2006年07月27日
今年、日米のオールスターゲームでは、スター選手の出場辞退が大きな論議の的となりました。
ピッツバーグのPNCパークで開催されたメジャーの球宴では、ファン投票で選出されたマニー・ラミレス(レッドソックス)が、足の故障の悪化を理由に出場を辞退し、球場に姿を見せることもなく、自宅のあるフロリダで「完全休養」を決め込みました。同じくファン投票で選ばれながら故障で出場を取りやめたホセ・レイエス(メッツ)が試合前の選手紹介には姿を現し、ファンの声援に応えていた姿とは対照的でした。
一方日本では、やはり故障を理由に福留孝介(中日ドラゴンズ)が出場を辞退。ところが後半戦初戦の対阪神タイガース戦では連日の殊勲打を放ってヒーローインタビューにも登場したため、セ・リーグの指揮を執った岡田彰布阪神監督は「だまされた」と試合後に怒りのコメントをぶちまけていました。WBCでは起死回生の一発を放つなど、現在の日本プロ野球界を代表するスラッガーと言っても過言ではない福留ですが、2002年に松井秀喜(当時読売ジャイアンツ、現ヤンキース)と首位打者争いを繰り広げた際、最終盤にリードを保つと「首位打者病」にかかって打席に立たず、しかも連続試合出場を続けるために途中出場して守備だけつくなど、私にとってはどうもアンフェアなイメージがつきまとう選手です。まさか球宴をズル休みしたとは思いませんが、せめて球場には足を運んで、グラウンドでファンに挨拶ぐらいはしてもよかったのではと思います。
さて、メジャーのオールスター前日、アメリカのスポーツ専門局ESPNの看板番組「スポーツセンター」では、PNCパークから同局のコメンテーターたちがトークを繰り広げていました。そのなかで、元マリナーズの二塁手で盗塁王にも輝いたことのあるハロルド・レイノルズは、自分自身が1987年に球宴出場を果たしたときエピソードを紹介しながら、ラミレスの欠場に苦言を呈していました。
「私が出場した年の球宴で、ア・リーグの二塁手にファン投票で選ばれたのはウィリー・ランドルフ(当時ヤンキース。現メッツ監督)だった。そのとき、彼は足を故障していて出場が難しい状態だったが、試合前に私を呼んで『オレは最初の1イニングを守り、1打席だけ立って君と交代するから、後は頼むぞ』と私に後を託した。ファン投票でオールスターに選ばれた選手のあるべき姿とは、このときのランドルフだと思う」
ウィリー・ランドルフは1972年にドラフト7位でパイレーツに指名され、75年にメジャー昇格を果たしましたが、当時のパイレーツには同じポジションに1試合7安打のメジャー記録を持つレニー・ステネットがいたために控えに甘んじていました。これに目をつけたのが、当時ヤンキースのGMだったゲーブ・ポールで、そのオフにトレードで移籍したランドルフは、闘将ビリー・マーティンによって二番セカンドのレギュラーに抜擢され、1964年以来となるチームのリーグ優勝に貢献。ヤンキースは翌77年、15年ぶりのワールドシリーズ制覇も成し遂げます。
1973年にチームを買収したジョージ・スタインブレナーオーナーの治世下、折からのFA制度導入も活用して「金でペナントを買った」と非難されることも多かった当時のヤンキースですが、実際に大金をはたいてFAで獲得したのはキャットフィッシュ・ハンターとレジー・ジャクソン、のちに福岡ダイエーホークスでもプレーしたリッチ・ゴセージぐらい。76年からのリーグ3連覇、77・78年のワールドシリーズ連覇を支えたグレイグ・ネトルズ(三塁)、バッキー・デント(遊撃)、ルー・ピネラ(左翼、DH)、クリス・チャンブリス(一塁)、77年にア・リーグの救援投手として初のサイ・ヤング賞に輝いたスパーキー・ライルといった主力選手たちは、他球団で伸び悩んでいたり、首脳陣との折り合いが悪かったり、ベンチを温めていたのを、ヤンキースのプロフェッショナル・スカウト部門(他球団の控え選手や傘下マイナー選手を対象にスカウティングを行なう部門)が目をつけて連れてきた選手でした。中でもランドルフの獲得、そしてエンゼルスとのトレードで大砲のボビー・ボンズ(バリーの父親)を放出し、代わりに俊足巧打のリードオフマンだったミッキー・リバースを獲得したのは、最大のヒットとも言われています。
実質的にはヤンキースでメジャーのキャリアをスタートさせたランドルフは、他のスター選手たちが引退や移籍で次々とチームを去る中、88年までヤンキースのセカンドを守り続け、生え抜き左腕エースのロン・ギドリー(現ピッチングコーチ)とともにキャプテンを務めるなどチーム内の人望も厚い選手でした。89年からはドジャース、アスレチックス、ブリュワーズでプレーし、92年にメッツで現役を引退すると、93年にはGM補佐としてヤンキースに呼び戻され、96年にジョー・トーリ監督が就任すると、三塁コーチ、ベンチコーチとして4度の世界一に貢献しています。
2005年、現役最後の年にプレーしたメッツに監督として招聘され、サブウェイシリーズではトーリ監督やかつての同僚だったギドリー、ドン・マッティングリー両コーチ、そして苦楽をともにしたデレク・ジーターやバーニー・ウィリアムズと対決することになりました。そして就任2年目の今シーズンは、デイビッド・ライトやレイエスの成長などもあって、メッツは2000年以来のリーグ制覇、さらに1986年以来の世界一に向かって驀進中です。
さて、私が取材で6月にシェイスタジアムを訪れた際、ランドルフ監督の人柄を垣間見るような光景に出会いました。練習終了後、一塁ダッグアウトに戻ってきたランドルフ監督は、スタンドの最前列で鈴なりになっているファンの求めに応じて、次々とサインに応じていました。これは毎日のことだそうです。こうしたケースでは、しばしばサインを求めるファンが「脱線」することもあって、大の大人が子供を押しのけてボールを差し出したり、順番を守らないファンもいたりするのですが、ランドルフ監督はファンにきちんと順番を守らせ、乱暴にボールを投げたファンにはサインをせずにそのボールを投げ返すこともあります。
ペドロ・マルティネスら陽気なラテン系のプレーヤーやライト、レイエス、ラスティン・ミレッジなど有望な若手選手の多いメッツは、チームの雰囲気も非常に明るいのですが、それがときに行き過ぎるケースもあります。しかし、チーム内の規律を重視し、選手に節度ある行動を求めるランドルフ監督の存在がそんなチームの「重し」となって、メッツは多少負けが込んでも空中分解を起こす危険のない「大人の集団」にもなりつつあります。
ちなみに、去る7月6日に52歳の誕生日を迎えたランドルフ監督ですが、その体格は20年前の現役時代とほとんど変わりがありません。日本でもアメリカでも、現役を引退して監督になると、顔の輪郭や胴回りがひと回りもふた回りも大きくなってしまう人が決して珍しくありませんが、こうした節制ぶりにも、ランドルフ監督の誠実な人柄が反映されているような気がします。
posted by kairi1958 |20:46 |
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2006年07月22日
フィラデルフィア・フィリーズの本拠地シチズンズバンクパークとその周辺では、往年の名プレーヤーたちの銅像が設置されて、ファンがその前で記念撮影をしている光景を見かけます。
バックネット側後方の正面入り口前には、私のプロフィール写真で一緒に映っている50年代の大投手ロビン・ロバーツ、三塁側の入り口には史上最高の強打攻守の名三塁手マイク・シュミット、レフトスタンドの入り口には「レフティー」にちなんで左腕投手歴代2位の通算329勝をマークしたスティーブ・カールトン、そして球場内のセンター後方にあるコンコースには、殿堂入りの名中堅手リッチー・アシュバーンの銅像が建てられています。
そして以前の本拠地ベテランズスタジアムの跡地にある駐車場の入り口には、背広姿で右手にスコアブックを持っている長身の紳士の銅像が観客の行き来を見守っています。この像は、1901年のアメリカンリーグ創設以来、1950年まで実に半世紀の長きにわたってフィラデルフィア・アスレチックス(現オークランド)の監督を務めたコーネリアス・マッギリカディー、通称コニー・マックがダッグアウトで采配を振るう姿を再現したものです。
マックは共同オーナー兼監督としてアスレチックスの創設に加わる前にも、1894年から3年間、ピッツバーグ・パイレーツの監督兼捕手を務めており、合計の監督在任期間は53年、通算7755試合、勝利数3731勝のメジャー記録を保持しています。1937年には、当時まだ現役の監督だったにもかかわらず、殿堂入りを果たしました。
このマックの記録を現在の代表的な名将たちの数字と比較してみると、マックの記録がいかに空前絶後のものであるかは一目瞭然になります。
試合数
コニー・マック 7755
トニー・ラルーサ(カージナルス)4213
ボビー・コックス(ブレーブス) 3790
ジョー・トーリ(ヤンキース) 3606
勝利数
マック 3731
ラルーサ 2267
コックス 2137
トーリ 1931
もっとも数字が近いラルーサでも、試合数で3542、勝利数でも1464もの差がありますから、おそらく将来もよほどのことがない限り、マックの試合数と勝利数の記録が破られることはないでしょう。
しかし史上最多勝利と同時にマックは最多敗戦記録3948も喫しており、勝率は.486で負け越し。1910年代にはチーフ・ベンダー、ルーブ・ワッデル、エディー・コリンズ、フランク・ベイカー、20年代終わりから30年代にかけてはレフティー・グローブ、ミッキー・カクレーン、ジミー・フォックス、アル・シモンズといった、のちに殿堂入りを果たす名選手たちを擁して、ア・リーグ優勝9回、ワールドシリーズ制覇5回を記録したのですが、オーナーを兼任していたことから、優勝が続いて主力選手のサラリーが上がると他球団に放出する「スクラップ&ビルド」を繰り返したことで、チームは2度の黄金時代を築きながら一転して最下位に沈むパターンを繰り返しました。
その結果、マックが50年限りで監督と球団経営から引退したあともアスレチックスは慢性的な不入りに悩まされ、55年にはカンザスシティー、さらに68年にはオークランドへ移転し、現在に至っています。その後、球団の株式を所有する人間がユニフォームを着ることが禁止されたため、1977年にブレーブスのテッド・ターナー・オーナーが1試合だけ采配を振るったのを最後に(協約違反でコミッショナーから警告を受ける)、マックのようなオーナー兼監督は出現していません。
またマックは、当時の監督の多くと違って、三塁コーチャーズボックスではなくダッグアウトで采配を振るい、しかもユニフォームではなく背広を着用して、スコアカードで守備位置を指示するのがトレードマークでした。シチズンズバンクパークの銅像はその当時の姿を再現したものです。
1934年(昭和9年)秋、読売新聞社の招聘で、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ(ヤンキース)の両巨砲を中心とした大リーグオールスターが来日したとき、その采配を振るったのもマックでした。このチームにはほかにフォックス、レフティー・ゴメス(ヤンキース)、チャーリー・ゲーリンジャー(タイガース)と、のちに殿堂入りを果たした6人の野球人が加わっていたわけです。
この来日が縁で、読売ジャイアンツ生みの親の一人として知られ、日本の野球殿堂入りも果たしている鈴木惣太郎氏とは、1956年に93歳で天寿を全うするまで交友が続きました。現在も鈴木氏の遺品にはマックからのクリスマスカードなどが遺されています。
それにしても、フィリーズのみならず、同じフィラデルフィアを本拠地にしていた対抗リーグのライバルチームを率いていた老将の銅像まで建設し、その栄誉をたたえる光景を見ていると、改めて球界のパイオニアを大切にするメジャーリーグと、最大の功労者である王貞治、長嶋茂雄両氏の銅像すら建てようとする動きも見られない日本球界の姿勢の違いを痛感せずにはいられません。
posted by Ryo Ueda |17:25 |
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2006年07月12日
更新が遅くなり、大変申し訳ありませんでした。今週からまた皆さんを毎週ベースボールとMLBの歴史紀行にご案内します。
さて、前回ご紹介したヤンキース傘下1A「スタッテンアイランド・ヤンキース」の本拠地リッチモンドカウンティバンクボールパーク@セントジョージですが、実はこの場所はヤンキースタジアム(1923年開場)やシェイスタジアム(1964年開場)、さらには今はなきブルックリン・ドジャースの本拠地だったエベッツフィールド(1913年開場)よりも古いメジャーリーグのフランチャイズが置かれていた歴史があります。
19世紀末。当時、セントラルパーク北の110丁目と112丁目の間にあったポログラウンズを本拠地としていたニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ)は、1886年と87年に、NY市が行なった道路工事のため、公式戦数試合をスタッテン島の北端にあるフェリー乗り場に隣接していたセントジョージクリケットグラウンズで開催しました。現在、SIヤンキースが本拠地をおいているのとまさに同じ場所です。
1889年4月、ポログラウンズで火災が発生して木造のスタンドが全焼し、その後NY市から球団がこの土地の明け渡しを命じられて試合開催が不可能になると、当時のオーナーは急きょ、セントジョージクリケットグラウンズに仮設スタンドを建設し、ニュージャージーで2試合を消化したあと、4月29日から主催試合をこの場所で行なうことになりました。
しかし、もともと野球専用球場として作られていなかったこの場所は、外野が湿地帯だったうえ、三塁側のファウルライン近辺をはじめ、フィールドのあちこちに傾斜があるなど、本拠地球場として恒久的に使用するにはあまりにも多くの支障がありました。
結局、ジャイアンツのオーナーはマンハッタンのアップタウンにある155丁目と8番街の間に二代目のポログラウンズを突貫工事で建設し、スタッテン島での公式戦が6月14日まで23試合開催されたあと、6月中旬、ジャイアンツは新天地に移ることになりました。
この年、ジャイアンツはナ・リーグのペナントを獲得し、当時の対抗組織だったアメリカンアソシエーション(AA)で優勝したブルックリン・クラブ(現ドジャース)とのワールドシリーズも制しましたが、そのうち1試合を、感謝の意味もこめてスタッテン島で開催しています。つまり、ワールドシリーズが行なわれた歴史においても、セントジョージはヤンキースタジアムやシェイスタジアムよりも古い歴史を持っているのです。
その後、セントジョージクリケットグラウンズは、20世紀に入り、造船所を経て、ボルティモア&オハイオ鉄道の操車場に転用され、長い間使用されてきましたが、2001年に当時の市長ルドルフ・ジュリアーニ氏の肝いりで、ニューヨーク市がマイナーリーグ用の球場を建設し、すでに1999年からフランチャイズを移し、大学野球部の球場を使用していたSIヤンキースが恒久的な本拠地として使用するようになって、今日に至っているのです。
現在、同時期にブルックリン地区再開発によって建設されたキースパンパークを本拠地とするメッツ傘下1Aブルックリン・サイクロンズとの対戦は、親球団が激突するサブウェイシリーズに対して「フェリーシリーズ」と呼ばれ、双方でいつも満員の観客を動員する人気のカードになっています。
(参考資料:Jim Reisler「Babe Ruth Slept Here~The Baseball Landmarks of New York City」)

posted by Ryo Ueda |15:32 |
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