2007年05月15日
STARTING OVER -本望信人、最初で最後の世界戦-
時は試合前日、所はジム近くの蕎麦屋。テレビから流れるのは、自分の出場するトリプル世界タイトルマッチの番宣CM。その映像を横目に、計量を終えたばかりのWBA世界S・フェザー級2位・本望信人は、鍋焼きうどんを啜りながら、口を開いた。 「30までに世界挑戦が決まらなければ、ボクシングを辞めようと思ってたんです....」 日本タイトル獲得から雌伏5年。三十路の扉が開かれる18日前、念願の世界初挑戦がついに発表された。だが時のWBA王者は21戦全勝全KO、そのハードパンチで世界を席巻するエドウィン・バレロ(帝拳・ベネズエラ)である。本望が絶大なる信頼を置く田中栄民トレーナー曰く「勝率は消費税程度」。眼前に立ち塞がる分厚き壁に、ボクシングファンからは「当代きっての技巧派・本望といえど、相手が悪い。運がない...」と悲観の声が多く聞かれたのも無理なからぬことだった。 「緊張感・恐怖感はもちろんあります。でもその恐怖感はエドウィン・バレロ(の強打)に対してのものではない。足掛け11年に及ぶプロ生活の集大成を出し切れるかという不安なんです」 決戦当日、昼過ぎにジムへ姿を現した本望は、未来永劫訪れることの無い「世界初挑戦当日」を迎えた心境を筆者に話し終えると、イヤホンを両耳に装着し、精神統一に入った。聴き込んでいた音楽は「ロッキーのテーマ」だった。 それから数時間後。本望は「ロッキー・ザ・ファイナル」の文字が躍る青いキャンバスに立った。その宣伝広告は選手生命を賭けて聖戦に臨んだ本望の決意表明にも映った。 序盤戦を情報処理に費やすのが本望のスタイル。それは18連続1RKOの世界記録を樹立したオープニングラウンドに滅法強いバレロを相手にした場合、決して相性が良いものではない。それだけに俄然注目が集まった試合開始からの180秒。 「記者会見などの公式行事では凄く緊張して、頭の中が真っ白になったことがあったんです。だから試合が始まるまでは、緊張でガチガチになってしまうのではないかと不安も正直ありました。でも『やるべきことはすべてやった』という自信があったので、リングに上がっても、緊張も恐さも一切感じなかった。いつも以上にリラックスして戦うことができたんです」 ようやく巡ってきた一世一代の大勝負。「逃げるのだけは嫌だった」という本望は、いざバレロと対峙しても全く萎縮せず、パンチを見切り、カバーリングと足捌きでクリーンヒットを奪わせぬまま、第1ラウンド終了のゴングを轟かせた。その刹那、沸き起こった歓声には、1ラウンドを乗り切ったという安堵感、上々の立ち上がりに「本望なら本当に一泡吹かせてくれるのでは?」という期待が入り混じっていた。 2R、ギアを一段上げて、プレッシャーを強めてきたバレロに対し、本望はクリンチの離れ際に左フックを当てるなどして奮闘する。ところがラウンド終了後に危惧していた事実がアナウンスされる。ヒッティングによる左目上のカット。すると堰を切ったように、3Rには右目上、4Rには右目下、5Rには右目上を切り裂き、顔面はたちまち朱に染まった。ポイント的にここまで劣勢は否めない。しかし、バレロの強打を封じ続ける、本望の「勇往邁進」な生き様が投影されたパフォーマンスに、カタルシスを味わんと胸を高鳴らせていたバレロファンも心を揺さぶられ始めていた。「あの日本人、スゲーじゃん!」。会場を包み込む熱は明らかに戦前とは一変している。 本望の鬼気迫る闘志に、バレロも甚大なダメージを与える意図を持ったビッグパンチは捨てて、確実にヒットを奪う作戦に切り替え、クリンチ際には必ず傷口をしたたかに狙い打った。状況に応じて狡賢いボクシングに転換できるクレバーさ、そして何が何でも勝つという執念。本来のボクシングとは言い難いが、持てる引き出しを遺憾なく発揮する底力に、バレロのスペックの高さが窺える。 7R、本望は当たりが浅いながらも、右ショートでバレロを仰け反らせた。しかし出血は夥しさを増す一方だ。8R、2度目のドクターチェック。ここでストップを宣告されても不思議じゃなかったが、ピニット・プラヤドサブ・レフェリーは試合再開を命ずる。だが事実上の最後通告に変わりはない。「ここで力を出し切らないと一生悔いが残る」。腹を決めた本望は果敢にも打ち合いに挑んだ。そして美しく散った。 一昔「涙の数だけ強くなれる」という詞の歌が流行ったが、本望は「傷の数だけ強くなれた」ボクサーだ。目の周辺を縫い合わせた都合150針の傷跡は、ボクサー本望信人に刻み込まれた年輪とも言い換えられる。本望は決してボクサーとしての先天的資質に恵まれていなかった。加えてカットし易いという肉体面での致命傷を併せ持つ。そんなハンディキャップを補完するため、ポジショニング、距離感、インサイドワークなどといった表面化しにくいスキルの研鑽に努めた。そうして迎えた36戦目、あの怪物バレロの歯車を瓦解させることができたのは、波乱万丈のプロキャリアで培った技術・経験・メンタルの全要素が最高点で結実した「全盛日」であったからだろう。そして試合後、田中トレーナーが話したように古傷をカットしての終幕も本望の宿命、不可避な帰結だったのではないか。 万感の思いが詰まった涙を止め処なく流した数日後。激闘の余韻冷めやらぬジムに、本望が挨拶に訪れた。激戦の痕跡は生々しくも、表情は実に晴れやかだった。 「今までは勝負に拘った試合ばかりだった。でも今回は勝ち負けを超越した勝負をやり切れた。だから後ろを振り返らず、前に進んでいきたい」 「負けてあれだけ拍手をもらえる選手はそうはいない」というプロボクサーとしての極地に到達した男が下した選択。そこにもリング上での立ち振る舞いと変わらぬ「勇往邁進」な人生哲学を感じずにはいられない。
posted by kadoebi1 |14:02 |
コラム-リングサイド |
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