2008年12月29日

サッカーをしたい女の子のため(上)大部由美

2008年12月28日。
池田浩美の引退を知った。
池田の引退に思うところは多い。だから書きたい。
でもわたしが池田について書くにあたっては大部由美が前提になる。
そのため以下に昨年の2月に書いた文章を掲載する。




数日前の新聞で大部由美の引退を知った。 
スポーツ欄の片隅に小さく出ていた。 
大部は1975年生まれ。 
かつてサッカー日本女子代表のキャプテンだった。 

● 

恥ずかしながらサッカーを観て泣いたことは何度もある。 
1997年ジョホールバルで初めてW杯に出場を決めた日。 
2000年ローマにいた中田英寿がユベントス相手に決めた逆襲のスーパーミドル。 
2002年長居スタジアムでW杯グループリーグを突破した瞬間。 

でも試合の前半を観ている内に涙を流してしまったのは一度だけだ。 
2004年4月。 
日本女子代表がアテネ五輪出場権を賭けて北朝鮮と戦った試合である。 

北朝鮮の女子サッカーは強い。 
パワーとスタミナを活かした身体能力が売りだ。 
特に3年前はアジア最強だった。 
日本はW杯に出られるか/出られないかというレベル。 
絶望的な戦いだった。 

しかし日本女子代表は勇敢だった。 
個人で競り合えそうなのはエースの澤穂希だけ。 
でもだからこそ彼女たちはチームプレーに徹した。 
走った。 
走った。 
走って1対1ではなく2対1の局面を作り続けた。 
個人ではなく組織で勝負すること。 
自分たちの上をいく技術と身体能力を持つ相手に対して緻密な戦略と強い意志を持った11人の協力で戦った。 
勝った。 

● 

2004年春はちょうど「ジーコジャパン」がどん底の時だった。 
スタメン固定。 
コンディションを無視した「海外組」の贔屓。 
不満を溜めた7人の「国内組」が合宿先を抜けだしキャバクラで大騒ぎ。 
W杯1次予選で格下のシンガポール相手に大苦戦。 
個人の才能に頼って連動は皆無。 
走らない。 
交代出場した鈴木隆行と藤田俊哉の奮戦で薄氷の勝利。 
ちっとも嬉しくなかった。 
情けなかった。恥ずかしかった。 
東京ではジーコ解任を求めるデモが起こった。 

日本女子代表の奇跡はそんなときに起こった。 
そうなんだ。 
別にめちゃくちゃ強くなくてもいい。 
上手くなくてもいい。 
でも日本代表はサッカーに対して一生懸命であって欲しい。 
われわれが求めているのは熱い心だ。 
彼女たちはそれを思い起こさせてくれた。 
しかも勝った。 
だから本当にうれしかった。
誇らしかった。 

● 

ただ。 
日本女子代表は自分たちだけのために戦ったのではなかった。 

勝利に浮かれるマスコミに対してキャプテン大部は冷静に語った。 

「女子の選手というのは試合前いつも2つのことを考えています。 
 1つはこの試合に勝つということ。 
 もう1つは女子サッカーのためにも負けることはできないんだということ」 


● 

いまの日本で女子が本格的にサッカーをするのは難しい。 
最高峰である「なでしこリーグ」の選手だってプロは少ない。 
まして普通のおんなのこは。 
女子サッカー部を持つ中学や高校はきわめて稀だ。 
むかし近所に住んでいた女の子は小学生のとき全国大会の出場経験があった。 
しかし中高に女子サッカー部がなかったゆえに他のスポーツに転向せざるをえなかった。 

やはり女子サッカー部に巡り会えなかった友だちは6年間男子のなか女子1人でサッカーをやっていた。 
セクハラめいたイヤな思いはいくらでもしたという。 
でもそれ以上に悔しかったという。 
小学校のときには男子の中でも上手い方だった。 
でも中学になると足の速さや体の大きさで男子とは差がつく。 
いちばん弱い選手になってしまった。 
でも。 
それでもサッカーがやりたかった。 

北朝鮮と戦った日本女子代表の選手たちはこうした劣悪な環境を誰よりもよく知っていた。 
ならば少しでも多くの人に女子サッカーを知ってもらえますように。 
少しでも多くの人が身の回りのサッカー好きな女の子をあたたかく見守ってくれますように。 
アテネ五輪に出場することで世間の注目を集めなければならなかった。 

あの試合の交代シーンを忘れない。 
日本女子代表の一人の選手が交代を告げられる。 
彼女は疲弊しきった体をかろうじてピッチの傍に運ぶ。 
そして代わって入る選手に崩れかかるようにして抱きつく。 
交代する選手はそんな彼女の体を支える。 
そしてぎゅっと抱きしめてからピッチに入る。 
3回の交代で3回とも同じシーンが見られた。 
とても大切なものを受け渡しているのがわかった。 
それは日本中のサッカーを愛する女子たちの想いだ。 
劣悪な環境にあえぐ日本中のサッカーをしたい女の子たちの想いだ。 

● 

大部由美は高校生の時にLリーグ(現なでしこリーグ)デビュー。 
16歳で代表に入った。 
日本代表として85試合戦った。 
時代と共にやがて大部より優れたディフェンダーも出てきていた。 
それでも最終ラインからチームを統率する大部の存在は貴重だった。 

しかしあの試合で大部はサブだった。 
3バックの中央をやっていた大部はチームが4バックを敷くようになってレギュラーを追われたのである。 
それでも大部はベンチから声を出し叱咤してチームを引っ張った。 

レギュラーから外した上田監督も言っていた。 
「キャプテンは大部。
 大部が出ないならその時にゲームキャプテンを決めます。
 けれどこのチームのキャプテンは大部です。
 試合に出ていようが出ていまいがそれは変わりません」。 

大部由美は15年間日本女子サッカーの第一線でボールを追った。 
体を張った。 
声を尽くした。 
日本中のサッカーをしたい女子たちのために。 

ありがとう。お疲れさま。

posted by gregorsamsa |02:03 | コメント(6) | トラックバック(0)
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2008年12月27日

宇佐美貴史を長い目で見る

2008Jユース杯決勝は大阪ダービー。
それも長居。
ガンバからもセレッソからもトップ昇格する選手が複数いる。
またガンバの16-17才=「プラチナ世代」は逸材が揃う。
期待しながらスカパー!で観戦。

前半開始からセレッソユースの守備の出足がよい。
ガンバのパスワークを寸断。
それでも少しずつ勢いが衰えてきたかと思われた32分。
来期からセレッソトップに昇格するMF山口くんがガンバDFラインのギャップを突く。
ガンバ陣右にてフリーでパスをもらって持ち込んでファインゴール。
前半をセレッソがリードして折り返す。

後半もガンバはペースを掴めない。
特に遅攻のときのディフェンスラインのボール廻しが危なっかしい。
…と思っていた矢先に交替で入ったFW永井くんにパスミスをかっさらわれる。
落ち着いてゴール。
0-2。

まだ後半開始して4分。
出鼻を挫かれた。
ガンバにイヤな雰囲気が漂い始める…かと思われたが51分。
ガンバの明日を背負うMF宇佐美くんがセレッソPA右付近に侵入。
セレッソGK一森くんが宇佐美くんの右足をすくってしまってPKの判定。
やはり来期ガンバトップに昇格するFW大塚くんが落ち着いて決める。
1-2。
コロコロとは行かないまでも「ガンバの7番」に恥じない安定感。

さらに1分後の52分。
ディフェンスラインからセレッソ陣左に大きな展開。
その間に交替出場のガンバDF山田くんが大胆なオーバーラップ。
セレッソPA左ニア付近を突く。
ディフェンスを振り切って小さく浮き球で折り返したところに待っていたのはMF田中くん。
前半には惜しくもポストに当てたシュートがあったが今度はヘッドできっちりゴール。
2-2。

試合の行方がまったくわからなくなる。
しかしセレッソユースは少しずつ運動量にかげりが見え始める。
前半に守備で飛ばした疲れか。
攻め手が少なくなってくる。
そして72分。
ガンバFWブルーノくんがバイタルエリアで交替出場のガンバMF大森くんにパス。
セレッソDFとGKが一斉に詰めるが大森くんは落ち着いてゴールに流し込んだ。
3-2。

セレッソは攻めるしかなくなる。
しかし最後のゴールを決めたのはやはりガンバ。
77分。大塚くんがセレッソ陣右でもらったパスを中央に流す。
走り込んだ宇佐美くんの足には少し合わなかったようだが細かいステップで調節してズドン。
アウトの回転がかかったミドルが突き刺さった。
4-2。
そのまま試合終了。
Jユースカップファイナルはガンバ大阪ユースが制した。

このタイトルは宮本世代および井川・児玉世代以来らしい。
松波監督は就任最初の年にタイトルをゲット。
実好コーチと島田コーチの笑顔も印象的だった。

注目の宇佐美くんはまずまず。
2007年ガンバの家長のような感じだった。
貴重な突き放し弾を決めたのはさすが。
でももうひとがんばりできないかな? という想いは残った。
セレッソユースも警戒していたから簡単ではないのだろうけれど。
スカパー!の解説で原ヒロミさんは
「上手いけどあの運動量では話にならない」と指摘。

素人がテレビで観ただけの印象では「悪い」というほどではなかった。
技術とスピードに加えてシュートにパンチがあるのがよい。
ただ効果的なフリーランの引き出しが少ない印象。
たとえば二川と比べて。
また逆サイドで味方が攻めていると見ていることが多い。
どうせパスが来ないからだろう。
しかし来年から上がるトップではどこからでもパスが来る。
だからこそ動き出しが課題。
でもパスが来ることが体感できれば自然にもっと呼び込む動きをするのではと思った。

スターを待望する日本サッカーにとっては救世主になり得る存在。
だからどうしても期待されてしまう。
でもガンバファンとしては長い目で見てあげたいと思った。
遠藤だって「マスター・オブ・ガンバ」の存在感を放ち始めたのは23才くらいから。
まだ7年以上ある。

大森くん始め他のガンバユースの選手たちも優れた技術を持っていた。
彼らにもゆっくり着実に成長して欲しい。
ガンバの未来は長く続く。

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posted by gregorsamsa |17:24 | コメント(2) | トラックバック(0)
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2008年12月26日

モリシ引退に寄せて

2008年12月6日。
森島寛晃が引退した。 

モリシはセレッソ大阪のエースだった。 
わが愛しのガンバとは「大阪ダービー」で何度も対戦した。 
モリシの活躍で何度辛い目にあわされたか知れない。 
でも決して憎む気にはなれなかった。 

誰からも愛される選手だった。 
ピッチの内でも外でも謙虚そのもの。 
日本代表で共に戦った名波浩は言った。 
「モリシは〝いい人〟日本代表でも絶対11人に入れる」 

95年から02年まで日本代表。 
96年ごろにはトップ下でエース級の働きを見せていた。 
しかし97年からは中田英寿が台頭。 
98年のワールドカップでは活躍できなかった。 
その屈辱を鮮やかに払拭したのは2002年。 

2002年6月14日。 
自国開催W杯ベスト16を賭けた長居での戦い。 
日本は前半チュニジアを攻めきれなかった。 
業を煮やしたトルシエは後半開始からモリシを投入。 
直後だった。 
中盤で中田英寿が鈴木隆行の動きに合わせてスルーパス。 
チュニジアDFの足に当たったボールはあらぬ方向へ転がる。 
そのボールにピッチ上の誰よりも速く反応したのがモリシだった。 
右足一閃。 

鮮やかなファーストタッチ・ゴール。 
それは誰よりも「ボールのないところ」で貢献し続けた選手に神が与えたハイライトだった。 

モリシはいわゆる天才ではない。 
「フェイントなんて1つしかできませんよ」と笑っていたのを思い出す。 
でもモリシは「ボールのないところの動き」が抜群に上手かった。 
いつ見てもピッチをかけずり回っていた。 
パスコースを作り出すために。 
味方がボールを持った瞬間。 
誰よりも早く敵の脅威となるスペースに走り込む8番。 
モリシは日本サッカー史上最も優れた「パスの受け手」だった。 

「モリシのゴールが見たい!見たい!見たい!」 
日本代表ゴール裏でいくたび叫んだことだろう。 
モリシの歌はいつしか「日本のゴールが見たい!見たい!見たい!」に変えられて歌われている。 
いかにも寂しい。 
でも日本が世界で勝つためには一人でも多くの選手が「モリシの動き」をする必要がある。 
献身的なパスコース作りにこそ日本サッカーの生きる道がある。 
その意味においてモリシの歌が日本代表の歌の定番になったことは正しい。 

それにしても2002/6/14のゴールは素晴らしかった。
あの日わたしは長居のゴール裏にいた。 
セレッソのエースがホーム長居で代表として沈めたゴール。 
わたしが人生で最も感動したゴール。 
思い出の中でただひたすらに眩しい。

posted by gregorsamsa |18:33 | コメント(7) | トラックバック(0)
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2008年12月25日

佐々木勇人の2008年

各大陸の王者が集うクラブワールドカップ初戦。
ガンバ大阪の佐々木勇人は18分間でピッチを退いた。
ミドルシュートを撃った瞬間倒れ込み自ら×印を出した。
目を覆い体を震わせる佐々木を担架が運んでいった。
全治3週間の怪我。
ガンバ大阪はこの大会のあと天皇杯も控えている。
でも佐々木の2008年は終わった。

26才の佐々木にとって2008年は人生で最も密度の濃い1年だった。
今季J2の山形からガンバに移籍。
もともと大学は大阪(大阪学院大学)。
でもプロにはなれなかった。
J2の仙台にテスト生で受け入れてもらった。
でも契約には至らず。
辛うじて雇ってもらえたのが山形。
佐々木は山形でひたすらドリブルとキックを磨いた。

2年後。
2007年末の天皇杯でガンバと山形が対戦。
もちろんガンバが順当に勝利。
しかしガンバの左サイドは佐々木に蹂躙された。
シーズンを終えてから西野監督は佐々木にオファーを出した。
佐々木はガンバ大阪の一員になった。

佐々木にとってガンバは夢の世界だった。
大きなクラブハウス。
美しい芝のピッチ。
専用のバス。
スパイクは磨いてもらえる。
ユニフォームも練習着も洗濯してもらえる。
何よりすばらしい才能を持った仲間たちがいる。

最初は試合に出られなかった。
ようやくチャンスをつかんだのは7月。
遠藤が倒れ病院で車いすに乗っていたころだ。
7月16日のFC東京戦。
佐々木は後半開始から投入。
しかし後半35分に下げられた。

交替した選手がさらに交替させられる。
一般にはありえない事態。
監督の期待を完全に裏切った選手。
2万人の前に恥をさらした。
その日佐々木は眠れなかった。

しかしその屈辱が佐々木を覚醒させる。
それまでは周りに合わせようと努力していた。
でもガンバの中盤の技術は日本最高。
技巧に満ちた遠藤・二川・明神・橋本のパスワークについていけない。
ついていけないのに参加しようとする。
チームのリズムが乱れる。


「簡単にやろう」

「できることをやろう」


佐々木の「できること」とは何か。

右足のキック。
スピード溢れるドリブル。
それだけ。

でもその2点においては佐々木は才能集団ガンバの中でも屈指だ。

それからの佐々木は右足のクロスとドリブルに賭けた。
途中出場すればクロスを連発。
時にはシュート。あるいはドリブル。
ひたすらそれだけをやった。
そのシンプルさが時に技術に溺れるきらいのあるガンバの中では生きた。

9月。
10月。
11月。

佐々木は信頼を勝ち得ていった。
いつしかガンバになくてはならない「スーパーサブ」になった。
試合の途中で16番が入ればガンバは一気に攻撃のアクセルを踏んだ。
今年2月からずっと戦い続けて疲弊した秋のガンバを支えたのは佐々木のブレイクだった。

佐々木が活躍した時間は4ヶ月にも満たない。
でもファンはあの右足から放たれるキックの喜びを覚えてしまった。
カーブ。シュート。ストレート。弾道の高低。
佐々木はどのキックを選ぶのか?
どこをピンポイントで狙うのか?
ボールを持つたびに想像してしまう。
ファンはもう覚えてしまった。
佐々木の描く七色の軌跡を。

去年まで山形で将来に脅えながらひたすらキックを磨いていた青年。
その青年が1年後世界最強クラブを決める大会の舞台に立つ。
これが夢でなくてなんだろう?
しかしその夢は18分間で断たれてしまった。
全治3週間の怪我。
欧州王者マンチェスターユナイテッドと戦う真の夢舞台に佐々木は上がれない。
佐々木の2008年と夢は終わった。

代役は誰だろう。
23才の寺田紳一。
19才の倉田秋。
共に関西中から才能が集うガンバユース出身。
2人ともめちゃくちゃ上手い。
でも勝負には妙に淡泊だ。
きっと小さい頃から上手かったのだろう。
ずっとずっと上手いと言われてガンバのトップまで来たのだろう。

それはそれで素晴らしいことだ。
でも忘れないで欲しい。
君たちよりずっと下手くそな16番のことを。
ドリブルと右クロス。
たった2つの武器で4ヶ月ガンバを支えた164センチ。
佐々木の代わりに夢舞台に発っていることの意味を考えて欲しい。
ありあまる才能を活かす道を見出して欲しい。

posted by gregorsamsa |17:21 | コメント(11) | トラックバック(0)
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