2008年01月24日

競技者、としての姿勢

その道だけで生計を立てられるものだけをプロフェッショナルを呼ぶのであれば、車いすテニス界にはプロは数人しかいない。また華麗なプレーで観客を魅了できるものだけをプロフェッショナルを呼ぶのであれば、これもまた数人しかいない。だけれども、テニスに真摯に向き合い、常に自分を高め、そして見るものに何かを伝えている者をプロフェッショナルと呼べるのであれば、この車いすテニスの世界ツアーを転戦している者たちをプロフェッショナルと呼ぶことに対し、いささかの迷いはない。

車いすテニスがITF(国際テニス連盟)の管轄下に置かれて、大会の多くは ITFから示された条件を満たすことで賞金が出るITF公認の大会となった。その結果、障害者に対しITF大会の門戸は大きく開かれ、「社会参加」や「リハビリ」などと言われがちないわゆる障害者スポーツとは一線を画した純粋なコンペテションの場が与えられることとなった。

車いすテニスは、世間では障害者スポーツと見られながら、残酷なほど障害による区分けを行わない。唯一例外がクアードと呼ばれる四肢麻痺者のクラスを設けたくらいで、男子クラス、女子クラスでは、どこに障害があるのか分からないくらいの者たちもプレーをしている。昨今ではクアードクラスですら、一見したらコーチと見まがうほどの者すらいる。

車いすテニスでは、賛否はあるものの、そのランキングシステムによって、毎年行われるワールドチームカップ(男子プロのデ杯、女子プロのフェド杯に相当)や世界マスターズ、4年に1度のパラリンピックなどの出場権などが決定される。これは健常者のテニスや、卓球、バドミントンなどと同様、年間を通じたツアー成績によって決定されるため、パラリンピック競技ではときどき耳にする「競技を始めて半年でパラリンピック出場」といった日本のマスコミが喜びそうな芸当は到底できない仕組みとなっている。しかしながら、障害者スポーツを語る上では避けては通れない「障害の度合い」というものがあり、障害が軽ければそれだけで大きなアドバンテージを得ることとなるのは他の競技と同様である。

話を元にもどそう。
純粋なコンペテションという場が与えられた車いすテニスではあるが、ここには「競技者」と「参加者」が存在する。つまり、「競技者」とは大会を競技の場として認識し、そのために日々自分を高めその場にいる者で、「参加者」は参加資格を満たしその場にいる者。ここ数年、自分は競技者と自覚し競技者たる節制を行ってきて、それなりのトレーニングを積んでいるものだと思っていた。しかし、昨年夏のワールドチームカップに参加して初めて、自分は「競技者と勘違いしていた参加者」にすぎないことに気づかされ、愕然とし、数ヶ月悩み、彷徨することとなった。

ワールドチームカップでは、各国の選手に技術の巧拙や練習量の多寡、そして本人を取り巻く環境などの相違は当然のごとく存在するものの、テニスに対する、コート内外での取り組み・姿勢・考え方というものに圧倒的な迫力・文化的背景があり、彼ら各国選手の顔つきにそれが見て取れた。
その圧倒的な雰囲気を感じ取った自分は当時のブログにこう書いている。


ブログタイトルにした「世界を目指す」といいつつ、実際に世界レベルの現実を目の当たりにしてその彼我の差にビビっているんだと思います。
彼らのプレーからは、半端ない練習量と経験に裏付けられたセンスが見て取れます。生半可な覚悟では彼らのレベルには到達出来ないな、と。

ボクもここ1年弱がんばったつもりでしたが、まだまだサラリーマンの趣味の延長だったんだな、と激しく落ち込んでいます。まだ「世界を目指す」というスタートラインにすら立っていなかったのかもしれません。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と言いますが、虎穴の前で躊躇している自分の姿が次第に見えてきました。


20数年前、カリフォルニアで始まった「2バウンドまで許される」という車いすテニスは、その先人たちの苦心による普及期を経て、ようやく競技スポーツとして、プレーヤーに対しその領域に挑む覚悟があるか問い始めたのではないか。

その領域とは、そこでやっていく覚悟を決めた者たちだけが知る孤高の領域で、その覚悟を持った者のプレーは、たとえ障害が決して軽くはなく、よろめいたプレーであっても何かを与えられるし、深みのある輝きすら見てとれる。
2006年のサンディエゴUSオープンで間近に見たテニス先進国での車いすテニスの中には、決して華麗でもなく高いレベルでもないかもしれないプレーもあったものの、確かに何かを感じさせられるプレーヤーが数多くいた。そしてそれらに圧倒され、感じた「自分の甘さ」というのは、言い換えると、彼らの覚悟に対する自分の甘さだったのかもしれない、と今では思える。

ITF大会で賞金をもらえることで、自分自身を選手・競技者と勘違いし、コート内外で何かを伝えられる者にまで昇華しきれていない自分。端から見たらただコートに「参加」しているだけの自分。今後車いすテニスがメディアに取り上げられ、衆目を集めることとなっても、そんな気概でコートに立っていては却ってネガティブな印象を与えることとなるであろう。

多くの海外選手を目の当たりにして感じた、何か。
技術だけでもスピードだけでもパワーだけでもない、何か。
勿論、それらを身につけんと絶え間ぬ努力は払うが、
それだけでない、なにがしかの覚悟、気概をもってコートに立ち、
何をか表現せんとしてコートに立つかのような、彼ら。

その領域で自分は勝負したいと、今、痛いほどに思う。
彼らがある意味プロであるならば、その気概を、覚悟を、自分も纏(まと)いたいと切に思う。

まずは、周囲の人たちに支えてもらう喜びを、その身を削りコートで表現する。
そのために、日々を生き、トレーニングに励む。

posted by implayer |15:47 | コラム | トラックバック(0)
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