2006年08月15日

フランクリン・ルーズベルト大統領の「青信号の手紙」

FDR
(戦時下のメジャーリーグの続行に許可を与えたアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト)

日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発してから約1ヵ月後の1942年1月14日、当時のメジャーリーグコミッショナーだった元連邦判事ケネソー・マウンテン・ランディスは、当時のアメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトにあてて一通の手紙をしたためました。

「ベースボール(メジャーリーグ16球団のこと)は、(1942年シーズンの)スケジュールを組み、プレーヤーたちと契約し、トレーニングキャンプに行くための膨大な手紙を作る時期にさしかかっています。大統領閣下、あなたはどうしてほしいとお思いでしょうか? もしあなたが戦争遂行のために、ベースボールの公式戦を中止すべきであるとお思いであるのなら、私たちには直ちにその意思に従う用意があります。もし、あなたがベースボールを戦時下においても続行すべきだとお考えでしたら、われわれは喜んでそうするでしょう。われわれはあなたのご指示をお待ちしております」

その2日後、ルーズベルト大統領からの返事がしたためられた手紙が、ランディスの元に届けられます。

「私は心の底から、ベースボールを続けることが、わが国にとって最良の選択であろうと考えています。(戦時下において)仕事をしていない人々はほとんどこの国にはおりませんし、すべての国民が、かつてないほどに、長時間、しかも厳しい労働を強いられています。ということは、いままで以上にすべての国民がリクリエーションの機会を持つべきですし、またいままで以上にすべての国民がそれぞれの厳しい労働の合間に休息の時間を持つべきであるということを意味するのです。ベースボールは、2時間から2時間半程度の時間しか費やさず、お金の面でも非常に手軽に人々が楽しむことのできるリクリエーションであることが立証されています。また別の見方をするならば、もし(メジャーとマイナーを含めたプロ野球の)300チームが、5000から6000人のプレーヤーを擁しているのならば、少なくとも彼らは、2000万人の市民のためのリクリエーションにおける財産となりうるでありましょう。私自身も、プロ野球選手にはその価値が十分にあると判断しております」

戦時下におけるプロ野球の続行を認めたこのルーズベルトの手紙は「グリーンライトレター(青信号の手紙)」と呼ばれ、現物はクーパースタウンの野球殿堂博物館に保管されています。この大統領によるベースボールへの「お墨付き」には、当時首都ワシントンDCを本拠地としていたセネタース(現ミネソタ・ツインズ)のオーナーだったクラーク・グリフィスの尽力もありました。甥のカルビン・グリフィスによれば、ホワイトハウスを訪ねたグリフィスに、ルーズベルトが「合衆国政府が野球に対してできることはどんなことだろう」と助言を求めたところ、グリフィスは「アメリカ国民のリクリエーションのために、(戦争中も)試合を続けられるよう、野球界に許可を与えることです」と答えたそうです。
もちろん、兵役年齢に達した選手への兵役免除などは与えられず、ジョー・ディマジオ(ヤンキース)、ハンク・グリーンバーグ(タイガース)、テッド・ウィリアムズ(レッドソックス)、ボブ・フェラー(インディアンス)といった当時のスタープレーヤーたちが次々と入隊し、1943年から45年までのメジャーリーグは「老人と子供のリーグ」とまで呼ばれ、著しくプレーや試合のレベルが低下します。輸送制限によりオールスターゲームが唯一中止になったのも、1945年のことでした。

しかし、敵国である日本の為政者たちが「欲しがりません勝つまでは」と、ひたすら国民に忍従を強いて、野球ばかりでなく多くの娯楽を禁止したり制限していたのに対し、アメリカでは大統領が「国民が戦時下で苦しい生活を送っているときだからこそ、娯楽が必要である」と、野球興行の続行を許可していました。日米の勝敗を分けたのは、軍国主義と民主主義という「大義名分」や、物量の差が大きかったのはいうまでもないことですが、もうひとつ、指導者の国民に対する「思いやり」の姿勢の差も少なからず影響したのではないかと、私は「青信号の手紙」の実物を前にして思ったものです。

こうした戦時下のアメリカ野球の苦難と復活までの道のりは、リチャード・ゴールドスタイン著「傷だらけの一頁(Spartan Seasons)」(ベースボール・マガジン社刊)に詳しく紹介されています。野球ファンならば、ぜひご一読されることをお勧めします。


posted by kairi1958 |21:27 | Baseball/MLB |
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2006年08月04日

グレッグ・マダックスの新背番号「36」は初代サイ・ヤング賞投手の番号

Newcombe

7月31日のトレード期限数十分前、カブスからドジャースにトレードされたグレッグ・マダックス投手は、8月3日、シンシナティのグレートアメリカンパークで行なわれた対レッズ戦で移籍後初登板し、6回を投げて何とノーヒットの快投を演じました。そのあと、雨で46分間の中断があったため、マダックスはリリーフ投手に後を託して自身初のノーヒッターこそならなかったものの、今季10勝目をマークし、これで連続二ケタ勝利を19年に伸ばしました。

そのマダックスが新天地で背負った番号は「36」カブスやブレーブスで見慣れた31は、今季11勝をマークしてオールスターゲームにも出場したブラッド・ペニー投手がつけていることもあって、新たな番号で心機一転を図ったようですが、実はこの36は、サイ・ヤング賞受賞4回を誇る大投手マダックスにふさわしいナンバーなのです。

1956年、当時ニューヨークの下町ブルックリンを本拠地としていたドジャースでこの36番をつけていたのは、30歳のアフリカ系アメリカ人投手ドン・ニューカムでした。
1946年にニグロリーグでの活躍を認められてドジャースと契約し、1949年にデビューを果たすと、長身からの速球とカーブを武器に初先発で完封を演じるなど17勝をマークして新人王を受賞。以後、兵役でチームを離れた2年間を除き、56年までの6シーズンでいずれも17勝以上をマークし、うち3度の20勝以上も記録。この間、二ケタ敗戦も50年の19勝10敗のみで、二ケタ勝利6シーズンでの平均.720(103勝40敗)の高い勝率を誇りました。

56年はニューカムにとって最高のシーズンでした。リーグ最多の27勝と勝率.794をマークし、防御率もリーグ2位の3.06でチームをリーグ2連覇に導き、その功績が認められて、ナ・リーグのMVP、そしてこの年から制定されたメジャーの最優秀投手賞サイ・ヤング賞の初代受賞者となったのです。当時、サイ・ヤング賞は両リーグから一人の受賞でしたから(両リーグからの選出は67年から)、文字通り16球団(当時)最高のピッチャーと認められたわけです。
以後、サイ・ヤング賞とMVPの同時受賞者サンディー・コーファックス(ドジャース/63年)、ボブ・ギブソン(カージナルス/68年)、デニー・マクレイン(タイガース/同)、バイダ・ブルー(アスレチックス/71年)、ロリー・フィンガース(ブリュワーズ/82年)、ウィリー・ヘルナンデス(タイガース/84年)、ロジャー・クレメンス(レッドソックス/86年)、デニス・エカーズリー(アスレチックス/92年)と9人を数えますが、このうち新人王との「三冠」を手にしたのはニューカムただ一人です。
ニューカムはまたバッティングのよさでも有名で、実働10年間の主な通算成績は878打数238安打で打率.271、15本塁打、108打点で、うち打率3割台も4回記録。1955年には1試合2本塁打2回を含む7本塁打、打率.359をマークしています。

しかし、連続世界一を狙った56年のワールドシリーズでヤンキースに敗れたあと、ニューカムの運命は一変します。シリーズのあとの日本遠征でも中西太(西鉄ライオンズ)に特大の一発を浴びるなど、公式戦での大活躍がウソのようなふがいない投球内容が続き、翌57年もその不調を引きずって前年から勝ち星を16も減らす11勝に終わり、58年に開幕から6連敗を喫した段階でついにチームから見切りをつけられ、レッズに放出されます。
59年は13勝と復活の兆しを見せたものの、結局放出後は60年まで26勝27敗に終わり、60年途中にインディアンスに移籍して2勝3敗に終わったのを最後に、ニューカムのメジャー生活にはピリオドが打たれました。62年に日本の中日ドラゴンズで主に打者として81試合に出場して12本塁打を記録しましたが、その年で現役から引退しました。

60年代の中頃、ドジャースのオマリーオーナーのもとに、「ドジャースの選手用ジャンパーが売りに出ている」との連絡が入ります。調べてみると、引退後、アルコール依存症になり、生活に困窮したニューカムが現役時代の思い出の品を売っていたことがわかりました。
オマリーは球団事務所にニューカムを呼び出し、姿を現した彼の前に、黙って彼が買い取ったジャンパーを差し出しました。そしてニューカムを諄々と諭し、酒を断つことを誓わせると、断酒のためのリハビリプログラムに彼を送り込み、その後はフロントの一員として雇用したのです。

今年80歳になったニューカム氏は、現在もコミュニティー活動担当ディレクターとして活躍中で、ドジャースタジアムではパナマ帽にアロハシャツ姿の彼の巨体を必ず見かけることができます。ニューカム氏は球団の地域コミュニティー活動の責任者であり、また講演会で自身のアルコール依存症の経験を語ったり、チャリティーやリハビリプログラムへの援助活動などを行なっています。

マダックスはこのサイ・ヤング賞の大先輩がいる新天地で、あと21に迫った通算350勝の大記録に向けての再スタートを切ったのです。


posted by Ryo Ueda |20:43 | Baseball/MLB |
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