2009年01月30日
高校のクラス会の遅い新年会を都内某所で行い、その二次会で28日深夜から年甲斐もなく、カラオケボックスにくりこんだ。
気がつけばすでに12時半近くになってしまい、家に着いて倒れこむようにベットにもぐりこんだのが多分2時ごろのような気がする。
バーレン戦をインターネットで見る予定だったが、おじさんたちのいけいけのノリに、ついつい付き合ったせいで、とうとう試合を見損ねた。
翌日、いや当日のスポナビをチェックすると、なななんと!0-1で負けてるではないか?
もしかして、酒が抜けず頭がボーっとしているから、記事を見間違えたかと、もう一度確認してみる。
ブログのいくつかをみても、どうやら岡田ジャパンの悪い癖がまたまた出たような印象だ。
どうもこのところ、試合の出来不出来の差が大きく、いいゲームをしたと思うと、次のゲームは課題、問題を残すゲームをしてしまう。
いくつか原因はあるのだろう。
ひとつは中村憲剛のコメントのように、相手のペースに引き込まれ、日本のペースに引き戻せないという点。やはりゲームを作る中村俊、遠藤に続く選手が育っていないため、この二人がいないと、マイペースにゲームをコントロールすることができない。
つまり主力組と控え組の差がまだまだ大きいということだろう。
二つ目は海外組みとのコンビネーションがうまく取れず、チームとしての完成度がとたんに落ちることが考えられる。パスミスが多いということは、本田、稲本と周りがうまく連携が取れないと、想像される。
本田、稲本の力云々ではなく、チームとしての意思疎通が出来ていないため、周りとかみ合わないためであろう。
ジーコのときの欧州組起用は、現在の岡田ジャパンとは違い、欧州組を主体にしていて、国内組は欧州組の周りを固めるピースとして使われていた。
岡田ジャパンはもう少し、欧州組の使い方を考えたほうがよさそうである。
今回のような起用法なら中村俊と松井、それと大久保くらいを使うだけで、後の欧州組はあえて呼ぶ必要もないくらいだ。
2月のオーストラリア戦では背水の陣で望むはずだから、今回の本田のような新戦力を試してみる、ということはまずないはずだ。
しかし、イエメン、バーレンともにセットプレーで失点しているのはいただけない。セットプレーの守り方を早急に立て直さねばならない。特に身長の高いオーストラリア戦で修正できなければ、勝ち目は薄い。
posted by futbolwold |10:25 |
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2009年01月28日
「カトキュー」の愛称で親しまれてきた加藤久・京都サンガ監督がアキレス腱断裂の疑いで、09年シーズンの指揮をとれるかどうかが微妙になってきた。
「加藤久」は口ひげを蓄えた憎めない面構え、東北人特有の茫洋としたキャラクターだが、進学校の仙台二校を卒業して母校早大助教授もつとめた学者でもある。
「カトキュー」と「加藤久」のギャップそのものが可笑しいのも加藤の魅力のひとつになっている。
京都サンガと3年の監督契約を済ませた直後、ファン感謝デーのイベント直前に前述のようにアキレス腱を切って、長期離脱しそうな様子はちょっと漫画的ですらある。
サンガサポーターには失礼を承知で、やっぱり笑ってしまう。
選手の前に監督が怪我で戦線離脱なんて前代未聞だ。オシムが病に倒れたのは悲劇だが、「カトキュー」がひっくり返るのは喜劇である。
そんな愛すべきキャラクターの「カトキュー」だが、ことサッカーに関しては手を抜かない、何事も全力でやり遂げる、という姿勢は現役選手の頃から変わらない。
94年に川﨑Vを最後に引退し、日本サッカー協会の強化委員に決まっていた加藤だが、現役最後の試合はサンフレッチェ広島を相手にしたJリーグチャンピョンシップの試合で広島の高木琢也に加藤が強烈なタックルを見舞い、高木はアキレス腱を切って退場した。
このとき高木は代表の貴重なフォワードで、強化委員、加藤はそのエースを自分のタックルで壊してしまったことになる。
このあたりも生真面目すぎるプレーが皮肉な事態を招いて、思わず笑ってしまう。
「加藤久」は強化委員として、時の代表監督人事で、加茂周からネルシーニョに交代すべしと協会に勧告した。
しかし、故長沼健協会会長の裁断で加茂監督続投を決めてしまい、それに抗議するように「加藤久」は強化委員を辞任してしまった。
以後、協会とは一線を画し、協会の要職には就いていない。
自説を曲げず言うべきことは、はっきり主張する、一本気なところがよく見て取れる。
posted by futbolwold |12:00 |
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2009年01月25日
東京ヴェルディ(以下東京Vと略す)の観客動員数(以後1試合の平均観客数をさす)を追ってみた。
93年から2000年まで、つまり川﨑から東京へホームタウンを移す直前までの、観客動員数の推移をみてみる。
93年に1試合平均25235人だった観客動員数は4年連続して前年比割れをして、97年は10933人にまで減少した。
一旦98年に前年をオーバーして13338人まで持ち直した。しかし、翌99年は再び前年割れとなり、しかも1万人の大台を割り込み、9379人まで落ち込んでしまう。
2000年はさらに落ち込みはひどく7609人となり、前年J2からJ1に昇格した川﨑Fの7438人とほとんど似たり寄ったりの観客数である。この年、川﨑F同様、J2から昇格したFC東京は東京Vより4000人以上多い、11807人を記録している。
東京Vがスタジアムキャパシティに問題ある川﨑等々力を離れ、東京ブランドにより魅力を感じたのは、FC東京の1万を越える観客数を横目で見ていたこともあったのだろうか。
きっと隣の芝生の緑が美しく見えたのだろう。
そして2001年、東京Vは恋焦がれた東京にようやく移転することができた。2001年の観客動員数は思惑が当たって19396人と95年の20833人に迫る観客を集め、人気復調の兆しを感じさせてくれた。
かたや、同じ2001年に川﨑Fは再びJ2に転落し、J1に復帰できたのは05年だった。
おそらく東京Vの経営陣は東京移転の判断が正しかったことを確信しただろう。
しかし、同じ味スタをホームスタジアムにしているFC東京と比較をしてみると、それほど手放しでは自画自賛できなかったと想像できる。
FC東京はJ1昇格2年目の01年には前年の2倍近い22313人もの観客を集めたのである。
東京Vの本音はFC東京を越える観客を集められなかったことに、おそらく内心忸怩たるものがあったであろう。同じ条件でFC東京に遅れをとってしまったのだから。
このことは杞憂ではなく、翌02年の東京Vの観客動員数は01年を4000人以上下回り15128人に急落してしまった。
FC東京が前年比微減の22173人だったことを考えると、やはり東京Vは東京移転を実現しても、けして前途は明るいものではないことを思い知ったであろう。
FC東京は03年以降も24000人から25000人台と08年まで安定的な観客を集めている。
また01年から4年間、J2に甘んじていた川﨑Fは05年に念願のJ1再復帰を果たし、いきなりその年に13658人の観客を集めた。以後08年まで観客数を順調に延ばし、08年は17565人まで増やしている。
東京Vは03年に17562人と前年を上回り、04年は15053人、05年は14716人と低水準ながら観客数は安定していた。しかし、06年はついにJ1陥落となり、観客は史上最悪の5705人まで落ち込んでしまう。
翌年もJ2を脱することができず、川﨑時代の最終年の00年とほとんど大差ない7327人で完全に逆戻りをしてしまった。
08年にJ1復帰を果たし、観客も14837人とJ2陥落直前の水準を取り戻したが、08年シーズンは17位で、1年でJ2に逆戻りとなってしまった。例外なくどこのクラブでもJ2降格直後のシーズンは大きく観客を減らすことになる。最悪の場合5000人割れも十分考えられる。
日テレは株式の売却先を必死に探しているが、チーム状況が悪すぎるうえに、売却のタイミングとしては世界同時不況で時代も悪すぎる。これまでのスポンサーとて株主になるにはリスクが大きすぎて、二の足を踏むだろう。
たとえ、累積負債ゼロで引き継ぐという条件でも、一旦地に落ちたブランドにはなかなか飛びつく企業は現れないだろう。
それこそホワイトナイトでも現れなければ、東京Vの先ゆきは、ことのほか厳しいものになる。
posted by futbolwold |11:26 |
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2009年01月21日
早いパス回し、シュートの正確性、点を取るためのアイデア、イエメン戦を見た正直な感想は主力組との差はまだまだある、というもの。
引いた相手に、サイドからの崩し、正面からのミドル、いずれも精度がいまいちで、結局2得点は田中達と岡崎の二人の絡みから生まれたもので、後半の終わりに投入された、乾、金崎はいいところが全く見せられず、絶好のアピールの機会を活かすことができなかった。
乾などはサイドから中に切れ込み、斜めの角度から打つシュートは下半身が弱く、腰が切れないため遠くゴールをはずす。玉田のシュート技術と比べると相当見劣りがする。
寺田と高木の両センターは無難な守備をしていたが、これはイエメンが攻めの形を作れていなかったので、ほとんど参考にはならない。
目に付いたのは田中の精力的な動きと岡崎のゴール前での位置取りのうまさ。
あるいはスタメン久々の駒野と香川の粘りのあるボールキープが目立った程度だった。
やはり経験不足と感じたのが、ゴール前のアイデアの少なさである。ゴール前に人を集め、固める相手に対して、一本調子のパス回しでは密集をすり抜けることはできない。トリッキーな浮き球を裏に落とすような柔らかな発想がほとんど見られなかった。
やはり中村俊輔、遠藤あたりが絡めば、もう少しテンポ、リズムを変えられるはずだ。
同じ若手でも内田、岡崎、香川らは代表の経験も積んでいるからだろう、みるべきものはあった。しかし乾、金崎の二人はプレー時間も短いこともあるが、経験の差が歴然としていた。
若い選手はピッチにたつチャンスは限られているからこそ、短時間でも観客をうならせるようなプレーを心がけなければならない。
でないと代表も世界もいつまでも遠い世界になってしまうだろう。
世界のスーパースターは10代から輝いている。
posted by futbolwold |16:04 |
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2009年01月20日
東京ヴェルディ(以下東京Vと略す)の前身は1969年に設立された「読売サッカークラブ」。
「読売サッカークラブ」は下部組織の充実と地域密着型のスポーツクラブのさきがけで、現在のJリーグの理念をいち早く実践した組織だった。
日本のプロサッカーのパイオニア的存在で1991年には読売新聞、よみうりランド、日本テレビ放送網の3社による出資で「読売ヴェルディ」の名前で親しまれていた。
カズ、ラモス、北澤、武田、ビスマルクのスターを擁し、ブラジルサッカーのスタイルで実力、人気ともに群を抜いていた。
しかし、読売グループのドン、ナベツネがプロ野球における巨人の成功例をサッカーに重ね合わせようとしたところから、微妙に様子がおかしくなっていった。
ボタンの掛け違いの最初はJリーグの統一基準である、チーム名から企業名「読売」をはずし、地域名の「川崎」をつけることに東京Vは抵抗した。
挙句の果てに過去何度か「巨人」中心の新リーグ結成をちらつかせプロ野球界を牛耳ってきた手法とってきた。同じようにJリーグを脱退して「読売ヴェルディ」を盟主にした新プロサッカーリーグ立ち上げるという揺さぶりを試みた。
しかし、これは当時の川淵チェアマンに一蹴され、ナベツネの時代錯誤的思考回路が物笑いに晒されただけだった。
天皇杯を制した96年以降はチーム力、人気ともに徐々に陰りが見え始め、98年には読売新聞、よみうりランドが経営から撤退してしまった。想像の域を出ないが、撤退の真意は野球のようにうまみが少ないと判断したのだろうか、あるいは自分の意のままにならない、Jリーグに魅力を感じなくなったのだろうか。
ボタンの掛け違いの二つ目はホームタウンの移転である。
等々力競技場を嫌ったのか川崎から味の素スタジアムのある東京に移転してしまった。
諸事情があるとはいえ、Jリーグの理念であるホームタウン制を軽視したことも、サポーターのなかでは評判をかなり落としたと思われる。川﨑フロンターレがJリーグのなかでも根強い人気を保っているのが好対照である。
もし東京Vが堅実な成績を残していればいまごろ「川崎ダービー」で盛り上がったであろうに、長期的な経営戦略のなさが悔やまれる。
そして2008年、東京VはまたしてもJ2に降格してしまい、今オフは多くの主力選手との契約を結ばず、何かと話題になった。
おりしも、アメリカ発の世界的な大不況のあおりを受けて、日本テレビが37年ぶりに赤字に転落し、毎年10億円とも言われる運営費補てんが困難になり、ついに身売りの話まで出てきた。
日本テレビが株主として残るのか、新しい複数の出資者がどこに決まるのか、出資割合がどうなるのか、まだまだ決まっておらず、東京Vの迷走は当分続きそうだ。
フロントの力量がこれからますます問われる時代になってくる。
posted by futbolwold |16:28 |
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2009年01月19日
毎年のように、サポーター同士の小競り合いや暴力沙汰が沸き起こり、また他方ではゲーム終了後にサポーターによる選手ならびにフロントに対する非難、抗議行動がしばしば起きる。
熱くなった一部のサポーター同士が、些細なきっかけから小競り合いを起こし、スタンドが騒然となる。
万単位のサポーターのなかには、観戦、応援スタイルも千差万別である。
ゴール裏に陣取り、90分たち続けて応援をする人も、じっくり座ったまま試合に没頭する人もいる。同じクラブを熱烈に応援するサポーターにも、それぞれ温度差があり、どちらがより熱心かは一概に判断がつかない。
各Jクラブは観戦、応援マナーに細かなルールーを設け、観客が安全に観戦できるよう気を配っている。しかし、安全な試合運営に万全を期しても、何万人の観客で埋め尽くされるスタジアム内では、いつ何時不測の事態が起きるか誰もわからない。
おきてしまったことは、ある程度致し方ない面があるが、その後の対処の仕方、問題を沈静化させるノウハウを構築するしかないだろう。各クラブが心しなければならないことは未然に防ぐこと以上に、事後処理のほうであろう。
一部のサポーターが試合直後、スタンドに居座り続け、選手やフロントに執拗な抗議をして、スタンド全体が騒然とするケースについては、個人的見解からいえば、選手もフロントもその場では応じないことを提案したい。
試合直後の興奮したサポーターと選手の間に冷静な対応を求めることなど不可能に近い。
しかも抗議するサポーターが全サポーターの意見を代弁しているとはけして思えない。
サポーターの選手ならびにクラブへの意見、不満は年齢性別ごとにアトランダムにクラブが選び出し、定期的に意見交換会をセッティングし、そこでサポーターの多様な意見を吸い上げ、同時にクラブの考え方を説明すればよい。その結果をクラブの公式サイトで速やかに公表すればなおよい。
Jリーグでは各クラブの年代別、男女別の観客分布をアンケート方式で2001年から、2007年までのデータを取り続け、公表している。
それによると、J1全体の2007年のデータでは、19歳~29才までが23%、30代が33%、40代が24%、50代以上が14%となっている。
全国平均の年齢は36,5歳である。クラブごとに年齢構成は少しずつ異なっているが、浦和、横浜の30代はともに40%越え、清水、磐田、大分の50歳以上はおのおの26%、24%、28%と全国平均をかなり上回っている。新潟は40代、50代で53%も占める一方で、19~29歳も28%と高い。名古屋は19~29歳が32%と高いのが特徴である。
Jリーグでは年間チケットのカード化をすすめていて、従前のアンケート方式でなくとも、個人の属性を把握することが瞬時に可能となる。ならば年代別、性別の個人をアットランダムに抽出することは簡単である。
クラブにとっては、12番目の選手の意見を広く公平に吸い上げることは、運営上絶対に必要なことである。
しかし、騒然とした試合直後のなかでは「たかが12番目の選手」と割り切り、あえて無視すべきである。
ただサポーターとクラブの定期的な意見交換は必要であり、そこでは「されど12番目の選手」の意見を厳粛に受け止めるべきだと考える。
posted by futbolwold |10:14 |
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2009年01月15日
2008年、Jリーグ最終戦のマリノス戦でこの1年の膿を出し切るような惨敗を喫して、浦和は無冠でシーズンを終えた。
永井、相馬がチームを離れ、小池、高崎ら5名の若手も期限付き移籍などで09年シーズンは浦和からいなくなる。
新加入は移籍期限満了から復帰する赤星、阪南大から野田が加わり、下から高橋、濱田、山田、永田の若手が引き上げられる。
09年シーズンは外部からの移籍を封印して、現有戦力の底上げを目標に据えたことになる。
浦和の監督は1993年から2008年までの16年間で、延べ15人が浦和の指揮を執ってきた。2004年~2006年のブッフバルトの3年間を最長にして、2007年のオフト、1995年のオジェックがそれぞれ続けて2年間、監督を務めてきたが、一人の監督がじっくりクラブを育て上げてきたという印象は少ない。
それでも、オフトがナビスコで優勝してからは、ブッフバルトで天皇杯2回、Jリー初グ優勝も成し遂げ、一昨年はオジェックのもとでACLチャンピョンになった。
この間の浦和は、堅守をベースにエメルソン、ワシントンの個人技で点を取り、勝ち抜くという「サッカースタイル」を貫き、結果を出してきた。
フォワードの個人技に頼るこれまでの「サッカースタイル」を変えようと意図していたのかどうか不明だが、08年はワシントンの代わりに高原、エジミウソンのツートップを獲得して、さらなる得点力アップと攻撃的サッカーを目指したのだろうが、結果は裏目に出てしまった。
高原とエジのツートップは互いに左右に流れすぎたり、反対に中央に二人が重なりすぎたり、ちぐはぐな動きで、特に開幕直後からしばらくは全くといっていいほど、二人は機能しなかった。
ワシントンはマークが複数ついても、うまくかわして前を向けば、高い確率で得点をあげてきた。しかし、高原とエジの二人は高い位置でボールをキープし、ためを作るタイプではない。そのため簡単にボールを奪われ、相馬、平川の両サイドは後の守備を考えて、積極的に上がることにリスクを感じ、消極的なプレーをせざるをえなかった。
攻撃がちぐはぐになると、守りの意識が強くなり、守備の負担も重くなる。カウンターを食って、堅守を誇った守備陣も失点を重ねることになる。
中盤はポンテ、長谷部、小野の欠けた穴が埋められず、前線と後方が間延びし、組織全体が機能不全に陥ってしまった。
得点力の低下、守備への過重な負担、中盤の不在、この悪循環に陥ったことへの緊急措置が守備の要のトゥーリオを上げて点を取りに行くことだった。トゥーリオの守備の穴うめを阿部にゆだねるという策だった。結果、阿部のよさが活かされないというマイナスの側面も出てきた。
しかし、チームコンセプトが崩壊したような戦い方は、当初はうまくいったように見えたが、やはり所詮付け焼刃的な戦術に過ぎず、相手に研究しつくされると、リーグ終盤でそのほころびがあらわになり、さっぱり勝てなくなった。
これが08年シーズンのおおつかみな状況である。
かたや連覇した鹿島はオリベイラ監督の下で、明確なチーム戦術のもとで結果を出した。
名古屋もヨンセンにボールを集め、その間に両サイドの上がりを待つというコンセプトがはっきりしていた。川崎は破壊力のある外国人トリオに攻撃をゆだね、大分は堅い守備からのカウンターで上位に食い込んだ。
チームコンセプトがしっかりしたところが、よい結果をもたらすという常識的な意見に落ち着く。チームコンセプトを明確にするのはやはり現場を預かる監督が中心になり、その監督をフロントやスタッフがしっかり理解して、磐石なサポートをすることだ。
選手はチームコンセプトに従い、プレーでの決め事を守り、その範囲の中で全力を尽くす。
この歯車がきちんとかみ合えばおのずと、結果は出てくる。
12番目の選手であるサポーターの要求は常に多様だ。攻撃的なサッカースタイルを好むものもいる、その反対に守備を固めてカウンタースタイルを求めるものもいる。システムにこだわるものもいる。
しかし、勝てば官軍ではないけれど、結果が出れば、サポーターはこれが「浦和のサッカー」と思うはずだ。
オジェックが一昨年、過酷な日程のなかで頑なに交代枠を残しても、固定メンバーで1年間戦い続けたことに、少なからず疑問を持ったサポーターは多いと思う。私もそのなかの一人だが、監督の仕事には当面のタイトル争い、目先の勝ち負けにこだわるのは当然としても、若手育成も大切な仕事である。
クラブの監督と代表監督の大きな相違点は「育成」である。
オジェックならびにゲルトに対して不満だったのは若手育成に関してである。
しかしオジェックとゲルトにも当然言い分はある。「育成」には時間と忍耐が求められる。チーム状態が悪ければ監督はそこまで気が廻らない。目先の勝ち負けにどうしても目がいってしまう。
したがって「育成」にはクラブ自体の明確な指針が不可欠である。
プロ野球には捨て試合という考え方がある。
長丁場だから、すべてのゲームを全力で戦うことはできない。試合の結末がある程度読めた段階で、控えの選手や若手にチャンスを与えることができる。
サッカーの場合、プロ野球の3分の1程度の試合数でなおかつ交代枠が少なく、プロ野球ほど余裕はないかもしれない。それでも監督は常に若手の底上げを図らなければならない。
幸い09年のフィンケ新監督は若手の育成に定評があるという。
有望な若手を根気よく使い続ければ必ずものになる。選手はゲームをこなしながら成長するからだ。何時間もの練習より90分の実践に勝るものはない。昨今、浦和にはユース上がりの有望選手がそろっている。
監督、フロント、選手、そしてサポーターも若手の育成ならびに現有戦力の地道な底上げという中長期的な「チームコンセプト」をたて、09年シーズンはその初年度という位置づけで考えてもらいたい。
願わくば、早ければ3年後には浦和のタイトル独占!そんな場面を思い描き、09年シーズンを楽しみたい。
posted by futbolwold |10:28 |
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2009年01月12日
2006年6月22日、中田英寿はドイツワールドカップ予選、最後のゲーム、ブラジル戦直後にピッチの上で長々と体を投げ出し、10分近くもさまざまの思いを反芻するように、一人感慨に浸っていた。
中田はこのときから遡ること6ヶ月前にすでに引退を決めていた。
TV画面を見ていた限り、中田の行為にはなんとなく不自然な「くささ」を感じ取ってしまった。中田らしくない行為だったからこそ、私は中田のあのときの行動になんの感動も感慨も共有することはできなかった。
それまでの中田なら、何事もなかったように一人でさっさと、ピッチを後にしただろう。
それだけに、中田の行為は私の目にはきわめて奇異に映ったし、中田らしくないと感じた。直感として次のステップに向けた布石を打っているようにすら感じた。
結果として布石はちゃんと活かされて、衝撃の引退と世界放浪の旅宣言へとつながっていった。
ワールドカップから2週間もたたない2006年7月3日には“人生とは旅であり、旅とは人生である”という中田にしてはあまりにも凡庸なタイトルをつけて、自分のオフィシャルページ「Hides Mail」に掲載している。
ピッチに倒れこむほどのショックを受けたように見えた割には、立ち直りと切り替えのスピードは超高速キラーパスのようにあまりにも速かった。
中田はカリスマのような存在として同年代から多くの支持を受けている。
中田にとってサッカーが自己表現のone of them程度くらい、サッカー以外の多くの才能に恵まれている。語学、金儲け、事業欲、そのいずれもが卓越している。かつて、同世代から好感を持たれていた、江川や桑田とは比較にならないほど、多面的な才能をもち、かつその才能のレベルは一流である。
自らが発案・企画したCharity Matchに63,143人もの人を横浜に集めたのはその才能の一端を現している。中田の企画力、行動力、実行力が遺憾なく発揮された成功例だろう。
しかも一サッカー選手が周りから担ぎ上げられたのではなく、自らがリスクを抱え込みながら、これだけ大きなイベントを行ったことに意義がある。
中田は一人のサッカーのスター選手である。
サッカーでどのくらいお金を儲けようと、そのお金を資金にして、さらに金儲けをしてもなんら問題はない。ファンはあくまで中田のアスリートとしての価値に関心を持ち、そのプレーに興味を持つだけで、彼の懐具合を詮索したいと思っているわけではない。
少なくとも私は中田には日本サッカーの牽引者的役割を期待していた。平たく言えば日本代表のリーダーとしての役割を担うよう願っていた。しかし、やはり中田はサッカーにおいては最後まで孤高の人であった。
「残念だったのは、自分たちの実力を100%出す術を知らなかったこと。それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。時には励まし、時には怒鳴り、時には相手を怒らせてしまったこともあった。だが、メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった」
これは「Hides Mail」の第1回の中田の言葉である。
そう、中田はサッカーにおいてはリーダー足り得なかったのだ。
あれだけの実績、あれだけのサッカーへの取り組み姿勢、そしてドイツWCは中田にとって3回目のWC出場という経験も周りの選手たちにうまく伝えることができなかったのである。
サッカーというゲームがチームとして有機的に機能しなければならないスポーツであるのに、中田は結果論だが孤高のプレーを自分のためにだけ、繰り返していたことになる。
垂範率先していれば、周りがいつか気づき、理解してくれるだろうという思は通じなかった。
中田がこの世に生まれたのが早すぎたのか、周りが中田の非凡さについていくことができなかったのか、いずれにしても双方不幸な結果を背負い込んでいたことになる。
中田は相当なブランド好きである。
有名人、著名人も中田にとっては服やサングラス同様、身に着けるブランドにすぎない。中田の有名人好きをあらわしているひとつのエピソードである。
これはかなり以前、TVでスマップの香取慎吾自身が証言していた話である。
香取が欧州で親しい友人数人と休暇を楽しんでいるとき、中田が偶然ホテルのロビーで、香取たち一行に出くわした。会ったその場で中田は香取を食事に誘った。そのとき香取はあいまいな返事をして場を繕ったが、中田はその日の夕方、ホテルの部屋にいた香取に電話をしてきて、再度夕食の誘いをしてきた。
その口調は以前から二人が親しかったような口調だったという。結局、香取は友人をほっておいて自分ひとりで出かけてしまうことを嫌い、電話口で丁重に断ったという。
香取と中田はそれまで一面識もない間柄だっただけに、香取が友人を気遣い、中田の誘いを断ったのはきわめて常識的な判断である。
中田の時流を読む力は目ざとい。
世界の中の貧困、地球環境問題、地域紛争などその時々の時事問題について、常に積極的に取り上げ、かかわろうとする自らの姿勢をアピールする。
「まあ、これがみんなが1番ビックリしているところかもね。何で急にそんなことを思ったか……と言うとそれは俺もよく分からない(笑)。気が付いたら、日本の農業が気になっていた(苦笑)」
中田の時流を読むパターンはついに、こともあろうか日本、それも日本の農業問題にまで、手を広げるにおよび、さすがに本人も気恥ずかしかったのだろう、(笑)と(苦笑)を繰り返していた。
大多数の日本人の情緒とはほとんど対極的な情緒の持ち主と思われる中田が、世界を旅して日本を考えなおすという動機は理解できるが、それが農業であるというのは、あまりに受け狙いのような気がする。いまや猫も杓子も農業を持ち出し、農業に結びつけようとしているが、世論そのものが表層的過ぎる。その軽薄な世論を持ち出す中田も随分・・・という感じだ。
中田が何を思い、どう行動するかがなんとなく見えてきたような気がする。
彼がサッカーを中心軸に据えて、同心円的に中田ブランドをビジネス展開するパターンが固まってきている。農業のように多分にピントをはずすようなエラーをしながらも、時流先取り発信ビジネスを今後とも展開していくのだろう。
しかし、いつまでこの手法が新鮮さを保つのか、鮮度勝負のビジネスはそのサイクルの早さと安定性において誰が手がけても難しい。
同心円を大きく広げすぎると、そのほころびを誘う面積も必然的に大きくなる。中田の感性に全面的に依存するビジネス体質は、その感性がずれたりすれば、たちまち色あせたものになる。
中田を支持する同年代・世代も、中田と同じように年を食っていく。
中田を支持する側の感性も微妙に変質していく。変質のスピードと方向性がともにシンクロしている間は問題はないが、果たしてそううまくいくかどうか。
中田の行動には常に目を離せない。
posted by futbolwold |10:15 |
日本代表 |
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2009年01月08日
大きなストライドで長髪なびかせる、赤いドリブラーが浦和から去っていく。
身長の割にヘディングの苦手な永井には、なにかと話題が付きまとう。いわく、ヘディング嫌いは、髪が乱れるからなど。
永井は好不調の波が大きいが、いいときの永井のプレーは本当に惚れ惚れさせてくれる。ドリブルでの中央突破、あるいは右サイド深く切れ込み、ペナルティーエリアに侵入するプレーに、わくわくさせられた記憶が強く残っている。大きな試合には不思議と点を取ってくれたことも思い出す。
福田、山田とともにレッズ生粋を代表する選手の一人である。その永井がとうとう移籍してしまう。移籍先はこともあろうか、あのエスパルスである。
一昨年の日本平でのトラブルが強く印象に残っている。横断幕を掲げる、掲げないの小競り合いが、試合が始まっても延々と、しつこく抗議するエスパルスサポーターには、正直あまりいい印象がない。
そのエスパルスに移籍するなんて、永井君、殺生でッセ。
敵の一員として君が出てきたら、どう応援したらよいのだろう。
新天地でレギュラーをつかみ、活き活きしたプレーをすれば、君個人のためにはよいことであり、祝福するとしても、それによってレッズが負けるのはなんとも複雑な心境である。
エスパルスのユニフォーム、似合わないような気がするけど。
でも、埼スタで「フォワード 永井」の文字が電光に表示されたら、きっと応援コールをしてしまうだろうな。
グッドバイ サンキュー グッドラック 永井雄一郎!
posted by futbolwold |09:05 |
浦和レッズ |
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2009年01月05日
現場のトップが変わることで、それまで不遇をかこっていた選手が抜擢され、その選手が目覚しい活躍をする。プロ野球にも企業社会でもこうした光景はよく見られる。
さて、2009年の浦和はフィンケ新監督を迎えることで、昨シーズンあまり活躍の機会が与えられなかった選手がどのように扱われるか、その逆のケースが誰なのか、サポーターの一人としては大いに気になる。
まず前者の代表格に、梅崎、永井があげられる。
永井は終盤、公然とエンゲルス批判をして、賛否両論の渦中の人となった。
梅崎は移籍1年目で年齢も若く、監督の自分に対する起用法に対して表立った不満や批判は聞こえてこなかったが、内心ではかなり不満や不信を抱いていたことは想像できる。
また、都築とは同年齢で、体格的にもほとんど遜色ないGK山岸も極端に出番は少なかった。フィンケ監督がこの三人をどう扱うか。
さらに、常時出場を果たしてきた中心選手のなかでも起用法に?マークがつく選手がいた。いわずと知れた安部である。複数のポジションをこなせる能力の高さから、便利屋のように使われてきたが、結果として阿部の得点能力の高さを相殺してしまい、十分に活かしきっていなかったように感じる。
新監督の下で、この4人の起用がどうなされるのか個人的な注目ポイントにあげたい。
さて、次は昨シーズンほぼ常時、起用されてきた選手の処遇ならびに起用法である。
FWでは高原とエジミウソンの二人だが、高原はレッズ無冠の戦犯者のような扱いだが、田中達、原口を積極的に起用していけば、高原の存在基盤は相当危ういものになるだろう。
それほど昨シーズンの高原は周りの期待を大きく裏切った。
他方、エジミウソンは11得点という数字だけを見れば過不足ない働きをしたように見えるが、印象に残る得点は少ない。野球にたとえれば打率や打点は低くても、ここぞというときに、チームを救う活躍はエジミウソンには少なかった。
印象に残る得点という点では、同じ11得点のトゥーリオのほうが勝っていた。
しかし、09年シーズンではセンターバックに固定すべきだろう。フィンケ監督もどこかで、明言していたような記憶がある。
フィンケ監督は4バックを採用し、サイド攻撃を重要視するようだ。
平川はフィンケから高い評価は受けられないだろう。相馬の評価は五分五分。外国を含め外から有望なサイド候補が獲得できれば、二人の立場はかなり微妙になる。
MFでは故障上がりの昨シーズン、ポンテは満足のいく活躍ができなかった。中東の選手を獲得する動きがあるが、2年前のポンテの姿が再現できなければ、ポンテとてけして安泰ではない。
若手では原口一人の名前を挙げたが、細貝、堤、エスクデロの出場機会はもっと増えるかもしれない。さらにユース上がりの高橋、山田直、そして近藤あたりもチャンスはありそうだ。
09年のシーズンはいわば出直し1年目のシーズンである。
失うものは何もないシーズンだからこそ、大胆に選手を起用するチャンスでもある。
サポーター心理としても、フィンケ監督の思い切ったチーム改造を支持する余地がある。
目の前の勝負にこだわらない、寛容さがあると思う。
posted by futbolwold |10:53 |
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2009年01月02日
元旦の恒例行事、天皇杯決勝が行われた。サッカー選手にとっては2008年締めくくりの試合である。
G大阪がACLと天皇杯の2冠を手にした。ACL優勝の自信が天皇杯優勝に結びついたような感じがする。肉体的疲労のピークの中でも、監督も選手も落ち着いてゲーム戦術を貫き通した。
柏の作戦は早いうちに先制点をとり、G大阪が攻めざるを得ない状況を作り、G大阪の連戦からの疲労を増幅させ、戦意を喪失させようという意図だった。交代枠を早々に3つ使い果たし、90分で決着をつけようとしていた。
ガンバの勝因はこの早い仕掛けの柏の猛攻を何度もファインセーブしたキーパー藤ケ谷の活躍だ。
西野監督は最初から延長を予想していたかのように、90分での交代枠は使わなかった。
じっくり体力を温存し、相手の攻め疲れの状況を見抜いて、切り札、播戸を投入するタイミングをはかり延長に入ってから勝負にでた。
しかし、西野監督の意志の強さ、忍耐力、精神力の強さには驚きだ。思い通りの展開と結果に満足だったのだろう、試合後のインタビューでは感極まった様子だった。
この試合、120分の長い戦いで、最少得点差による決着だったが、その内容はスリリングで濃いものだった。特に柏のフランサの個人技は見ていて楽しい。
2009年のシーズンまでの当分の期間は、移籍の話題で占められるだろう。
浦和は中盤の補強としてレバノン代表MFアンタルの獲得に動いているという情報がある。
田中をはじめ数人の海外移籍の噂もちらほら聞こえているが、入ってくる選手の噂は少ない。
気になるところだ。
posted by futbolwold |09:07 |
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