2007年08月21日
南米の雄・パラグアイ相手に大久保のヘッドが炸裂した。小柄な体をものともしない、豪快なヘッド。エースの誕生に、日本サッカー界が色めき立った。
数秒後、その歓喜は溜息へと変わっていた。副審がフラッグを前方へ突き出す。オフサイド──初ゴールは、幻となった。
月日は流れ1年半後、本山からの絶妙なスルーパスを受けると、冷静にシンガポールのゴールネットへと流し込んだ。1ヵ月後にスペインの地に戦いの場を移す彼にとって、A代表初ゴールは、自身への最高のはなむけとなるはずだった。
しかし、1年半前に溜息に包まれた埼玉スタジアムは、デジャヴを起こしたかのように、またしても溜息に包まれた。オフサイド──どうしても、1点が遠かった。
イタリアの優勝で幕を閉じた、2006年ドイツワールドカップ。3年前、将来を嘱望された男には、ドイツのピッチに足を踏み入れる権利すら与えられなかった。「カイザースラウテルンの悲劇」とも言われたオーストラリア戦の敗北。その3日後、彼は日本へと戻ってきた。
2007年、所属クラブをセレッソ大阪から同じ関西圏のヴィッセル神戸へと場所を移した彼には、1つの揺るぎない決意があった。「日本代表に復帰する」その言葉に違わぬ活躍を見せ、現時点で日本人最多得点を挙げる彼の周囲が、にわかに騒がしくなってきた。3連覇を狙ったアジアカップで日本が4位に終わると、解説者からは決まってこの言葉が飛び出した。「大久保のような選手が必要だ──」
そして、彼は在るべき場所へと帰ってきた。約2年ぶりに身をまとう、ジャパン・ブルーのユニフォーム。ピッチは、自身が生まれ育った九州。「大久保嘉人」の存在意義を証明する舞台は整った。
posted by 犬太 |23:01 |
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2007年04月25日
2007年3月31日、ウェズレイは、外国籍選手としては初となるJリーグ通算100ゴールを達成した。そして、ゴール後はいつものように矢を放つパフォーマンスを披露していた。
ウェズレイとコンビを組み、J屈指のツートップを形成している日本代表・佐藤寿人は、ウェズレイからのアシストでゴールを決めると真っ先に彼の所に駆け寄る。そして、ウェズレイがゴールを決めた際には一緒に矢を放つパフォーマンスを見せたり、片膝をついてスパイクを磨く仕草を見せる。
ウェズレイが異国の地・日本に足を踏み入れたのは2000年。入団直後からその実力を如何なく発揮し、2001年から2003年にかけては毎年20ゴール以上を挙げるという驚異的な活躍を見せた。
そして、2003年に結成されたのが、同じブラジル人のマルケスと組む当時最強の呼び声も高かったツートップだった。マルケスが幾度となくチャンスメイクをし、ウェズレイが何度と無くゴールネットを揺らす。この年、ウェズレイは得点王に輝き、Jリーグベストイレブンにも選出された。ウェズレイはまさにピチブー(猛犬)と化していた。
誰がこの男を止めるのか──ストップ・ザ・ウェズレイが対戦相手の至上命題となっていたこの頃、思わぬ形でウェズレイは日本を去ることなってしまった。よくある事と言えばよくある事だが、監督との折り合いが合わず、退団。皮肉なことに、猛犬を止められなかったには、自チームの指揮官だった。これにより、2005年シーズンを以ってウェズレイは日本に「サヨナラ」を告げたかに思えた。
だが、Jのクラブはウェズレイを見放してはいなかった。サンフレッチェ広島が移籍先が見つかっていなかったウェズレイにオファーを送り、ウェズレイは再び日本に活躍の場を求めることとなった。そして、それから現在に至るまでの活躍ぶりは周知の事実である。
ウェズレイほどチームメイトから信頼を受け、またその信頼に応えてきた選手はそうはいない。35歳を迎えてもなお、猛犬の魂が滾ることは無いはずだ。
posted by 犬太 |22:58 |
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2007年03月16日
ジュビロ磐田ユースでは、チームの中心選手に与えられる番号として、7番が与えられるという。なぜかと言うと、名波が磐田時代につけていた番号だからである。フィジカルに対する不安を微塵も感じさせないような視野の広さとパスセンスでゲームを組み立て、磐田黄金期の象徴である「N-BOX」という独特のシステムの中央に君臨した男が磐田に与えた影響は、おおよそ計り知れない。
その名波が尊敬する男──それが、藤田俊哉である。
「藤田俊哉」その名が知られるようになるまで、そう時間はかからなかった。1年目からチームの中心選手として活躍し、その翌年には日本代表に選出されると、そこでも2ゴールを挙げる活躍を見せる。「日本の司令塔は藤田俊哉」と言われる時代もそう遠くはないはずだった。
だが、ほぼ時期を同じくして、「マイアミの奇跡」を起こしたアトランタ組の主力である中田英寿がA代表でもその力を発揮し始め、また藤田自身その間に代表からは縁が遠いものとなったことで、いつのまにか「日本の司令塔は中田英寿」となっていた。
日韓ワールドカップが開催される前年の2001年、藤田は自身2度目となるベストイレブンを受賞しただけでなく、MVPをも獲得した。藤田はまさに選手としての黄金期を迎えた──しかし、それでも日の丸のユニフォームを着た藤田がワールドカップのピッチに立つことはなかった。
日韓ワールドカップが開催された2002年、磐田は黄金期を迎える。藤田と同じくワールドカップ出場を逃した高原がその無念を晴らすような大活躍を見せ、Jリーグ史上初となる前・後期完全制覇を果たした。
磐田で頂点を極めた翌年、藤田は1つの大きな決断を下すこととなる。9年間の時を過ごした磐田をレンタル移籍という形で離れ、オランダのFCユトレヒトに籍を移す。クラブ側の事情により半年という短い期間でのプレーに終わったが、磐田に復帰すると代表に召集されるようになり、少しずつ出場機会を増やしていった。
そして2004年、藤田の代表でのキャリアにおいて最も輝かしい瞬間が訪れることとなる。シンガポール戦、勝てないようだとジーコの解任もありうる、という噂も立ったこの試合で、藤田は貴重な決勝点を挙げ、日本に勝ち点3をもたらすとともに、ジーコの首をも救って見せた。
だが、代表で藤田が放った輝きはこの時だけだった。翌年は代表での出場機会は1試合にとどまり、6月からは磐田を離れ、名古屋に活躍の場所を求めることとなった。そしてドイツワールドカップが開催された2006年、ついに代表に呼ばれることはなかった。
それでも、35歳を迎えてもなおチームの不動のレギュラーとして攻撃を組み立てる役割を担い、チームに必要不可欠な存在になっている。次に藤田が狙うべきものは、新天地・名古屋でのタイトル獲得だろう。そして、もう1つの興味としては、カズ、沢登を超えるJ1における14年連続ゴール記録、これの更新を期待してみたいところだ。
posted by 犬太 |20:53 |
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2007年03月06日
奥のプロサッカー人生は、自身の欲求に対する「強制排除」から始まった。ジュビロ磐田入団と同時に監督を務めたハンス・オフトはリスクを極力避けるために「ドリブル禁止令」を出した。マラドーナに憧れ、ドリブルを己のストロングポイントとしてプロへの道を拓いた男からすれば、それは拷問とも言えるものだった。
転機が訪れたのは、1997年だった。オフト退団に伴い、後にブラジルを率いてワールドカップを制することとなるフェリペが監督に就任。奥のプレイスタイルを高く評価したフェリペは、奥をレギュラーに抜擢した。フェリペは半年足らずで退団してしまったが、その後もレギュラーに定着した奥は9得点を挙げる活躍を見せ、チーム初の年間優勝に貢献した。さらにその翌年には前年を上回る12得点を挙げ、年間優勝こそ逃したもののベストイレブンに選出され、代表デビューも果たした。順風満帆──今後の奥のサッカー人生に1点の曇りもないかに思えた。
しかし、「サッカーは楽しくやってナンボ」を身上とする奥にとって、2000年後半から固定されたサイドというポジションは「楽しくない」ものだった。それがチーム事情によるものであることはわかっていても、サッカーを心の底から楽しめない自身の気持ちには変えられなかった。
そして2002年、奥は移籍を決断する。磐田での最後の試合が退場劇という後味の悪いものから円満退団という訳にはいかなかったが、横浜F・マリノスに自身の本当の居場所を求めた奥は、中央で使われることによって輝きを取り戻し、2003~2004年にかけてチームは2連覇を達成。その中心にはゲームキャプテンとしてチームを引っ張った奥の姿があった。
それを「わがまま」と言われることもある。サイドでの起用を拒み、トップ下と中央にこだわった男は2007年、横浜FCに籍を移し、開幕戦の埼玉スタジアム2002のピッチに立っていた。自身の居場所がある限り──まだ終わらない、まだ終われない。
posted by 犬太 |20:53 |
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2007年01月27日
マリオ・ザガロという人物を知っているだろうか?選手としてはもちろんのこと、指導者としても名を馳せ、史上初となる選手・監督両方でのワールドカップ制覇を成し遂げた人物である(後にベッケンバウアーもこの記録を達成)。そんなザガロに「日本人でブラジルで通用するのは彼だけだ」とまで言わしめた日本人がいる。
あのザガロにそこまで言わしめた選手、その名を森島寛晃という。当時日本には前園真聖、中田英寿など後に海外クラブからオファーを受けるほどの選手がいたにもかかわらず、ザガロはブラジルで通用する日本人選手として森島の名前を挙げた。
ブラジルで通用すると言われた森島の魅力を改めて紐解いていくと、そのキーワードとして必ず浮かび上がってくるのが、無尽蔵とも形容される驚異的な運動量だろう。そしてその運動量を活かして前線を縦横無尽に駆け回り、2列目からの鋭い飛び出しでゴールを奪うという、いわゆるシャドーストライカーとしての役割を果たす。だが、その運動量が発揮される場面は攻撃のみにとどまらない。ピンチの時には自陣まで戻ってディフェンスをすることもあり、好守両面に渡ってチームを支えている。
当然そのような選手を歴代の代表監督が放っておく訳も無く、1998年、2002年の両ワールドカップのメンバーに選出された。そして2002年・日韓ワールドカップ時には自身のホームとも言える長居で行なわれたチュニジア戦で貴重な先制ゴールを決めて見せた。
上記の評価、経歴だけを見ると、森島のサッカー生活に1点の曇りもないように思える。だが、そんな森島がどうしても成し遂げられないことが1つある。それが、セレッソ大阪でのタイトル獲得である。当時まだ19歳だった我那覇和樹の活躍もあって土壇場で優勝を逃した2000年1stステージや、まだ記憶に新しい2005年のロスタイムでの悲劇など、あと一歩の所で優勝を逃している。そして皮肉にも2001年に続いて2006年も優勝争いを演じた翌年のシーズンでJ2降格という憂き目に遭った。
J2での戦いを余儀なくされた2007年のセレッソ大阪。やはりとでも言うべきか、西澤、大久保など多くの主力選手がセレッソに別れを告げ、他クラブで新しいシーズンを迎えることとなった。同時にそれは、彼らが背負ってきた背番号が空いたことを示し、その背番号の歴史に1つの終焉を迎えたことを意味していた。
そんな中にあって、今年もこの背番号だけは動くことが無かった。動こうという意思すらなかったその背番号の数字は「8」だった。その数字が森島以外の選手の手に渡るとき、それは森島が選手生活にピリオドを打つ時なのかもしれない。
posted by 犬太 |18:17 |
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2007年01月22日
サッカー選手に限らず、スポーツの世界の選手入れ替えのサイクルは速い。Jリーグでの出場機会を得ることが出来なければ高卒なら3~4年、大卒なら1~2年で解雇通告を受け、路頭に迷うこととなる。それはベテラン選手もまた然りである。給料と成長度合いのバランスを考えると、1人で新人選手3人分の年俸を抱えている選手よりも成長の可能性を見込んで新人選手を獲得し、ベテラン選手を切ることはある種仕方のないことである。
Jリーグでは、年間100人を優に超える選手がプロサッカー選手としての職を失う。トライアウトで各クラブの御眼鏡に叶う選手はそう多くはなく、半分以上がサッカー界から足を洗い、セカンドキャリアを歩んで行くこととなる。
その中でJリーグ初となるトライアウトを受け、後に「トライアウトの星」とまで呼ばれた選手がいる。その選手の名を、河合竜二という。
高校時代に高校総体準優勝を果たすなど順風満帆なキャリアを歩み、1997年、浦和レッズに入団した。入団以降3年間試合に出ることが出来ずにいたがクラブがJ2に降格した2000年、ついにJ初出場を果たし、その年は13試合に出場した。年齢的にもまだ若かったこともあり、今後さらに出場機会を延ばしていくものと思われた。
だが、現実は辛いものだった。2001年は僅か1試合の出場に終わり、ワールドカップイヤーの2002には1試合も出場することが出来ずにシーズンを終えた。程なくして、クラブは河合に「ゼロ円提示」を突きつけた。すなわちそれは、解雇を意味していた。
これで河合のプロサッカー選手としてのキャリアは潰えたに思えた。だが、この年から行なわれることとなった「合同トライアウト」が、河合のプロサッカー選手としてのキャリアを引き伸ばした。トライアウトを経て横浜F.マリノスとの契約を勝ち取ると、チームのディフェンスの要・松田の体調不良などもあり、入団した年の2ndステージから出場機会を得るようになり、松田不在の影響を全く感じさせないパフォーマンスを見せ、マリノス完全優勝の立役者となった。
河合のプロ生活最大のハイライトとなったのは、2004年シーズンだろう。出場試合こそ前年を下回ったものの、ACLやJリーグ・チャンピオンシップなど重要な局面で貴重なゴールを叩き込み、2年連続となるJリーグ制覇に大きく貢献した。特に古巣・浦和を相手にしたチャンピオンシップでは2試合にフル出場し、彼の存在を大きく知らしめた。
そして2006年、センターバックからボランチへコンバートされ、自己最多となる25試合に出場した。特に水沼監督就任以降、中盤で体を張ったディフェンスが出来るボランチとして重宝された。センターバックからボランチまで高水準でこなせるようになったことで、今後河合の存在価値が落ちることはないだろう。28歳となった今もなお、河合は進化を続けている。
1度は失いかけたプロサッカー選手という職業。だが、彼は諦めなかった。もちろんそれはトライアウトを経て今もなお現役を続ける選手全員にも言えることだ。その諦めない姿勢は、現在の河合のプレーにもきっと活きているはずだ。
posted by 犬太 |01:21 |
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2006年10月23日
相手を腰砕けにする華麗なドリブルを持っているわけでもない。特別ディフェンス能力が優れているわけでもない。味方にピンポイントで合わせる上質なクロスの精度を持っているわけでもない。
しかし、彼が最も輝ける時がある。それはFKを得てボールをセットしている時だ。彼がボールをセットし始めるとスタジアムは、えも言えぬ不思議なワクワク感に包まれる。
始まりは、2004年6月5日、国立でのFC東京vsヴィッセル神戸だった。当時まだ20歳だった鈴木規郎が放ったFKは、軌道を決して下げることなく、ゴールネットに突き刺さった。鈴木規郎には、その日から「ノリカル」という愛称がつけられた。
そして2004年セカンドステージ・ジュビロ磐田戦、2005年・横浜F・マリノス戦と、「ノリオショット」は炸裂した。FC東京サポーターは熱狂し、ジュビロ磐田、横浜F・マリノスサポーターは唖然とし、中立の立場で観戦していた人達は、騒然とした。
1年目からすでにトップチームで試合に出場し、2003年ワールドユースのメンバーにも選出されるなど、元々ポテンシャルは高いものがあった。しかし、「荒削り」という言葉がピッタリなプレーぶりで、試合毎でのパフォーマンスの差が激しく、なかなかレギュラー定着までには至らなかった。
そして迎えた今シーズン、ガーロ体制となり鈴木は左サイドバックにコンバートされ、開幕からスタメンの座を不動のものとした。しかし、好事魔多しとでもいうべきか、7月末に怪我をしてしまい、ついに掴んだレギュラーの座を不本意な形で明け渡すこととなってしまった。
そして、ようやくガンバ大阪戦で復帰を果たした。その復帰初戦を1ゴール1アシストという素晴らしい結果を残し、「鈴木規郎」という存在を確実に知らしめた。
今後鈴木規郎に求められるのは、本職の左サイドでのパフォーマンスで観客を釘付けにすることだろう。課題となっているディフェンス面での向上はもちろんのこと、クロスの質、バリエーションという面で不満が残る。特にクロスに関しては、破壊力抜群のキック力に反して味方に「合わせにいく」緩いボールになってしまうケースが多い。縦への突破力を持ち合わせている選手でサイドを切り裂けるだけの能力があるだけに、その辺りの改善が必要である。
ちなみに、観客が最も期待する「ノリオショット」も実際のところ、炸裂する可能性は極めて低い。とはいえ、前述したFKでのゴールや、先日のガンバ大阪戦での見るものの度肝を抜く素晴らしいゴールを見てしまうと、彼への期待値はいやが応にも上がっていく。今度はいつ「規郎劇場」が訪れるのだろうか、その時は、私もスタジアムでその雰囲気を味わってみたいものである。
posted by 犬太(ケンタ) |23:00 |
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2006年10月09日
「J2降格について自分に責任を凄く感じていたし、チームを見捨ててJ1チームに移籍することはこのまま男として絶対にできなかった」
これが、ワールドカップ出場を狙えるだけの実力を持ちながら、J2降格が決まっているヴィッセル神戸に残留した理由について聞かれた時の彼の答えだ。
思えば、彼のサッカー人生には常に何らかのターニングポイントが存在した。横浜フリューゲルスの合併・消滅、東京ヴェルディ1969時代後半における代表に選出されながらもクラブで出場機会に恵まれないジレンマ、そしてヴィッセル神戸でのJ2降格・・・
その中でも、ヴィッセル神戸のJ2降格はクラブにとって、そして何より三浦自身にとってショッキングな出来事と言えるだろう。なぜなら、ワールドカップはその翌年に迫っていたからだ。
「J2のクラブに在籍していると代表に召集されない」これは、ある種暗黙の了解のようなものだ。実際、ジーコ監督時の日本代表でJ2から招集された選手はサンフレッチェ広島のGK下田ただ1人である。三浦自身はJ2からの代表入りを目指していたが、現実的に見てそれは厳しいものだった。
三浦は横浜F・マリノスに加入した1999年に代表に初選出されると、その後も代表に定着。東京ヴェルディに移籍し、日本代表がトルシエ体制からジーコ体制になった後もコンスタントに召集され続けた。当時左サイドバックでの守備を不安視されていた三都主に替わって出場することも多く、また複数のポジションをこなせることから貴重なバックアッパーとして重宝されていた。
そして控えという立場でも決して腐らずに練習に取り組む姿はチームメイトからの尊敬・信頼を集め、アジア最終予選アウェーでのバーレーン戦前にレギュラー組とサブ組の間で衝突が起こった時も、「試合に出たい。だからこそ出てる人間には、しっかりやってほしい。おれはW杯に行きたい。だからこのチームのためにできることをやろうって心から思っている。もっと必死にやろうよ」と自身の想いを打ち明けチームの雰囲気を変えたように、チームの精神的支柱としての役割も担った。
そして日本代表はアウェーでバーレーンに勝利し、その後北朝鮮に勝利したことでワールドカップ出場を決めた。三浦が目標であるワールドカップ出場がついに手に届くところまで来た。
しかし、ワールドカップ出場を決めた2005年に、所属クラブのJ2降格というまさに「天国から地獄」を味わった。三浦にはJ1のクラブに移籍するという選択もあったはずだ。彼ほどの選手をJ1のクラブが放っておく訳もなく、三浦の故郷・大分にある大分トリニータへの移籍の噂も挙がっていた。
それでも、三浦はヴィッセル神戸に残留することを決めた。チームキャプテンとしての責任、そして「男」としての責任が三浦をヴィッセル神戸に引き留めた。
そしてJ2で迎えた今シーズン、横浜FC、柏レイソルとともに激しい昇格争いを繰り広げている中で、キャプテンとしてチームを鼓舞し続けている。世界でも限られた選手しか蹴ることのできない「無回転シュート」の精度も健在で、特に先日の鳥栖戦でのゴールは早くも語り草となっている。「男として」ヴィッセル神戸に残った三浦淳宏。そんな彼の雄姿をJ1で見ることができる日は、そう遠くはないはずだ。
三浦がJ2で戦っているさなかに行なわれた2006年ドイツワールドカップ、日本代表はグループリーグで早々と敗退した。その中の敗因として、レギュラー組とサブ組の確執、選手の孤立などが囁かれた。これを聞いた時に真っ先に浮かんだことは「このメンバーの中に三浦がいれば・・・」ということだった。
posted by 犬太(ケンタ) |21:58 |
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2006年10月02日
始まりは、ジーコだった。
一度は現役を引退したが、1991年に当時まだJリーグが発足していなかった日本で選手としてのキャリアをリスタートし、現役引退する1994年までの3年間、ブラジルの国民的英雄は日本サッカー界の急激なレベルアップに貢献した。
そしてジーコの後継者として鹿島アントラーズにやってきたのが、ブラジルのワールドカップ制覇に貢献したレオナルドだった。ゴール前4人に囲まれながらも華麗なボール捌きでゴールを奪って見せたプレーなど彼が遺した足跡は計り知れないものだった。
さらに、ヴェルディから移籍し、チームの黄金期を支えたビスマルク、先日セリエAデビューを果たした小笠原満男など、ジーコから続く鹿島の司令塔の歴史は、燦然たるものである。
野沢拓也はその輝かしい伝統を継承し、その系譜に名を刻まなければならない存在だ。
ジーコは当時17歳だった野沢をこう評した。「ブラジルへ連れて帰りたいぐらいだ」と。
ブラジルの国民的英雄の発言が示すように、元々その類稀な才能は高く評価されていた。そして1999年にユース所属でありながらビスマルクに替わってトップデビューを果たすと、司令塔として視野の広さ、そして持ち前のテクニックを披露し、鹿島のサポーターを驚かせた。その後ブラジルのCFZ・ド・リオへ1ヵ月の短期留学を経験。鹿島、そして野沢の将来を案じるものはいなかった。
しかし、入団後、ケイラー病と呼ばれる病気に苦しみ、さらに怪我も重なったことでなかなかレギュラー定着までには至らず、歯がゆいシーズンを過ごしていった。
このように不遇のシーズンを過ごしていた野沢に転機が訪れたのは2005年だった。野沢の攻撃的なセンスに目をつけたトニーニョ・セレーゾがFWの調子が良くなかったこともあり、野沢を本来のトップ下ではなくよりゴールに近いポジションであるFWとして起用したのである。
結果的にこの起用は野沢に好影響をもたらした。常時出場の機会を得た野沢は最後まで熾烈な優勝争いを繰り広げた2005年シーズンを28試合に出場して10得点というまずまずの結果で終えた。
そして迎えた今シーズン、シーズン当初こそなかなかスタメン出場を果たせない時期が続いたが、小笠原の移籍に伴い、レギュラーポジションを獲得すると、ついに真価を発揮し始めた。5年連続でJリーグベストイレブンに輝き、ドイツワールドカップのピッチにも立った小笠原の後継者と言われることに対するプレッシャーは想像を絶するものがあるだろうが、清水エスパルス戦で見事なループシュートを決めると、前節のセレッソ大阪戦でも1ゴール1アシストを記録するなど期待に沿える活躍を見せている。
技術的には申し分のないものを持っている野沢だが、今後は好不調の波をいかに少なくするかが求められてくる。そして「ボールスピードを上げる小笠原は間を考える。野沢は自分の機動力を生かした組み立てをする」とアウトゥオリが2人のプレイスタイルの違いを評するように、ただ単に小笠原の穴を埋めるだけでなく、小笠原との「色」の違いを前面に出していくことがチームの中心になっていく上で重要になって来るだろう。
posted by 犬太(ケンタ) |21:42 |
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2006年09月20日
「日本人にはハングリー精神が足りない」
日本人がこう言われ続けて何年経過したことだろうか。ハングリーとは「空腹」の状態を指すが、飽食の国・ニッポンでは餓死など滅多にないし、「ハングリー精神」とはなんぞやと言われても実感が湧かないだろう。ただ、この選手のプレーを見ていると「ハングリー精神」が何たるものかというものが見えてくるような気がする。
常にゴールを見据えるギラギラとした眼差し。相手DFを翻弄する圧倒的な体のキレ。「こんなんじゃアカン」「まだまだ」「休んだら終わり」試合後のインタビューで発せられる言葉からも分かるように一寸の心の隙も感じさせない心。今の彼には「心・技・体」が何一つ欠けることなく備わっている。
今シーズンの道のりは決して平坦なものではなかった。大黒将志、アラウージョの両エースが抜けた今シーズン、J2降格の憂き目に遭ったヴィッセル神戸から古巣・ガンバ大阪に迎えられた播戸は、大分トリニータから移籍してきたマグノ・アウベスと共に退団した両者の穴埋めを果たす役割を任された。
その期待に応えたのは、マグノ・アウベスだった。フィットするまでに時間を要するかと思われたが開幕からゴールを量産し、セレッソ大阪との大阪ダービーではハットトリックを達成するなど、穴埋めと呼ぶには失礼な活躍を見せた。
その一方で、播戸はスタメン出場すら厳しく、途中出場の日々が続いた。準優勝を果たした1999年ワールドユースに選出され、2004年には17点を挙げた播戸にとって、それは屈辱だった。
だが、播戸は挫けなかった。そしてワールドカップによる中断明け後のJリーグで、彼の試合とゴールに対する「飢え」は、ついに解放された。12試合で、12ゴール。いままでの鬱憤を晴らすかのような活躍ぶりに、周囲は色めき立ち、代表入りを推す声も聞かれ始めている。
しかし、今の播戸にそんな余裕はない。「オシム監督より、西野監督にアピールしないと」と、保障されているとは限らない自分のポジションに対する危機感を持ち続けている。それも、ベンチスタートの多かった序盤の経験から来るものだろう。
その滾ることのない「ハングリー精神」がある限り、播戸の口から「まだまだ」という言葉が聞けなくなる日が訪れることはないだろう。例え、得点王に輝いたとしても、日本代表に選出されたとしても。
posted by 犬太(ケンタ) |19:00 |
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