2011年12月23日

デザイン追加&一新! 「レトロ球場スコアボード」チャリティー缶バッジ&Tシャツ頒布のお知らせ

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(ナゴヤ球場「1982年中日対巨人 江川KO延長戦大逆転試合ヴァージョン①)

 6月にチャリティー用頒布を行なった「レトロ球場スコアボードイラスト缶バッジ&Tシャツ」、デザインを一新・追加し、頒布を再開しました。

 ラインナップは下記の通りです。

甲子園球場(バックスクリーン3 連発ヴァージョン)
甲子園球場(奪三振日本新記録ヴァージョン)
甲子園球場(ノーヒッター&サヨナラアーチヴァージョン)
後楽園球場(初代/延長28 回ヴァージョン) 
後楽園球場(二代目/天覧試合ヴァージョン)
平和台球場(西鉄ライオンズヴァージョン) 
平和台球場(太平洋クラブライオンズヴァージョン) 
西宮球場(1975 年阪急日本シリーズ初制覇ヴァージョン) 
西宮球場(改装前グレー塗装ヴァージョン) 
大阪球場(1959 年日本シリーズ南海対巨人ヴァージョン) 
大阪球場(バナー入り) 
東京スタジアム(1962 年こけら落とし大毎対南海ヴァージョン) 
東京スタジアム(1970 年日本シリーズロッテ対巨人ヴァージョン)
広島市民球場(1980 年日本シリーズ広島対近鉄ヴァージョン) 
広島市民球場(1984 年日本シリーズ広島対阪急ヴァージョン) 
ナゴヤ球場(1982 年中日対巨人江川KOヴァージョン) 
ナゴヤ球場(1982 年中日対巨人延長戦大逆転ヴァージョン) 
中日球場(1954 年日本シリーズ中日対西鉄ヴァージョン) 
中日球場(1974 年リーグ優勝決定試合ヴァージョン) 
藤井寺球場(1989 年リーグ優勝決定試合ヴァージョン) 
藤井寺球場(鈴木啓示300 勝ヴァージョン) 
藤井寺球場(西本監督引退試合ヴァージョン) 
川崎球場(1960 年日本シリーズ大洋対大毎ヴァージョン) 
川崎球場(1974 年湘南カラーヴァージョン) 
川崎球場(1985 年「サンデー兆治」復活勝利試合ヴァージョン) 
ヤンキースタジアムⅠ(初代スコアボード)
ヤンキースタジアムⅠ(二代目スコアボード)
ヤンキースタジアムⅠ(三代目スコアボード)
ヤンキースタジアムⅡ(1976-2008)
リグレーフィールド(通常ヴァージョン)
リグレーフィールド(「HOLY COW!」ヴァージョン) 
コミスキーパークⅠ(通常ヴァージョン) 
コミスキーパークⅠ(「HOLY COW!」ヴァージョン) 
ドジャースタジアム(完全試合ヴァージョン) 
フェンウェイパーク(グリーンモンスターヴァージョン) 
ロイヤルズスタジアム(通常ヴァージョン) 


商品の詳細については下記専用ブログをご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/scoreboard_nostalgia

お問い合わせ・商品お申込み専用メールアドレス
scoreboardnostalgia@gmail.com


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2011年12月23日

「ベースボールと戦争」⑩失われた「時間」と「未来」(下)

 太平洋戦争の開戦記念日にあわせて、別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を転載しています。今回は戦争によって失われた日米プロ野球選手たちの「時間」と「未来」についてのエピソード、その3です。

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 アメリカが第二次世界大戦に参戦したとき、公式戦やワールドシリーズの開催が認められたのは、1920年代に本塁打王ベーブ・ルース(ヤンキース)が出現して以降、野球が「国民的娯楽」としての地位を確立していたことが背景にあった。
 しかし、そのルースが投手としてレッドソックスでデビューした1914年に勃発(ぼっぱつ)した第一次世界大戦では、大リーグや米球界、選手たちの置かれた状況は過酷なものだった。

 アメリカが参戦して2年目の18年7月、大リーグやマイナーリーグなどのプロ野球は、国防長官によって「非生産業」に規定され、選手たちは原則として徴兵免除の対象から除外される。そのため通常154試合の公式戦は140試合で打ち切られ、ワールドシリーズに出場したレッドソックスとカブスの選手だけがシリーズ終了後まで徴兵を猶予された。


 この頃の大リーグを代表する大投手のひとりに、グローヴァー・クリーヴランド・アレクサンダー(フィリーズ)がいた。デビューした11年にリーグ最多の28勝、15年からは3年連続で30勝以上をあげるなど、7年間で計190勝をマーク。16年には、現在も大リーグ記録の年間16完封を記録している。
 ところが17年のシーズン終了後、フィリーズはアレクサンダーを突然カブスに放出する。第一次大戦にアメリカが参戦したことによって、アレクサンダーが兵役に取られることを見越したオーナーが、トレードマネー欲しさに売り払ったのだった。

 翌18年、アレクサンダーは徴兵されてフランス戦線に派遣される。戦傷こそ負わなかったものの、砲兵隊に配属され、砲弾や銃弾が飛び交う激戦地で生と死の境をさまよう毎日を過ごした。その影響で、除隊して大リーグに戻ったあとも彼はしばしば難聴に悩まされ、持病のてんかんも悪化する。復帰2年目の20年には27勝で6度目の最多勝に輝いたものの、戦争の後遺症は彼を重度のアルコール依存症へと追い込み、遅刻や無断欠場が度重なるようになり、26年の途中でついにカブスを放出される。

 その後、カージナルスでワールドシリーズ制覇に貢献し、20勝投手にも復帰したが、最後は古巣フィリーズで9試合に登板しながら1勝もできず、ユニホームを脱いだ。

 引退後は宗教団体などの巡業チームに加わったあと、浮浪者同然の生活を送り、その境遇を見かねた野球界の援助を受けながら、50年に63歳でその生涯を閉じている。

 そのアレクサンダーとともに、ナ・リーグ歴代最多の373勝を誇り、1905年のワールドシリーズで3試合完封勝利の離れ業でジャイアンツを世界一に導いたクリスティー・マシューソンも、第一次大戦の犠牲者だった。
 
 引退後レッズの監督を務めていたマシューソンは、アメリカの参戦により志願兵としてフランスに渡った際、訓練中に毒ガス兵器を浴び、その影響で肺結核を患って除隊後も入退院をくり返した。そして、25年10月、ワールドシリーズの最中に45歳の若さで亡くなっている。

 第二次世界大戦後の1947年、長く黒人選手への門戸を閉ざしてきた大リーグで、27歳のジャッキー・ロビンソンがドジャースの一員となり、初の黒人大リーガーが誕生した。この年、彼は初代の新人王となり、3年目には首位打者、MVPに輝いた。その活躍は、大リーグにおける人種の壁を崩し、その後、野茂英雄やイチロー、松井秀喜ら日本人選手の活躍にも道を切り開く役割を果たしている。

 第二次世界大戦で黒人をはじめ多くの少数民族系アメリカ人が従軍し、国家に忠誠を尽くしたことが、ロビンソンら黒人選手たちの大リーグ入りにつながったとの意見もある。ロビンソン自身、大戦中は陸軍に志願し、少尉の地位にあった。

 しかし、黒人選手たちが大リーグから締め出され、はるかに待遇の劣る二グロリーグでのプレーを長年余儀なくされたのは、リンカーンによる奴隷解放宣言以降もアメリカに根強く人種差別が残っていた影響にほかならない。ロビンソンは兵士として国家への忠誠心を示さなくても、その卓越した野球選手としての実力だけで、もっと早く大リーグでプレーする機会と権利を得て当然だった。

 2001年の「9.111同時多発テロ」のあと、米ニューヨーク州クーパースタウンにある野球殿堂は、二つの世界大戦や朝鮮戦争に従軍した殿堂入り選手たちのレリーフに記念章(エンブレム)を飾るようになった。ここで紹介した選手たちも、それぞれが参戦した戦争の印が飾られている。
 しかし、もし戦争がなければ、彼らが与えられ、磨きをかけた野球の才能によって、グラウンドで手にしたはずの本物の「勲章」が、その足跡に付け加えられたのは間違いないだろう (おわり)。

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2011年12月23日

「ベースボールと戦争」⑨失われた「時間」と「未来」(中)

太平洋戦争の開戦記念日にあわせて、別媒体で発表した「ベースボールと戦争」を転載しています。今回は戦争によって失われた日米プロ野球選手たちの「時間」と「未来」についてのエピソード、その2です。


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 ベースボールの母国アメリカでも、戦争が競技と選手たちの運命を大きく変えてしまった歴史がある。

 

 1991年、米大リーグのオールスターゲームが、カナダ・トロントで開催され、ジョー・ディマジオ(元New York Yankees)とテッド・ウィリアムズ(元Boston Red Sox)が始球式を務めた。
 41年に、ディマジオが56試合連続安打、ウィリアムズが大リーグ最後の打率4割台である.406を記録してから、ちょうど50周年にあたる記念の年だったため、大リーグ機構が二人を球宴の特別ゲストに招いた。

 
 MLB史上、というより野球の歴史に残る金字塔を打ち立てた両者だが。その野球人生は、41年12月8日(アメリカでは9日)、真珠湾攻撃により日米が開戦し、アメリカが第二次世界大戦に本格参戦したことで一変する。
 

 翌42年のシーズンが終わると、ディマジオは陸軍に、ウィリアムズは海軍に入隊した。このときディマジオは28歳、三冠王に輝いたばかりのウィリアムズは24歳で、野球選手としてもっとも脂が乗っていた時期だった。
 

  ウィリアムズは故郷のカリフォルニア州サンディエゴに独り暮らしの母親がいたため徴兵猶予となっていたが、地元ボストンのメディアが「徴兵逃れ」と彼を非難し、心ないファンから自宅に偽の召集令状を送りつけられる嫌がらせを受けるなど、周囲からの圧力に耐えかね、猶予の返上に追い込まれた。

 

  結局二人は全盛期と重なる3年間を軍隊で過ごし、ウィリアムズは朝鮮戦争にも従軍して、都合5シーズンを軍隊生活で失っている。46年に復帰したディマジオは年を追うごとに故障欠場が目立つようになり、51年に36歳で現役を引退した。

 

 ディマジオの通算成績は打率.325、389本塁打、1537打点。ウィリアムズは.344、521本塁打、1839打点、メジャー史上、ロジャース・ホーンスビーと並んで二人しかいない三冠王2回など、それぞれ数多くのタイトルに輝いているが、兵役によるブランクがなければ、ディマジオの本塁打数は500本に達し、ウィリアムズは3度目の三冠王や2度目の打率4割、さらにはタイ・カッブの通算安打数4191本やベーブ・ルースの生涯本塁打数714本の更新も夢ではなかっただろうといわれている。

 

 また野球と戦争にかかわる出来事としては、MLBやマイナーリーグの選手たちが兵役に取られ、また戦争によって野球全体への関心がるのを危惧したオーナーたちを中心に、映画『プリティ・リーグ(A League of Their Own)』のモデルとなった「全米女子プロ野球リーグ(All-American Girls Professional Baseball League= AAGPBL)」が1943年に旗揚げしている。

 

  兵役免除こそなかったものの、戦局が有利だったことや野球がアメリカの国技だったこともあり、第二次世界大戦では選手が激戦地に送られて命を落とすことはほとんどなかった。日米開戦直後、大リーグのランディス・コミッショナーがフランクリン・ルーズベルト大統領に戦時下の大リーグ試合開催の可否を尋ねた書簡に対し、大統領は「戦時下の国民には平時以上に娯楽の機会が与えられるべきで、野球を続けることはわが国にとって最良の選択」だと返書を送っている。
 

 それでも、戦場で野球生命にかかわる深い傷を負った野球人は存在した。

 

  日米開戦前夜、米サウスカロライナ州の大学野球部に在籍していた左腕投手ルー・ブリッシーは、その才能をPhiladelphia Athleticsの名監督コニー・マックに認められ、大学卒業後の入団が内定していた。しかしアメリカの本格参戦で陸軍に志願したブリッシーは、44年12月、イタリア戦線での戦闘中にドイツ軍の砲撃を浴びてしまう。九死に一生を得たものの、ブリッシーは左すねを粉砕骨折する重傷を負った。
 

  ブリッシーは陸軍病院で23回におよぶ大手術を受けたあと、負傷から2年後の46年12月にようやくAthleticsと契約し、翌年9月にはメジャー昇格を果たす。48年に14勝、翌年も16勝をあげ、オールスターゲームにも出場したが、やはり戦地で受けた傷のダメージは大きく、通算44勝48敗、防御率4.07で、53年に現役を引退している。

 

  メジャーで半世紀にわたって監督を務め、歴代最多の3731勝をマークし、Athleticsを5度ワールドシリーズ優勝に導いたマック監督は、ブリッシーを初めて見たとき、かつて自身のもとでプレーし、通算300勝をマークした大投手レフティー・グローブの再来と絶賛した。

 

  大きなハンディを背負いながら二度の二ケタ勝利をあげたブリッシーだけに、もし戦争がなければ、おそらく野球殿堂入りクラスの成績を残したに違いない(つづく)。

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posted by kairi1958 |11:21 | Baseball/MLB | コメント(0) | トラックバック(0)
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2011年09月03日

「ベースボールと戦争」⑧失われた「時間」と「未来」(上)

  終戦記念日、広島・長崎の原爆忌に合わせて、別媒体で発表した「ベースボールと戦争」に加筆訂正を加えたものを転載しています。今回は戦争によって失われた日米プロ野球選手たちの「時間」と「未来」についてのエピソード、その1です。

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  2年前の2009年6月、1941、42年の2シーズン、巨人に在籍した広瀬習一投手(1922-44)について、30年近くにわたり取材・調査を続け、単行本「戦火に消えた幻のエース 巨人軍・広瀬習一の生涯」(新日本出版)を上梓した。

 広瀬の名前や経歴について、これまで詳しく紹介される機会は極めて少なかった。

 滋賀県大津市出身で、大津商業時代の1939年(昭和14年)春の選抜大会に遊撃手として出場し、その後投手に転向して、社会人野球大津晴嵐会(旭ベンベルグ=現旭化成のチーム)を経て、41年のシーズン途中、巨人に入団した。

 

 前年まで連覇を果たしていた巨人は、この年、エースのヴィクトル・スタルヒンが重病の肋膜炎にかかって戦線を離脱し、兵役から復帰した沢村栄治も戦地で受けたダメージで全盛期の力を失い、投手陣崩壊の危機に瀕していた。41年8月21日、後楽園球場の対黒鷲戦でデビューした広瀬は、横手からの速球と威力ある変化球を駆使し、3安打無失点で巨人史上初の初登板完封勝利の偉業を達成する。

 

 以後、この年8勝、翌42年には21勝をあげてリーグの最高勝率投手となり、連続優勝の立役者となったが、42年の公式戦終了後兵役に取られ、44年9月、激戦のフィリピン・レイテ島で22歳の若さで戦死している。
 

 巨人はその歴史で、沢村栄治から上原浩治(現Texas Rangers)まで21人の20勝投手を輩出しているが、わずか2シーズンの在籍期間で戦場に散った広瀬は、そのなかでも、もっとも無名の存在といえるだろう。しかし、彼と一緒にプレーした巨人OBの千葉茂(二塁手)、楠安夫(捕手)、多田文久三(投手、捕手)、青田昇(外野手)の各氏(いずれも故人)は、異口同音に広瀬が巨人の歴史で果たした功績の大きさをたたえ、戦争で失われた才能を惜しんでいた。

 

 千葉氏は、「もし広瀬が生きて帰って戦後巨人に復帰していれば、(48年オフにライバル南海のエース別所を巨人が引き抜いた)別所事件なんか起こらなかったんだ」と、生前、いかにも無念そうに語っていた。

 

 広瀬が21勝をあげた42年は、日本のプロ野球史上空前絶後の「投高打低」のシーズンとして有名で、野口二郎(大洋)の40勝を筆頭に20勝投手が7人出現する一方で、首位打者の呉波(巨人)は打率.286で史上唯一の「二割台首位打者」となっている。


 広瀬はシーズンの3分の2が過ぎた時点で虫垂炎にかかり戦列を離れたため21勝にとどまったが、防御率はリーグ4位の1.19、全対戦打者との被安打率は.145(828打数120安打)で、野口の.162をしのぎ、1イニングあたりの平均被安打+与四球数を示す数値(WHIP)も野口(0.771)に次ぐ0.774をマークしている。
 

 通算303勝のスタルヒン、237勝の野口と、ともにのち野球殿堂入りした大投手二人を上回るか匹敵する投球内容を見せていた広瀬が、もし生きて再びプロ野球のマウンドに立っていたならば、殿堂入りレベルの成績を残していた可能性は十分に想像できる。

 

 広瀬の先輩投手だったスタルヒンも、前回紹介したようにまた戦争の犠牲者だった。
 

 幼少時にロシア革命で祖国を追われた両親とともに来日したスタルヒンは、日本語を母国語として育ち、日本の小学校と中学校に通いましたが、国交はあっても常に緊張関係にあった日ソ関係の影響で何度も日本への帰化を希望しながら認められなかった。

 39年に日ソ両軍が軍事衝突したノモンハン事件が起こり、軍部がソ連への警戒をより強めた影響で、翌40年、スタルヒンは日本名「須田博」への改名を事実上強要され、官憲による四六時中の監視を受ける身となる。後楽園球場に向かう途中、橋のうえで立ち止まって神田川の川面をぼんやりと眺めていただけで、特高警察から「行き来する船の数を数えていた」と、言いがかりのような「スパイ容疑」をかけられたり、居住登録の更新で警察署を訪れ、担当部署を近くにいた警察官にたずねただけでいきなり平手打ちを食らったりなど、数々の理不尽な仕打ちを受けたあげく、職業野球戦前最後の年となった44年途中、通算199勝目をあげた直後、今度は「敵性外国人」として官憲に連行され、終戦まで軽井沢の外国人収容所に抑留された。
 

 戦後スタルヒンは巨人に戻らず、パシフィック、大映、高橋(いずれも消滅)などの弱小チームを転々とする。戦時下の過酷な生活の影響からか、その球威は巨人時代に比べて明らかに衰え、55年に現役を引退するまでの戦後10シーズンで20勝以上を記録したのはわずか1回。プロ野球史上初の300勝達成を置き土産にユニフォームを脱ぎ、引退からわずか1年あまりの57年1月12日、交通事故で40年の悲劇的な生涯を閉じた
 

 そして、広瀬やスタルヒンのような、野球人の「失われた時間や未来」の悲劇は、戦勝国だったアメリカの野球界にも存在したのだ(つづく)。

posted by kairi1958 |12:59 | Baseball/MLB | コメント(0) | トラックバック(0)
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2011年08月29日

「ベースボールと戦争」⑦「最後の早慶戦」と「総進軍大会」

 終戦記念日、広島・長崎の原爆忌に合わせて、別媒体で発表した「ベースボールと戦争」に加筆訂正を加えたものを転載しています。今回は太平洋戦争末期に開催された「最後の早慶戦」と職業野球「総進撃大会」に関するエピソードです。

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 東京六大学野球連盟解散後の1943年(昭和18年)10月、文科系大学生の徴兵猶予撤廃が撤廃され、多くの現役大学生が戦場へと駆り出されることになった。この「学徒出陣」前後から、慶大野球部は応召する部員へのはなむけとして早慶戦の開催を小泉信三塾長に直訴し、早大野球部に試合開催を申し入れる。

 しかし、当時の田中穂積総長をはじめとする当時の早大当局は軍部に対して及び腰だった。

 前年、早大当局は野球部に対して、突然、軍部と文部省共催の「大学対抗教練大会」に参加することを命じている。重さ7.5kgの背のうを背負って40kmを3人一組で往復する過酷なもので、各校の陸上部員も参加するなか、棄権者が出たり成績が悪かった場合は野球部を解散させるとの条件を付きつけた。その意図が「野球部つぶし」にあったのは明らかだったが、最終ランナーが落伍者を背負ってゴールした野球部は参加百数十チーム中16位と健闘し、解散を免れる。 

 しかしこのとき、表彰式のあいさつに立った文部省の担当者は、早大野球部員が仲間を助けた行為に対し、「もし戦場なら間違いなく全員戦死だ」と冷酷な言葉を投げつけた(それから70年近くを経た現在でも、教科書検定問題などに見られるように、文部官僚の頭の中身はこの当時とほとんど変わっていない「思考停止状態」に陥っている)。

 早慶戦の開催も、一度は総長により却下されたが、小泉塾長をはじめとする慶応側の再三の申し入れ、さらに早大野球部員の総長への直訴もあって、43年10月16日、早大・戸塚球場(安部球場)でようやく「最後の早慶戦」は実現した。

 この試合に参加した両校野球部員のうち、早大・近藤清選手(岐阜商)ら3人の選手が戦場で帰らぬ人となっている。
 
 野球体育博物館内の「戦没野球人モニュメント」には、楠本保、中田武雄(明石中―慶大)、嶋清一(海草中―明大)、桐原真二(慶大/早慶戦復活に尽力した功績で野球殿堂入り)、東武雄(東大/六大学リーグ第1号本塁打)、松井栄造(岐阜商―早大)など、中等野球、大学野球、社会人野球で活躍した名選手の名前が見受けられる。しかもモニュメントに飾られているのは、春夏の中等野球全国大会、主要大学野球リーグ戦、都市対抗出場選手で戦死が判明した選手だけで、地方大会出場者や、アマチュアの野球愛好者を含めれば、数えきれないほどの野球人が永遠にその未来を絶たれた。


 一方、職業野球は、1940年秋に、タイガースを「阪神軍」、イーグルスを「黒鷲軍」に改称したり、「GIANTS」の英文字を漢字の「巨」一文字に変更するなど、球団名やユニフォームからの「英語追放」を実施している。名古屋軍(現中日)に至っては、名古屋の「名」をナチスドイツの鉤十字に似せたデザインにする徹底ぶりだった。

 さらに戦争への協力姿勢をアピールするため、試合前に選手による手榴弾投げ競争のアトラクションが開催され、「ストライク」を「よし」、ボールを「ダメ」などする野球用語の「日本語化」まで実行して生き残りをはかったが、選手の入営や応召は激しくなる一方で、44年になると試合開催は原則として週末のみに限られ、平日は選手が「産業戦士」として軍需工場などで勤労奉仕に駆り出された。

 開戦前から特高警察や憲兵隊に「敵性外国人」として監視を受け、日本名「須田博」への改名を事実上強要されていた大投手ヴィクトル・スタルヒン(巨人)は、このシーズン途中、ついに官憲に強制連行され、終戦まで軽井沢の外国人収容所に抑留されている(以前CSの「ヒストリー・チャンネル」で放映されていたスタルヒンのドキュメント番組で、スタルヒンが“自らの意思で”収容所に入ったかのような解説がなされていたが、強制収用は多くの資料で明らかにされている歴史的事実で、番組制作者による意図的な改ざんと疑わざるを得ない)。

 この年、「日本野球報国会」と改称していた職業野球は、応召や徴兵による選手不足と戦局の悪化から公式戦続行が不可能と判断し、所属6球団(巨人、阪神、阪急、産業、朝日、近畿)の選手を3チームに分けて開催した「秋の総進軍優勝大会」を最後に、11月13日、活動休止に追い込まれた。職業野球草創期の大投手・沢村栄治が台湾沖で輸送船と運命をともにしたのは、その翌月のことだった。

 近年、各地で相次いだ通り魔による無差別殺傷や、北朝鮮による拉致行為など、市民の平和な日常生活を理不尽な暴力が破壊する事件が、私たちの身近で起こっている。戦争はそうした暴力が国家によって行使され、さらにエスカレートしたものといえるだろう。
 プロ、アマチュアを問わず、グラウンドで無心にボールを追いかけていた野球人たちの「日常」も戦争で破壊され、彼らの人生のもっとも輝かしい時期、あるいは前途洋々たる未来が永遠に失われた。

 高校野球全国大会が開催される甲子園球場では、毎年8月15日、正午になると試合を一時中断し、選手、審判、大会関係者、観客が1分間の黙とうを捧げる。今年2011年8月9日の広島原爆記念日には、市条例による長年の「休業日」が解かれて半世紀ぶりに新広島市民球場でナイターが開催され、試合前に追悼のセレモニーが行なわれた。

 ただ、「鎮魂の碑」に先人たち69名の名前が刻まれているプロ野球は、プロ野球組織や各球団が戦没野球人を追悼し、不戦を誓うための行事を行なっていない。
 
 戦争で破壊された野球人たちの日常、永遠に失われた未来は取り戻すことはできない。しかし、野球界とファンが一体となって、彼らの功績をたたえ、犠牲をいたみ、恒久平和に向けての誓いを新たにすれば、少なくとも彼らの魂は永遠に生き続けることができる(つづく)。

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