2010年02月05日
すっかり変色してしまった記者の古い取材ノートに、「アテネオリンピックまでは選手生活を続けたい」と走り書き。メモの冒頭に視線を戻したところ、1997年9月とあるけれど、紙が破れていて正確な日付は分からない。妙に鮮明なイメージとして覚えているのは、目の前の塚原直也(朝日生命)が夢と希望を、全身の毛穴から四方八方へと発散していたことだ。
2000年シドニー五輪に出場し、2004年アテネ五輪で団体総合優勝のメンバーに名を連ねた塚原は、しかし、金メダルを土産に引退するどころか、今もトップクラスのアスリート。32歳。長期合宿中のオーストラリアと日本を行き来し、あくまでも世界の大舞台への返り咲きを目指して、力と技を磨いている。
「体操の神様」になりたいのだという。
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記者「30代になって、なぜ塚原直也は体操を続けているんだろう。好きだから――。そんな理由はナシだよ。好きじゃなくて続ける選手など、まず存在しない。バリバリの競技者としてトレーニングを積んでいるわけが知りたい」
塚原「何か、納得いかないんですよね」
記者「納得いかない?」
2008年北京五輪の代表入りを逃した後、数か月を経て交わした言葉である。
塚原「例えば、つり輪の中水平支持にしても、体が完璧に輪の真ん中で、寸分の狂いもなく水平に保たれているとか。一つの技、一つの演技に、まだ上の世界があると思うんです。そういうのを体験できてないと感じるんですよね。で、自分の体操について納得いかないと」
未知の領域への憧れが、心のひだに絡みついている。
塚原「ぼくは怖がりな人間なので、本当は未知の領域って好きじゃないんです。小さいころから殴り合いのケンカなんて、したことがない。だって、怖いじゃないですか。殴ったら相手がどうなっちゃうか分かんないし、殴られたら痛いだろうし。車の運転免許も、長く取る気にすらならなかった。ぶつかったら、どんなことになるか分からないし。でも、体操で味わっていない世界は、やっぱり見てみたい」
◇
大きな怪我は現役生活の終幕に直結するから、「焦るなと自分に言い聞かせ」、一つずつ体操人生のドアを開けていく。行き着くところは、やはり「体操の神様になりたいんです」
「ぼくの考える体操の神様は、体操のことなら何でも知っている人。いつか選手でいられなくなって・・・。多分、もっともっと先の話ですけど、指導者になるとき、誰よりも上手に教えられるコーチでありたい。そんな願望も持っています。だから、いくら知識を吸収しても、足りない気がしちゃうんですよ」
アテネ五輪への思いを口にした日から、10年以上が経過しても、変わらぬ目の輝き。きっと今、この瞬間だって、夢と希望は少しも色あせていない。
posted by 読売新聞運動部 田中富士雄(事業委員会普及対策部) |17:58 |
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2009年12月28日
公の場に出ると、「我ながら、愛想は悪いと思います」。大勢のカメラマンに囲まれ、笑顔を求められたら、戸惑って表情が引きつる。内村航平(日体大)は「あれでも精いっぱい、いい顔してるつもりなんですよねえ」と苦笑した。
傲慢な人物だと誤解されないように、若き世界王者の「つぶやき」を少しだけ、ばらしてしまおう。内村は他人への気遣いを胸に秘めている男だし、他人の力を素直に認めるアスリートでもある。
◇
2009年10月のロンドン世界選手権で、個人総合の優勝候補に挙げられたファビアン・ハンビュッヘン(ドイツ)が、練習中に負傷し、棄権を余儀なくされた。欧米のメディアは当然、もう一人の金メダル候補だった内村に感想を求める。日本のエースは寂しげな眼差しで、「今、誰よりも悔しい気持ちでいるのは、ファビアンだと思います」と答えた。
メディアの問いかけは続く。
「優勝への自信は深まったか」
「ライバルが欠場して肩の力を抜けるか」
「もともと自分が力を発揮すれば、他は及ばないと思っていたか」
要は「他人のことは関係ない」「誰が出場しても俺がチャンピオン」といった派手なセリフを、望んでいたわけだ。ところが、内村は静かな口ぶりで「体操って、そういうこと考えてやるスポーツじゃないですよ」とかわした。
インタビュー時間が終わった後、フランスのスポーツライターが、記者に「ウチムラというのは、他人への敬意を忘れない、実に素晴らしい男だ」とささやき、「しかしながら」とけげんな顔で続けた。「チャンスだというのに、彼はメダルを欲していないのかい」。
答えは当人に聞いてみよう。
「ライバルは、やっぱり一緒の試合に出ていてほしいっすよ。少しのミスも出せない、ギリギリの緊張感の中で、最高の演技をする。もちろん、お互いに。その結果として自分が一番になって、初めて心から喜べるんですよ」
記者の脳裏によみがえったのは、2008年6月の記憶。北京五輪の代表入りを果たし、種目別ゆかのメダル獲得を期待された内村は「やる気がないって思われたら困るんすけど」と前置きし、「ぼくは(同じく代表で日体大の先輩でもある)沖口誠さんにメダルを取ってほしいんっすよねえ」と明かした。
「だって、どう考えてもぼくよりすごい演技をするじゃないっすか。メダルは本当にうまい人が取るべきだと思う。で、ぼくは自分よりすごい人を目指して練習する。いつか超えられるように。そういうのが楽しいんです」
◇
内村に憧れる少年少女が、どんどん増えてきた。「小さい子供の夢は裏切っちゃダメ」と考えるから、表現の仕方が下手なのを自ら認めつつ、「どういう言葉を(世の中に)出せばいいんでしょうか」と思案する。模範的存在を目指す姿勢は立派だけれど、個性を消してまで“聖人君子”を装う必要はない。
認める者が、認められる――。未来の体操ニッポンを背負うチビッコたちへ、その価値が伝われば十分だ。
posted by 読売新聞運動部 田中富士雄(事業委員会普及対策部) |14:47 |
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2009年11月27日
トレーニングが終わり、うっすらと熱気が残る徳洲会体操クラブの練習場で、田中和仁はフロアに腰を下ろしていた。話の途中で「ちょっと待って下さい」と立ち上がり、奥の部屋に消える。会話の妨げにならぬよう気遣い、館内のBGMを切ってくるあたりが実に、この人らしい。
再び姿を現し、「この夏に帰省したとき、ええ、8月下旬ぐらいですかね。お父さんが言ったんです。『自分も平行棒が得意だったんだよ』って。家で体操の話はしない親でしたから、不思議だったんですよねえ。あれ、何だったのかなあ」と言葉を継いだ。視線を宙にさまよわせ、記憶の糸をたどった。
◇
6歳のとき、競技経験のある父が指導するクラブで、体操を始めた。母も元選手で、妹と弟は国内屈指の現役選手。文字通りの「体操一家」だ。
「当時は意識しなかったけど、いつも家族が一緒にいられたし、体操一家で良かったと思う。そりゃあ、練習漬けで旅行にも行けませんでしたけどね。デメリット? う~ん、なかったんじゃないかなあ。ぼく、反抗期を経験した覚えがないんです。まあ、お父さんは体操人生で初めての『先生』でもあったし、そもそも逆らえませんよね」
クラブ自前の練習場はなかったから、子供たちは母の運転する車に乗り込み、30分ほどの距離にある高校の体育館で練習を積んだ。帰路のハンドルは、父が握る。その父は、道中も帰宅後も一切、体操の話題を出さなかった。
練習中は師匠と弟子、その他は父と息子――。
家の中に体操の空気を持ち込むと、両者の線引きがあいまいになる。ひょっとしたら父は、その点に配慮していたのかもしれない。
24歳の夏、「平行棒はインターハイで2位にもなったんだぞ」と、ほんの少しだけ明かしてくれた父の足跡。“告白者”の章二さんは「あれはですね」と笑う。「もう参りました。そういう気持ちを込めていたんですよ。技術的なこと、練習への取り組み姿勢、体操に対する考え方・・・。和仁は、私の手が届かない選手になってくれたと思います」。ついに与えた、免許皆伝だった。
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10月のロンドン世界選手権。初出場で個人総合の予選に登場した田中は、場内アナウンスで「カズヒト タナアキ」と紹介された。個人総合決勝、やっぱり「タナアキ」のまま。なぜ、日本でポピュラーな「TANAKA」が「タナアキ」に? そんな疑問はさておき、己の存在を認めさせるための、これが最終試験ということか。
種目別平行棒の決勝で、体操ニッポン伝統の美しさを発揮し、着地もピタリ。ロンドンの地元ファンが沸きに沸いた。銅メダル確定。「ただいま演技を終えたのは」。場内アナウンスが鳴り響いた。
「カズヒト タナカです」
世界が新しいスターを受け入れた瞬間だった。
※体操担当記者が、取材メモから、とっておきのエピソードを紹介します。随時、更新する予定です。
posted by 読売新聞運動部 田中富士雄(事業委員会普及対策部) |15:18 |
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