2008年04月01日
ターニングポイント
昨年から執筆を続けてきた書籍が発売しました。 「復活」 all for victory 全日本男子バレーボールチームの挑戦 角川書店より4月1日発刊です。 この書籍の取材を通じて、13名の選手にそれぞれの「転機」をうかがいました。 すべての作業が終わり、発売を目前にしたときに、ふと、 自分の記者としての転機はいつだったのだろうかと考えました。 わたしにとっては、「とにかくガムシャラに、与えられた仕事をする」時代から、 「自分の書きたいことがはっきりと見えるようになった」瞬間が、 記者としてのターニングポイントだったように思います。 それは2002年、富士フイルム・プラネッツが休部したときです。 当時、不況による業績不振のため、バレーボールに限らず、 さまざまな企業の運動部が次々と休部していました。 90年代には10年間で男女合わせて20以上のバレー部が活動を停止しました。 2000年には新日鐵が、地域密着型のスポーツクラブ、 堺ブレイザーズとして活動を開始していましたが、 堺のようにクラブ化に移行するのは異例で、 ほとんどのチームが休部とともにVリーグから姿を消していきました。 そして2002年の黒鷲旗終了後、古豪、富士フイルムの休部が発表されたのです。 わたしは当時、専門誌の派遣記者としてその発表会見に出席していました。 会見では富士側の関係者から、休部の理由がこう語られたと記憶しています。 「バレーボール部が社内で福利厚生としての意味を持たなくなった」 人気、実力ともに日本リーグを支えたチームがまたひとつ表舞台を去りました。 会見が終わり、席を立ったとき、ひな壇にいた 富士フイルムの当時の監督と目が合いました。 監督はわたしに向って「頑張れなくて、ごめんね」とおっしゃいました。 それを聞いた瞬間、涙が止まらなくなりました。 監督も目を潤ませていました。 富士フイルムと同じように、休部になったチームの、 最後の会見に臨んだ人たちの表情が次々と思い浮かびました。 富士の監督の言葉を聞いたとき、本当は皆、 頑張りたかったのではないかと感じました。 頑張ってチームを存続させたい。 頑張りたいけれど、個人の力ではどうすることもできなかった。 そんな風に歯がゆい思いをした選手や関係者、ファンが 数多く存在したことを思うと胸が痛みました。 同時に、たくさんの人が断念していく中、それでもクラブ化に踏み切ったチームが どんなに大きな決断をしたのか、どれだけの勇気が必要だったのか、 そのときにようやく気づいたのです。 クラブ化、企業からの自立と、文字にするのは簡単ですが、 そこには想像を絶するような努力が必要です。 それでも、バレーボールをすることに意義や価値を見出している人がいる。 そんな人たちを追い、いつかは形に残したいと決意したのが2002年のことでした。 それまで「記者というのは取材相手の言葉を伝えればいいもの」と、 のほほんと仕事をしていたわたしに、 切実に「伝えたいこと」が生まれた瞬間でした。 まだまだ知識不足で、至らない点も多く、 いつも壁にぶち当たっては悪戦苦闘しています。 特にクラブ経営、経済の話題となると、 取材をする前に、まずは自分自身が学ばなければいけないことが、 たくさんあると痛感しています。 これからも目標の実現を目指して努力したいと思います。 この本が目標への第一歩になることを願っています。
posted by 市川忍 |19:57 |
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