2009年06月16日

【kamipro】「三沢光晴とは、すべてを業(カルマ)として受け入れられる人物だった」GK金沢氏が綴る思い出

kamiproのウェブサイト『kamiproドットコム』でコラムを毎週連載している元『週刊ゴング』編集長・金沢“GK”克彦氏。大きな衝撃と深い悲しみに包まれた今週は、三沢光晴さんとの思い出を綴ってくださいました。

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三沢光晴とは、すべてを業(カルマ)として受け入れられる人物だった

三沢光晴さんが13日、広島大会の試合中(GHCタッグ選手権)に倒れ、同日午後10時10分に逝去された。死因は「頸髄(けいずい)離断」と報道された。当日、私は都内のスタジオで「サムライTV」の実況音入れの仕事をしていた。終了したのは午後9時40分。携帯電話を確認してみたところ、友人から着信がありメールが届いていた。「三沢さんが心停止状態で病院に運ばれたみたいです」という内容だった。携帯サイトを確認してみたところ、確かにそういう情報が掲載されていた。

それから、午後10時過ぎにスタジオを出て電車に乗り帰路に就いた。自宅までは、電車を乗り継いで1時間強かかる。その間、関係者5〜6人から電話やメールが入る。「「三沢社長の容態は?」というものばかり。こちらも、何人かにメールを送って情報を求めた。午後11時 15分、永田裕志から決定的なメール報告が入る。「現地で取材している記者から、三沢さんが亡くなられたという報告がありました。嘘であってほしいよ!」。

愕然とするしかない。「嘘であってほしいよ!」は誰もが抱く思いだったろうし、私も同様だった。その後、齋藤彰俊のことがとても心配になってきた。彰俊が新日本を離れてからは疎縁になってしまったが、いまでも年賀状のやりとりは続いているし、彼の性格はよく知っている。生真面目で腰が低く、心優しい男だ。

90年6月、福岡国際センターで馳浩がバックドロップの受け身に失敗して心肺停止状態に陥ったとき、対戦相手の後藤達俊の様子は見ていられなかった。その一部始終を私は観ていたし、昏倒する直前、シャワーを浴びて控室へ戻る馳と会話も交わしている。その後、馳が蘇生して一命を取り留めたのを知ったとき、後藤はようやく口を開いた。「馳にもしものことがあったら、俺はプロレスやめるつもりでした」。

2000 年4月、気仙沼大会のYL杯公式戦で福田雅一が倒れたときには、リングサイドの本部席にいた。すべてを観ていたし、病院にも駆け付けた。対戦相手の柴田勝頼には、とても声を掛けられなかった。福田選手が死去した2日後の追悼試合に出場した柴田は試合に敗れ控室に戻ると、もう見えなくなったリングを指差して「俺の居場所はあそこしかねぇんだよ!」と叫んだ。20歳の若者の血を吐くような決意表明だった。

ノアは翌日からも続く現行のシリーズを予定通り行い、彰俊も試合に出場した。立派な事後処理だったと思う。リーダーの三沢社長がそういう人物だからこそ、この決定は当然の成り行きであったのだろう。

最近の三沢光晴(敬称略)を思う。最後に、生で彼の試合を観たのは、5.6日本武道館大会。「グローバル・タッグリーグ戦」の優勝決定戦(三沢&潮崎Vs健介&森嶋)だった。正直いって、「しんどそうだなあ」と思った。

バリバリの潮崎に、重戦車のような健介と森嶋。その3選手に挟まれて、三沢のコンディション不良は余計に際だって見えた。気力だけで闘っているのが、伝わってくるのだ。本来であれば、もう楽をしてもいい年齢であり、立場だったと思う。しかし、腎臓がんの摘出手術による小橋建太の戦線離脱、秋山準の持病(椎間板ヘルニア)の悪化と、本来、トップに立つべき選手が、肉体の故障に悩まされる中、結局この2年間、ノアは三沢に頼らざるを得なかった。

まして、今年3月末で日テレ中継が打ち切りとなったわけだから、放映料が入らない分の穴埋めも必要になってくる。社長業、試合と、心身ともに休息の暇などなかったろう。そんな状況下でも、ようやく潮崎豪が本物になってきた。まさに、世代交代に向け動き始めた矢先の事故である。「たら」「れば」は禁物とは分かっていても、もし1年早く世代交代の流れが生まれていれば……そういう思いが沸いてくる。

※この続きはこちらからどうぞ。


posted by kamipro |15:09 | プロレス | トラックバック(0)
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