2009年05月09日
サッカーは不確定要素を多分に含んだスポーツである。審判もまた、その不確定要素の1つだ。
昔の話をして恐縮だが、アーセナルの昨シーズンのCLも審判に泣かされたシーンがあった。リヴァプール戦での出来事だ。その種のことは忘れられない。力負けしたわけではないと思うから、どうしても言い訳をしたくなる。誰かのせいにしたくなる。
審判も不確定要素であるかぎり、常に特定のチームが得するわけではない(と信じたい)。そうでなければ、不確定要素ではなく、確定要素だ。しかし、1つのクラブを贔屓にしていると、どうしても他のクラブが優遇されているように感じる。勘ぐってしまう。どんなクラブにも起こりうることが、今回チェルシーに起きたのだ。
アーセナルの場合、ベンゲルが言ったように、「チャンピオンズのセミファイナルを戦った気がしない」という、チェルシーとは質の全く異なる失望だ。しかし、この失望の多くの部分は不確定要素というよりも、単にマンUに力負けしたということに起因していたことは認めなければならないだろう。
一方、チェルシーはツキに見放されたことによる失望に近い。審判が意図的にバルセロナに有利なジャッジをしたかどうかは分からない。これについては、議論の仕様がない。真実の突き止めようがない。ただ、ピケやエトーの手や腕にボールが当たっていた、という映像と事実だけがわれわれの記憶に残るのである。チェルシーファンにとっては、ハンドの位置やボールの軌道まで痛みを伴うほど脳裏に刻まれるかと思う。
そして、われわれは、そういえばあのときこんなシーンがあって、笛がならず、チェルシーが負けた試合があったと語るだろう。語ることによって、記憶のなかに生き続ける。それが今後の欧州サッカー観戦をより楽しむための方法の1つであり、サッカーファンとしての嗜みの1つではないかと、私は思う。
posted by highbury |16:41 |
Arsenal |
コメント(2) |
トラックバック(0)
2009年05月06日
言い訳が許されるわけではないが、結果通りにすべてを受けれ入れるのはタフである。
アルシャビンがいたら得点力は上がっていたし、クリシーがいれば最初の失点は防げていたし、ギャラスがいれば守備だけでなくセットプレーでも力になっていたし、ロシツキーがいれば引いた相手にも右サイドをもっと作れていた、というのは簡単である。そして、想像を止めるのは困難である。
マンUのスタメンを見れば、カウンター狙いであることは一目瞭然であった。左サイドに置かれたルーニーは守備をよくやる。その守備をしないロナウドは1トップで、前線に残る。右サイドも同じく守備をよくやるパク。この両サイドの選手は取ってからが早い。また、取られてからも早い。彼らがカウンターの主役である。
中盤の真ん中には動ける選手を3人並べて最終ラインの前に壁をつくる。中盤の壁はボールを奪うと、縦に早いだけでなく、嫌味なくらいに落ち着いてパスを回すので、アーセナルの選手は中々ボールを奪取できない。おそらくマンUの監督は2点取られるまでスタメンのメンバで続けていたのではないかと思う。それまでにカウンターで1点は取れると見込んで。
一方、アーセナルはといえば、ほとんど決定機を作れてはいなかった。スピードを消されたウォルコットがサイドを崩せるわけでもなく、苦し紛れにクロスを上げても勝負できるのはアデバイヨールだけで、こぼれ球を引いた相手に拾われるというパターンが目に付いた。
もっともマンUの先制点が残り80分の試合を作ったことは疑う余地のないところなので、アーセナルの拙攻をとがめるよりもマンUのゲームプランとチーム力を素直に認めるしかないのであろう。うまくアーセナルが先制点を取っていればもう少しエキサイティングな試合になっていたはずだ。
しかし、実際はそうはならなかった。
そのことをガナーズは受け入れなければならない。試合後、ベンゲルの言った「今夜の最も大きな失望は、チャンピオンズのセミファイナルを戦った気がしない」という気持ちも込みで。
posted by highbury |21:51 |
Arsenal |
コメント(0) |
トラックバック(0)