2011年08月23日

ベースボールと戦争⑥「敵性競技」視への道のり(下)鳩山一郎と野球統制令

 終戦記念日、広島・長崎の原爆忌に合わせて、別媒体で発表した「ベースボールと戦争」に加筆訂正を加えたものを転載しています。今回は戦時中の野球に対する「敵性競技」視への道のりをたどったエピソードの3回目です。


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 戦後、首相として日ソ国交回復、日本の国連加盟を果たしたことで知られる鳩山一郎は、日本の野球史にも大きなかかわりを持っている。

 

 

 鳩山が斎藤実内閣の文部大臣だった1932年(昭和7年)、彼の名で文部省訓令第4号「野球ノ統制並施行ニ関スル件」、いわゆる「野球統制令」が発令された。

 大正末期から昭和初期にかけて、春夏の中等野球甲子園大会や東京六大学野球を中心に野球人気は頂点に達したが、その一方で、主催者である新聞社や大学野球連盟がばく大な入場料収入を得て、学生選手が事実上学校の宣伝道具と化す弊害も生じていた。

 
 

 31年に読売新聞が開催した第1回日米野球で大リーグ選抜と対戦したのは、現役の大学野球部員が中心の全日本チームだった。しかし、「聖域」とされていた明治神宮外苑内の神宮球場でアメリカの「商売人野球」選手と学生選手が試合を行い、入場料収入を得たことを右派勢力などが攻撃した。これを追い風とした文部省は「学生野球の健全化」を口実に、小学校から大学まで、あらゆる学校における野球活動の「国家統制」に乗り出した。

 来日・国内チームを問わず、学生選手がプロ選手と試合を行うことや、大学野球部の渡米遠征も事実上禁止された。中等野球の全国大会は春夏の甲子園と明治神宮大会に限られ、大会入場料の徴収目的・使途や応援方法も厳しく規制されるなど、統制の中身は極めて厳しいものだった。
 

 

 巨人で沢村栄治投手ともバッテリーを組んだ内堀保捕手(のちスカウト)は1935年(昭和10年)に巨人へ入団し、直後の第1回北米遠征に参加したが、母校の長崎商業で卒業試験を終えて野球部に退部届を提出していたにもかかわらず、入団と渡米遠征が「統制令」に抵触すると文部省に見なされて卒業を認められず、その後半世紀近くを経てようやく卒業証書を渡されたエピソードがある。内堀捕手は戦時中二度も召集を受け、最初の兵役から除隊した直後、日米が開戦し再召集されるなど、戦争に振り回された野球人生を送った。
 

 

  鳩山自身は決して野球嫌いではなく、戦前は巨人の後援会長を務め、現在も東京都文京区に残る自宅、通称「音羽御殿」にナインを招待して食事会を催したエピソードなどが当時の選手たちによって紹介されているが、それでも文相として「野球統制令」を制定し、軍隊や国家権力による戦時中の野球弾圧に口実を与えたことが免罪されるわけではない。

 

 
鳩山の文相在任中に起こった出来事として、もうひとつ有名なのが「滝川事件」だ。

 1933年(昭和8年)、京都帝大(現・京都大)法学部教授・滝川幸辰の著書や発言が「反国家的」であると右翼や保守系国会議員が攻撃し、鳩山文相は大学側に滝川の罷免を要求。これを総長や教授会が拒むと、文部省によって滝川の分限休職処分が強行された、戦前の代表的な思想弾圧事件として知られる。
 

 

 野球統制令や滝川事件の背景を検証すると、当時の文部官僚の体質が浮かび上がってくる。明治以来、「富国強兵」「殖産興業」を旗印に、神格化された天皇を神輿(みこし)に担いだひと握りの特権階級に大多数の市民を奉仕させる社会構造を教育の目的とした「皇民教育」を推し進めてきた彼らにとって、「大正デモクラシー」で高まりを見せた、高等教育機関における学校・学生自治気運の高まりや、学生スポーツが自治精神のもとに運営・開催されることは受け入れ難いものだった。

 

 

  「野球統制令」にこめられた文部官僚の本当の意図が何であったかを示しているのが、鳩山の前任者だった田中隆三文相が1931年に貴族院で行なった演説だ。田中は、「学生に対して穏健なる思想を注入し国民思想を健全にするために、穏健なる主要団体及び体育機関を奨励して国民思想の善導をはかることが必要」だと強調している(加賀秀雄元名大名誉教授論文「わが国における1932年の学生野球の統制について」から引用)。

 

 

 やがて軍部による政治支配が強まると、戦後東京裁判で終身刑判決を受けた荒木貞夫などの現役軍人がたびたび文相に就任。荒木の在任中には「労農派」と目された大学教授・学者グループが一斉検挙された「人民戦線事件」が起こり、軍部による教育支配はいっそう強まった。
 

 

 こうした「軍教一体」の状況で、野球は米国型民主主義を象徴するものとして、いよいよ「敵性競技」視されていき、日米開戦とともに大いなる受難の時代を迎えた(つづく)。

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2011年08月19日

ベースボールと戦争⑤「敵性競技」視への道のり(中)権力に敵視された野球の「民主的気風」

終戦記念日に合わせて、以前別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を加筆訂正のうえ転載しています。今回は戦時中の野球に対する「敵性競技」視がどのように始まったのか、その経緯を探るエピソードの2回目です。 

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 大正に入り、日本の野球はいよいよ「国民的娯楽」としての飛躍的な発展を遂げていった。 

 中等野球では現在の高校野球全国(夏)、選抜(春)大会が始まり、大学球界では東京六大学野球連盟が結成され、応援の過熱から19年間も中止されていた早慶戦も1925年秋に復活し、中等野球、大学野球の専用球場として甲子園(24年)、神宮(26年)の両球場が建設され、20年には日本初のプロ野球チーム「日本運動協会(芝浦協会)」も誕生している。 

 また、18年には鈴鹿栄(2003年野球殿堂入り)によって軟式ボールが発明され、これを利用しての少年野球大会や旧制女学校での女子野球も盛んになり、野球は日本に伝来してわずか半世紀でもっとも人気のあるスポーツとしての地位を確立した。
 

   この時代、吉野作造が「民本主義」を唱えるなど「大正デモクラシー」の機運が高まり、日本共産党の創立、普通選挙や婦人参政権を求める大衆政治運動、労働運動が盛んになっていった。前述した東京朝日新聞による「野球害毒論」キャンペーンのとき、当時東洋経済新報の記者だった共産党創設者のひとりである片山潜(1859-1933)が、「野球は遊技として最もよく発達せるものである」と擁護の論陣を張ったのは野球研究者の間では有名なエピソードだ。

 

 数ある球技のなかでももっとも牧歌的で、ルールにも民主主義的な精神が反映している野球の発展には、こうした大正デモクラシーの風潮も色濃く反映していたが、それゆえに反動的な勢力による野球への反発や抑圧の動きも根強いものがあった。
 

 

 1918年、投機による米価の急騰に対して起こったいわゆる「米騒動」や、寺内正毅内閣による「シベリア出兵」(ロシア十月革命への干渉戦争)の影響で、大阪朝日新聞主催の第4回全国中等学校優勝野球大会は、全代表校が決定していながら中止された。中止を決めたのは大会の創設者で、大正デモクラシーの代表的論客としてしられた社会部長の長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん 1875-1969)だったが、まもなく長谷川は米騒動やシベリア出兵をめぐって大阪朝日が寺内内閣を批判して政府や右翼の攻撃を受けたのを機に退社へと追い込まれる(白虹事件)。

 

 

 この時期、野球界に起こった注目される動きとして「女子野球」の勃興があげられる。軟式野球の発明を機に、1920年代になると和歌山、大阪、愛媛、福岡、熊本などの旧制女学校において野球部が次々と誕生し、対抗試合や全国大会も開催された。これには前述した婦人参政権運動など女性の社会進出が時代背景としてあったが、初代文部大臣・森有礼が「良妻賢母教育」を国是として定めていたこともあり、女子野球は保守的な教育者や官僚の不興を買うことになった。

 1922年には福岡県立直方高女女子野球チームに、熊本第一高女との対抗試合直前、知事による禁止通達が出され、26年には和歌山県学務課が「女子に不適切、不妊の恐れあり」として女子野球の中止命令を出している(竹内通夫著「わが国における女子野球の歴史」野球文化學會論文集「ベースボーロジー10」より)。


 早大野球部OBで学生野球界の重鎮だった飛田穂洲は、直方高女への理不尽な試合中止命令を激しく批判したが、その命令を出した当時の福岡県知事・沢田牛麿が、勅選貴族院議員だった終戦直後、日本国憲法、とくに第9条や、教育の民主化をうたった教育基本法の制定に強く反対していた人物だったことは注目すべき事実といえるだろう。

 

 

 大正時代、全国の高等教育機関では、京都帝大で教授の人事権をめぐって総長と教授会・学生が対立した「沢柳事件」や、学内での軍事教育に学生が反対運動を起こした「早稲田軍教事件」など、大学自治気運の高まりを象徴する出来事が起こっている。東京六大学野球連盟も学生野球部員による自治の精神で運営され、現在も受け継がれている。

 しかし、治安維持法の制定(25年)の制定をきっかけに大正デモクラシーが衰退し、時代が昭和へと変わっていくなかで政治・社会の保守化・右傾化が進み、野球の運命も大きく翻弄されていった(つづく)。

posted by kairi1958 |13:56 | Baseball/MLB | コメント(0) | トラックバック(0)
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2011年08月17日

ベースボールと戦争④「敵性競技」視への道のり(上)早大米国遠征と「野球害毒論」

終戦記念日に合わせて、以前別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を加筆訂正のうえ転載しています。今回は戦時中の野球に対する「敵性競技」視がどのように始まったのか、その経緯を探るエピソードの1回目です。 

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  軍国主義体制による野球への「敵性競技」視の発端は、明治維新からまもなく野球がアメリカから伝来したあと、学生野球を中心に隆盛期を迎えていた明治末期にまでさかのぼる。

 

 1871年、大学南校(東大の前身)の米国人教師ホーレス・ウィルソンが野外遊戯として生徒に教えたのが日本における野球の起源とされている。


 明治政府によって西洋式教育が導入され、大学南校や札幌農学校などの官立学校にも洋風校舎とともに「校庭(プレイグラウンド)」が設けられた。


 維新まで、日本には武士が戦場で役立てるための武芸や、平安貴族が興じた「蹴鞠」などはあっても、人々が身分を問わず野外で「余技」「余暇」を楽しむ本格的な「身体文化」はほとんど存在しなかった。江戸幕府の「昌平坂学問所」や諸藩の藩校などの教育機関にも、現在の「校庭」に相当する施設も、それを利用して行なう現在のスポーツに通じる野外活動の習慣もなかった

 

 校庭の利用法を生徒たちに教えるためにウィルソンは野球を伝え、東京大学のイギリス人教師だったF.W.ストレンジが1883年に小冊子「アウト・ドア・ゲームス」を著してベースボールやフットボールなどの球技や陸上競技を紹介した。



 なかでもベースボールはめざましく普及し、明治中期には第一高等学校や早稲田、慶応などの学生野球が隆盛を迎える。

 

 1905年(明治38年)、早大野球部は日本の野球チームとして初の渡米遠征試合を敢行した。早大野球部はこの遠征でワインドアップやスライディングなど最新の野球技術、グラブやスパイクなどの用具、練習方法などを持ち帰り、野球のさらなる普及・発展に大きく寄与している。 


 この遠征は日露戦争の真っただ中で、学校の内外から激しい反対があったが、明治政府の重鎮でもあった早大の創立者・大隈重信の意向で実現している。しかし、戦時下の渡米遠征試合に対する批判はその後も根強く残った。
 

 1911年(明治44年)、「東京朝日新聞」が「野球ト其害毒」と題した22回におよぶ、いわゆる「野球害毒論」の紙上キャンペーンを行なう。

 

 学校を中心に発展した日本の野球は、早慶戦の中止を招いた応援の過熱や、学生部員の学業放棄、非行、有力選手の獲得・引き抜き合戦など、現在の野球界にも見られる諸問題を引き起こしていた。


 同時に、維新以来の急激な欧米化に対する、教育現場での反感も強く、のちに春夏の甲子園大会を制した和歌山中学(現・和歌山県立桐蔭高校)では、校長が命じた「野球禁止令」に反対した生徒によるストライキが起こっている。


 東京朝日の「野球害毒論」は、教育界で顕著だった野球に対する批判を利用したキャンペーンで、「巾着切り(スリ)の遊戯」と酷評した新渡戸稲造(一高校長)をはじめ、乃木希典(陸軍大将・学習院長)や、当時の文部省普通学務局長、官学・私学の校長らによって、「野球の弊害」が盛んに論じられた。
 


 しかし、彼らの主張の多くは、野球人気の過熱によって生じた前述の弊害を「(競技としての)野球そのものの害毒」にすり替えた観が強いものだった。米国での留学・在住経験があった新渡戸も、拝金主義や人種差別などがまん延していた当時の米国社会に抱いた嫌悪を、かなり直情的に野球の否定へと結びつけている。


 また論者として発言した教育者の多くは、古武術を学校教育に取り入れることに肯定的だったが、これには「富国強兵」「殖産興業」のための人材育成を教育の目的としていた当時の文部行政が色濃く反映しており、文部官僚に従属的な教育者ほど、欧米から伝わったスポーツの持つ「遊戯」的な要素を否定していたことの表れでもあった。
 

 また、このキャンペーンに、日露戦争の指揮官だった乃木を起用したことは、「害毒論」の背景に何があったかを象徴するものだった。「二百三高地で多くの日本兵が犠牲になったのをよそに、大金を費やしてアメリカにわたって野球にうつつを抜かしていた」という早大野球部に対する軍部の反感、さらには陸軍のトップだった山県有朋が大隈と対立関係にあったことが見え隠れしている。
 


 結局、野球害毒論は、野球がすでに「国民的娯楽」として日本人に受け入れられていた社会的状況や、さらに東京朝日の系列紙「大阪朝日新聞」が全国中等野球選手権大会(現在の夏の甲子園大会)を主催するようになったことで下火になるが、それでも軍閥、文部官僚を中心とする教育界などに野球への強い反感は続いた(つづく)。

posted by kairi1958 |13:15 | Baseball/MLB | コメント(0) | トラックバック(0)
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2011年08月16日

ベースボールと戦争③沢村栄治の野球生命を奪った3度の兵役

 終戦記念日に合わせて、以前別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を加筆訂正のうえ転載します。今日は伝説の名投手・沢村栄治が3度の兵役によって野球生命、さらには洋々たる前途をどのように断たれたかのエピソードです。

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  1934年(昭和9年)11月20日、静岡・草薙球場で日米野球第8戦が開催された。この日、全日本チームが先発のマウンドに送り出した17歳の沢村栄治投手は、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグ(ヤンキース)、ジミー・フォックス(アスレチックス)らを擁した大リーグオールスターチームを相手に「歴史的快投」を演じた。


 ここまで全日本は7戦全敗で、沢村も第5戦で大敗を喫していたが、この試合では快速球と「懸河のドロップ」と呼ばれた大きなカーブがさえわたった。1回一死後、二番チャーリー・ゲーリンジャー(タイガース)、三番ルースを連続三振に切って取り、二回も四番ゲーリッグ、五番フォックスのバットが空を切る。この4選手はのちに米国の野球殿堂入りを果たし、ゲーリッグとフォックスは同年と前年の三冠王だった。

 六回を終えて、沢村は被安打2、1四球、6奪三振と堂々の投球内容だったが、七回一死後、カウント1-0からゲーリッグに弾丸ライナーのソロ本塁打を浴び、これが決勝点となって沢村は0対1で惜敗したが、被安打5、1四球、9奪三振の見事な投球内容だった。


 1936年(昭和11年)に日本職業野球連盟が7球団で旗揚げすると、沢村は史上初のノーヒットノーランを含む14勝をマークし、洲崎球場で行なわれた大阪タイガースとの優勝決定戦でも全3試合に登板し2勝をあげ、巨人の初優勝に貢献した。さらに翌37年春のリーグ戦では24勝、防御率0.81のほか、奪三振、完封、勝率すべて1位の「投手五冠」で優勝の原動力となり、プロ野球の初代MVP(最高殊勲選手)に選ばれている(現在、その表彰状は東京の野球体育博物館に展示されている)。


 そんな沢村に「異変」が生じたのは1937年秋のリーグ戦だった。

 野球記者・大和球士氏(故人)の著書「プロ野球三国志」によれば、秋季リーグ戦開幕前の7月21日、沢村は故郷の三重県宇治山田に一時帰郷し、徴兵検査を受けている。結果は「甲種合格」で、シーズン終了後の現役入隊が決まった。すでに日中戦争の戦火が拡大の一途をたどっていた当時、軍隊に入ることはいやがうえにも「死」と直面することになる。

 沢村の精神的ショックは大きく、秋季リーグ戦では9勝6敗、防御率2.38と大きく成績を落とした。とくにライバルのタイガース戦では登板のたびにKOされ、そのため巨人はタイガースに7戦全敗、年度優勝決定戦でも2勝4敗で王座を明け渡している。
 

 入営後の沢村は、中国戦線に派遣され、銃弾が左手を貫通する重傷を負い、軍隊内での「手榴弾投げ競争」にもたびたび駆り出されて右肩を痛めた。40年に復帰したとき、全盛期の快速球は見る影もなくなり、制球力に活路を求めて40年7月6日には現在も日本プロ野球記録(広島・外木場義郎とタイ)の3度目のノーヒッターを達成したものの、入営前の2年間(4シーズン)合計で47勝、奪三振448、防御率1.33をマークしながら、結局、実働わずか5年間(7シーズン)で通算63勝、防御率1.74、奪三振554の生涯成績で終わっている。

 さらに41年秋、44年秋と3度の召集を受けた末、44年12月2日、フィリピンに向かう輸送船が台湾沖で米軍艦に撃沈され、その生涯を閉じた。27歳10カ月だった。

 

 沢村の短すぎる生涯には、日米関係の悪化と開戦によって、軍国主義体制による野球への「敵性競技」視が強まったことが大きく影を落としていた。
 たとえば兵役猶予のため大学夜間部に籍を置く方法もあったのだが、沢村は京都商を中退していたうえ、職業野球を代表する大スターだったがゆえに、球団幹部が軍部の不興を買うことを恐れ、兵役猶予のための中学卒業資格取得や大学夜間部入学を許さなかったといわれている。

 予備役からの2度の応召についても、野球界の象徴的存在だったことで当局による何らかの恣意的な意図が介在したとの見方が少なくない。


   いかに敵国アメリカの国技とはいえ、軍国主義体制、戦時下における野球への弾圧ぶりは尋常なものではなかった。その背景には、大正デモクラシーが昭和の到来とともに終焉を迎え、日本が急速に軍国主義化へと進むなかで、野球が権力や体制から敵視・危険視されていった歴史的な経緯があった(つづく)。

posted by kairi1958 |13:28 | Baseball/MLB | コメント(0) | トラックバック(0)
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2011年08月15日

ベースボールと戦争②名一塁手・中河美芳 つきまとった憲兵隊のカゲ

 今日から終戦記念日に合わせて、以前別媒体に発表した「ベースボールと戦争」に加筆訂正したものを転載します。
 今日は殿堂入りした名一塁手・中河美芳が戦争にいかに運命を弄ばれ、若くしてその前途を無残に断たれたか、そのエピソードです。

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 三塁手や遊撃手がワンバウンドや山なりの悪送球を演じ、観客が思わずため息をついた瞬間、細身の一塁手はまるで軟体動物のように両足を広げ、ファーストミットを目いっぱい伸ばし、ボールをハエ取り紙のようにすくいあげた――名野球記者として知られた大和球士(故人)は、その名人芸に「タコ足」の異名を献上している。


 名人芸の主だった中河美芳一塁手(イーグルス)は1986年、特別表彰枠で野球殿堂入りを果たしたが、晴れの表彰式にその姿はなかった。1944年7月12日、兵役に就いていた中河は、フィリピン・ルソン島沖で米軍の攻撃を受けた輸送船と運命をともにした。24歳の若さだった。

 鳥取一中(現鳥取西高)時代、左腕投手として二度甲子園に出場した中河は、父親を失っていた実家の家計を助けるため、1937年7月、関西大学を中退して、この年誕生したばかりの新球団イーグルスに身を投じた。

 入団直後、秋季リーグ戦(当時の職業野球は春秋の2シーズン制)前のキャンプで中河は一塁手としての卓越したセンスを森茂雄監督(大阪タイガース初代監督、戦後早大野球部監督)に見出される。投手としては二ケタ勝利(37年秋)、打者としても打撃ベストテン入り(39年)を果たすなど、投手兼四番打者として大活躍したが、何といっても人気の的となったのはその一塁守備だった。

 ニックネームを献上した大和球士は、その著書「プロ野球三国志」で、中河の名守備をつぶさに再現している


「いかなる悪投、暴投、難球も軽々と処理してアクロバット的であった。二、三(塁手)、遊撃手から投げられるワンバウンドの悪球はショートバウンドであれ、ロングバウンドであれ楽々と処理し、横へそれた低投は両股を思い切りひろげ、尻を地面にぴたりつけて処理した。ために、ファンは内野手が悪投して中河が人間離れした捕球をするのを楽しみにした。(中略)内野手が好投し、一塁へストライク投球でもしようものなら、黒鷲のダッグアウトすぐ後ろの席に陣取った定連たちが『実にくだらん、中河の妙技を見られなかった』と嘆いたものだ」(原文のまま)


 イーグルスは37年秋と38年春の3位が最高で、戦時中の球団名日本語化で「黒鷲軍」「大和軍」と改名したあと43年限りで解散するまで、すべてBクラスの弱小球団だったが、中河はそのアクロバティックな一塁守備で当時の職業野球を代表する大スター選手となった。投手として通算41勝、打者としても通算打率.242にすぎない中河が殿堂入りを果たしたのは、ひとえに「空前絶後」と呼ばれたその名一塁手ぶりが評価されてのことだった。
 

 しかし、それほどの大スターだったことが、中河に思わぬ不運をもたらした。中河はプロ入りと同時に、徴兵猶予のため、大学の夜間部に入学したが、投手兼一塁手として大車輪の活躍を続けるその体には試合後疲労が残り、講義も欠席がちとなる。これが「中河は兵役逃れのため、大学に籍だけ置いている非国民だ」と、憲兵隊の不興を買うことになった。

 特攻隊で戦死した石丸進一(名古屋軍)など、大学夜間部に籍を置いて兵役を猶予されていた選手はほかにも存在したが、中河は職業野球を代表する大スターだったために、憲兵隊に目をつけられることになった。

 中河への監視や尾行が日常化し、下宿に踏み込まれて本棚をあらいざらい調べられ、再三にわたって憲兵隊での取り調べも行なわれた。当時のチームメイトも「憲兵隊の影におびえていた」と当時の様子を証言している。

 こうした恐怖の日々に耐えられなくなった中河は41年の公式戦終了後、まだ兵役が猶予されていたにもかかわらず、自ら志願して兵役に就いた。入営当日の様子を、大和球士は「プロ野球三国志」で次のように紹介している。

 

「入隊の日、東京の世田ヶ谷連隊に到着したのは集合30分前であった。腕時計を見つめて中河はほっとした。

『やれやれ、早く着いてよかった』

 ところが、営門前で門をくぐる入営兵をひとりひとり首実検をしていた大男の憲兵が、

『貴様が野球選手の中河か、何故もっと早く来んか。貴様は軍隊へ入るのがそんなに厭なのか』

 と、大きな掌で、顔がアザになるほどビンタをくわせた。そして、つけ加えた。

『貴様のような非国民は、軍隊で特別に鍛えてやる』

 入隊してからも、憲兵の言葉通り、辛いことの連続であった。憲兵隊名ざしで〝鍛える〟のがどんなに辛いことか判った時は、中河は地獄にいた。ビンタ地獄であった」(原文のまま)


 こうして中河は入隊後も、「兵役を忌避していた非国民」として、上官による暴力など執拗(しつよう)な迫害を受け続けた。42年7月、一時外出の許可を受けて後楽園球場に姿を現した中河を見たかつてのチームメイトたちは、すっかり生気を失った表情から、「中河は軍隊でいじめられている」と悟ったという。
 

 中河がフィリピンで戦死したことが故郷の鳥取に伝えられ、葬儀が営まれたときにも、憲兵隊が現れた。戦死公報に記されていた戦没地をそのまま祭壇に張り出していたところ、「日本の部隊がいまどこにいるかがわかってしまう」と、その紙を破り捨てたという。中河の足跡を追った田村大五氏(故人/元報知新聞運動部長、ベースボール・マガジン社常務)は「戦場に消えてもなお、憲兵の目に追われた」とその著書「プロ野球選手・謎とロマン」に記している。

 中河のプロ野球生活はわずか5年間(6シーズン)。そんな短い期間での活躍でも殿堂入りを果たしたことを思えば、24年の生涯はあまりにも短く、失われた才能は惜しんであまりあるものだった(つづく)。


参考資料「プロ野球選手謎とロマン」(大道文著)、「プロ野球三国志」(大和球士著)ほか

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