2008年03月25日
昨年、一人の優秀なメイドインジャパンが海を渡った。かねてよりの希望であったメジャーリーグ移籍を実現させたのは、松坂大輔である。メジャーの名門レッドソックスが、「平成の怪物」獲得に投じた資金はおよそ1億ドル。「自分をルーキーだとは思わない」とする松坂の実績に基づいた評価であったが、メジャー1年目であることに変わりはない。1億ドル右腕は、メジャーの壁に次々と遭遇する。
環境の違いは、松坂を大いに悩ませた。アメリカのマウンドは傾斜がきつく、粘土質で固い。投球の際にステップした前足が止まり、体重が乗らず、フォームに躍動感がなくなる。その姿は時に、突っ立ったまま投げているかのようにさえ見えた。また、固いマウンドは、下半身への負荷を強くする。それゆえ、松坂自身が無意識のうちに、体にセーブをかけてしまう。メジャー特有のボールにも戸惑った。表面が滑るボールはコントロールしづらく、縫い目の高さの違いが変化球に影響を与えたのである。他にも、ストライクゾーンや審判の違い、中4日中心の登板など、挙げればきりがない。
同時に、ライオンズ時代に経験したジレンマが、またもや松坂の前に立ちふさがる。投手としての高みを徹底的に追求したい自分と、そこまでしなくとも結果が残せてしまう現実。常に優勝を争うチームでは、いや応なく自己犠牲を強いられる。松坂の心は、自己の向上心と、チームへの責任感の間で揺れ動いた。その葛藤が、ユニフォームを変えることで、再び表面に顔を出したのである。
序盤、松坂は、試行錯誤しながらも、順調に勝ち星を積み重ねた。だが、内容が伴わない。幼い頃より「世界一のピッチャーになる」と公言していた松坂には、到底納得のいくものではなかったのだ。そこで、変える必要を感じ、首脳陣に進言したのは日本流の調整法。すなわち、十分な走りこみである。それまでは、「疲労が残る」ことを理由に、許可されなかった。当初は、郷に入っては郷に従えを実践し、他の先発投手と同じメニューもこなした。その中で、一応の結果も残していたのだから、調整法を変えるというのは、松坂の向上心がそうさせるのだろう。
直後から、徐々に投球は安定感を増す。結局、松坂は15勝12敗、防御率4.40の成績を残した。安定は、最後まで続かず、周囲も本人も納得できない数字である。それでも、32試合に先発し、204回3分の2イニングスに投げ、201の三振を奪った。これらはいずれもチーム最多である。日本のプロ野球で8年間鳴らしてきた、本格派先発投手としての矜持は保てたのではないか。
忘れられない1球がある。7年ぶりの再会。イチローへの初球だ。お互い楽しみにしていたその瞬間、松坂が投じたのはカーブだった。その選択に、イチローは失望し、松坂は後悔する。
「あの瞬間は、もう二度と訪れない」
レッドソックスは、松坂が生まれ育った東京で開幕シリーズを迎える。松坂は、その初戦での先発を任された。二度とは訪れないであろうこの機会に、今度は後悔のない投球ができるだろうか。
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2008年01月08日
「センサーがついている」
高橋由伸のバッティングをそう評したのは、監督として4年間、そのバッティングを見守り続けた長嶋茂雄である。
東京六大学リーグの本塁打記録を塗り替え、鳴り物入りで入団した高橋は、活躍の舞台をプロに移しても格別の打撃センスを発揮する。
2年目には、故障離脱するまでに三冠王を狙える位置につけ、一度当たりだしたら止まらないそのバットに多くのファンが夢を見た。
プロ入りわずかの期間で、高橋の有り余る才能には「三冠王」や「トリプルスリー」の期待がかけられるようになる。
順風満帆に進むかと思われたプロ野球生活。だが、高橋はプロで初めて壁を実感することになる。
幼少より能力がずば抜け、大学でも「野球で悩むことがなかった」と言う高橋のバッティングは奔放そのものだった。プロ入り後も、清原和博や松井秀喜といった兄貴分の恩恵に預かり、自由なバッティングを貫く。
しかし、松井はチームを去り、清原は故障を抱える。生え抜きで、主軸を打つ高橋への負担はとたんに増した。より確実にランナーを還さなければならない立場から、迷いが生じたのである。「バッターは、あれこれ考え過ぎない方が結果が出たりするもの」とは工藤公康の弁であるが、身体の感覚によることが多い高橋のバッティングにとって、この言葉は重みを増す。
また、怪我にも悩まされ続けた。高橋は、守ってもプロ入り後6年連続でゴールデングラブ賞を獲得するが、皮肉にもその懸命なプレーが故障につながっていく。故障は成績とパフォーマンスの停滞を招き、00年、01年の全試合出場を最後に、高橋は毎年チームを離脱する選手になる。
責任感が持ち前の積極性に水を注し、怪我は高橋から自由を奪った。
それでもそれなりの成績を残してしまえるところが、高橋の「天才」たるゆえんなのではあるが、周囲はそれで満足しない。
輝きは、次第に薄れていく。
高橋のプロ野球人生は、周りからの期待と現実の間に生じたギャップとの戦いである。
入団当時の高橋は三男坊的な存在であった。長男が清原ならば、次男は松井である。
高橋は二人の影を追い続けた。正確には、追い続けさせられたのである。
兄弟で最も才能に恵まれた高橋は、常に「もっとできるだろう」の視線にさらされた。
迷宮に入り込んだ高橋は、本気で野球に取り組む。試行錯誤は続き、シーズン中であっても、バッティングフォームのマイナーチェンジを何度も試みた。
「どれか一つで1番になるより、全てで2番がいい」
自らのプレーの理想をこう語った高橋は、その理由を「自分を見失わないと思うから」と話した。自分が清原や松井とは違うことを知っていたのだ。しかし、周囲は要求する。
数年前、開幕前に「今年は何かタイトルが欲しい」と語ったことがあった。周りを納得させるには、それしかないと思ったのではないか。
プロ入り10年目を迎えた07シーズン、高橋は復調する。
開幕前には、これまでとは違う「トップバッター」の役割を任されることに戸惑いを覚えた。だが、原監督の「打撃は変えなくていい」の一言をきっかけに、本来の自分の姿を取り戻す。新しいポジションへの配置転換に、余計なことは考えず、来た球に集中することができた。
積極的なスイングは、電光石火の速さでスコアボードに「1」の数字をともし続け、初回先頭打者本塁打記録を更新する。初球打ちの年間打率は.441で11本塁打を叩き出した。カウント2-3からの四球も36個と、半数以上をこのカウントから稼ぎ、しっかり選球できていたことがうかがえる。
タイトル獲得こそならなかったが、以前語った理想のように、ほぼ全ての打撃成績でリーグ上位の数字をマークした。
それは、かつての高橋に期待された姿ではなかったのかもしれない。だが、高橋は高橋なりの方法で自らの存在感を示した。
天才は、蘇ったのである。
●参考資料→Sports Graphic Number 571
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2007年11月20日
「ドラゴンズさんに感謝しています。本当にありがとうございました」
日本シリーズMVPを獲得した中日ドラゴンズの中村紀洋は、ヒーローインタビューで感謝の気持ちを言葉にし、感極まった。両ほおを伝う涙には、様々な思いが込められていたに違いない。
00年、中村は自身初となる本塁打と打点のタイトルを獲得する。同年にはシドニー五輪に出場。長らく優勝争いとは縁のないチームでプレーしてきた中村は、「野球って勝つためにするもんやったなあ」と、勝つことの重要性を感じ、それを所属チームに注入。翌年、「何かが起こる」と口癖のように言い続け、三冠王すら狙える勢いで打ち続けた。MVPや本塁打のタイトルこそ相棒のタフィ・ローズに譲ったが、前年に引き続き打点王を獲得。バファローズにとっての悲願である日本一こそ達成ならずも、チームを12年ぶりのリーグ優勝に導く。
豪快なスイングのみならず、守ってはゴールデングラブ賞の常連であり強肩。個性的な風貌もあって、「ノリダー」や「浪速のマグワイア」として親しまれ、その人気は大阪のみならず、全国区となる。
そんな「ノリ・ブランド」の凋落は、いつ頃からだっただろうか。
02年、中村はフリー・エージェントの権利を取得。「中村紀洋というブランドを、近鉄で終わらせていいのか」と悩んだ末に権利を宣言する。キャリアのピーク真っ只中にあった中村には、国内外から好条件でのオファーが殺到した。一時は、ニューヨーク・メッツとの契約に合意したと報じられるも、米メディアに先行して報道されたことに不満を持った中村は、当時の梨田昌孝監督に慰留され、バファローズ残留を決意する。
「義」を重んじる中村らしいとも言える一連の騒動ではあったが、一部では「中村は勝手だ」との声も挙がった。
心機一転、新たな気持ちでバファローズ初の日本一を目指したが、04年には球団自体の存続が危ぶまれる状況に直面する。バファローズとブルーウェーブの合併構想が、現実味を帯びてきたのだ。フロント主導の唐突な話に、プロ野球選手会は猛反発。合併反対の署名活動には、炎天下、ユニフォーム姿で参加する中村の姿もあった。
所属球団の吸収合併が決まり、同シーズンオフにはポスティング制度によるメジャーリーグ球団への移籍を希望する。ロサンゼルス・ドジャースとのマイナー契約を結んだ中村だったが、結果は残せどメジャーからは声がかからない。結果を出していないプロスペクトが、優先的にメジャー昇格を果たす日々に「アメリカは実力勝負の世界じゃなかったのか」とさえ感じた。
05年、中村は一年間の米球界挑戦を経て、合併球団の監督に就任した仰木監督の懇願に応える形で日本球界復帰を果たす。仰木彬は、中村のバファローズ入団時の指揮官である。元々、行き場を失ったと感じての米球界挑戦なのだから、しかるべき人物に必要とされれば、意気に感じるのも当然であった。
下位低迷にあえぐ球団の目玉として期待された中村だったが、復帰1年目は故障に泣かされ続けた。オフの契約交渉の席では、公傷についての意見の食い違いから球団と対立する。
「野球選手は100%のプレーを見てほしいわけですよね。怪我を恐れてプレーするのはファンに対して失礼でしょ。だったら球団にも選手が全力を出しきれる環境を保証してほしいんですよ」
これもまた中村らしい言葉ではあるが、メディアが率先して報道したのは中村の「真意」ではなく、中村が球団の提示した金額をのまなかったという「事実」だった。
悪者のレッテルを貼られながら、中村はバファローズを退団する。
キャンプのシーズンを迎えても、自由契約の身となった中村は、国内球団のオファーを待ち続けながら一人黙々と自主トレーニングに励む。当時の心境を「ほとんどあきらめていた」と話す中村だったが、捨てる神あれば拾う神あり。「野球がしたいんだろ?」との落合監督の鶴の一声から、ドラゴンズの入団テストを受けることになる。
結果、二軍の試合にのみ出場が可能な育成選手として、年俸400万円で契約。一月後には支配下選手契約を結び、開幕スタメンの座を勝ち取った。その開幕戦では同点に追いつくタイムリーを放ち、存在感を見せつける。
福留の故障離脱以降は3番も任され、「(4番の)ウッズにつなぐことしか考えていない」と、かつて「全打席ホームランを狙っている」とまで言ってのけたホームランバッターとは、まるで別人である。元々、右打ちはうまく、今年は一塁ベースにランナーを置いたときの打率は.328。特筆すべきは、同条件134打数で16三振しかしていない点ではないか。そつのない走塁を掲げるドラゴンズ野球の中で、中村の右打ちは大いに生きた。
一年前には地獄を見た男が、チームを変えて日本一に輝き、充実のシーズンを送った。しかし、満身創痍であることに変わりはない。100メートルほど歩くにも「しゃがんで休まないと無理」なのだそうだ。加えて、選手名鑑に顔も名前も載っていない選手では、他球団のノーマークも否めない。衰えばかりが目立つその体で、来季も今シーズン同様の貢献を果たせるだろうか。
posted by AKIRA |05:07 |
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2007年10月22日
あの落合監督をして、「俺を超える逸材」と言わしめる選手がいる。中日ドラゴンズの背番号8、平田良介だ。
平田の全国デビューは04年春の甲子園。初戦で2ランホームランを含む4打点と活躍を見せる。その活躍以上に目を引いたのが、西武ライオンズのアレックス・カブレラをほうふつとさせる独特の構えだ。バットを立て、一度背中を後方に反るその動作には、多くのプロ野球ファンが「おっ」と思わされたに違いない。
1年後の夏、再び聖地に戻ってきた平田は、1試合で3本のホームランを放ち、球史にその名を残すことになる。
プロ入り1年目の昨年は、右肩のリハビリにその多くを費やしながらも、ウエスタン・リーグで打率.267 3本塁打 23打点の成績を収めた。2年目の今季はプロ入り初安打を放ち、クライマックスシリーズでは全試合「7番センター」でスタメン出場する。将来性はもちろん、俊足堅守を買われての抜擢だろう。
その平田は今シーズン、クライマックスシリーズも含め7本の安打を放っている。内訳を見ると、レフト方向への安打は1本だけで、4本がライト方向への打球だ。
「プロでは自分はホームランバッターじゃない。中距離打者だと思う」
プロ入り後、平田は雑誌のインタビューでこう語っている。その言葉通り、一軍の試合で見た平田の構えは、高校の頃よりコンパクトなものになっていた。プロへの適応は、誰もが通る道である。レベルの高い相手投手や木製バットへの転向。広い名古屋ドームを本拠とすることもあり、一軍定着にはそれが近道だと感じたのだと思う。しばらくあの豪快なスイングは、鳴りを潜めるのだろう。
平田の持ち味は、反対方向への打球が伸びるところにある。だが、引っ張らせても、恐るべき打球の速さから本塁打を生み出すことのできるバッターでもあるのだ。
また、高校の後輩中田は、高校通算本塁打を樹立した際に「平田さんはいつも大事な場面で打っていた。自分も平田さんみたいに重要な場面で打てるようになりたい」と話していた。
守備や走塁には安定を求めてくれたらいい。しかし、打撃に関してはそうもいかない。バッターボックス内での平田には、かつての中村紀のような豪快かつ勝負強いバッティングを期待したくなるのだ。
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2007年09月20日
「成瀬がいなかったらどうなっていたことか」
近頃、チーム関係者やマリーンズファンから、こんな声をよく聞く。
低めに制球されたスライダーとチェンジアップ。何よりも、リリースの位置が見えづらい独特のフォームと、スピンの利いたキレのある速球とのコンビネーションが相手バッターをキリキリ舞いさせる。
今シーズン、ここまでの成績は、防御率1.81で15勝1敗。その勝率たるや.938というから驚異的である。
数字が示すように、成瀬が素晴らしい投手であることに異論はない。だが、出来過ぎの感ある今シーズン、残っている数字だけをうのみにし、その実力を判断するわけにはいかないのである。
今シーズンの成瀬は裏ローテで回っていたこともあり、楽な日程での登板が続いている。登板間隔は長く、チームから「大切に扱われている」という感じで、まだ「チームを引っ張る」という選手ではない。裏ローテであるため、対戦する投手は比較的力が落ち、エースクラスの投手となると、涌井、朝倉、三浦、西口、デイビー、ダルビッシュと一度ずつ投げ合ったに過ぎない。成瀬が打線から大量援護を受けることが多いのは、彼自身のリズムの良さはもちろん、このような事実に起因しているのだ。序盤で大量に得点が入れば、相手打線もひっくり返そうと打撃が荒くなり、それが拙攻を生む。つまり、今シーズンの成瀬の驚異的な成績は、成瀬一人の努力や実力だけで成されたのではないということだ。
とはいえ、接戦時においても、きちんと投げ勝つことができているという事実も見逃せない。一試合平均で4.3得点をあげるのがマリーンズ打線。平均7.2イニングを消化する成瀬の登板時平均得点が4.1とあれば、相対的に見ると「やや援護に恵まれている」といったところ。
大量得点か接戦か。両極端な状況が続く中、いつも変わらずマイペースで自分の投球を続けることができる。そこに投手・成瀬の精神力の強さを感じるのだ。登板機会があれば、クライマックス・シリーズという大舞台でも、その精神力の強さは発揮されるのではないだろうか。
今後、成瀬が「エース」と呼ばれる存在となるためには、「実績を残して絶対の信頼を得られてこそ」と本人が語るように、実績を築き続けること。そして、相手エースとぶつかり合い、そこで結果を残すことである。そのためにはまず、実績十分の先輩方を超えなくてはならない。
今年、チームの先輩である小林宏之は、シーズン前に「開幕投手を狙う」と言ってのけた。近い将来、成瀬が開幕投手の権利を奪い、同年代の日本ハム・ダルビッシュや西武・涌井らと開幕投手として投げ合う姿は見られるか。
posted by AKIRA |06:12 |
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