2008年11月13日
才能の存在を知ること
私が海外で生活を始める前、今から10年前に日本にいた時に 「最近の幼稚園、小学校では徒競走で順位をつけないために最後はみんなでゴールをする」 と聞いて、当時はそれが冗談だと思っていました。 しかしこの10年でそういう話を聞く機会が増え、「いや、実際にそうしているところが増えている」と聞きます。 国全体が「皆、中流階級」という建前を前面に出している日本では、そこから上に頭が抜けている事や平均よりも下に位置していることを明確にすることがタブーになっているように思えます。 皆、才能の存在は頭の片隅で認めている一方で、それを明確にすることを恐れている。 言い換えれば 「努力すれば、練習すれば目標は達成できる」 という日本国内で理想とされるモットーに「でも限度もあるよ」と付け加える事は、周囲からの批判の対象となってしまうのでしょう。 ただ、私はここでハッキリ言っちゃいます。 「才能は歴然と存在し、ある者とない者の間には境界線が存在する」 言っちゃいました。 もちろん普通の能力の人が、ある分野の技能を修得するために練習に励み努力をした結果、一定のレベルに到達することはできます。しかしそのレベルと、才能ある者が鍛錬の結果到達できる領域が違うのも確かなのです。 これは私が言うまでもなく周知の事のはずですが、どうも日本では「それは確かにそうだけども、他の大多数の人の夢を奪うのは良くないから、そういうことをハッキリ言うのは好ましくない」という空気があるように感じます。 結果、競技で下位になる人に対する過剰なケアが起こり上記の徒競走のような事態が起きます。 しかし私はサッカーの指導者という視点から別の問題に注目します。 それは指導者側が、教える対象別に指導法の使い分けができているかどうか?という点。 指導者が「才能」の存在を頭だけで理解し実践でその境界線が分からない時にどういう事が起こるか? サッカーであればプレーを構成する要素が技術、戦術、体力、精神面、etcといくつもありますが、普通のレベルの選手を指導する際に、才能がある選手と同じレベルまで「ある要素」を引き上げようとしてしまうと、多くの時間を要するだけでなく目標値まで達しない事も多々起こります。そしてその事だけに時間を投入した分、他の要素の練習量が不足してしまう自体を招きます。 私自身、その過ちを犯しかけました。 サッカーの指導に携わる中で、大多数の指導者の例に漏れず私もスペインでレベルが高くないチームの子供達の指導から始めました。レベルが高いチームを指導するには結果を出すか人脈が必要ですから。 毎週リーグ戦を戦う環境で指導者には結果(勝利)を出すことも求められますが、そこで 「基本技術や身体能力(特にスピード)の不足をどのように克服するか?」 という問題に直面します。 ここで指導者にとって必要なのは、目の前の選手達の可能性はもとより、限界も理解しそのレベルに合った指導をするということ。 しかしリーグ戦での結果が求められている状況で、これを実践するのは難しい。 技術が不足しているケースではその部分の補填に時間を掛けすぎて最終的にチーム戦術の指導がなおざりにされる可能性があり、逆にチーム戦術の練習に片寄り過ぎると技術の不足を招きます。 要するに指導者が着目する点(技術、体力、1対1の強さ、シュートの精度など)に偏向的に指導が行われ、サッカーのゲームをするために必要な各要素を均等的に指導する事が出来ていない状況が生まれます。 それを避けるためには、その状況毎の指導バランスの「落としどころ」を定める事が必須ですが、その時に指導者は 「どこまでは練習でカバーできて、どこから上は限度があるか?」 を知るべきで、また 「この選手達のレベルであればどのくらいの時間を要するか?」 ということも知っていなくてはいけません。 スペイン監督日記 2008/11/13
posted by hospi |18:10 |
スペイン・サッカー育成 |
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