2006年06月25日
ドイツでの失敗から学ぶために
さて。 成功について語ろうとする人間は、しっかりと失敗を受容しなければなりません。 日本がブラジルに敗北して、約3日。 失意の金曜日と、いつもより現実感のない週末を過ごしたみなさんも、だいたいにおいて「失敗の受容」は済んだのではないでしょうか。 さて。 次の段階として、失敗の原因を分析することが必要だと思うのです。 僕も何人かのコラムや論評を読んで、自分なりに原因を分析しようとしました。 その中で「これだ!」と思ったものを、みなさんにご紹介したいと思います。 それは、奇しくもワールドカップが開幕する前に、ふたりのトッププレイヤーによって語られているのでした。 中田英寿×三浦知良「魂をドイツへ」(Number654/655/656) いまの日本代表に足りないものについて。 カズ「いまの選手たちはグラウンドのなかの表現の仕方が、僕らに比べると薄いんじゃないかな」 中田「表現の仕方が昔に比べて下手なんじゃないかと。周りの人に伝わらないんです」 この発言に続いて、中田は「(意見をまとめていくという気持ちが全体にあるか)それは分からない、僕には分からないんですよ」と言っています。 僕らよりも上の世代からは宇宙人のように扱われていた中田でさえ、さらにその下の世代の考えていることが「分からない」というのです。 これって、何かに似てませんか。 単純に比較するのもどうかとは思いますが、少年による凶悪犯罪が報道された時、当該少年たちを知る人たちが、「彼の生活ぶりはいたって普通でした。でもいったい何を考えているのかわからないところがあったな…」。 そういう感覚にすごく近いと思いませんか。 なぜ、「彼ら」は自己表現ができなくなったか。 それは標準化重視のいまの教育現場が、自己表現の技術を全く教えていないからです。 ジーコも中田も、ピッチでの自己表現ができない超現代っ子の代表選手たちに対して、一種の恐怖感に近いものを抱いていたのではないでしょうか。 できれば、彼らを、救いたい。 しかし、それはあまりにも堅牢な、かんじがらめの鎖だった。 その鎖を外せなかったという点において、ジーコにはジーコの、中田には中田の失敗がそれぞれあると思うのですが、まがりなりにも世界標準を知り、第三者的な立場で「ニッポン」を見ることができるふたりですらこれなのですから、問題は相当に根深いように思います。 2010年までまだ4年。 しかし、たった4年で、9年間の義務教育で刷り込まれた「ものごとの対処の仕方」を払拭することは、率直に言ってかなり難しいと思います。 オシム監督に求められる日本代表再生の第一のステップは、「創造すること」ではなく「破壊すること」なのかもしれません。
posted by フニート |22:20 |
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この記事に対するコメント一覧
Re:ドイツでの失敗から学ぶために
オシム氏よりリッティ-リトバルスキー-氏では?
多分、ドイツサッカーかロシアサッカーが日本に合う
のでは?
posted by 惜しまない。 | 2006-06-25 22:57
Re:ドイツでの失敗から学ぶために
表現するって何でしょう。僕は自分のプレーをアピールすることだと思います。今風?に言えば試合で「功名」を上げて目立ち、自分の価値を認めさせること。
サッカーアカデミーの試みも否定しませんが、その一方で激しい競争を勝ち抜くハングリー精神もまた必要だと思います。学校教育とは正反対の厳しい競争社会がサッカー界には必要でしょう。
posted by YamaMori | 2006-06-27 15:25
Re:ドイツでの失敗から学ぶために
ちょっと話がそれるかもしれません。
「表現について」、もしくは「わかる」ということについて。
少年犯罪などがおきると、よくワイドショーなどでは「最近の少年たちは何を考えているのかわからなくなってきた」的なコメントがされます。でも、僕たちは、あまりにも、簡単に、他人を理解できると、そして他人に理解されると思い込んでいるんじゃないだろうか。
日本人は日本人というだけで、なんとなく共有している部分があり、改めて表現や主張をしなくても、なんとなく落ち着くところに落ち着くみたいな感覚がありますよね。それはそれで楽であり、でももどかしさを感じる部分もあります。
若くしてイタリアでプレーしてきた中田は、そういった部分の違和感を人一倍感じているんでしょう。
そう考えると、中田の苛立ちもわかるような気がします。
いまの社会をみると、そのなんとなく伝わるという感覚は幻想になりつつあるんじゃないか、と思います。もう簡単に他人のことを理解できるわけでも、簡単に自分のことを理解されるわけでもないということをしっかり認識しないとならないと感じています。
おお、いつの間にか社会を論じてしまった。
posted by KT | 2006-06-27 17:59
Re:ドイツでの失敗から学ぶために
>惜しまない。さん
確かにドイツはどんどんいいサッカーをするようになって、そのサッカーも魅力的に映っていますよ。
ただ、ロシアサッカーというのは、僕にはあまり馴染みがないですね。
端的にどんな特徴があるのでしょうか。
>YamaMoriさん
「功名が辻」ですね(笑)。
例えば亀田三兄弟は、YamaMoriさんのいう「表現」のまさに好例ですね。
高原にも試合後にハウンドドッグを唄うくらいになってもらいたいですね。
>KTさん
「日本人というだけでなんとくなく伝わること」という視点はとても面白いと思います。
社会が変わって、その「なんとなく」が伝わらなくなってきたように、サッカー界も「なんとなく」が伝わらないような何かしらの変化が起きたのでしょうかね。
もう少し考えてみたいと思います。
posted by フニート | 2006-06-27 22:08
Re:ドイツでの失敗から学ぶために
「自由」という概念は、前提があってのものなんだと思いますよ。つまり、「価値観」という明文化も形式知にもならない意識が共有されていることが前提になる。
現代の日本はその「価値」教育が殆どなされていない。故に“自由=放蕩・勝手”になってしまうのではないでしょうか。
ただね、私自身は仮に中田がチームの中で浮いた存在になっているとの報道が客観的に正しいとした場合、それは中田自身が西欧的な論理優先、合理主義的な感覚に傾倒し過ぎて、曖昧さや不合理なものを敢えて残す日本的なものを嫌ったということもあるように思いますね。
で、個人的には西洋合理主義というのは限界がある、『不合理ゆえに我信ず』ということが指摘されるわけです。その点では意外に中田のような“世界を知った”者が、自身を日本的なるものに置くか、内なる日本的なるものを捨て去ろうとするのか、で葛藤があるはずだと思います。彼はZICOのようなポルトガル語圏の人間ではないのですから・・・。
また、これは難しい判断だけれども、日本人選手が仮に欧米選手同様に、リアリストと化して同じようなプレーをしたとすると、それはもう我々一般の日本人からみれば『日本代表』ではない!という気がするのです。
つまり、そんなチームは日本代表でなくてもよくて欧州やメキシコのような代替の効くチームになる。
我々は自分がありのままの日本人として、またその代表チームが世界で躍動することを望んでいるのではないか?
そう思えるのですが、如何でしょうか。
長文になり失礼しました。
posted by bull+ | 2006-06-29 01:23


