2008年10月25日
あの人が、再び日本の土を踏みしめた。
オシム。
そうか、もう、あれから1年経とうとしているのか。
あのあと、岡田さんが監督になった。
困難な中、決断した岡田さんの決意は並々ならぬものだと思った。変わらず見続けようと思った。
岡田さんに決めた協会も、オシムとともに歩んだ日々を、自らの糧にしているものと信じたかった。
しかし、代表戦をみる上で、自分に変化が現れた。
録画した画像を、見返すことをしなくなった。
以前は、ワンプレーにつながる動きを確認するたびに、伏線の動きが絡み合って組み立てられる動きが見え、飽きもせずに巻き戻しを繰り返しては、再生ボタンを押した。
楽しかった。見るたびに、サッカーが面白くなった。
その、ワンプレーに絡む動きの妙を、話し合うことが楽しかった。
さらには、その先に何があるのか。空想の中の英雄譚が現実となって形となるような、そんな高揚感。試合を見るたびに、のめりこんだ。
巨人ゴリアテに立ち向かうもの、ダビデ。知恵を持って戦う。
猪突猛進でゴリアテに適うはずもない。それは勇気とは言わないだろう。
自らの短所を長所とし、相手の長所を短所とする、勇者の知恵。
今の代表は、今のままでいいのだろうか。蚤の蛮勇。そう見えてしまうのである。
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2008年06月06日
スポナビのトピックスで【「今度は私が『頑張れ』と言う番だ」
イビチャ・オシム氏アドバイザー就任会見】(|http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/japan/text/200806040012-spnavi_1.html) を読んだ。
順調に回復し、故郷の土を再び踏みしめることができるようになったとを、本当にうれしく思う次第。よかった・・・。
オシムさんは、拠点を欧州に移し、日本サッカー協会のアドバイザーとして幅広く「助言」を行う立場になるそうである。
となると、もちろん格好の話題として取り上げられるのは、現代表に対する影響度ってところになるとは思う。もちろん、助言を行うこともあろう。しかし、どこぞの誰かのように、マスコミに対して、アドバイスの内容を公表したりだとか、無用な混乱を招くことはしないだろう。オシムがマスコミ・世論と対峙したユーゴ監督時代の苦難を忘れるわけはない。今回の会見でも「人生はずっと戦いの連続でした。選手時代は相手選手と、監督時代は自分のクラブの選手と、そして、代表監督になってからは記者の人たちとです。でも、負けたとは思っていません。まだまだ心臓が動く限り、私は働き、戦い続けます。」と言ってしまう人なのだ。
「船頭多くして船山に登る」という状態を心配する必要はないだろう。代表監督が、代表における権限を持つ以上に課せられる責任の重さを、重々理解しているのがオシムさんである。「助言者」の立場を超えるようなことはしまい。むしろ、岡田さんが求めれば、薬となる言葉をこっそりと処方してくれるだろう。
アドバイザーとして、具体的に何をしたいか?という質問に対し、「皆さんからのデリケートな質問に答えることです。失言したらこれから10日間、新聞をにぎわすかもしれませんし。まあ、後任者を困らすことは起こらないようにしなければいけませんね。」と答えていることからも現れているだろう。相当な皮肉込みではあるものの。
まぁ記者会見中の田嶋専務の言葉によると「具体的な契約は指導者養成、ユース育成、フリーな立場で、海外のさまざまな情報を入れてもらうこと」。ユース世代の育成に携わりたいとの発言も以前にしてることだし、メインは「指導者養成、ユース育成」に関するアドバイザーと」いったところか。もっとも、これから先のことを思えば、そっちの方がよっぽど重要なことだと思うのだ。
しかし、この記者会見のやり取りを見て、安心した。巧みに記者たちを「けん制」する姿は、さすがである。
「(記者の)皆さん全員にアドバイスを送るには、私一人では足らないと思うからです。ジャーナリストひとりひとりが日本サッカー協会にとってのアドバイザーです。でもその数は少し多すぎるかもしれません(笑)。」
・・・・・記者の皆さんには、かみしめてもらいたい言葉である。
posted by hemrock |01:15 |
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2007年11月30日
本題に入る前に。こちらのブログ「in my football life」を見て、自分の視点の狭さに反省しきり。岡田さんすみません。岡田さんが、いかなる結論を出そうとも、私は非難しません。
しかし、オシム監督の病状に関する報道が今日は無いみたいですね・・。
では、以下本文。クドクてすみません。今回で最後にしますんで。
燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんや
〔補説〕 史記(陳渉世家)
ツバメやスズメのような小さな鳥にどうしてオオトリやクグイのような大きな鳥の志が分かるだろうか。小人物には、大人物の大きな志は分からない。
読 み: えんじゃくいずくんぞこうこくのこころざしをしらんや
解 説: 中国の楚王の陳渉が若い頃農耕に雇われていたとき、雇い主に向かって「立身出世して富貴になっても、互いに忘れないようにしよう」と言って嘲笑された。陳渉は「ツバメやスズメのような小さな鳥にはオオトリやクグイのような大きな鳥の志すところは理解できない」と言ったという故事による
(出典:ことわざデータバンク)
あまり、好きな諺ではではないものの、今回の後任選定騒動を考えるに、当てはめてしまった。
燕雀たる私は、目の前で起きる出来事を、かまびすしく騒ぎ立てるくらいしかできない。
そんな燕雀とは違い、協会のお歴々は「鴻鵠の志」をもって事にあたり、今回の結論に至ったのやも知れぬ。いや、そうでなくてはなるまい。
ただし、その「志」が「鴻鵠」の如き物であるかどうかは、今後のありようで判断される。協会が「燕雀」であるか「鴻鵠」であるかは、後の歴史が決定する物であろうから。
過去、協会の燕雀っぷりになんども失望してきた方々も多いだろう。ただ、其の過去が繰り返されるという確証もない。繰り返されないという確率は低いかもしれないが。まだ、失望するには早いと思うのだ。
危ぐも有る。はたして、燕雀が鴻鵠に成り得るのか。
オシムという「鴻鵠」を間近に見た協会の中に、新たな「鴻鵠」が生まれ出ていることを願っている。
ここまで書いておきながら、やはり、協会が「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」などと、後の世に評価される「落ち」になりそうな気がしてきて、大変不安であるのもまた事実であるが。
以上の点を踏まえ、今後の日本代表を見守って行きたいと思う・・・・が、最大の懸念は、私が「鴻鵠の志」であったか否か、判断することができないことだな。なぜって?私は「燕雀」にすぎないから。
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2007年11月28日
オシム監督の後任人事の是非についてエントリーした以上、この話題にも触れておきたい。
まだ、岡田氏は要請を受諾してはいないが、受諾に前向きであると言う。逃げない人だな、と素直に思う。
前回のエントリーで述べたように、後任に誰が決定したとして、不満を述べるつもりはない。不満を述べるほどの、監督に関する情報を持ち合わせてもいない。
ただ、記者会見の全文を見ていないため、心配な面があった。
穿った見方ではあるが、岡田氏に就任要請するにあたり、あくまでオシム監督回復、もしくは他の国際的に名の有る監督が就任するまでの「暫定的」な監督として考えており、すげ替えを前提として「扱いやすい」監督を選んだのではないかと言う点である。
これは、「何故」という明確な理由をハッキリと上げることはできないが、好まざるべきことであると思う。私には、暫定を前提とした人事に理があるとは思えないのだ。さらには、「オシムサッカーの継承」と言う縛り。そのような条件の中で、十分に能力を発揮できるものなのか。
監督には「結果」という責任が生じる。その責任を負わせる以上、「暫定」であるとか「継承」であることを前提とするのは、おかしいであろう。監督候補と話をして、どのようなサッカーをやろうとするのかを聞き、要請するのは技術委員会である。委員会としての方針を含んだ上での人選である以上、後任監督に「オシムサッカーの継承」という条件を改めて課す必要はないのではないか。「オシムサッカーの継承」が委員会の方針であり、その方針にそぐわないサッカーがなされたとしても、其の責は委員会が負うべきものである。監督が負うべきものではない。要請するのは技術員会であるのだから。
今朝、日経新聞に目を通した所、緊急避難的な人事という見方を小野技術委員長は次のように否定したと書いてあった。「実現の可能性は無視して、最適なのは誰かを考えた結果、岡田さんしかいなかった。」
また、「オシム色の継承」に触れ「監督とは破壊者の一面がある。同じサッカーをしてくださいと新監督を縛るのはどうかと思う」と語ったとも書いてあった。(私は、オシムサッカーの破壊を望んでいるわけではないので誤解の無きよう。)
文面通りに受け取るしかあるまい。この発言が建前ではなく、私の心配は杞憂であることを望むばかりである。
岡田氏が就任を受諾し、オシム監督の後、どのようなサッカーを目指していくのか。フランスWC時代、札幌時代、横浜FM時代のやりようが、今の岡田氏の考え方を表すものでもあるまい。私は、今後も日本代表のサッカーを見続け、其の上で、今までの間代表に感じてきた期待感を持てるかどうかを考えるしかない。
ただ、願わくは、願わくは、オシムのサッカーをベースに、さらなる進歩が見たい。それは私のエゴである。
尚、新聞各紙には、「オシム監督が意識回復へ」の記事がのっていた。話のできる状態ではないもののの、何らかのコミニケーションは取れたとの事である。まずは一歩前進。
posted by HemRock |12:27 |
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2007年11月27日
オシム監督の後任選定の是非について、いま現在の自分の考えを纏めたい。
これは、感情論を抜きにして考えれば、当然行うべきことと考える。
技術委員会で暫定的に指揮をとり、オシム監督の回復を待ち、意向を聞いたうえで後任を決定するという話もあるが、果たして、それはいいことなのだろうか。ここは、技術委員会の方針通り、後任人事を進めることは致し方ないことだと思う。
病床のオシム監督の回復を期待して、其の意見を待つというのは現実的ではない。また、意識が回復したとして、代表監督の後任人事の責任をオシム監督に押し付ける形となってしまうのではないか。いままで、オシム監督と共に行動してきたであろう技術委員会が、この期に及んで、独自に判断できないようでは、例えばオシム監督が2010年まで無事指揮をしたとしても、オシム監督不在後の道筋は混迷を極めるだろう。
オシム監督と技術委員会がどれだけの意思疎通を図ってきたかは、解らない。昨年6月のどたばた以来1年半、考えを同じくして強化に取組んできたはずであり、そのやり方については、色々批判はあるにせよ、私にとっては将来を期待させるものであった。
私たちやマスコミと違い、技術委員会の面々は、オシム監督と何度も話を重ね、今後の方針も話し合っているはずであり、そうでなくてはいけない。そんな話すらしていないのであれば、そもそも、技術委員会もしくはJFA自体に対して、なんら期待するものはない。まぁ、そのような話を重ねているにせよ、いないにせよ、技術委員会が決めた後任に対して、オシム監督は何ら苦言を呈すことは無いであろう。
ジーコ監督時代に意見を求められても、代表監督としての経験のある彼は一切意見を言わなかった。トルシエ時代に色々メディアを通して発言していたジーコとはえらい違いである。「船頭多くして船山に登る」理は身にしみてわかっている人なのだろう。だからこそ、後任人事が自分不在で決まったとしても、苦言を呈すことはしないと思う。むしろ、そのような権限を残されることに不快に感じると思うのだ。
後任人事が決定した後で、オシム監督の権限を残しておくと言うのは、もっとも避けるべきことかもしれない。オシム監督にとっても、新任監督にとっても、日本代表にとっても、である。一表現者として、自分の意図が反映されないもしくは、目指すところは同じであれ、他の人の意見が重用されるとわかっている所に、有能な監督は来るだろうか。
技術委員会は、後任人事に着手していると聞いて、「さもありなん」と思った。今こそが、彼らの最大の正念場である。今後目指すべき日本のサッカーについて、オシム監督と、最も密に話し合ったであろうと思われるのは、彼らしかいないのだ。其の上で、後任も選べないというのであれば、オシム監督の嘆きはいかばかりか。
決定される監督人事の是非については、決定時点で論議すべき物でもない。疑問は残るかもしれないが。オシム監督の意図を、推測もしくは妄想する他術のない私は、日本代表として、新任監督がどういうサッカーをやるのか観察しつづけることしかできない。其の上で、今までの間代表に感じてきた期待感を持てるかどうかを考えるしかない。
しかし、しかしだ。感情としては、オシム監督が率いる日本代表の完成形を2010年に見てみたかった。もちろん、その場合でも、本選に出場できる保証など有りはしない。それは承知している。が、見たかったのだ。これから、チームとしてどのような進化を見せてくれるか。選手はどう成長していくのか。・・・喪失感は計り知れない。
ただ、理性として言えば、「オシム監督がすべて」でない事も確かである。
今のところは、静観し、生還を祈るしかない。
posted by HemRock |14:55 |
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2007年11月19日
やはり、書かずにはいられない。
16日自宅に帰って、ニュースステーションを見て唖然とした。「オシム監督、急性脳梗塞で倒れる。」
健康不安は聞いていた。循環器系(心臓?)に問題を抱えていたらしいし、薬を服用もしていたと聞く。
が、ACL決勝でも姿を見せ、前日には千葉の練習にも顔を出したらしい。が、突然襲った脳梗塞。
脳梗塞は循環器系の疾患と関連があるとはいえ、「突然」という感はぬぐえない。
weedさんのコメントによると、後遺障害もさる事ながら、再発が怖いということである。
ペレファンさんがコメントで言うように、サッカーを見てあれやこれやと、グダグダ語るようになったのも、オシム監督のおかげ。
オシムが監督でなければ、あれやこれやとサッカーのことや、さまざまな事を考える事など有り得なかった。
そのおかげで、サッカーの楽しさだけでなく、物を考える楽しさ、物を書く楽しさ、物を語り合う楽しさを感じられるようになった。まだ拙いとはいえ。
だからこそ、誤解を招くかもしれないが言いたい。
今、私は、代表うんぬんはどうでもいい。ただ、色んな楽しみを知る切っ掛けになった、オシム監督が無事生還することを祈るばかりだ。
自己中心的に聞こえるかもしれないが、そう思う。
追伸:命を賭しても、責任をもって代表監督を全うせよ、という馬鹿なことを言い出す輩が出てこないことも合わせて祈りたい。
posted by HemRock |12:51 |
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2007年08月12日
さて、前回は【「トリックスターオシム」に対する素人ギャンブラーの強い憧れ】ってことで話を締めてしまったわけであるが、この関係は良い関係ではない、と最近思うようになった。
その「憧れ」=「畏怖」は、トリックスターにとっては利用するものにすぎないのである。
そこで、思い出されるのが「麻雀放浪記(青春編)」の「出目徳」と「坊や哲」の関係である。
「麻雀放浪記(青春編)」とは、阿佐田哲也(色川武大)作の麻雀を題材とした大衆娯楽小説である。戦後混乱期のドヤ街が舞台。主人公「坊や哲」がチンチロ(サイコロ賭博)部落で「ドサ健」と出あった事を切っ掛けに、博徒の世界に足を踏み入れる。「ドサ健」「オックスクラブのママ」に麻雀の手ほどきを受け、「出目徳」にバイニン(イカサマ師)の技を仕込まれ、麻雀に没頭する「坊や哲」。「ドサ健」に対し「坊や哲」「出目徳」とのコンビ麻雀で戦う中盤の山場、さらには、「坊や哲」「出目徳」「ドサ健」「女衒の達」でおこなう青天(上限なし)麻雀のラストシーンは、勝負師たちのエゲつなさよりもむしろ、「清々しさ」を強く感じてしまう。救いようのない「勝負師」達であるが、「勝負」に対する殉教者たらんとする彼らにとっては、「勝負」こそが救いの道。其の様は、正に殉教者の如く「清い」のである。おっと語りすぎた。(青春編・風雲編・激闘編・番外編の4部作であるが、ここでは青春編のみ取り上げた)
この中で、「出目徳」は「坊や哲」をオヒキ(コンビ麻雀を打つための手下)として使うため、バイニンの技―即ち「イカサマ技」を教える。当時は、全自動卓ではないので、手積で山を作るわけだが、このときに自分に有利な配牌となるように山に積み込むのである。この積み込み技の「大四喜十枚爆弾」や「2の2の天和」等の「必殺技」を「坊や哲」は仕込まれるのである(積み込み技はコンビ打ちが必須であった)。だか、「坊や哲」はあくまで「出目徳」の相棒であろうとした、対等の立場にあろうとしたのである。最終的には、二人は対等の立場で激闘を繰り広げるまでになるのである。
私は 「出目徳」=オシム 「坊や哲」=日本代表(JFA・サポーターを含む) という関係が理想ではないかと考えるのだ。物語を知っている方は「縁起でもネェ」と言うかもしれないが。
今のところ、「坊や日本」は、「坊や哲」ほど狡すっからくはないけれど、「出目徳オシム」は、イメージにぴったりである。映画版「麻雀放浪記」の高品格(映画の出目徳役)にもかぶる。まさに海千山千、数々の修羅場を潜り抜けた、歴戦の「勝負師」である。しかも、見事にメディアやファンをペテンに掛け、相手チームまでも、オンザピッチ・オフザピッチの両面からの戦術で翻弄する。やはり、トリックスターである。
我ら「坊や日本」は、この「出目徳オシム」と対等にあらねばならない。技は教わるが「オヒキ」に成り下がってはならないのである。確かに、「出目徳オシム」は「坊や日本」が「大四喜十枚爆弾」や「2の2の天和」をできるようになると信じ、仕込んでくれているところかもしれない。「坊や哲」は対等であるために「自分の技」を必死に見出した。「坊や日本」はなにをすべきなのだろう。私には分からないが、「出目徳オシム」に対する「憧れ・畏怖」だけでは、ただのオヒキにしかなりえない。「ドサ健」「女衒の達」といった強豪達とは、対等に戦うことなどできないのではないか。
・・・ただ、「坊や哲」は「大四喜十枚爆弾」や「2の2の天和」を完璧に実行できていた。我らが「坊や日本」は其の点、まだまだである。やはり、今のところは、「出目徳オシム」のオヒキでやっていくしかないのが「坊や日本」なのかな。ああああ、「道」は大変長そうである。
さてさて、余談であるが、ぜひ 「麻雀放浪記(青春編)」も興味を持った方は読んでみていただきたい。勝負にイカれたバイニン達の素敵な関係を堪能できること請け合い。「2の2の天和」の合図である「天気の話」をわざと麻雀中にやったりする奴もいたねぇ。角川の文庫本だと、あとがきが「ムツゴロウ」こと畑正憲。この人も、かなりの麻雀バカだ。麻雀の指南書も書いてるし。そのあとがきもまた味がある。
さらには、イラストレーター和田誠監督の「映画麻雀放浪記」これがすごい。白黒の映画なのであるが、ドヤ街の熱気、勝負師たちの息遣い、女達の燃え立つ色気!一言で言うと「エロティック」なんだな。坊や哲が真田広之、ドサ健が鹿賀丈史、出目徳が高品格 (昔缶コーヒーのCMで「あら引きネルドリップ」といってた張り込み中の刑事役をやっていた。故人)というキャスト。特に高品格が絶品。邦画が嫌いな人も、ぜひ見て欲しい。(大竹しのぶ、加賀まり子もでてるよ)
posted by HemRock |02:59 |
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2007年08月11日
以前、当ブログの「リスクとリターンの危険な関係」の中で、negroさん(「outside」のブログ主さん」)が、オシムは「素人投資家が当たればでかいと考えていることを、機関投資家が実現しようとしている感じ」との評をしていた。
この話で、思ったことがあるわけです。
人間、不確実なものに対して、何らかの法則があると考えるもので、その法則を知り尽くした者の存在を信じてしまう。やおい的な例えになるが、フリーメーソン陰謀説なんかも近いものがあると思う。(ある事象が起こるには、それ相応の理由があるのは当然なんであろうが、すべて「一団体の陰謀だ」で片付けようとする甚だ乱暴な考えではあります)。しかし、そんな存在を信じてしまうんですね。
特にギャンブル(ここでは麻雀)においては、其の傾向は激しい。(ロト6にまで法則性を見出そうとするものまである。)ギャンブルにおけるヒーローはまさに、そういう存在である。素人が偶然で片付けてしまうものに、法則性を見出している者。全ての行動に意味のある者。それが、ギャンブルヒーロー。ん~ヒーローというよりは、トリックスターかな。
たとえば、麻雀漫画の金字塔(いろんな意味で)「哭きの竜」。この「竜」がすごいのよ。「鳴き」を中心とした麻雀は、役が下がり牌回しもキツクなるので、お勧めされていないのだが、この「竜」は一般的なセオリーを無視した鳴きをしまくったうえに、相手から上がってしまう。自分に来る牌、相手の待ち・考え、場の流れ等々全てを知り尽くしたように思われる「竜」。物語の構成上、「竜」の考えが語られることはない(関係者の証言という形で物語が進むため)く、人間の匂いが全くしない「神」の様相を呈しているのだ。こんな存在にあこがれてしまうわけで。
【余談になるが、この漫画は、麻雀が分からなくとも十分面白い。「おっさん背中が煤けてるぜ」のきめ台詞は、真似をした奴はおおいはず。しかも、脇役のヤクザがいい味だしてる。甲斐ってのが出てきて「竜よ~お前の運をワシにくれやぁ~」とかの名言も多い(これは、私のきめ台詞でもあった)。とにかく魅力的・印象的なショットや台詞が多く、パロディが数多く登場した。】
オシムに対しても、この「ギャンブルヒーロー」「トリックスター」に対する期待感に近いものがあるのだ。
しかしながら、「哭きの竜」というよりも、「アカギ」に近いものが感じられる。
まぁ、どっちにしろ、神レベルであるわけだが、「アカギ」の方が、考え方等が語られるため、まだ人間くささを感じられる。「竜」は「人智を超えて」いるが、「アカギ」はまだ「人智を尽くして」いる。
「アカギ」も麻雀漫画である。この主人公の特徴は、自分の判断と信念には命を懸けること。その判断と信念から生まれる数々の行動が、見事勝利への複線となって生きるのである。そう「判断と信念から生まれる数々の行動が、見事勝利への複線となって生きる」ここが、オシムに対しても期待してしまうところなんである。オシムに対する深読み解釈の理由なのだ。
良いにしろ悪いにしろ、トリックスターオシムに対する、素人ギャンブラーの強い憧れがそうさせるのかもしれない。とか思いつつ次回へ。
・・・・ジーコは「竜」ではなく「ぎゃんぶらぁ自己中心派」の「ゴッドハンド氏」だよなぁ。
posted by hemrock |08:27 |
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2007年08月09日
さて、ビデオに取った試合、ACのイラクvsサウジ戦や2000ユーロのフランス代表のyou tubeを見ないままに時が過ぎました。過去の行いが悪く、自宅でPCの前に1時間以上座っていると、妻から厳しい視線が飛んでくるんですね。自業自得ですわ。
世の中では、U-22・4カ国対抗戦の中国・ボツワナ戦、オールスター、マリノスvsバルサなど有ったようですなぁ(遠い目)。オールスターに至っては、小野のピカピカ頭のみ印象に残っており、ゴールシーンは全く見られず。プリキュアマックスハートのDVDに、東西オールスターは惨敗したのであります。べ・・別にプリキュアは、私が見るわけではないぞ!娘よ娘。
こんなんで、もっぱらサッカーのことを考えるのは、通勤途中や仕事場の不毛な会議中。会議中は、メモをとって考えてる振りをしながら、ブログのネタを書いてたりして。さすがに仕事場では動画は見られないからなぁ。
でですね、今回は、唐突ですが麻雀なんですよ。ちょっと職場で麻雀の話題が出まして、サッカーと麻雀について、どうしようもない会議中にミジミジと考えていたことを、載っけてしまいます。
大学生時代、部の先輩から麻雀を仕込まれまして、見事に嵌ってました。私は、もっのすっご「弱」かった。とにかく勝負事には激ヨワなのであります。パチンコも競馬も弱かった。でも、こんなやつに限って賭け事に嵌ってしまうもんです。バイト代を貯めて買った、テレビとビデオデッキを、麻雀の負け分のカタに持っていかれたときには、涙しました。 今は、賭け事は全くやってないです。
で、麻雀は、異論はあるかと思いますが、「判断力」のゲームなんですよ。とにかく不確定要素が多い中で、自分に入った牌をどういう役に持っていくか、様々な選択肢がある中で、素早く判断し、取捨選択していく。場の流れを見ながら、最良と思われる行動を取る判断力が兎に角ものを言うのです。これ、なんとなく似てませんか、サッカーに。(サッカーに限ったことではないですね。)
ボールを持った瞬間、様々な選択肢がある中で、最良と思われるものを選択し、それを行う。デフェンスでも同じ。麻雀でも、セオリーがありまして、例えばペンチャン・カンチャン待ちよりも、順子待ちのほうが確立が高いので、そちらに持っていくことが多いわけですが、場の流れを見て、あえて確率の低いペン・カンチャンに持っていったりとか。サッカーでいうと、通常はパスを選択する場面だが、あえてドリブルを選択するとか。そこの判断が大変面白い所なのではないかな。見てても、自分の予測する方法と違うことをやったりして、それが見事に決まると、ものすごい面白いわけです。「なぜその選択をしたか」などを考えるのも面白い。(やった当人は何も考えてなかったりすることもありますが。)逆に、セオリーを無視して失敗すると、非難も囂々なわけで。(この辺は音楽のアドリブの面白さとも似てますね。)
現在の日本代表のサッカーは、麻雀で言う所で、簡単にアガリに向かわずに、相手に振り込まないように上手く牌を回しながら手を作っていき、美しい役・でっかい役を狙っていくというようなサッカーかな。でもですね、麻雀もサッカーも結局は「上がったもん勝ち」「上がってナンボ」なわけですよ。だから、いくらかっこ悪くても、風牌や役牌ノミとか、平和ノミのノミキックでサクッと上がられれば、面タンピン三色等のきれいな手なんぞ張っていても、負けは負け。よく「あぁ~俺はこんなすげぇ手ねらってたんだよ~。見てみろよ~。」とか言って、上がれていない手を見せる方は多いと思うが、何の意味もなかったりする。でも、そのアガリ手に持っていく技術は大変重要なのでありますが。これ、日本代表っぽくないですか?日本代表に対する評価もこんな感じでないかな。
さらには、美しい役・でかい役を狙ってるうえに、べたオリしない(0狙いの引きこもりをしない)もんだから、牌回しもキツキツなわけです。結果、相手の安い手に振り込んじゃったりする。この牌回し(守備)の技術が足りないとか。べたオリしても、日本の場合、振り込んじゃってることが多いような気もするけど。
このような麻雀は、テンパイ即アガリのスピード麻雀には負けてしまう。圧倒的な技術の差があれば勝てるが、同等・それ以上の場合は、「上がれない時はべたオリ、テンパイしたら手は伸ばさずに直ぐ上がるスピード麻雀」には敵わないのです。そう、べたオリでしっかり守り、上がるチャンスとみれば、即効で上がってしまう「カウンターサッカー」には敵わない。勝つためには、美しい手である必要などないのです。
実際、私は無謀にも、悪友と一緒に、雀荘に乗り込んだことがありました。フリーで行ったので、相手2人は玄人。こっちが手作りしている間に、あっという間に上がられる。なにも出来ないのですね。あっという間に私と悪友はすってんてん(ちなみにこの悪友は、仲間内では圧倒的に雀力があった)。あっけに取られて帰ってきたことがあります。
若さで、「テンパイ即リー大ぶんぶん丸で、潔い勝負を仕掛けるのがカッコイイ」と勘違いしてしまう時期もあります。そう、何でもかんでもリーチを掛けて、勝負に行くんでは、格好のカモですね。私は考えるのを放棄し「テンパイ即リー大ぶんぶん丸」の時期が長かった。「勝負に行って、たまたま振り込んだんだから、仕方が無いんだ。」と自分に言い訳してましたよ。
しかしながら、べたオリのスピード麻雀ばかり狙っては、麻雀の本当の面白さは無いわけです。雀力は付かないのですよ。だから、あえて先輩とやるときは、リャンハン縛りとか、後付け無しとか(詳しい説明は経験者に聞いてね)の「縛り」ルールでやったりするわけです。まぁ、色んなサイトでも話に出てますが、ACでも同じような狙いがあったのかなとも思ってしまうんですね。
スピード重視のべたオリ麻雀ばっかりでは見てても詰まらんのです(べたオリでも振り込まない技術は重要ですね)。でかい役・美しい役を狙って、ひらり・ひらりと相手のテンパイをかわしながら、ズバッと上がる麻雀は、見てるほうも大変面白い。まぁ、状況によっては、相手のでかい役をノミキックで流しちゃったりすることも必要かなぁ。
しかも、サッカーは11人でやるわけで。一人だけが判断力に優れているだけでは、何ともならない。ゲームの流れをどう読むか・どう持っていくかとかは、共通した認識が必要でしょう。いや、サッカーはすごいなとつくづく感心してしまうのです。
・・・・まぁくだらない話ですが、戦術的な話が出来ないものだから、こんなことを考えるのが面白かったりして。
もうすこし麻雀ネタは続きます。興味がある方は見てくださいね。
posted by HemRock |13:55 |
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2007年07月27日
2007年7月26日 AM8:00 とあるオフィスにおいての会話
上司「ほぉ~らな。言ったとおりだろ。負けるって思ってたんだよ。駄目だって日本は。」
私 「いやいや、しかしですね、日本のやりたいことは見えてきたわけですよ。」
上司「ダァメダァメ!何だかんだ言っても、アジアレベルでサウジに負けたんだからなぁ。俺は駄目だって思ってたんだよ今の代表は。」
私 「しかしですね、ACの戦いぶりを見ると、今後の成長が非常にですね・・・・」
上司「おっと、仕事仕事!・・・」
私は今、代表に恋をしている。飽きっぽい私なので今後どうなるか分からないが、代表のやることを真剣に理解しようと努力している。若干、理解をする方向性に疑問が感じられるが。そして、必ず今よりももっと面白い試合を見せてくれる筈だと信じている。いつかは強豪に通用するようになると。それは、何十年後かもしれないが、今のやっていることはそこに繋がっていると信じている。
しかしながら、私の上司のように、昔、恋人に手ひどく裏切られ、恋することに臆病になっている人は多い。そう、どうせ裏切られるのだからと、斜に構えて眺めてたほうが、負けた時のショックがやわらげられるから。だが、勝ったとき、成長した姿をみたときの喜びは、信じたものの方がはるかに大きい。
私も以前は恋に臆病であった。裏切られた時のショックが怖くて、まともに試合を見ていなかった。しかし、今は代表に恋をしている(私に恋されて代表も迷惑かもしれないが)。手ひどく裏切られるかもしれない。しかし、それまでは信じてみたい。傷ついてもいい。そうこれは恋なのだ。
裏切られ、傷つき続けた者たちよ。もう一度恋をしよう。あなた方の傷の深さを、私はうかがい知ることは出来ないが、今の代表は信じるに値すると私は思うのだ。
結果はどうなるかは分からない。未来は分かりえないのだから。しかし、今の監督と代表には未来を期待させる何かがある。
そう、騙され、裏切られるかもしれない。その可能性はある。しかし、そう割り切って恋をしないのは、あまりにも勿体ない。
傷ついたものたちよ。もう一度恋をしてみないか?
・・・と、私は上司の背中にそっと語りかけるのである。
(「outside」中マリノスに対する愛情/サウジ戦の感想におけるコメントおよび「サッカーコラム J3」中「もう一度、代表に夢を見てもいいのだろうか?にヒントを得ました。)
posted by HemRock |18:49 |
オシムに関して思うこと |
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