2007年01月31日

武豊が発した言葉の意味を、今1度。

夕方のスポーツニュースを見ていると、ある1頭の競走馬の特集が組まれていた。エリザベスクィーンという名を持つその馬は目下113連敗中と連敗街道を突き進み、昨日のレースで3着に敗れたことで114連敗となったとのことだ。

なぜこの馬が今回スポーツニュースで特集されるほどに注目を集めたのだろうか?これは、言うまでもなく以前高知競馬に所属していたあの馬の騒動が起因している。

ハルウララ──当時人気が低迷していた高知競馬の救世主として突如スポットライトを浴び、ハルウララ絡みの馬券を買っても「当たらない」ことから、ハルウララのたてがみを交通安全のお守りとするファンが急増。それに付随してグッズの売上、入場者数は増加の一途を辿り、全国津々浦々からハルウララ見たさに高知競馬場まで人々が足を運んだ。さらにあの武豊までもが騎乗し、ハルウララを題材にした映画が作られるほどの一大ブームを湧き起こした。

ハルウララの人気のパロメーター、それは語弊を恐れずに言うと「負けること」である。負けても負けても諦めない、という触れ込みなのだからこれは当然と言えば当然だろう。そして負けに負けを重ねたハルウララが持っていた連敗記録が113敗だった。つまり、昨日の敗戦によってエリザベスクィーンはハルウララの持つ記録を破ったわけだ。注目が集まるのも無理は無いだろう。

ただ、私はそのニュースを目にした時、武豊がハルウララの騎乗を終えた際に公式サイトで出したコメントがフッと頭に浮かんた。曰く、「生涯で一度も勝ったことがない馬が、G1レースを勝った馬達よりも注目を集める対象になるというのはどうにも理解し難いものがあります」ちなみに、この日は高知競馬唯一の交流重量である黒潮賞が開催され、武豊はフェブラリーSを制したノボトゥルーに騎乗していた。それでも、あくまで世間の注目はハルウララであり、G1馬の出走する黒潮賞は実質準メインという扱いになっていた。どう考えても矛盾しているとしか言いようがない。

そして今回、その歴史が繰り返されようとしている。エリザベスクィーンの存在をマスコミが取り上げたのか、それとも小牧、岩田といったトップジョッキーの中央移籍により人気が低迷している園田競馬側からマスコミへのPRの要望があったのかは定かではないが、確実に言える事として、ハルウララ騒動の良い部分だけを見るがあまり、その騒動の中にあった裏の面を何1つ見ていないということが今回の報道から窺い知れた。

ここでハルウララ騒動時に起こった裏の面を1つ1つ振り返ってみよう。馬主交代時に前馬主から現馬主が無償譲渡を受け、その直後に「ハルウララ」を商標出願登録したことから営利目的ではないかという批難が巻き起こったことに始まり、ハルウララの移送を巡る調教師、馬主間での綱引き、ハルウララ基金における高齢馬保護という観点の欠如・・・本当に様々な暗い影を落とした。

今回はハルウララ騒動の時と比べればそれほど大きな騒動にはならないだろうとは思うが、何があるか分からないのもまた事実である。何しろ、半官贔屓という言葉に託けて、100戦以上して未勝利の馬に「負け組の星」「負けても負けても諦めない」といった美辞麗句を並べたて、勝ち馬やG1馬の存在をないがしろにしてしまった「前科」があるのだから。

posted by 犬太 |20:50 | 競馬コラム | コメント(3) | トラックバック(0)
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2007年01月30日

Jクラブ総括2006~京都パープルサンガ(京都サンガF.C.)編~

確かにJ2ではぶっちぎりの戦績で優勝した。前年度の川崎フロンターレが同じようにJ2をぶっちぎりで優勝し、ほぼ現有勢力の状態でJ1の舞台に挑み8位という好成績を残したことも良い物差しになっていた。

だが、すべては最下位というシーズン終了時の結果が物語っていた。J2で圧倒的な破壊力を見せていた攻撃力は鳴りを潜め、得点数はJ1ワースト2位。J2最小失点が示すように堅守を誇った守備は崩壊し、失点数74はワースト1位。結局のところ、J1では自分達のサッカーが通用しなかった。

そもそも、自分達のサッカーが出来たかという時点でまず疑わしい。組織的なサイドアタックで相手の守備を崩していく攻撃スタイルはいつしかパウリーニョ頼みとなり、J2最小失点という自信を持って臨んだ守備は完全に崩壊し、浦和、川崎、ガンバといった上位陣にとっては恰好の得失点差稼ぎのクラブになってしまった。

1年でJ2降格の辛酸を舐めた原因はこれだけにとどまらない。結果論ではあるが、開幕時に京都と同じように不振に喘いでいた広島、磐田は監督交代という手段を講じ、その後戦績を上昇させた。一方京都は監督交代という手段をせず、1シーズンすべてを委ねようという柱谷監督への信頼を示したかのように思えたが、残り9節を残した時点で柱谷監督を解任。当然ながらこの監督交代劇には疑問が残り、新たに監督に就任した美濃部監督も守備面ではある程度の成果を残したものの、たった2ヶ月という短い期間ではチームに劇的な変化を与えることが出来ず、柱谷、美濃部両氏にとって気の毒な結果となった。

昨シーズン、京都は監督に補強の全権を与えていたが、結局のところ、監督交代という手段に講じなかったことや現場に全権を委ねたことも含めてフロントにJ2降格の責任の一端があったことは間違いない。これは福岡、セレッソにも言えることだが、フロントに問題のあるクラブはコンスタントに良い結果を残せていない。そういった意味では、J1最下位はともかく、降格については至極全うであったと言えるだろう。

かくして3度目のJ2降格を味わってしまった訳だが、今後京都に求められることとして、地元との密着がある。昨シーズン大躍進を遂げた川崎にしても降格候補筆頭と言われながらもJ1残留を果たした甲府にしても地元との密着を深め、ホームでの圧倒的なサポートを得ることによって着実に勝ち点を稼いでいった。さらに付け足すと、前述の2クラブのフロントがしっかりしていることは言うまでもないだろう。

そして当然のことながらフロントの改革も求められる訳だが、これについては既に改革が始まっているようだ。加藤久氏を幹部として迎え入れることに始まり、現場の全権を監督に一任したことで失敗してしまった昨季の反省から、フロント各間で連携を図り、補強、育成といった重要な事柄を1人の人物に一任しない合議制を採用。クラブとしても、パウリーニョ、アンドレ、斉藤といった主力を残留させ、森岡、秋田、倉貫といった計算のできる選手を獲得した。

大量の主力が流出し、1からのクラブ作りを余儀なくされたセレッソに比べると京都を取り巻く環境はまだ恵まれていると言える。1年でのJ1復帰も決して不可能なことではないだろう。しかし、ただJ1に上がるだけでは何も意味も無い。揺るぎないコンセプトに基づいた補強や選手育成を推し進めない限り、同じ過ちを繰り返してしまうだろう。幸いにしてというか、京都にはスカラーアスリートプロジェクト制度や昨年11月に完成したばかりの寮など、選手を育てる環境面においては申し分無い物を持っている。今後は充実していくハード面の中からどれだけ優秀な人材が育ってくるか、J1に定着できるクラブになるためにはそこが重要になってくるだろう。

posted by 犬太 |21:21 | Jクラブ総括2006 | コメント(0) | トラックバック(0)
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2007年01月28日

脱「和製」、求められるオリジナリティ。

「和製ロナウド」「和製クライファート」「和製アンリ」・・・これはサッカー界に限ったことではないが、日本には外見やプレイスタイルが有名選手に酷似している若手選手が出現すると、多くの場合「和製○○」というような表現を用いる。

そもそも「和製」とは一体どんなものを差すのだろうか。手始めとして「和製」という言葉を辞書で調べてみると「日本でできたもの。日本製。国産。」というような説明があり、例文には「和製プレスリー」と出ている。ちなみに和製プレスリーとは佐々木功のことであり、宇宙戦艦ヤマトを歌っている人だ。つまり、この「和製」という表現は、辞書に載っているからには国家が認めた言葉ということになる。

ただ、個人的にこの「和製○○」という表現は何だかしっくり来ない。もっと言ってしまえば「和製○○」という表現に対して一種の嫌悪感すら覚えてしまう。そもそも「和製○○」という表現で取り上げられることが本人にとって何のメリットになるのだろうか?選手は「和製○○」という括りで見られることによって、嫌でもその選手を意識することだろう。もちろんその選手が自身の目標とする選手であり、比較されることに喜びを感じる場合もあるだろうが、大抵のケースでは比較されてしまうことによる過度な期待とプレッシャーに押し潰され、最終的には「自分らしさ」を失ってしまう。実際、前述の「和製ロナウド」矢野隼人や「和製クライファート」阿部祐大朗はJの舞台から姿を消している。

そこで求められてくるのが、オリジナリティの確立である。「和製○○」などと言った枠組みにとらわれず、そんな陳腐な比較論すら浮かばない。釜本やカズ、中田英のような「唯一にして無二」であり、彼らにしかない独特のオーラを放つ選手こそが、今後必要となってくる。今後彼らの後継者と囃し立てられる選手がもしかしたら出現するかもしれないが、少なくとも彼らが出現した時に「和製○○」や「○○の再来」といった表現は使われなかったはずだ。彼らはその時既にそれぞれ「釜本」「カズ」「中田英」というオリジナルを完成させていたのだ。

現在の若手選手では、ガンバ大阪の西野監督が家長のことを「和製メッシ」と表し、FC東京の原監督は梶山のことを「和製バレロン」もしくは「和製ジダン」とまで評した。彼らがそれだけのポテンシャルを秘めていることから「和製」という表現を用いたのだろうが、個人的には「和製」と付いただけで何だかスケールダウンしたように感じてしまう。要は、それぞれ「家長」「梶山」というオリジナリティを確立すればいいだけのことだ。

「和製○○」と呼ぶような傾向は、選手が意識しているというよりも、むしろマスコミや監督、コーチなどが意識しているように見受けられる。それゆえ、比較された選手のプレーを手本として見るのではなく「模倣」として見るようになってしまうケースがある。そしてそれがその選手のオリジナリティを結果的に狭めてしまう。マスコミ、そして監督・コーチには「和製○○」という陳腐な表現を用いるのではなく、一選手としてのオリジナリティを最大限尊重した表現をしてもらいたいものである。そして、選手にも「和製○○」と呼ばせないほどのオリジナリティを確立していってもらいたいものである。

posted by 犬太 |22:01 | 徒然なるままのコラム | コメント(14) | トラックバック(0)
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2007年01月27日

森島寛晃~セレッソ大阪の歴史=森島寛晃の歴史。~

マリオ・ザガロという人物を知っているだろうか?選手としてはもちろんのこと、指導者としても名を馳せ、史上初となる選手・監督両方でのワールドカップ制覇を成し遂げた人物である(後にベッケンバウアーもこの記録を達成)。そんなザガロに「日本人でブラジルで通用するのは彼だけだ」とまで言わしめた日本人がいる。

あのザガロにそこまで言わしめた選手、その名を森島寛晃という。当時日本には前園真聖、中田英寿など後に海外クラブからオファーを受けるほどの選手がいたにもかかわらず、ザガロはブラジルで通用する日本人選手として森島の名前を挙げた。

ブラジルで通用すると言われた森島の魅力を改めて紐解いていくと、そのキーワードとして必ず浮かび上がってくるのが、無尽蔵とも形容される驚異的な運動量だろう。そしてその運動量を活かして前線を縦横無尽に駆け回り、2列目からの鋭い飛び出しでゴールを奪うという、いわゆるシャドーストライカーとしての役割を果たす。だが、その運動量が発揮される場面は攻撃のみにとどまらない。ピンチの時には自陣まで戻ってディフェンスをすることもあり、好守両面に渡ってチームを支えている。

当然そのような選手を歴代の代表監督が放っておく訳も無く、1998年、2002年の両ワールドカップのメンバーに選出された。そして2002年・日韓ワールドカップ時には自身のホームとも言える長居で行なわれたチュニジア戦で貴重な先制ゴールを決めて見せた。

上記の評価、経歴だけを見ると、森島のサッカー生活に1点の曇りもないように思える。だが、そんな森島がどうしても成し遂げられないことが1つある。それが、セレッソ大阪でのタイトル獲得である。当時まだ19歳だった我那覇和樹の活躍もあって土壇場で優勝を逃した2000年1stステージや、まだ記憶に新しい2005年のロスタイムでの悲劇など、あと一歩の所で優勝を逃している。そして皮肉にも2001年に続いて2006年も優勝争いを演じた翌年のシーズンでJ2降格という憂き目に遭った。

J2での戦いを余儀なくされた2007年のセレッソ大阪。やはりとでも言うべきか、西澤、大久保など多くの主力選手がセレッソに別れを告げ、他クラブで新しいシーズンを迎えることとなった。同時にそれは、彼らが背負ってきた背番号が空いたことを示し、その背番号の歴史に1つの終焉を迎えたことを意味していた。

そんな中にあって、今年もこの背番号だけは動くことが無かった。動こうという意思すらなかったその背番号の数字は「8」だった。その数字が森島以外の選手の手に渡るとき、それは森島が選手生活にピリオドを打つ時なのかもしれない。

posted by 犬太 |18:17 | Jリーグプレイヤーズコラム | コメント(2) | トラックバック(0)
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2007年01月26日

まな板の上に載ったことに、意味がある。

ディープインパクト引退後も、競馬界の話題の中心はディープインパクトだった。「ディープ、北海道へ出発」、「JRA賞授賞式、ディープ関係者喜びの声」、「ディープの全弟、オンファイアが引退」・・・ディープが競馬という存在を世間に大きく知らしめ、2年に渡って国民の関心を惹き続けたスターホースであることに疑う余地は無い。それに関して異論はほとんどないだろう。

ただ、いつまでも競馬界がディープにおんぶにだっこという訳にはいかない。ファンサービスといってしまえばそれまでだが、2月に行なわれる予定のディープ撮影会などは生産者にとって最も神経を使う時期である種付け・出産を目前に控えている時期でもあり、そのイベントに対する疑問を禁じえない。それでなくても、夏になれば牧場見学が可能になるのに、である。ディープはもう2度とターフに帰ってこない。いつまでもディープ人気のおこぼれを頂戴していてはいけない。過去を振り返ってばかりでは、前へ進めないのだ。

そんな中にあって、画期的なニュースが飛び込んできた。東京競馬場の新スタンド完成イベントとして、JRAが引退したダービー優勝騎手による「レジェンドレース」を企画しているというのだ。すでにオーストラリアではこのレースが施行されており、過去日本からは佐々木竹見、河内洋が参戦している。

これは、競馬ファンからしてみれば「久しぶり」といっても良いぐらいの素晴らしい試みではないだろうか。過去、名馬を冠にした名馬メモリアルレースが行なわれた時はオールドファンをノスタルジックな気分へと誘った。もし今回の試みが実現されるとすれば河内調教師や岡部幸雄氏、大西直宏氏など若い競馬ファンにとっても馴染み深い名前が揃い踏みする可能性があるだけに、オールドファンのみならずともレジェンドレースに対する期待感、ワクワク感が否が応にも湧いてくる。

「案はまな板の上には載っているが、実際に乗れる人が何人いるのかなどクリアすべき問題は少なくない。ご協力が必要です」と住吉道紀東京競馬場長は語るが、岩元、加藤、河内、根本など各調教師は皆口を揃えて協力したいという旨の発言をしている。特に1987年、メリーナイスでダービーを制した根本調教師は当日の段取りについても意見を述べるなど、やる気を見せている。

過去のダービージョッキー騎手を集め、レースを行なうという案に賛同していることに、冒頭で述べた過去を振り返ってばかりはいられないという意見との矛盾を感じるかもしれない。だが、その試みに過去を振り返る要素は1つもない。なぜなら、長い日本競馬の歴史を振り返ってみても、ダービージョッキーが一同に会してレースを行なった例は過去に前例が無いからだ。JRAは今、新企画を打ち出し、実現への第一歩を踏み出したことでより前へと進もうとしている。今回のJRAの試み、是非とも実現させてもらいたいものだ。


posted by 犬太 |20:48 | 競馬コラム | コメント(0) | トラックバック(1)
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2007年01月23日

Jクラブ総括2006~アルビレックス新潟編~

「保守と革新」2006年、新潟はこの2つの間で板ばさみに遭った。

新潟の「保守」それはJ1昇格元年から2005年に至るまで、反町監督が完成させたカウンターをベースにしたリアクションサッカーだ。リスクを犯して攻めるより、守備を固めてブラジル人3トップで手数をかけずに点を奪う。この戦術に対する是非はあるだろうが、J1に昇格して僅か2年、毎年降格の可能性がチラつくクラブであるだけに、J1に定着することを念頭に置き、そこから導き出した答えが前述のスタイルだったのだろう。その結果が、2年連続でのJ1残留という形となった。

J1で戦っていく為の術は身につけた。だが、それはあくまで「残留」という最低限の、厳しい言い方をすれば低い目標での術である。では、もうワンランク上のチームを作るためにはどうすればいいだろうか。

そこで導き出した答えが「革新」、つまり従来のリアクションサッカーから脱し、自らが主体となって攻撃を仕掛けるアクションサッカーへの転身である。そしてその「改革者」として以前モンテディオ山形でポゼッションサッカーを築いた鈴木淳を招聘した。鈴木は新潟の良い部分=鋭いカウンターという武器を保持しながら少しずつつなぎに対する意識付けをしていくことを試み、クラブをさらなる高みへ持っていこうとした。

その結果は、14位だった。2005年シーズンよりも2つ順位を落とした恰好となってしまった。

順位を落とした要因としては、守備の崩壊が挙げられるだろう。失点数65はFC東京と並んでJ1ワースト3位タイ。川崎戦での6失点、磐田戦での7失点に代表されるように1度守備が崩れると立て直すことが出来ず、立て続けに得点を許す場面が目立った。

ただ、失点数の増加にはもう1つの要因がある。ポゼッションサッカーを志向する上で必要不可欠な中盤でのつなぎの部分でボールを失うことが多く、そこからカウンターを食らい、得点されてしまっていたことだ。つまり、新しいスタイルへと変貌を遂げようとしたことが皮肉にも失点数の増加という形となってしまったた訳だ。

では、2006年は新潟にとって何の進歩もなく、順位が示すように後退した年だったのだろうか。

その答えは、個々にスポットを当てると読み解けてくる。2005年までの新潟は、ブラジル人の得点力に頼りがちだったが、2006年から右サイドで起用されるようになった鈴木慎は前シーズンの倍以上となる9得点を挙げ、柏レイソルから移籍してきたFW矢野は移籍1年目からレギュラーに定着し6得点を挙げた。北野、千葉、中野、田中亜といった若手もそれぞれ時期は違えどレギュラーに定着するまでに至り、個々の能力の底上げという観点で見ると、大きな成長を実感したシーズンだったと言える。

そしてオフシーズンに突入すると、12人に戦力外通告を出すという行動に出たことで一抹の不安を感じさせたが、人材不足だった前線、サイド、ボランチに深井、ディビットソン純マーカス、坂本といった実力者をピンポイントで補強し、さらには怪我人が相次いだCBの層を厚くすべく千代反田を獲得。オフシーズンに行なうべき動きとしては理想的だったと言えよう。

2006年、新潟は「革新」に乗り出し、その結果として前年よりも順位を落とした。しかし、この革新を1年で判断するのは早計だろう。痛み無き改革は存在しない。2006年シーズンに新潟が味わった痛みをどのような形で2007年シーズンに還元できるのか、新潟の挑戦はまだ始まったばかりだ。

posted by 犬太 |21:01 | Jクラブ総括2006 | コメント(4) | トラックバック(0)
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2007年01月22日

河合竜二~トライアウト組の星、今なお発展途上。~

サッカー選手に限らず、スポーツの世界の選手入れ替えのサイクルは速い。Jリーグでの出場機会を得ることが出来なければ高卒なら3~4年、大卒なら1~2年で解雇通告を受け、路頭に迷うこととなる。それはベテラン選手もまた然りである。給料と成長度合いのバランスを考えると、1人で新人選手3人分の年俸を抱えている選手よりも成長の可能性を見込んで新人選手を獲得し、ベテラン選手を切ることはある種仕方のないことである。

Jリーグでは、年間100人を優に超える選手がプロサッカー選手としての職を失う。トライアウトで各クラブの御眼鏡に叶う選手はそう多くはなく、半分以上がサッカー界から足を洗い、セカンドキャリアを歩んで行くこととなる。

その中でJリーグ初となるトライアウトを受け、後に「トライアウトの星」とまで呼ばれた選手がいる。その選手の名を、河合竜二という。

高校時代に高校総体準優勝を果たすなど順風満帆なキャリアを歩み、1997年、浦和レッズに入団した。入団以降3年間試合に出ることが出来ずにいたがクラブがJ2に降格した2000年、ついにJ初出場を果たし、その年は13試合に出場した。年齢的にもまだ若かったこともあり、今後さらに出場機会を延ばしていくものと思われた。

だが、現実は辛いものだった。2001年は僅か1試合の出場に終わり、ワールドカップイヤーの2002には1試合も出場することが出来ずにシーズンを終えた。程なくして、クラブは河合に「ゼロ円提示」を突きつけた。すなわちそれは、解雇を意味していた。

これで河合のプロサッカー選手としてのキャリアは潰えたに思えた。だが、この年から行なわれることとなった「合同トライアウト」が、河合のプロサッカー選手としてのキャリアを引き伸ばした。トライアウトを経て横浜F.マリノスとの契約を勝ち取ると、チームのディフェンスの要・松田の体調不良などもあり、入団した年の2ndステージから出場機会を得るようになり、松田不在の影響を全く感じさせないパフォーマンスを見せ、マリノス完全優勝の立役者となった。

河合のプロ生活最大のハイライトとなったのは、2004年シーズンだろう。出場試合こそ前年を下回ったものの、ACLやJリーグ・チャンピオンシップなど重要な局面で貴重なゴールを叩き込み、2年連続となるJリーグ制覇に大きく貢献した。特に古巣・浦和を相手にしたチャンピオンシップでは2試合にフル出場し、彼の存在を大きく知らしめた。

そして2006年、センターバックからボランチへコンバートされ、自己最多となる25試合に出場した。特に水沼監督就任以降、中盤で体を張ったディフェンスが出来るボランチとして重宝された。センターバックからボランチまで高水準でこなせるようになったことで、今後河合の存在価値が落ちることはないだろう。28歳となった今もなお、河合は進化を続けている。

1度は失いかけたプロサッカー選手という職業。だが、彼は諦めなかった。もちろんそれはトライアウトを経て今もなお現役を続ける選手全員にも言えることだ。その諦めない姿勢は、現在の河合のプレーにもきっと活きているはずだ。

posted by 犬太 |01:21 | Jリーグプレイヤーズコラム | コメント(4) | トラックバック(0)
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2007年01月17日

2007年、所属元への「恩返し」を期するレンタル復帰組。

短期間でチームを立て直すためにベテラン選手を「助っ人」として獲得する、出場機会に恵まれない若手が出場機会が見込まれるクラブへ1年ないしは2年以上に渡り在籍することで試合経験を積む──いわゆる「レンタル移籍」と呼ばれる制度を活用することはもはや当たり前となっている。最終的には所属元には戻ってこなかったものの、ベガルタ仙台にレンタル移籍した佐藤寿がそこでブレイクし、日本代表にまで上り詰めたという例もあり、以前にも増してレンタル移籍制度を使用するクラブが増えている。

もちろん、レンタル先に行ったからといって出場機会が100%保障されているわけではない。若手選手の中にはレンタル移籍をネガティブに考える選手もいるかもしれない。だが、全く違う環境の下に放り出されることで、選手としても人間としても一回りも二回りも大きくなることが可能になる。レンタル移籍をポジティブなものとして捉え、より高い成長意欲を持って過ごした選手だけが胸を張って所属元に戻ることができるのだ。

そして2007年も、多くの選手がレンタル先での武者修行を終え、所属元クラブに戻ってきた。ここでは、2007年に保有権を持つクラブに復帰したJ1所属の若手選手に話を限定したい。北から順に追っていくと、大宮は昨年草津の攻撃の中心として君臨し、J2アシスト王にも輝いた島田が復帰した。小林大悟に頼りがちだった攻撃のオプションを増やすという意味でもレフティーでパスだけではなく自ら仕掛けることも出来る島田の復帰が大宮にもたらす効果は大きいだろう。

1年でのJ1昇格を果たした柏には、愛媛で11得点を挙げた菅沼が復帰した。17歳でJリーグデビューを果たし、各年代の代表にも選ばれたようにそのポテンシャルは早くから認められていたが、愛媛で出場機会を得たことで持ち前の高い攻撃性を存分に発揮し、J2というカテゴリーながらも確かな結果を残し、今回復帰の運びとなった。愛媛ではどちらかというと下がり目の位置でプレーしていたが、元々はFWの選手だ。玉田が抜けて以降、日本人ストライカーの育成が急務な柏で玉田を超える活躍を見せることが出来るだろうか。

レンタル移籍は何もJリーグ間に限ったことではない。JFLのロッソ熊本からは、飯倉がマリノスに復帰した。GKというポジション柄、出場機会を得るのは容易なことではないが、榎本達が神戸に移籍したことでチャンスは確実に広がっている。決して大柄ではないが天皇杯・対仙台戦で見せたパフォーマンスが示すように、今後の成長如何では正GKの座をおびやかしうる可能性を秘めていることは確かだ。

2年の間札幌へレンタルされ、3シーズンぶりに磐田への復帰を果たしたのがCBを本職とする加賀だ。元々定評のあった1対1の強さに磨きをかけ、攻撃サッカーを標榜する札幌にあって積極的な攻撃参加を見せ、攻撃的なセンスも身につけた。レギュラー陣の高齢化が進み、次なる人材の育成が求められる磐田においてまだ23歳と若く、サイドもこなせる加賀の存在意義は高いものになるだろう。

最後に、個人的にかなり期待しているのが、愛媛から広島へ復帰することとなった高萩である。以前はひ弱さが目に付いていたが、試合数の多いJ2で44試合に出場し、チームの中心として1年間フル稼働した。さらに11月に行なわれたU-21が出場したアジア大会に選出され、そこでも出場機会を得るなど愛媛で過ごした1年は高萩にとって大きなステップアップになったようだ。ユースの後輩である柏木は既にレギュラーの座を獲得しており、レギュラー獲りを目指す高萩にとって2007年は真価を問われる年になりそうだ。

posted by 犬太 |21:50 | 徒然なるままのコラム | コメント(0) | トラックバック(0)
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2007年01月14日

早稲田大学vs駒沢大学~数字の大小で変わる景色~

1月1日、天皇杯。1月8日、全国高校サッカー選手権。そして本日1月14日、全日本大学サッカー選手権。3週間に渡った国立決戦も残すところ1試合となった。ところが、この全日本大学サッカー選手権、驚くほど注目度が低い。

それを裏付けることとして、天皇杯、全国高校サッカー選手権は共に民放で放送されたにもかかわらず、全日本大学サッカー選手権は民放でライブでは放送されない(深夜には放送される)。古くは井原、中山、名波ら後の日本代表の中心を担う人物を輩出し、最近では坪井、中村憲、巻なども大学で力をつけ、日本代表にまで登り詰めた。大卒プレイヤーが現在に至るまで日本のサッカーを引っ張ってきた存在であるという意味でも、非常に意義のある大会であると言える。

そうはいっても民放で中継されていないのではどうしようもないので、実際に国立へ足を運んでみることにした。注目度もさしてないので、比較的楽に観戦できると思ったからだ。

しかし、その目論見はもろくも崩れ去った。入場者数は1万人を少し超えるくらいだったが、ゴール裏、メインスタンドを開放しておらず、バックスタンドも下段は学校関係者の席でびっしり埋まっていた。それでも上段はまだ席があったので、上段に座ることにした。大々的な告知を行なっていなかったにもかかわらず(行なっていたとしたらそれを私が知らなかっただけだが)これだけの人数がスタジアムに足を運んだことが1つの驚きだった。

大学サッカーについては正直あまり知らなかったので、試合前に配られた「展望」というタイトルの1枚の用紙が非常に役に立った。巻、原、兵藤など既にJのクラブから内定をもらっている選手やワールドユースに出場した選手は知っていたが、良く目を通してみると、前述の3人をはじめ、渡邊、松橋、鈴木など4年前の全国高校選手権決勝・市立船橋vs国見に出場したメンバーが4年の時を経てライバルからチームメイト、チームメイトからライバルへと姿を変えていた。

高校日本一を目指した国立から4年、今度は大学日本一を目指した戦いが始まった。3連覇に挑む駒沢は4-4-2のシステムで菊地がフォアリベロのようなポジションを取り、4バック+1というようなシステムだった。対する早稲田は3-5-2のシステムでボランチの鈴木が低い位置から試合を組み立て、細かいパスをつないで崩していくというスタイルで、ワールドユースの出場経験もあるトップ下の兵藤が攻撃のキーマンになっている。

試合開始から僅か6分、私が背番号と予想スタメンの欄を頼りに選手を探すのに四苦八苦している間に先制点が駒沢に入った。セットプレーからの混戦のこぼれ球が巻の前に転がり、これを巻が押し込んだ。この日は兄であるジェフ千葉の巻誠一郎が来ていたらしいが、決勝という舞台、そして兄の前で今大会自身初となるゴールを決めてみせるあたりは大したものである。

早くも劣勢に立たされてしまった早稲田は得意のパスワークで崩していきたいところだったが、駒沢の前からのプレスにフリーでボールを持つこともままならず、時折見せる鈴木からの鋭いパスやセットプレーが攻撃の拠り所になっていた。また空中戦でほとんどといっていいほど勝つことが出来ず、攻撃のキーマン・兵藤も効果的な役割を果たすことができずにいた。

そんな中、追加点が34分に生まれた。塚本のCKに巻がGKが触る前に飛び込み、頭で今日2得点目となるゴールを決めた。前半を終えて2-0。駒沢にとっては願ってもない展開となった。

ハーフタイム時には青山学院大学のチアリーディングが試合に華を添え、後半の選手入場時には駒沢の応援団が「PRIDE OF KOMAZAWA」の横断幕を掲げた。またこの日の両校の応援スタイルは対照的で、楽器は太鼓のみで男の野太い声が響く駒沢と、手拍子をベースにトランペットも使用し、黄色い声援も入り混じる早稲田の違いもまた試合を構成する要素として興味深いものだった。

エンドが変わった後半、あまりにもあっさりとした形で駒沢に3点目が入った。後半開始から僅か1分、ロングボールを落としたところに前半から左サイドを抜群のスピードでかき回していた田谷が抜け出し左サイドを突破するとファーサイドへクロスを送り、2列目から飛び出してきた小林が頭で合わせた。

3点差をつけられ、優勝の可能性がどんどんと遠のいていった早稲田も意地を見せる。51分、スローイン時に駒沢に生まれた一瞬の隙を突いて兵藤が抜け出すと、中へと切れ込み最後は難しい角度から右足のインサイドでゴールを決めた。その後の時間帯は早稲田が支配し、細かいパスワークから駒沢ゴール近くまで崩すシーンも何度かあった。しかし、フィニッシュまでには至らず、なかなか次の1点が生まれない。刻々と時間は過ぎていき、大榎監督もピッチの外に出たボールを自ら取りに行くなど、一刻も早いプレーの再開を選手に促していた。

早稲田になかなか生まれなかった次の1点は、思わぬ形で駒沢に転がり込んだ。67分、またしてもセットプレーから最後は早稲田のオウンゴールで4-1とし、試合をほぼ決着付けた。駒沢はその後も途中出場の竹内が2得点を挙げ、終わって見れば6-1の圧勝だった。

試合が終わり、続々と観客がスタジアムを後にしていったが、私は寒さに震える足を揺り動かしながらメインスタンドで行なわれる表彰式を見た。

そこで目に留まったのが、誇らしげにカップを掲げ歓喜に酔いしれる駒沢の選手をメインスタンド前列、つまり下から見上げる早稲田の選手の姿だった。さらに表彰式と合わせて発表されたこの試合のポジション別の優秀選手が再び上段に立ち、拳を突き上げるのを尻目に、早稲田から唯一ノミネートされた兵藤がその拳を突き上げることはなかった。そして上段にいた時には兵藤の首に掛けられていた準優勝メダルは、下段に下りてきた時には兵藤の首には掛けられていなかった。

ここまで鮮やかな勝者と敗者のコントラストを見たのは、これが初めてだった。最後に私見を言わせてもらうと、兵藤のプレーが優秀選手に値することは間違いないが、あの場所に立たされた兵藤の気持ちを慮ると、あの表彰式には配慮が欠けていたように思う。両校とも死力を尽くした戦いだっただけに、少し残念だった。

posted by 犬太 |18:45 | 大学サッカー | コメント(2) | トラックバック(2)
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2007年01月13日

Jクラブ総括2006~ジュビロ磐田編~

Jリーグ年間優勝回数3回、Jリーグ年間MVP選出4人。これまで数々の栄光を打ち立ててきたジュビロ磐田の歴史を踏まえると、2006年シーズンの5位という最終順位をどう評価して良いのか、判断に困るところである。

ジェフ千葉から村井、茶野を、ノアシェランからは現在日本代表不動の正GKである川口を補強し、優勝候補に挙げられながらもタイトル奪還に失敗した2005年のリベンジを期して臨んだ2006年だったが、ワールドカップ中断期間までの成績は暫定で11位。早々に優勝争いから脱落してしまった。

その原因として、戦術、システムの一貫性の無さがあったことは間違いないだろう。一貫して3バックだったシステムを浦和戦で突如4バックに変更(対浦和の戦術という側面もあったのだろうが)すると、その試合で惨敗。その後もチームは新しい方向性に順応することが出来なかった。そして、ジュビロ磐田の初タイトルをヘッドコーチとして支え、1年半以上に渡り磐田の指揮を執った山本監督はシーズン途中で辞任してしまった。

その後任としてチームの指揮を執ったのは、磐田でのプレー経験もあったブラジル人監督・アジウソンだった。7年ぶりに古巣へ帰ってきたアジウソンは、早速チームの改革に着手。山本監督時代はポストプレイや前線からの守備など様々な役回りをされていた前田に対し常に点の取れるポジションにいる事を要求すると、日本を代表するボランチである福西のポジションを攻撃的なポジションに上げ、さらに上田、犬塚、船谷といった若手を積極的に起用した。

就任当初は戦術がなかなか浸透せず、安定感に欠ける試合が多かったが、新潟に7-0と圧勝すると、これまで低迷していたチームの成績は右肩上がりに上昇し、川崎、ガンバ、浦和といった上位陣を次々と撃破し、終盤のJリーグの盛り上げに一役買う恰好となった。

後半の快進撃にアジウソン監督の手腕がもたらしたものは大きいが、それ以上に選手個々のパフォーマンスの高さが際立っていた。前田は27試合で15点とエースとして申し分の無い活躍を見せ、ガンバ戦のような試合終了間際の決勝ゴールなど付加価値の高いゴールも目立った。太田は9得点10アシストという素晴らしい成績を残しチームの攻撃の核としての不動の地位を築き、福西は抜群のポジショニングと嗅覚で攻撃的なポジションで新境地を切り開いた。そして前述の若手も期待に違わぬ実力を発揮し、アジウソンによって見出された上田はU-21代表にも選出されるまでに成長した。

このように個々にスポットを当ててみると上々のシーズンだった言えるが、試合運びの上手さ、試合の中でのフレキシブルさといった部分で考えるとまだまだと言わざるを得ない。前半から後半開始直後まで圧倒的に試合を支配し、2-0とリードしながらもPK戦で敗れた天皇杯での浦和戦がその典型である。また自分達のリズムを掴めば格上相手にも勝利を収めることが出来る反面、リズムを掴めないと格下相手にあっさり敗れてしまうこともあり、本当の意味での「強さ」が備わっているとは言い難い。

とはいえ、これらは過渡期を迎えるチームでは必然的に起こる現象である。川口、田中、福西といった経験豊富な選手がピッチ上で「生きる見本」になることで若手選手にもそのメンタリティーが身についていくことだろう。概言するに、2006年の5位という順位は、高評価を下しても良いのではないだろうか。

posted by 犬太 |22:47 | Jクラブ総括2006 | コメント(0) | トラックバック(0)
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