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  <title>上田龍の「Called  Shot!」日米野球界、快&amp;怪人物列伝</title>
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  <modified>2008-04-02T20:54:03+09:00</modified>
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      <name>上田　龍（「野球文化學會」幹事）</name>
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    <issued>2008-04-02T12:54:00+09:00</issued>
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    <title>野球文化學會論叢（論文集）「ベースボーロジー９」刊行予告と特別頒布のお知らせ</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">　　　　　　　　　　（表紙写真は昨年発行の「ベースボーロジー８」） 　私が幹事を務めている「野球文化學會」の年刊論文集2008度版「ベースボーロジー９」が、５月末に刊行されます。 今回の執筆陣は下記の通り（掲載の順番は未確定です）。 ・野球界をリードすべき高野連、その戦略について 大坪正則(帝京大学教授） ・校友会雑誌号外（明治二十八年二月二十二日発行 　中馬庚著「第一高等学校野球部史（野球部史附規則）」現代語訳 　宮古正男（埼玉県高野連審判員） ・ 日本野球技を米大リーグへ逆輸出 　～「ディレードスチール戦法」の開発 功力靖雄（筑波大野球部前監督） ・ 野球を愛し続ける人たち　 ～〝名選手に話を聴く会〟の野球一筋六十年の熱気に接して～　 　戸部良也（ジャーナリスト） ・野球記録あら？カルト「ベースボーロジー９」版 久保拓也（野球文化學會幹事） ・長嶋賞なぜ無いの？ 　～君は日本最恐打者ミスター・プロ野球の偉大さを分かっているか　その一 平松忠俊（野球研究者） ・プロ野球、文化、経済～球団名に都市名を　その五 　尾形昌勝（野球文化學會幹事） ・ヤンキース王朝終焉のディビジョンシリーズ第二戦 ～その放送席で出会った〝深い一言〟 渡邉直樹（フリーアナウンサー） ・日本プロ野球におけるセカンドキャリア形成の現状と課題 鈴村裕輔（野球文化學會幹事） ・ 一九六〇年のマネーボール 道　作（ゲスト執筆者） ・見たかった！　世紀の一瞬への挑戦！　 ～日本シリーズ完全試合目前での投手交代」を再検証してみる 玉木正之（スポーツライター） ・ 野球物理学リタラシー（七） ～ＮＨＫ「アインシュタインの眼」！　「魔球」論評 矢部正和（野球解析コンサルタント） ・ 世相野球史（誌）～平成十九年　あんなこと　こんなこと～ 堀　俊明（野球書籍研究者） ・ 『ベースボール傑作選』を読む 　～アメリカ文学にみる野球の文化社会学的考察　 松崎仁紀（アメリカンフットボールウォッチャー） ・ あとがき～いまはなき「野球の友」へ…… 上田　龍（野球文化學會幹事） 　私の個人ブログ'「Ryo's Baseball Cafe Americain Annex　店主日記」'にて詳しい購読方法をご案内しております。 http://blog.goo.ne.jp/holycow1998/e/8c6b11375177834d0c380fe5897625d9 　また論文の内容をご紹介する意味で、下記のアドレスに私が「４」に寄稿した論文「右打ちのシューレスジョー」をPDFで掲載しております。 http://www.k2.dion.ne.jp/~ryoscafe/index.files/sikan.pdf 　以上、ご案内でした。</content>
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      <name>Ryo Ueda</name>
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    <issued>2007-07-05T20:53:00+09:00</issued>
    <modified>2008-03-25T20:01:05+09:00</modified>
    <title>「格差」は試合をつまらなくする</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">　先月、スカパー！ＭＬＢでインターリーグのデビルレイズ対パドレス戦を担当したのだが、正直なところ、プレイボール前から勝敗が決していたような対戦だった。 　パドレスの先発がオールスターの先発登板も有力なエースのジェイク・ビーヴィーだったのに対し、デビルレイズは2005年の９月から勝ち星のないエドウィン･ジャクソンだった。実際、メジャー屈指といわれる速球と変化球のコンビネーションでタンパベイ打線を翻弄したピーヴィーに対し、ジャクソンは初回から決して強力とはいえないパドレス打線につかまって、１回も持たずに降板した。 　 　もちろん、必ずしも力のあるものが勝利を得るとは限らないが、すでに奪三振王を獲得するなどリーグを代表する右腕になったピーヴィーに対し、ジャクソンはドジャース入団後、外野手から投手に転向し、マイナーでの成績を見てもメジャー昇格は時期尚早ではないかと思われる内容である。実際、投球モーションの際、ボールの握りを左肩などで打者から隠すという基本的なことも十分に体得しておらず、これではいくら100マイル近い速球とすばらしいスライダーを持っていても、まさに「宝の持ち腐れ」である。いくらナ･リーグ西地区の優勝コンテンダーと、ア･リーグ東地区のドアマットチームの顔合わせとはいえ、こんなマッチアップをメジャーの公式戦で、ファンからお金を撮って見せるべきではない。 　現在のバド・セリグＭＬＢコミッショナーは、もともとスモールマーケットのミルウォーキー･ブリュワーズでオーナーを務めていたこともあり、就任当時から「スプリングキャンプの段階でポストシーズン進出チームが簡単に予想できるような現状は絶対に打破しなければならない」と、ラグジュアリータックス（贅沢税）の導入や収入分配制度の徹底など、「球団間格差」の解消に努めてきた。その努力はレッドソックス、ホワイトソックス、アストロズ、タイガースの優勝や、今季のブリュワーズの躍進など、徐々に実を結びつつあるが、まだＮＦＬやＮＢＡなどに比べて十分とはいえない。 　こと「リーグ戦」を開催しているプロスポーツにおいて、「格差」の存在はかくも試合をつまらなくするのである。実際、ＭＬＢが観客動員でもテレビ中継視聴率でも絶頂期にあったのは、毎年優勝球団が入れ替わり、ロイヤルズやツインズなど、スモールマーケットの球団も次々と世界一に輝いていた1980年代である。 　にもかかわらず、「逆指名」「自由枠」の導入などでドラフト制度を骨抜きにし、特定球団に都合がよく、選手の自由移籍にはあまり効果のない「不完全ＦＡ」などを導入したあげく、「裏金問題」などでプロ野球をめちゃくちゃにした某国の球界幹部たちの一部は、依然として「自由競争原理」とやらにこだわり、「共存共栄」の精神を「悪平等」として拒絶し続けている。 　しかし、特定球団だけがかつてのＶ９読売ジャイアンツのように長期間王座を独占するのは不可能であり、多くのファンも望んでいない。また毎回いいゲームを観客や視聴者に提供できるわけではないから、もはや全国ネットによる地上波放送を特定球団のカードで占めることは現実的ではない。もちろん球団個々の営業努力による「自由競争」は大いに結構だが、「チーム編成（トレード、ドラフト）」というチーム運営の根本は、徹底的に「平準化」が貫かれるべきなのである。たとえば、もし楽天イーグルスが誕生した際、オリックスがプロテクト枠を最小限に抑え、他の10球団も主力クラスをひとりずつ、ＭＬＢの「エクスパンションドラフト」のように供出していれば、イーグルスの戦力はもっと充実し、パ･リーグのペナントレースはさらに面白いものになっていたことだろう。 　自由競争の幻想を抱き続けている人たちに改めて申し上げたい。少なくとも選手編成における「自由競争原理の導入」と、それによって生じる「球団間格差」は、プロ野球におけるもっとも大事な商品である「試合」をとことんつまらなくしてしまう。そのことがわかっているからこそ、北米４大プロスポーツの経営者たちは、選手編成において「自由競争原理」を極力排除しているのである。</content>
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      <name>kairi1958</name>
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    <issued>2007-05-16T21:37:00+09:00</issued>
    <modified>2008-03-25T20:01:12+09:00</modified>
    <title>Not Only Japanese!!!!!</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">本当なら毎週更新しなければならないのに、忙しさにかまけて４ヶ月ものご無沙汰、本当にお許しください。 　さて、井川がマイナー落ち、岩村、松井稼がＤＬに入っているとはいえ、松坂大輔、イチロー、松井秀喜らを中心に、メジャーの日本人選手の動向は毎日注目を集めています（でも日本のプロ野球からも目を離さないでね。特に横浜の四番・村田は注目！）。 　周囲からは「お忙しくてけっこうですね」と声をかけられることも多いのですが、実情を申し上げれば、自分自身はここ数年と、特に仕事の量や内容が変わったわけではないのです。 　去年からの（数少ない……）当Blogのエントリーをご覧いただければお分かりになると思いますが、私にとっての日本人メジャーリーガーとは、米国人、カナダ人、プエルトリコ人、ベネズエラ人、ドミニカ共和国人、キューバ人、パナマ人、コロンビア人、韓国人、台湾人などと同じく、メジャーリーグでプレーする多国籍のプレーヤーたちの一翼をなす存在でしかありません。 　たとえば、松坂大輔に関して言えば、もちろん私自身の視点を原稿やスカパー！ＭＬＢライブ（まだ彼の登板試合を担当してはいませんが）で触れることはありますし、ある程度まとまった時間をもらってインタビューや取材をしたいとの希望はありますが、そのために他の選手への取材を犠牲にしようとは思いません。時と場合にもよりますが、松坂にせよ、イチローにせよ、ゴジラにせよ、メジャーリーグを取材し、それについて物を書いたりしゃべったりする仕事をしている上で、あくまでもOne of Themのひとりに過ぎないのです。 　だから、雑誌でもウエブサイトでも、テレビのニュースでも、松坂報道に枠を取られて、たとえばボストンの開幕戦で投げあったフェリックス・エルナンデスなど、他の魅力的な選手の記事などを書くスペースやニュースの時間が奪われる形になっているのには、釈然としない思いがあります。難しいことではないと思うんですがね。イチローが３安打しました→どの投手から？　松井秀喜が特大アーチを打ちました→誰から？　松坂が三振を奪いました→もしかしてバリー・ボンズから？でも最初はいいと思うのです。 　 　私にとって近年のメジャーリーグ報道で「いい時代」と思えるのは、1998年でした。この年、日本におけるメジャーリーグブームの火付け役となった野茂英雄が、開幕からの不振でシーズン途中にドジャースからメッツに移籍。シーズンを通じてスランプから脱出することはできませんでした。 　しかしそれでもこのシーズンは、連日メジャーリーグのニュースが日本のメディアをにぎわせました。マーク・マグワイアとサミー・ソーサが、ともにロジャー・マリスの年間本塁打記録を更新し、歴史的なホームランレースを演じ、ヤンキースのデイヴィッド・ウェルズは完全試合を達成。カブスの新人ケリー・ウッドはロジャー・クレメンスと並ぶ１試合20奪三振を演じ、「鉄人」カル・リプケンJr.の偉大な連続試合出場が2632でピリオドを打たれたのもこの年でした。 　もちろん、のちにマグワイアとソーサに関してはステロイド疑惑がもたれることになりますし、極端な打高投低の傾向には違和感もありましたが、こと日本におけるメジャーリーグ報道という点に関しては、日本人選手の動向に偏らず、メジャー全体に広くスポットを当てる傾向がこのまま続いてほしいと願ったものです。　しかし、その後イチローがマリナーズに、松井秀喜がヤンキースに入団し、ともにチームの主力として大活躍したこともあって（それはそれで大変すばらしいことなのですが）、MLB報道は「元の木阿弥」になってしまいました。 　正直なところ、ウェブサイトなどでも、MLBの主要ニュースが日本人選手の動向ばかりで、松坂がＫＯされたり、イチローやゴジラがノーヒットに終わったニュースが、ヨハン・サンタナの快投やチェイス・アトリーの大活躍よりも優先して扱われているのには、大いに失望させられます。「それがニーズ」だとニュースを配信する側はおっしゃるかもしれませんが、日本人選手は全員集めてもメジャー１球団の25人ロースターにも及ばない数です。大活躍を大きく伝えるのは大歓迎ですが、正直なところ、「火だるまのダイスケ」「４タコのイチロー」「３球三振のゴジラ」がトップ項目を飾る報道姿勢が改まらなければ、日本におけるメジャーリーグのブームは結局底の浅いまま終焉を迎えてしまうのではないでしょうか。捏造やでっち上げは論外ですが、それでも報道の世界において、「ニーズ」は掘り起こすもの、作り出すものでもあります。 　先日、今年の８月で45歳を迎える「ロケット」ことロジャー・クレメンスがヤンキースでの現役続行を発表しました。彼はあと２勝で通算350勝を達成しますが、これはメジャーでも第二次世界大戦後わずか２人目、実に1963年に左腕投手歴代最多の363勝をマークしたウォーレン・スパーンが達成して以来、45年ぶりの快挙となります。クレメンスが迎える「45歳のシーズン」は、メジャー最多の511勝をあげ、40代にしてノーヒットノーランを記録したあのサイ・ヤングでさえ「未知の領域」なのです。 　私は今日掲載された「スポーツナビ」のコラムで、このクレメンスとヤングについて紹介しています。 http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/column/200705/at00013242.html 　メジャーリーグを愛する日本のファンの皆さんには、ベースボールが過去・現在・未来をつなぐ時空を超えた偉大な文化であり、ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞と同様、その世界では国籍・国境など意味がないことを改めて認識していただきたいのです。</content>
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      <name>Ryo Ueda</name>
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    <issued>2007-01-13T00:33:00+09:00</issued>
    <modified>2007-01-13T01:55:26+09:00</modified>
    <title>「殿堂（Hall of Fame)」は「歴史の浅いアメリカならでは」の文化なのか？</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">(2000年9月、フェンウェイパークでのカル･リプケンJr.＝Photo:Ryo Ueda） 　今週、日米ともに今年の野球殿堂入り表彰者（米は記者投票による競技者表彰者のみ。特別表彰は後日発表）が発表され、アメリカは2632試合連続出場の「鉄人」カル･リプケンJr.（オリオールズ）と90年代を代表する安打製造機だったトニー･グウィン（パドレス）の両氏が、また日本では阪急ブレーブスで本格派左腕投手として活躍し監督も務めた故･梶本隆夫氏と、アマ球界発展に功績のあった松永怜一氏（元法政大監督）がそれぞれ選出されました。 　このうちプロ野球界から選ばれた３氏は、いずれも現役時代、１チームで選手生活を全うした人たちで、日米ともＦＡ制度が導入され、スター選手のユニフォームが変わるのも珍しくなくなった今日では、貴重な事例になったといえるでしょう。ただ、梶本氏は現役引退の時点で、金田正一投手（元国鉄、読売）の400勝に次いで、左腕投手としては歴代２位の勝利数をマークし、９連続奪三振の日本記録を持ち、阪急のリーグ初優勝にも貢献していただけに、もっと早く選ばれてしかるべき人で、昨年などは（実名を挙げるのは差し控えますが）現役時代あるいは指導者としても到底殿堂入りに値するとは思えない人たちに票が投じられ、分散した結果、僅差で殿堂入りを逃し、結局梶本さんはその吉報を聞くことなく、昨年９月になくなられています。近年は闘病生活を送られていましたが、それでも自身の殿堂入りレリーフを見ることができれば、せめてもの手向けにはなったのではないでしょうか。この点は（毎年のことであり、嘆かわしいことなのですが）投票資格を持つ新聞記者やテレビ関係者の見識が大いに問われます。 アメリカ生まれのスポーツ文化「殿堂」 　さて、アメリカ、カナダを含む北米地域には、ベースボールのほか、バスケットボール、アメリカンフットボール、アイスホッケーなど多くのスポーツ関連の殿堂（及び博物館）があり、「ロックンロール」発祥の地と呼ばれるオハイオ州クリーブランドには「ロックの殿堂」も存在します。 　アメリカの野球殿堂博物館は、1939年、米ＮＹ州クーパーズタウンに開設され（殿堂入り野球人の選出は1936年から）、日本の殿堂である「野球体育博物館」はこれにならって1959年に開場しました（そういえば、本年度殿堂入り発表の日となった１月12日は、競技者表彰選出第１号であるヴィクトル・スタルヒン投手の命日でもありました）。 　実はスポーツ競技の発展に貢献した人たちを表彰・顕彰する「殿堂」は、ヨーロッパのメジャースポーツにはありません（クラブのトロフィーや名選手の記念品を展示するコーナーが設けられている場所などはあるようですが、アメリカのような大掛かりな殿堂博物館は見当たりません）。日本では日本サッカー協会（ＪＦＡ）が東京・本郷に本部ビルを開設したとき、館内にミュージアムを設けるとともに、「殿堂入り」の制度をスタートさせました。このとき最初の殿堂入り表彰者となったデットマール･クラマー氏は、1960年代に特別コーチに招かれ、現在のＪリーグの前身である日本サッカーリーグの創立や、メキシコ五輪での銅メダル獲得など、日本サッカーの発展に多大な貢献をした恩人として知られていますが、名門バイエルン･ミュンヘンの監督としても欧州王者に輝いた経験を持つこの名伯楽は、表彰者を代表してのスピーチで、「こんな素晴らしいミュージアムや殿堂は（自分の母国である）ドイツにもない」とこの制度を絶賛していました。 　よく、サッカーやラグビーなどヨーロッパ発祥のスポーツに詳しかったり、思い入れが強かったりするスポーツフリークなど（もちろん、それ以外のスポーツフリークにも見受けられるのですが）には、ベースボールやバスケットボールなどアメリカ生まれのスポーツにおいて、記録が細かく数値化されることや、こうした殿堂のような制度を設けていることを指し、「歴史の浅いアメリカならではの発想」と揶揄するような傾向がときおり見受けられます。確かに1776年に独立宣言が発せられたアメリカ合衆国と、紀元前からの文明を誇る欧州諸国とでは、その歴史の長さは比較のしようがありません。 　しかし、スポーツを巡る環境や歴史、風土といった背景の違いは、別に優劣を論じるような性格のものではありません。たとえば世界初の本格的近代成文憲法である合衆国憲法のもと、建国初期から国王や皇帝などの君主をいただかない共和国として、国家元首である大統領をはじめ、知事・市長、議員らを市民の投票で選んできたアメリカと、イギリス、フランスなど強大な王国、あるいは絶対君主が長く君臨し、身分制度が存在し（現在もなお大なり小なりその影響を残し）、現在もオランダ、スペインなど多くの王国が存在し、またイギリスのように成文憲法を持たない国家もなお存在するヨーロッパとの歴史的環境・背景の違いが、スポーツにも反映している。つまり、社会・国家体制でもスポーツを含めた文化においても、アイデンティティーを「形」にして証明するやり方が建国以来アメリカにはあった……かいつまんで解説すれば、そんなことになります。 　あるいは、前述したクラマー氏のスピーチなどを考えれば、欧州のスポーツ関係者やファンが、アメリカ独特の「殿堂」というシステムについて、一概に否定的だったり、冷めた目で見ていたりというわけではなさそうです。むしろ、もともと自分たちのスポーツ文化にないものを不思議な思いで見ている、そしてその真の設立や存在意義を知ったクラマー氏などは、逆にうらやましく思ったのでしょう。　 「表彰・顕彰」以上に大きな殿堂・博物館の役割とは？　 　いずれにしても、そうした欧州と北米のスポーツ文化の相違点は、それぞれに好き嫌いはあっても、決して優劣を論じるような性格のものではありません。 　ただ、殿堂（とそれに付属する博物館）は功労者の表彰・顕彰を行なうと同時に、その競技や文化の発展に寄与しながら、その功績が歴史に埋もれてきた、あるいは意図的に黙殺されてきた人たちに光を当て、再評価するという役割も持っている、というよりも現在ではむしろこちらの役割のほうが大きい部分があります。そのもっとも大きな功績が、ジャッキー･ロビンソンがドジャースに入団するまでメジャーリーグから締め出されていた黒人選手たちがプレーしていたニグロリーグの歴史でしょう。そうしたことを考えれば、「殿堂」というシステムについて、「誰が偉大な人物だったかを決定する機関」であるとか、「いかにも歴史の浅い米国ならではの文化」と決めつけるのは、いささか浅薄で皮相的な考え方ではないでしょうか。 　また私が思うに、殿堂入り表彰というのは、ベースボールという競技を通じて、ファンにかけがえのない楽しみや喜び、感動、そして思い出を残してくれた名プレーヤーたちに対する、メディアやファンからのプレゼントであり、感謝の気持ちであるとも考えています。 　野球人に対する評価は「後世の判断を仰ぐべき」だとして、殿堂の制度に疑問を抱く考え方もあるようですが、逆に同時代の人間が、同時代の人間だからこそ下さなければならない評価や判断も当然あり、それが後世の歴史的評価なるものよりもウエイトが軽くなるということはありません。事実、アメリカ野球殿堂の競技者投票では、リプケン、グウィン両氏が記録的な得票で資格１年目の殿堂入りを果たす一方で、現役時代のステロイド使用が疑われているマーク・マグワイア氏（元カージナルス）は有効得票率75％に遠く及ばない25％以下の票数しか集めることができませんでした。もちろん、将来疑惑が晴れて、あるいは不正よりも功績のほうがはるかに大きいと認められてマグワイア氏が殿堂入りを果たす可能性もありますが、少なくとも2007年1月9日の時点において、「同時代人」を代表した投票者たちは、マグワイアがクーパーズタウンの切符を手にすることに「No」という歴史的判断を下したわけです。 　また、時の流れは当然、「記憶の風化」ももたらします。残念ながら日本の野球文化土壌においては、野球関係者はいうに及ばず、メディア、さらにはファンの間でもこうした「風化」の現象が著しく、それが今年の梶本氏や一昨年の秋山登氏（元大洋ホエールズ）のように殿堂入りがその没後になる、あるいは未だその功績が報いられない青田昇氏（元読売ジャイアンツ）をはじめとする大功労者たちも少なくないという憂うべき現状になっているわけです。そういう意味では、むしろ「後世の評価」というのは、同時代人が果たすべき責任や使命を忌避するための「逃げ口上」なのではないでしょうか。　 　もちろん、「殿堂」というシステムについて、いろいろな考え方や見方があってしかるべきですし、そのなかにネガティヴな意見があってもかまわないと思います。ただ、それはあくまでも深い洞察や分析のもとに行なわれるべき批判や批評であるべきで、少なくともその場の気分、思いつきで、「誰が偉大な人物だったかを決定する機関」とか「歴史の浅い国ならではの文化」と決めつけ、それを不特定多数の人を相手に公にするのは、いささか軽率であり軽薄であるとのそしりを免れない、と私は思うのです。 　さて、このエントリー冒頭に添付した写真は、私が2000年９月、練習終了後、カル・リプケンがファンの応じている姿を写したものです。彼はこのとき、実に30分以上もサインペンを走らせていたのですが、場所は地元のボルティモアではなく、敵地のボストンはフェンウェイパーク！　こうした光景はもちろんこの日だけのものではなく、それこそ偉大な連続出場の間、ホームでもアウェイでも続けられていました。この姿、この事実を知ってもなお、リプケンへの評価は「後世の歴史的判断に委ねられるべき」だと思いますか？　たとえば両親や奥さん、恩人などへの感謝の言葉やプレゼントなどは、やはりその人が元気なうちに贈って、その喜ぶ顔が見たいと思うのが、私は普通だと思うのですが。 　今週、あるBlogのエントリーを目にして、最初はめでたい殿堂入りの祝賀気分に水を指されたような気分でしたが、むしろ殿堂入りという制度の背景について、改めて思いを馳せ、こうして広く知ってもらう機会を作ってもらい、今はその方にかえって感謝しています。でもこの方にお願いしたいのは、一度はクーパーズタウン、あるいは東京ドームにある野球体育博物館にぜひ足を運んでほしいということです。きっと、野球が「過去」「現在」「未来」が連綿と連なり、時空を超えた人たちが思いを共有できるスポーツ文化であることを、そして「殿堂博物館」がそうした場を野球ファンに提供してくれる素晴らしい場所であることを、改めて認識してもらえると思います。</content>
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      <name>Ryo Ueda</name>
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    <issued>2006-12-16T10:19:00+09:00</issued>
    <modified>2006-12-16T10:22:28+09:00</modified>
    <title>ＭＬＢファン必読書籍その１「メジャー･リーグ人名事典」</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">　すっかり更新が滞ってしまい、皆さまにはご迷惑･ご心配をおかけしましたが、今週から再開いたします。 　さて、今回からはしばらく、オフシーズン企画として、ＭＬＢファンならぜひとも読んでもらいたい「必読書籍」（「課題図書」という言葉は、大嫌いだった「読書感想文」を連想するので使いません）を毎回１冊ずつ紹介いたします。 　今回の一冊は、2001年に発行された「メジャー･リーグ人名事典」（出野哲也著・彩流社刊）です。 　実際、ベースボールについて取材をしたり記事を書いたり放送で喋る仕事をしていていつも思うのですが、日本の野球、あるいはスポーツ関連書籍全般には、意外に基本的な性格の出版物が少ないような気がします。たとえばメジャー30球団の球団史が詳細に書かれた単行本には、1978年に本格的にメジャーの放送や報道が始まって以降、ついぞお目にかかったことがありません。もちろん洋書には、私が現在仕事で利用している「Total Ballclubs」（Sport Classic Books）など、その手の出版物が幾つも世に出ているのですが、日本語の資料は皆無ですから、しかたなく1978年に故・伊東一雄（パンチョ）さんが「週刊ベースボール」に長期連載していた「大リーグ球団史」のスクラップを現在も活用している次第です（できれば後に拡張された４球団を追加して、単行本として出してもらいたいのですが）。 　もうひとつ欲しいのは（これは日本のプロ野球でも同じなのですが）メジャーのＯＢ・現役の主要選手や監督、関係者のプロフィールや記録などを網羅した「人名事典」です。これはパンチョさんが1997年にベースボール･マガジン社から'「Major League Who's Who～メジャー･リーグ紳士録」'を出されているのですが、残念ながら145名しか収録されておらず、おそらくライフワークだったのでしょうが、パンチョさんが亡くなられて文字通り「未完の大作」となってしまいました。しかしありがたいことに、2001年に東京の彩流社から700ページ近い大著が出版されています。「スラッガー」や「ダンクシュート」などでメジャーやＮＢＡの記事を寄稿されている出野哲也さんの労作「メジャー･リーグ人名事典」です。 　この本に収録されているのは実に2692人。その収録基準は次の通りです。 【１】選手・監督 　1876年（ナショナル･リーグ創立の年）から2001年までの期間、メジャーリーグに在籍した全選手のうち、以下の条件に該当する者。 a)1000試合以上、1000安打以上、100本塁打以上のいずれかを記録した野手。 b)500試合以上、100勝以上、100セーブ以上のいずれかを記録した投手。 c)実働10年以上で、1500投球回数の投手。 d)以下の各部門のタイトルホルダー 　ＭＶＰ、サイ･ヤング賞、新人王、ゴールドグラブ、首位打者、最多安打、本塁打王、打点王、盗塁王（1898年以降）、得点王、最高出塁率、最多勝利、最高勝率、最多セーブ（1969年以降）、最優秀防御率、最多奪三振。 e)オールスターに２回以上選出（出場辞退も含む） f)その他特筆すべき話題、記録を残した選手。 g)メジャー出場経験があり、日本プロ野球で実働３年以上の選手。 h)メジャーに８年以上在籍し、日本プロ野球で出場経験のある選手。 i)すべての日本人メジャーリーガー j)監督としてリーグ優勝もしくは1000試合以上の経験を持つ者。 【２】メジャー･リーグでの選手経験を持たない者のうち、以下の条件に該当する者。 k)リーグ優勝もしくは1000試合以上の経験を持つ監督。 l)殿堂入りしたニグロリーグの選手。 m)殿堂入りした審判、オーナー、コミッショナー、リーグ会長。 n)その他、特筆すべき話題を残した関係者。 　 　上記の基準で選ばれた2692名は、「出身国（地）」「在籍球団と年度」「守備位置」「通算記録」「タイトル」「監督としての通算成績」「日本での通算成績」とあわせてそれぞれプロフィールやエピソードなどが紹介されています。 　もちろん、選手によっては（有名無名を問わず）、やや簡単な記述に終わって物足りない部分があったり、また個人的には利き腕と打席、身長、体重のデータが書かれていないのがややもったいない気がするのですが、それにしても、その内容の充実ぶりは、税抜き6500円という価格がまったく惜しくないほどです。 　 　この一冊を手許に置けば、来年からのメジャー中継がより楽しいものになるのは確実です。Amazonなどでも注文が可能ですので、ぜひこのオフ、ご一読いただければ幸いです。 　ではまた次回をお楽しみに！</content>
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      <name>Ryo Ueda</name>
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    <issued>2006-10-21T14:33:00+09:00</issued>
    <modified>2007-05-16T22:58:50+09:00</modified>
    <title>カージナルスの偉人が語った「Cards need So」</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">二度目のワールドシリーズに臨む田口壮外野手（Photo：Ryo Ueda） 　セントルイス・カージナルスのナ・リーグ制覇で、田口壮選手は一昨年に続いて２度目のワールドシリーズ進出を果たすことになりました。大舞台に再び臨むのは、日本人選手としては初めてのことです。また、これで2002年の新庄剛志選手（当時ジャイアンツ。現北海道日本ハム）、03年の松井秀喜選手（ヤンキース）、04年の田口選手、05年の井口資仁選手（ホワイトソックス）と、日本人選手は５年連続でワールドシリーズに登場することになります。 　シリーズ出場に果たした貢献度という点で、今年の田口選手は03年の松井選手や昨年の井口選手を間違いなく上回るでしょう。限られた出場機会でありながら、ポストシーズン２本塁打、打率10割の大当たり。しかもメッツとのリーグチャンピオンシップでは、第２戦で守護神のビリー・ワグナーから放った逆転の３ラン、第６戦でも試合には敗れたものの、同じワグナーから２点タイムリー二塁打を放ち、これが最終戦でウィリー・ランドルフ監督にワグナー投入の決断を遅らせた要因にもなりました。 　 　この田口選手の活躍を見て、私が思い出したのが、２年前のセントルイス取材です。いまはなき旧ブッシュスタジアムの一塁側ダッグアウトでカージナルスの打撃練習を見ていた私は、傍らにカージナルスの赤い練習用ユニフォームを身にまとったひとりの老紳士が座っているのに気づきました。彼の背番号は「２」。実はこの人、1940年代から50年代にかけてカージナルスの名二塁手として活躍し、1960年代には監督としてチームを２度のリーグ優勝と世界一一度に導いたレッド・シェーンディーンストさんだったのです。背番号２は永久欠番に指定され、殿堂入りを果たしているこのセントルイスの偉人に私は図々しくも話しかけ、1968年にカージナルスを率いて来日したときのエピソード、そして田口選手について質問をしました。 「ソウは素晴らしい男だよ。練習はいつも他の選手たちの先頭を切ってこなしているし、たとえ出番が少なくても、そのための準備を常に怠っていない。そして、試合に出れば、打席でも守りでもきちんと監督が求める役割を果たしてくれるんだからね」 　そして、シェーンディーンストさんが語った次の言葉こそ、まさにカージナルスというチームにおける田口選手の存在価値を物語るものでした。 「いいかね、いまのカージナルスに必要なのはソウ・タグチなんだ。イチロー・スズキでもヒデキ・マツイでもない」　 　昨年は143試合に出場し、114安打、８本塁打、53打点、打率.288をマークした田口選手も、今季は134試合、84安打、２本塁打、31打点とやや不本意な成績に終わりました。ただ、これだけ出場機会が減ったにもかかわらず、得点は46で昨年を１つ上回っていたところが、やはりチームプレーに徹する田口選手らしいところでした。こうした目立たない貢献度を、名将トニー・ラルーサが見逃しているはずがありません。 　さて、カージナルスとタイガースのワールドシリーズでの顔合わせは、1934年、1968年に続いて38年ぶり３度目になりますが、過去２回はいずれも第７戦までもつれ込んでいます。34年はカージナルスの「ガスハウスギャング」が走り回り、この年30勝を兄弟で計49勝をマークした兄ディジー（30勝）と弟ポール（19勝）が２勝ずつを挙げてタイガースを抑え込み、68年はタイガースの左腕ミッキー・ロリッチが３勝を挙げる活躍で、公式戦での防御率1.12、シリーズ第１戦では17奪三振の新記録をマークした殿堂入り投手のボブ・ギブソンを擁していたカージナルスを下しています。 　カージナルスのラルーサ、タイガースのリーランド両監督は、もともとホワイトソックス時代に監督と三塁コーチを務め、リーランドは昨年までカージナルスのスカウト部に籍を置くなど、親しい間柄でもあります。そして両者のどちらがシリーズに勝利しても、1984年のスパーキー・アンダーソン監督（タイガース。1975・76年にレッズで世界一）以来史上２人目となる両リーグでのワールドシリーズ優勝監督（ラルーサは89年アスレチックス、リーランドは97年マーリンズ）となり、将来の殿堂入りがより近づくことになります。 　タイガースの強力投手陣と、現役メジャー最強打者アルバート・プホルスとの対決など、今年も見どころの多いシリーズになる予感がします。</content>
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      <name>Ryo Ueda</name>
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    <issued>2006-10-10T22:49:00+09:00</issued>
    <modified>2006-10-10T23:33:20+09:00</modified>
    <title>「ニグロリーグの語り部」バック・オニール氏、逝く</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">1997年に出版されたバック・オニール氏の著書「I Was Right On Time」 約２ヶ月ぶりの更新で、悲しいニュースをお伝えしなければなりません。 戦前から戦後にかけて、サッチェル・ペイジやジャッキー・ロビンソンらの大選手たちもプレーしたニグロリーグの名門カンザスシティー・モナークスで、選手、監督として活躍し、その後はメジャーリーグ初の黒人コーチとしてアーニー・バンクスやルー・ブロックらのちの殿堂入り選手の指導にあたったことでも知られるバック・オニールさんが、去る８日、カンザスシティーで亡くなりました。享年94歳でした。近年はカンザスシティーにある「ニグロリーグ野球博物館」の理事長や野球殿堂のニグロリーグ選出委員などを務め、またこの夏には独立リーグに選手として史上最年長での出場を果たし、日本でも話題になったばかりでした。 ３年前の2003年６月、私は初めてカンザスシティーの地を訪れました。ここを訪れたのは、カウフマンスタジアムでロイヤルズの試合を見ることと同じくらい、いやそれ以上にニグロリーグ野球博物館に足を運ぶのが大きな目的でした。 最初はまったくフリーの見学者として訪れたのですが、小さなスペースながら実に充実したその展示内容に感銘を受けた私は、その場で同館広報担当の方に取材をお願いし、翌日博物館を再訪しました。そのとき、幸運にもオニールさんにお目にかかることができたのです。 オニールさんはそのときもう90を超えていたのですが、178cmの私が見上げるほどの長身で、しかも自ら中古のセダンを運転して博物館に通勤するほどお元気でした。ですから、ご高齢であることは認識していたのですが、せいぜい70代後半か80代の前半だと思っていたのです。ホテルに帰って、改めてそのプロフィールを見て大変驚いたものです。 ニグロリーグ野球博物館では、広報担当の方に改めて館内を案内していただき、展示内容やニグロリーグ野球の歴史についてひと通りの説明を受けたあと、私はオニールさんも挨拶をしました。オニールさんは遠来の私の来館を大変喜んでくださり、「ここで紹介されているパイオニアたちの活躍や業績があったからこそ、今日、あなたの国からも素晴らしい選手たちを迎えることができた。そのことを忘れないで下さい」と熱心に私に語りかけてくれました。そのときの穏やかな笑顔が、今も昨日のことのように思い出されます。 ニグロリーグのみならず、野球界全体に多大な貢献をしてきたオニールさんでしたが、教え子のバンクスやブロックが初年度でメンバーに名を連ねたクーパースタウンの野球殿堂には、残念ながら選ばれることなく、帰らぬ人となってしまいました。今年の特別表彰はニグロリーグ関係者から多数の選出があったのに、なぜかオニールさんは僅差で選外となり、そのことに大きなショックを受けていたとも言われています。しかし、彼が野球界の発展に果たしてきた役割の大きさは多くの人が知っており、前述した独立リーグでの最年長出場をはじめ、来年以降の殿堂入りを実現させるための動きも高まっていただけに、天寿を全うされたとは言え、誠に惜しまれる死ではありました。 ジャッキー・ロビンソンのドジャース入りでメジャーリーグにおける人種の壁が崩され、その後数多くの黒人プレーヤーが活躍し、さらにテレビ放送が本格的に普及すると、そのあおりを受ける形で、ニグロリーグ及び地域独立プロ野球としてのマイナーリーグは60年代までに衰退の道をたどることになりました。しかし、オニールさんはこのことについて尋ねられると、「ニグロリーグは忌まわしい人種差別社会が生んだ『あだ花』でした。だからメジャーでカラーバリアが破られたあとは、その役割を終えたと考えるべきです」と語っていました。この見解については、元ニグロリーグ関係者や野球研究者の間にも異論はあるのですが、それでもオニール氏を含むニグロリーグの選手や関係者たちが、アメリカ社会が人種差別体制を克服していく過程で、大きな歴史的役割を果たしたのは間違いありません。 さて、ニグロリーグ博物館を辞去したあと、私は正面玄関の前に駐車してあったオニール氏のセダンに目を留めました。そのリアウィンドウには、無造作に１個のボールが置かれており、そこにはサインらしきものが書かれていたので、私はその正体を確かめるため、車に近づいてみました。驚いたことに、サインボールに書かれていた名前は、 「Ted Williams」 添えられた「To Buck」の文字が、最後の４割打者から、生前、オニール氏に贈られたサインボールであることを証明していました。 このエピソードはこれまでに発表した原稿でも、スカパー！ＭＬＢの放送においても、一切公表したことがありませんでした。それは、万が一にも、オニールさんの身辺に危険が及ばないように考えてのことでした。そして、できることならば未来永劫、私の心の中にしまっておきたかったのですが、オニールさんの訃報に接し、彼がアメリカの野球界でいかに偉大な存在であったかを伝える意味でも、あえて今日その封印を解くことにしました。 改めて、オニールさんのご冥福をお祈りいたします。 ○オニールさんの訃報を伝えるロイヤルズ公式サイトの記事 http://kansascity.royals.mlb.com/NASApp/mlb/news/article.jsp?ymd=20060928&amp;amp;amp;content_id=1687696&amp;amp;amp;vkey=news_kc&amp;amp;amp;fext=.jsp&amp;amp;amp;c_id=kc ○ニグロリーグ博物館公式サイト http://www.nlbm.com/</content>
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    <issued>2006-08-15T21:27:00+09:00</issued>
    <modified>2006-08-15T22:17:35+09:00</modified>
    <title>フランクリン･ルーズベルト大統領の「青信号の手紙」</title>
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    <content mode="escaped" type="text/html">（戦時下のメジャーリーグの続行に許可を与えたアメリカ大統領フランクリン･ルーズベルト） 日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発してから約１ヵ月後の1942年１月14日、当時のメジャーリーグコミッショナーだった元連邦判事ケネソー･マウンテン･ランディスは、当時のアメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトにあてて一通の手紙をしたためました。 「ベースボール（メジャーリーグ16球団のこと）は、（1942年シーズンの）スケジュールを組み、プレーヤーたちと契約し、トレーニングキャンプに行くための膨大な手紙を作る時期にさしかかっています。大統領閣下、あなたはどうしてほしいとお思いでしょうか？　もしあなたが戦争遂行のために、ベースボールの公式戦を中止すべきであるとお思いであるのなら、私たちには直ちにその意思に従う用意があります。もし、あなたがベースボールを戦時下においても続行すべきだとお考えでしたら、われわれは喜んでそうするでしょう。われわれはあなたのご指示をお待ちしております」 その２日後、ルーズベルト大統領からの返事がしたためられた手紙が、ランディスの元に届けられます。 「私は心の底から、ベースボールを続けることが、わが国にとって最良の選択であろうと考えています。（戦時下において）仕事をしていない人々はほとんどこの国にはおりませんし、すべての国民が、かつてないほどに、長時間、しかも厳しい労働を強いられています。ということは、いままで以上にすべての国民がリクリエーションの機会を持つべきですし、またいままで以上にすべての国民がそれぞれの厳しい労働の合間に休息の時間を持つべきであるということを意味するのです。ベースボールは、２時間から２時間半程度の時間しか費やさず、お金の面でも非常に手軽に人々が楽しむことのできるリクリエーションであることが立証されています。また別の見方をするならば、もし（メジャーとマイナーを含めたプロ野球の）300チームが、5000から6000人のプレーヤーを擁しているのならば、少なくとも彼らは、2000万人の市民のためのリクリエーションにおける財産となりうるでありましょう。私自身も、プロ野球選手にはその価値が十分にあると判断しております」 戦時下におけるプロ野球の続行を認めたこのルーズベルトの手紙は「グリーンライトレター（青信号の手紙）」と呼ばれ、現物はクーパースタウンの野球殿堂博物館に保管されています。この大統領によるベースボールへの「お墨付き」には、当時首都ワシントンＤＣを本拠地としていたセネタース（現ミネソタ・ツインズ）のオーナーだったクラーク･グリフィスの尽力もありました。甥のカルビン･グリフィスによれば、ホワイトハウスを訪ねたグリフィスに、ルーズベルトが「合衆国政府が野球に対してできることはどんなことだろう」と助言を求めたところ、グリフィスは「アメリカ国民のリクリエーションのために、（戦争中も）試合を続けられるよう、野球界に許可を与えることです」と答えたそうです。 もちろん、兵役年齢に達した選手への兵役免除などは与えられず、ジョー･ディマジオ（ヤンキース）、ハンク･グリーンバーグ（タイガース）、テッド･ウィリアムズ（レッドソックス）、ボブ･フェラー（インディアンス）といった当時のスタープレーヤーたちが次々と入隊し、1943年から45年までのメジャーリーグは「老人と子供のリーグ」とまで呼ばれ、著しくプレーや試合のレベルが低下します。輸送制限によりオールスターゲームが唯一中止になったのも、1945年のことでした。 しかし、敵国である日本の為政者たちが「欲しがりません勝つまでは」と、ひたすら国民に忍従を強いて、野球ばかりでなく多くの娯楽を禁止したり制限していたのに対し、アメリカでは大統領が「国民が戦時下で苦しい生活を送っているときだからこそ、娯楽が必要である」と、野球興行の続行を許可していました。日米の勝敗を分けたのは、軍国主義と民主主義という「大義名分」や、物量の差が大きかったのはいうまでもないことですが、もうひとつ、指導者の国民に対する「思いやり」の姿勢の差も少なからず影響したのではないかと、私は「青信号の手紙」の実物を前にして思ったものです。 こうした戦時下のアメリカ野球の苦難と復活までの道のりは、リチャード･ゴールドスタイン著「傷だらけの一頁（Spartan Seasons）」（ベースボール･マガジン社刊）に詳しく紹介されています。野球ファンならば、ぜひご一読されることをお勧めします。</content>
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      <name>Ryo Ueda</name>
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    <issued>2006-08-04T20:43:00+09:00</issued>
    <modified>2006-08-04T21:55:08+09:00</modified>
    <title>グレッグ･マダックスの新背番号「36」は初代サイ･ヤング賞投手の番号</title>
    <link href="http://www.plus-blog.sportsnavi.com/kairi1958/article/6" rel="alternate" type="text/html"/>
    <content mode="escaped" type="text/html">７月31日のトレード期限数十分前、カブスからドジャースにトレードされたグレッグ･マダックス投手は、８月３日、シンシナティのグレートアメリカンパークで行なわれた対レッズ戦で移籍後初登板し、６回を投げて何とノーヒットの快投を演じました。そのあと、雨で46分間の中断があったため、マダックスはリリーフ投手に後を託して自身初のノーヒッターこそならなかったものの、今季10勝目をマークし、これで連続二ケタ勝利を19年に伸ばしました。 そのマダックスが新天地で背負った番号は「36」。カブスやブレーブスで見慣れた31は、今季11勝をマークしてオールスターゲームにも出場したブラッド･ペニー投手がつけていることもあって、新たな番号で心機一転を図ったようですが、実はこの36は、サイ･ヤング賞受賞４回を誇る大投手マダックスにふさわしいナンバーなのです。 1956年、当時ニューヨークの下町ブルックリンを本拠地としていたドジャースでこの36番をつけていたのは、30歳のアフリカ系アメリカ人投手ドン･ニューカムでした。 1946年にニグロリーグでの活躍を認められてドジャースと契約し、1949年にデビューを果たすと、長身からの速球とカーブを武器に初先発で完封を演じるなど17勝をマークして新人王を受賞。以後、兵役でチームを離れた２年間を除き、56年までの６シーズンでいずれも17勝以上をマークし、うち３度の20勝以上も記録。この間、二ケタ敗戦も50年の19勝10敗のみで、二ケタ勝利６シーズンでの平均.720（103勝40敗）の高い勝率を誇りました。 56年はニューカムにとって最高のシーズンでした。リーグ最多の27勝と勝率.794をマークし、防御率もリーグ２位の3.06でチームをリーグ２連覇に導き、その功績が認められて、ナ･リーグのＭＶＰ、そしてこの年から制定されたメジャーの最優秀投手賞サイ･ヤング賞の初代受賞者となったのです。当時、サイ･ヤング賞は両リーグから一人の受賞でしたから（両リーグからの選出は67年から）、文字通り16球団（当時）最高のピッチャーと認められたわけです。 以後、サイ･ヤング賞とＭＶＰの同時受賞者はサンディー･コーファックス（ドジャース／63年）、ボブ･ギブソン（カージナルス／68年）、デニー･マクレイン（タイガース／同）、バイダ･ブルー（アスレチックス／71年）、ロリー･フィンガース（ブリュワーズ／82年）、ウィリー･ヘルナンデス（タイガース／84年）、ロジャー･クレメンス（レッドソックス／86年）、デニス・エカーズリー（アスレチックス／92年）と９人を数えますが、このうち新人王との「三冠」を手にしたのはニューカムただ一人です。 ニューカムはまたバッティングのよさでも有名で、実働10年間の主な通算成績は878打数238安打で打率.271、15本塁打、108打点で、うち打率３割台も４回記録。1955年には１試合２本塁打２回を含む７本塁打、打率.359をマークしています。 しかし、連続世界一を狙った56年のワールドシリーズでヤンキースに敗れたあと、ニューカムの運命は一変します。シリーズのあとの日本遠征でも中西太（西鉄ライオンズ）に特大の一発を浴びるなど、公式戦での大活躍がウソのようなふがいない投球内容が続き、翌57年もその不調を引きずって前年から勝ち星を16も減らす11勝に終わり、58年に開幕から６連敗を喫した段階でついにチームから見切りをつけられ、レッズに放出されます。 59年は13勝と復活の兆しを見せたものの、結局放出後は60年まで26勝27敗に終わり、60年途中にインディアンスに移籍して２勝３敗に終わったのを最後に、ニューカムのメジャー生活にはピリオドが打たれました。62年に日本の中日ドラゴンズで主に打者として81試合に出場して12本塁打を記録しましたが、その年で現役から引退しました。 60年代の中頃、ドジャースのオマリーオーナーのもとに、「ドジャースの選手用ジャンパーが売りに出ている」との連絡が入ります。調べてみると、引退後、アルコール依存症になり、生活に困窮したニューカムが現役時代の思い出の品を売っていたことがわかりました。 オマリーは球団事務所にニューカムを呼び出し、姿を現した彼の前に、黙って彼が買い取ったジャンパーを差し出しました。そしてニューカムを諄々と諭し、酒を断つことを誓わせると、断酒のためのリハビリプログラムに彼を送り込み、その後はフロントの一員として雇用したのです。 今年80歳になったニューカム氏は、現在もコミュニティー活動担当ディレクターとして活躍中で、ドジャースタジアムではパナマ帽にアロハシャツ姿の彼の巨体を必ず見かけることができます。ニューカム氏は球団の地域コミュニティー活動の責任者であり、また講演会で自身のアルコール依存症の経験を語ったり、チャリティーやリハビリプログラムへの援助活動などを行なっています。 マダックスはこのサイ･ヤング賞の大先輩がいる新天地で、あと21に迫った通算350勝の大記録に向けての再スタートを切ったのです。</content>
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    <issued>2006-07-27T20:46:00+09:00</issued>
    <modified>2006-07-28T21:30:56+09:00</modified>
    <title>現役時代のＷ・ランドルフが球宴出場で見せた「プロ意識」</title>
    <link href="http://www.plus-blog.sportsnavi.com/kairi1958/article/5" rel="alternate" type="text/html"/>
    <content mode="escaped" type="text/html">今年、日米のオールスターゲームでは、スター選手の出場辞退が大きな論議の的となりました。 ピッツバーグのＰＮＣパークで開催されたメジャーの球宴では、ファン投票で選出されたマニー・ラミレス（レッドソックス）が、足の故障の悪化を理由に出場を辞退し、球場に姿を見せることもなく、自宅のあるフロリダで「完全休養」を決め込みました。同じくファン投票で選ばれながら故障で出場を取りやめたホセ・レイエス（メッツ）が試合前の選手紹介には姿を現し、ファンの声援に応えていた姿とは対照的でした。 一方日本では、やはり故障を理由に福留孝介（中日ドラゴンズ）が出場を辞退。ところが後半戦初戦の対阪神タイガース戦では連日の殊勲打を放ってヒーローインタビューにも登場したため、セ・リーグの指揮を執った岡田彰布阪神監督は「だまされた」と試合後に怒りのコメントをぶちまけていました。ＷＢＣでは起死回生の一発を放つなど、現在の日本プロ野球界を代表するスラッガーと言っても過言ではない福留ですが、2002年に松井秀喜（当時読売ジャイアンツ、現ヤンキース）と首位打者争いを繰り広げた際、最終盤にリードを保つと「首位打者病」にかかって打席に立たず、しかも連続試合出場を続けるために途中出場して守備だけつくなど、私にとってはどうもアンフェアなイメージがつきまとう選手です。まさか球宴をズル休みしたとは思いませんが、せめて球場には足を運んで、グラウンドでファンに挨拶ぐらいはしてもよかったのではと思います。 さて、メジャーのオールスター前日、アメリカのスポーツ専門局ＥＳＰＮの看板番組「スポーツセンター」では、ＰＮＣパークから同局のコメンテーターたちがトークを繰り広げていました。そのなかで、元マリナーズの二塁手で盗塁王にも輝いたことのあるハロルド・レイノルズは、自分自身が1987年に球宴出場を果たしたときエピソードを紹介しながら、ラミレスの欠場に苦言を呈していました。 「私が出場した年の球宴で、ア・リーグの二塁手にファン投票で選ばれたのはウィリー・ランドルフ（当時ヤンキース。現メッツ監督）だった。そのとき、彼は足を故障していて出場が難しい状態だったが、試合前に私を呼んで『オレは最初の１イニングを守り、１打席だけ立って君と交代するから、後は頼むぞ』と私に後を託した。ファン投票でオールスターに選ばれた選手のあるべき姿とは、このときのランドルフだと思う」 ウィリー・ランドルフは1972年にドラフト７位でパイレーツに指名され、75年にメジャー昇格を果たしましたが、当時のパイレーツには同じポジションに１試合７安打のメジャー記録を持つレニー・ステネットがいたために控えに甘んじていました。これに目をつけたのが、当時ヤンキースのＧＭだったゲーブ・ポールで、そのオフにトレードで移籍したランドルフは、闘将ビリー・マーティンによって二番セカンドのレギュラーに抜擢され、1964年以来となるチームのリーグ優勝に貢献。ヤンキースは翌77年、15年ぶりのワールドシリーズ制覇も成し遂げます。 1973年にチームを買収したジョージ・スタインブレナーオーナーの治世下、折からのＦＡ制度導入も活用して「金でペナントを買った」と非難されることも多かった当時のヤンキースですが、実際に大金をはたいてＦＡで獲得したのはキャットフィッシュ・ハンターとレジー・ジャクソン、のちに福岡ダイエーホークスでもプレーしたリッチ・ゴセージぐらい。76年からのリーグ３連覇、77・78年のワールドシリーズ連覇を支えたグレイグ・ネトルズ（三塁）、バッキー・デント（遊撃）、ルー・ピネラ（左翼、ＤＨ）、クリス・チャンブリス（一塁）、77年にア・リーグの救援投手として初のサイ・ヤング賞に輝いたスパーキー・ライルといった主力選手たちは、他球団で伸び悩んでいたり、首脳陣との折り合いが悪かったり、ベンチを温めていたのを、ヤンキースのプロフェッショナル・スカウト部門（他球団の控え選手や傘下マイナー選手を対象にスカウティングを行なう部門）が目をつけて連れてきた選手でした。中でもランドルフの獲得、そしてエンゼルスとのトレードで大砲のボビー・ボンズ（バリーの父親）を放出し、代わりに俊足巧打のリードオフマンだったミッキー・リバースを獲得したのは、最大のヒットとも言われています。 実質的にはヤンキースでメジャーのキャリアをスタートさせたランドルフは、他のスター選手たちが引退や移籍で次々とチームを去る中、88年までヤンキースのセカンドを守り続け、生え抜き左腕エースのロン・ギドリー（現ピッチングコーチ）とともにキャプテンを務めるなどチーム内の人望も厚い選手でした。89年からはドジャース、アスレチックス、ブリュワーズでプレーし、92年にメッツで現役を引退すると、93年にはＧＭ補佐としてヤンキースに呼び戻され、96年にジョー・トーリ監督が就任すると、三塁コーチ、ベンチコーチとして４度の世界一に貢献しています。 2005年、現役最後の年にプレーしたメッツに監督として招聘され、サブウェイシリーズではトーリ監督やかつての同僚だったギドリー、ドン・マッティングリー両コーチ、そして苦楽をともにしたデレク・ジーターやバーニー・ウィリアムズと対決することになりました。そして就任２年目の今シーズンは、デイビッド・ライトやレイエスの成長などもあって、メッツは2000年以来のリーグ制覇、さらに1986年以来の世界一に向かって驀進中です。 さて、私が取材で６月にシェイスタジアムを訪れた際、ランドルフ監督の人柄を垣間見るような光景に出会いました。練習終了後、一塁ダッグアウトに戻ってきたランドルフ監督は、スタンドの最前列で鈴なりになっているファンの求めに応じて、次々とサインに応じていました。これは毎日のことだそうです。こうしたケースでは、しばしばサインを求めるファンが「脱線」することもあって、大の大人が子供を押しのけてボールを差し出したり、順番を守らないファンもいたりするのですが、ランドルフ監督はファンにきちんと順番を守らせ、乱暴にボールを投げたファンにはサインをせずにそのボールを投げ返すこともあります。 ペドロ・マルティネスら陽気なラテン系のプレーヤーやライト、レイエス、ラスティン・ミレッジなど有望な若手選手の多いメッツは、チームの雰囲気も非常に明るいのですが、それがときに行き過ぎるケースもあります。しかし、チーム内の規律を重視し、選手に節度ある行動を求めるランドルフ監督の存在がそんなチームの「重し」となって、メッツは多少負けが込んでも空中分解を起こす危険のない「大人の集団」にもなりつつあります。 ちなみに、去る７月６日に52歳の誕生日を迎えたランドルフ監督ですが、その体格は20年前の現役時代とほとんど変わりがありません。日本でもアメリカでも、現役を引退して監督になると、顔の輪郭や胴回りがひと回りもふた回りも大きくなってしまう人が決して珍しくありませんが、こうした節制ぶりにも、ランドルフ監督の誠実な人柄が反映されているような気がします。</content>
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