は、スペイン語訳で読んだんです。この作品で言えば、東京の生活はデルタくらい。ガンマというのが一番下。映画では、『ブレードランナー』かな。

――デルタという東京の生活は、久しぶりに味わってみてどう感じますか?

日本の生活は、豊かだと思わない。日本帰ってきてびっくりしたのは、ほんとうに貧しくなっていること。年収の面もそうだし、弱者救済も切り捨てている。そして休日を楽しむという考えがない。スペインの余暇という社会にありあえないことです。ぼくなんか仕事がなくなったら、生きていける気がしないもの。僕がいなかった12年の間にすごく変わったと思います。それに日本の犯罪は異常ですよね。スペインで起こる犯罪は、お金か肉欲、色恋沙汰しかない。つまり、人を殺すというのに外から聞かされても、目的がわかる。でも日本は、殺したいから殺したという事件がある。そんなものは聞いたことがない。

――最後にサッカーの話ですが、もし日本サッカーが強くなったという時代が、人々にもはっきりわかるようになるとすれば、それはどんな出来事が象徴するのでしょうか?

日本人が、欧州や南米のクラブや代表で監督をやるようになったら、日本は最強。それが日本サッカーが強くなったという最終の象徴かな。

この項終わり

posted by 川本梅花 |22:27 | インタビュー | コメント(0) | トラックバック(1)
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