2007年01月28日

脱「和製」、求められるオリジナリティ。

「和製ロナウド」「和製クライファート」「和製アンリ」・・・これはサッカー界に限ったことではないが、日本には外見やプレイスタイルが有名選手に酷似している若手選手が出現すると、多くの場合「和製○○」というような表現を用いる。

そもそも「和製」とは一体どんなものを差すのだろうか。手始めとして「和製」という言葉を辞書で調べてみると「日本でできたもの。日本製。国産。」というような説明があり、例文には「和製プレスリー」と出ている。ちなみに和製プレスリーとは佐々木功のことであり、宇宙戦艦ヤマトを歌っている人だ。つまり、この「和製」という表現は、辞書に載っているからには国家が認めた言葉ということになる。

ただ、個人的にこの「和製○○」という表現は何だかしっくり来ない。もっと言ってしまえば「和製○○」という表現に対して一種の嫌悪感すら覚えてしまう。そもそも「和製○○」という表現で取り上げられることが本人にとって何のメリットになるのだろうか?選手は「和製○○」という括りで見られることによって、嫌でもその選手を意識することだろう。もちろんその選手が自身の目標とする選手であり、比較されることに喜びを感じる場合もあるだろうが、大抵のケースでは比較されてしまうことによる過度な期待とプレッシャーに押し潰され、最終的には「自分らしさ」を失ってしまう。実際、前述の「和製ロナウド」矢野隼人や「和製クライファート」阿部祐大朗はJの舞台から姿を消している。

そこで求められてくるのが、オリジナリティの確立である。「和製○○」などと言った枠組みにとらわれず、そんな陳腐な比較論すら浮かばない。釜本やカズ、中田英のような「唯一にして無二」であり、彼らにしかない独特のオーラを放つ選手こそが、今後必要となってくる。今後彼らの後継者と囃し立てられる選手がもしかしたら出現するかもしれないが、少なくとも彼らが出現した時に「和製○○」や「○○の再来」といった表現は使われなかったはずだ。彼らはその時既にそれぞれ「釜本」「カズ」「中田英」というオリジナルを完成させていたのだ。

現在の若手選手では、ガンバ大阪の西野監督が家長のことを「和製メッシ」と表し、FC東京の原監督は梶山のことを「和製バレロン」もしくは「和製ジダン」とまで評した。彼らがそれだけのポテンシャルを秘めていることから「和製」という表現を用いたのだろうが、個人的には「和製」と付いただけで何だかスケールダウンしたように感じてしまう。要は、それぞれ「家長」「梶山」というオリジナリティを確立すればいいだけのことだ。

「和製○○」と呼ぶような傾向は、選手が意識しているというよりも、むしろマスコミや監督、コーチなどが意識しているように見受けられる。それゆえ、比較された選手のプレーを手本として見るのではなく「模倣」として見るようになってしまうケースがある。そしてそれがその選手のオリジナリティを結果的に狭めてしまう。マスコミ、そして監督・コーチには「和製○○」という陳腐な表現を用いるのではなく、一選手としてのオリジナリティを最大限尊重した表現をしてもらいたいものである。そして、選手にも「和製○○」と呼ばせないほどのオリジナリティを確立していってもらいたいものである。

posted by 犬太 |22:01 | 徒然なるままのコラム | コメント(14) | トラックバック(0)
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