2008年07月30日

正しかった、反町監督の決断

反町監督は北京五輪のアジア予選でそれぞれ結果を出してきた平山、水野、伊野波、梅崎、青山、柏木らを最終的なメンバーに選ばなかった。当然、反町監督の心の中では彼らを選ばなかった理由をしっかりもっているであろう。反町監督のこの決断への評価は北京五輪の結果で明白になる。

アジア予選を通じて五輪代表への評価はあまり芳しいものではなかった。「おとなしすぎる」、「気持ちの強さが伝わってこない」といった精神的なひ弱さを指摘する声が多かったように思う。確かにこのチームの代表格である本田圭のプレーにしてもバックパスばかりが目がついて、積極性が感じられないことがたびたびあった。
このあたりの評価が反町監督も気がかりだったのだろう、最終的な18人を選んだことに対するコメントで「心技体の“心”を大切にして選んだ」と明かしている。注目のフォワード選びで李を選んだのも、日の丸に対する李の気持ちの強さを重視したといっている。

この五輪世代のもうひとつの特色はテクニカルな面では誰を選んでも遜色ないことである。
ということはやはり気持ちの強さ、“心”を選手選考の大きなポイントと考えていたことになる。
さらに北京五輪の本戦予選は中2日おいて3戦連続で行われる。肉体的なスタミナと精神的なスタミナの双方を兼ね備えた選手を選ばざるを得ない。

そんなことを考えながら、オーストラリア戦、アルゼンチン戦を観戦した。
オーストラリア戦の収穫はなんと言っても逆転で勝ったこと。最後まであきらめなかった勝負への執着心が勝利に結びついた。“心”の強さが通じた試合だった。
香川の代表選出に疑問符を投げかけていた人も結構多かったように感じたが、その香川がアルゼンチン戦でもキーマンの一人になっていた。
アルゼンチン戦は両サイド、特に内田の自信にあふれたプレーが収穫だった。長友とのコンビで両サイドを崩すプレーは日本の大きな武器になるだろう。
前回優勝国のアルゼンチンと全体的にはほぼ互角な試合を展開していた。守備力についてもある程度目途がついたような印象を受けた。

マイアミの奇跡の対ブラジル戦はブラジルの破壊的な攻撃から守って守り抜いた後の日本の勝利だったが、昨日のアルゼンチン戦は堂々たる戦いぶりだった。点こそ入らなかったが、その臭いはぷんぷんしていた。全体的にミスも少なく、ボールも人もよく動いていた。
相手のマークにもボールを失うこともなく、細かいパス交換もできて、きちんとつながっていた。

今回のアルゼンチン戦の結果は、五輪本戦での戦いに希望が持てる内容だったように思う。
すなわち、今回の選手選考はこの2試合を見る限り、反町監督の決断の正しさが証明されたと、評価してもよいだろう。
冒頭にも書いたとおり、最終的な評価は五輪本戦の結果次第だが・・。

posted by futbolwold |12:30 | アンダー23代表 | コメント(2) | トラックバック(0)
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2008年07月20日

アジア枠をきっかけに外国人枠を再び考える

当ブログの4月29日に「Jリーグが抱える二つの課題」と題して「外国人枠」を取り上げたことがある。

オシム前日本代表監督が日本人キーパーのレベルの低さを嘆いて、「キーパー外国人枠」を唐突に提案したことを取り上げ、「外国人枠」について書いた。あれから3ヶ月もたたないうちに、早ければ来季に向けて現行の「外国人3人枠」とは別枠でアジア・サッカー連盟(AFC)加盟国・地域出身の選手を対象にしたアジア枠を設ける案が浮上、検討段階にはいっている。
そこで今回はこのアジア枠を含め、外国人枠について再度、“外国人枠拡大は日本サッカーのレベル向上に寄与するのかどうかを中期的に展望”してみたい。

一口に外国人枠拡大といっても外国人枠の「全面的制限撤廃」と「部分的制限撤廃」があり、Jリーグはいうまでもなく「部分的制限撤廃」をとっている。
外国人枠の「全面的制限撤廃」をすればアーセナルやインテルのようにスタメン全員が外国人という極端な例も出てくる。ユーロ各国あるいは各クラブで外国人枠への対応はおのおの異なるのでユーロをひとくくりには出来ないが、イギリスのように外国人枠拡大の影響で代表のレベルが低下するという声が上がっている。ただしイギリス代表のレベル低下と外国人枠拡大に確かな因果関係があるかどうかは即断出来ないが、その懸念は理解できる。

ちょうど折りしもFIFA(国際サッカー連盟)会長のブラッターの「6+5ルール」(クラブの試合で、外国籍選手の先発を5人までに制限)の提案をFIFAが支持し、UEFA(欧州サッカー連盟)も同調する気配があるという。
FIFAはこれまでサッカーの世界的普及に力を注いできた。サッカー不毛の地、アメリカをワールドカップ開催地に選び、日韓共催大会や南アフリカ大会のように各大陸持ち回りでワールドカップ開催を推進してきた。
ユーロの一極集中傾向は移籍金や選手の年俸高騰を招いたが、一方で世界的なサッカー技術の向上とサッカー人気の普及という面では功罪の「功」を担ったように思う。ユーロ・南米とそれ以外の地域との実力差は確実に縮まってきたのも「功」の部分である。

しかしここへきて世界の一流プレーヤーがユーロに一極集中することの弊害を感じ始めたのかもしれない。「6+5ルール」へのFIFAならびにUEFAの賛意はやはり「罪」のウエイトが大きいと判断したのだろう。
誰にとっての「罪」なのか、「罪」の中味はなんなのか、私自身、実はあまりよくわかっていない。(今後の課題として残しておきたい)

さて、Jリーグにおけるアジア枠導入は日本サッカーのレベル向上に寄与するのかどうかを考えてみる。
まず、具体的にアジアとはどこを指すことになるのだろう。というよりアジアとは現実問題としてどこになるのであろう。中期的にはおそらく、韓国、北朝鮮、中国、オーストラリアを指すことになるだろう。東南アジアは当面はまだ日本人選手を超える有望な選手は相対的に少ない。ならば中東はどうか?身体、運動能力の高い中東の選手はアジアカップなどでもその活躍は光っていた。しかし中期的にみると中東の選手がJリーグを選択するかどうかは疑問である。その理由は潤沢なオイルマネーで有望な自国ならびに他の中東諸国の選手を引きとどめるであろうし、かつユーロが「6+5ルール」を採用すれば、世界の一流プレーヤーの多くはユーロ以外のリーグへと流れていくはずである。そのユーロ以外のリーグの可能性はオイルマネーに沸き立つ、中東各国とロシアになる可能性が高い。

アジア枠が日本サッカーに及ぼす直接的な影響は日本人選手の出場機会が失われるということである。アジア枠を含め外国人枠の増加はイコール日本人選手の締め出しを招く。しかし、プラスに考えれば日本人選手に適度な刺激を与え、競争意識とハングリー精神が育ちレベルの向上につながるという意見がある。もちろんこれとは正反対の意見も多い。

外国人枠の「全面的制限撤廃」のユーロでは、外国人スター選手の獲得によるハイレベルで魅力的な試合の展開で、入場料収入も増え、スター選手に払う年俸を上回る収入をクラブへもたらし、その再投資で更なるスター選手を獲得しているビッククラブがある。またその一方で、若手を下部組織から育て、そのなかから生え抜きのスターを作り、そこに適度な外国人スターをうまく組み合わせて経営的にうまくやっているクラブもある。

Jリーグの場合、外国人枠の「全面的制限撤廃」は中期的には可能性は薄いと私は思っている。Jリーグにおける外国人枠完全撤廃はいくつかの点でリスクが多すぎるからだ。
プロ野球の世界では外国人選手を昔から「助っ人」と呼んできた。このことからもわかるように外国人は一時的な手助け要員として考えられてきたし、多分今後ともその点は大きく変わることはないであろう。オール助っ人チームは日本人のメンタリティーにそぐわず、ファンは集まらないだろう。Jリーグが盛りあがらなければ、同時にレベルも上がらない。
適正な外国人選手の数は姑息かもしれないが、すこしづつカードを切るように現行の3人枠を広げて、その影響を見ながら判断していくのが現実的である。

反面、外国人枠の「全面的制限撤廃」をしなければ、J各クラブの対応はどうしてもユーロのような多様な選択・対応が出来にくい側面がある。
そこでJ各クラブが今回のアジア枠を世界のサッカーの潮流を考慮しながら、中期的なスパンでどう考えるかによって各クラブに対応の違いが出てくるだろう。

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posted by futbolwold |10:27 | Jリーグ | コメント(1) | トラックバック(1)
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2008年07月17日

徒労だった大分行き

シーズン当初に逆戻りしたような浦和レッズをわざわざお金をかけて大分に行ったわけではない。

飛行機の土曜午前便がレッズサポーターに占められ、午後一の便で行き、試合開始ぎりぎりになりそうなので、空港から市内まではバスで行きたいところを、高いお金を払ってフォバークラフトで大分市内に着いた。やれやれと一息ついたのもつかの間、会場いきのバス乗り場には長蛇の列。子一時間はかかりそうな気配なので、またまた大金をはたいてタクシーで会場に乗りつけた。
こうして九石ドームについたのだが、ゲームメーカーのポンテは不在、永井がトップ下、エジムウソンと達也のツートップ。私が反対するツーボランチに闘莉王に鈴木という布陣。
平川、山田の両サイドは突破の兆しもない。
優しすぎる阿部が闘莉王とエンゲルスに気を遣ってセンターバックを志願した<?>という噂が本当であれば、阿部もまた情けない。

大分のファーストシュートは都築がボールに触れながら、ゴールを割らせてしまった。早々の失点。いつもの悪い癖だ。しかし、後半があると楽観したのがいけなかった。
全体に動きが緩慢だ。特に体のでかい闘莉王の動きが、余計鈍く見える。

どこかの誰かがブログで書いてあったことを思い出す。内容のない試合をし続けても首位に浦和が座っているJリーグは異常だ、という記事。悔しいけれど「その通り」といわざるを得ない。翌日の鹿島、東京FC戦を博多のホテルで見ていた。流れるような鹿島の動き。次々と誰かがスペースに入り込む破壊力満天の攻撃は見ていて楽しい。気がつけばあっという間に4点をたたきこんでいた。

行きの航空機の私の二つ前の座席に元東京FCの監督で現代表のコーチを務める大熊氏が座っていた。ホバーでも一緒だった。代表候補のコンディションをチェックしに来たのだろう。浦和の選手はこの試合に限っては代表の資格なしといわざるを得ない。
それよりも何よりも、レッズイレブンは数千人規模のサポーターに顔向けできるのだろうか。よく考えてもらいたいものだ。

大分の夜の町に自棄酒を飲みに繰り出したが、Jリーグ開始以来の筋金入りのあるレッズサポーターの一人は、こちらの誘いにも応ぜず、一人ホテルでバッファリンを飲んで、重い頭を布団にもぐりこませ寝てしまった。

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posted by futbolwold |09:15 | 浦和レッズ | コメント(1) | トラックバック(0)
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2008年07月16日

レフリー・その権限と信頼

サッカーシーズン幕開けのしょっぱな、ゼロックススーパーカップで不安定なレフリングで処分を下された家本主審がJ1のレフリーとして先ごろ復帰した。
あの試合、TV観戦をしていたが、そのレフリングはなんともひどかった。みていたほうが不可解なジャッジの連続でハラハラしたくらいだから、当該者たる選手、監督の戸惑いは想像に余りある。

「サッカー規則」はたったの17条しかないがそのうち1条から4条まではフィールド、使用するボール、競技者の数、競技者が使用する用具に関するもので、事実上のゲーム進行の規則・取り決めは13条と更に少ない。
そして第5条でレフリー(以下主審をレフリーと呼ぶ)に関するものが最初に規定されている。レフリーの役割がゲーム進行の重要な役割をまかされていることが規則の構成から読み取れる。
「サッカー規則」第5条の「主審の権限」には簡単にこう定めてある。
「それぞれの試合は主審によってコントロールされる。主審は任命された試合に関して、競技規則を施行する一切の権限を持つ」

「サッカー規則」の特徴的なことは条文の根底にある反スポーツ・反紳士的行為をかたく戒めていることだ。第12条「ファウルと不正行為」にそのことが凝縮されている。シュミレーション、遅延行為、執拗な抗議、暴言、一切の挑発的行為は何もサッカーにおいて特徴的な現象ではなく、社会一般で忌み嫌われる行為である。
つまりサッカーというゲームはそれにかかわるサポーターを含むすべての人の「コモンセンス」を拠り所としているといえよう。

レフリーはゲームにかかわるすべての人からその権限を付託させられている。全権を委任されているともいえる。広いピッチで副審と第四の審判のサポートを受けつつも、90分間、次々と起こる出来事にレフリーは瞬時の的確な判断が要求される。
ピッチ上の22人がどこで何をしているか、すべてを把握することは物理的に不可能である。当然人間である以上、見逃しや誤審は付きものである。選手にとってはレフリーの判定一つでサッカー人生を狂わされることもある。しかし基本的には選手も人間のやることにミスは付きものと「コモンセンス」で割り切っている箇所は多い。

「サッカー規則」は憲法のようなもので、法律や条令、施行規則のように詳細が明文化された規定がない。レフリーの解釈と判断にゆだねられる部分が多い。したがってレフリーに求められる役割は多岐にわたり、しかも重い。

レフリーに求められる資質は三つある。
一つは技術・体力に優れていること。
どの場面でどこにポジションを取るべきか、といった技術・経験の領域と90分走りきる肉体的領域の資質である。
二つ目はゲームを鳥の目のように俯瞰的に眺められる冷静さと客観性を備えていること。
レフリーは選手と同一平面上を走り回っているが、頭と心はゲームのテンポ、流れ、展開を高見の視点で眺められるかどうかが求められる重要な資質である。
三番目はレフリーには試合をコントロールする権限を与えられているが、同時に自分をコントロールできる資質が求められる。

「コモンセンス」を拠りどころとするサッカーが近年、重要視されてきたことはゲームの流れである。ゲームを淀みなく(遅延行為を重く見る)水の流れのようにとだえることなく、スピードとテンポを重視するのは、背景に現代社会のスピード化があるように思う。プロ野球界がゲーム時間の短縮に取り組んでいることにもそれは見て取れる。サッカーは90分の時間的制約があるものの、攻守ところを変えた、めまぐるしいスピードサッカーが求められるのも現代の「コモンセンス」であろうか。

家本レフリーに限らず、ゲームの流れを止めるようなジャッジにしばしばブーイングが集中するが、ゼロックススーパーカップはその見本のようなゲームだった。あのゲームに関する家本レフリーはレフリーが求められる資質の三番目、セルフコントロールを失ったように見受けられた。イエローカードの乱発は家本レフリーの明快さを欠いた判定基準に選手が抗議したことに動揺し、自分でも収拾がつかなくなったのだろう。

レフリーはゲームコントロールの権限を全面的に与えられているが、ゲームの主役であってはならない。委嘱された権限の中で、ゲームの黒子に徹し、試合を無難にさばいていくことが望ましい。選手がレフリーを信頼していれば、きっと相手の悪質なファールを見逃さないだろう、選手がそんな安心感と信頼感をレフリーに持つようになれば理想だ。選手はあやふやなレフリーの判定に煩わされず、プレーに没頭できる。あのレフリーの目はごまかせないと思えば、おのずとプレーはフェアになっていくだろう。
両チームが気持ちよい戦いが出来たと思わせることが最良のレフリングである。

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posted by futbolwold |13:47 | Jリーグ | コメント(0) | トラックバック(0)
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2008年07月15日

人を慰めるときの言葉・前園の心中を思う

慰める相手の性格、人柄、そして慰めるときの相手の状況にもよるのだが、かける慰めの言葉の選択は難しい。
相手がどの程度落ち込んでいるのか、慰める側がそれを見極められるかどうかにかかっているが、それによってかける言葉は違ってくるであろう。
好きな人にふられ、傷深く心に刻み込まれ、それを生涯引きずる人と、ふられた直後は自殺しかねんばかりに落ち込むのに、次に出会ったら新しい恋人と楽しそうにしている恋多き人にかける言葉の選択は違ってくる。

私なら後者の恋多き人へは「ふった相手は君にふさわしくない。君にふさわしい相手をがんばって探そう」と声をかけることが出来る。
前者は難しい。しかし「がんばって君にふさわしい相手を探そう」とは言いにくい。なぜならふられた相手以上の人はいないと思い込んでいる人に、(結果的に一生、そう思い込んでいる人に)別な相手を推していることになり、これでは慰めにならないばかりか、傷口に塩をすりこむに等しいことになるから。

心に深い傷を負った人には、その人と同じ次元に立って、いっしょに大泣きしてやればいい。傷を心から共有して相手の傷の何分の一かを背負ってやる。そうすれば相手が背負う傷の深さ、重さが幾分なりかこちら側に乗り移り、その分軽くなるような気がする。「がんばれ」という励ましの言葉は逆効果であり、禁句である。

輝きを失った前園はチームを転々と移るたびごとに、何故、どうしてと自問し、苦しんだことだろう。自分のプレーに切れがどんどん無くなっていくことへの焦りと空恐ろしさに、押しつぶされる毎日だっただろう。弟分のような中田は順調に階段を上っていく。イタリアでの中田の活躍を見たであろう前園は、本人がどれほど中田を意識していたかは知る由もないが、眩しすぎて中田の雄姿を直視できなかっただろう。そう、前園は己のサッカー選手としての「惨め」さを十分味わっていたはずだ。自信もプライドもずたずたに引きちぎられて・・・。

そんな前園が目に前にいたら、あなたは「がんばって!」と無味乾燥な記号のような言葉をかけられるだろうか?OFKベオグラードのテストにも落ちて、プロの資格なしと最後通牒を突きつけられた前園に、それでも「がんばれ!」といえるだろうか。
私には言えない。前園の「惨め」さにとことん無言で付き合うことを選択するだろう。

それが適切な慰めだと、私はおもう。

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posted by futbolwold |09:19 | サッカー全般 | コメント(4) | トラックバック(0)
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2008年07月09日

ある日突然、並の選手に落ちるとき

最も輝き、その将来性を期待されながら、わずかの間に一転してプレーから輝きを失い、並の選手になったある選手を思い出す。

登りつめた栄光の頂が最も高い選手ほど調子が落ちたときとの落差が大きいが、その代表的な例といえば私は前園真聖を第一に思い浮かべる。
全盛期の前園のドリブルは確かに魅力的だった。どの国際試合だったか思い出せないが、ゴール正面やや左から、壁パスを使ってドリブルでペナルティー内に進入した前園は相手DFのタックルをきれいにはずして、ゴールした。あのシーンは不思議と鮮明に脳裏に焼きついている。
ゴールネットを揺らすあらゆる得点シーンはおしなべて美しいものだが、とりわけ前園のそれは強烈な印象を受けた。おそらくその理由の一つは、前園を超えるドリブラーにいまだめぐり合っていないかもしれない。こう書くと大分に移籍した家長、松井大輔ら何名かをあげる人が必ず出てくるが、それはそれでかまわない。
前園の栄光から挫折への落差が大きいほど、私の気持ちの中では彼のドリブルが一番、と勝手に思いが膨らむだけだから。

前園は鹿児島実業高校から横浜Fに入団したが、97年海外への移籍を希望する本人と横浜F側との意見の相違から海外移籍に理解を示すヴェルディ川崎へ移ったと巷間伝え聞く。実際同年に希望がかなってブラジル・サントスでプレーすることが出来た。しかし名門サントスからゴイアスというチームに早々に代わり、2000年には日本に戻り湘南ベルマーレ、翌年には古巣年東京ヴェルディへとチームを転々とした。
2000年からの2年間のプレーからは、かつての切れ味鋭いドリブルは陰も形も消えてなくなっていた。相手の執拗なマークに耐え切れず、そこには簡単にボールを奪われ、倒され、振り切られる惨めな前園しかいなかった。
Jリーグで満足のいく結果を残すことが出来ず、2003年に韓国Kリーグの安養LGに好条件で移籍したが、ここでも活躍をすることが出来ず、翌2004年は仁川へ移り、ぼろぼろになって日本に戻ってきた。そしてOFKベオグラードのテストにも落ちて2005年5月、31歳の若さで引退してしまう。
前園の転落の理由はいくつか取りざたされてきた。いわく弟分だった中田英と対比され、プロスポーツ選手としての自覚の無さをあげる人もいた。中田英とおなじ事務所に所属していた前園は一時期、コマーシャル出演が引きも切らず、時代の寵児と祭り上げられた。鹿児島の片田舎出の青年が分不相応な年収に踊らされ、自分を見失い、練習を怠ったのが最大の理由ともいわれている。
確かにその若さに起因するところは多いかもしれないが、前園の行動からは金におぼれたというところは見えてこない。

スポーツ選手にありがちなことだが、微妙に歯車が狂いだし、調子を崩すことはよくある事例だ。久保竜彦は日本人離れした運動能力で一時期、ゴールを量産したが、不調の原因は持病の腰痛であることがはっきりしている。ドイツから帰ってきた高原は以前、エコノミー症候群で選手生命が危ぶまれたが、それを克服して目覚しい活躍をしていた。ところが現在、いつまでたっても何故か彼本来の輝きを取り戻せないでいる。

前園の早すぎる引退はあまりにもドラマチックで、かつミステリアスだ。あのドリブルが輝けば輝くほど、人生の縮図を見せられているようで、選手としての前園の最後が惨めでならない。

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posted by futbolwold |13:05 | 日本代表 | コメント(9) | トラックバック(1)
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2008年07月06日

黄金世代が輝きを失った理由

1999年、ナイジェリアで行われたワールドユース選手権で日本代表が準優勝した。
決勝の相手は先の“ユーロ2008”を制したスペインだった。決勝戦のスコアは4対0の完敗だったが、次代を担う若い日本代表の面々は間違いなく、今後のワールドカップでの大活躍と好結果を予感させる成績を残した。
この世代を代表する中田英、小野、稲本、中村、高原らを中心に彼らを黄金世代と呼んでいる。野球の「松坂世代」、それに引っ掛けた陸上の「松坂世代」も最近注目を集めているが、いずれもある時期に固まって有力選手を輩出する現象を言い表したものである。

ナイジェリアワールドユースが行われた3年後、日韓共催のワールドカップが開かれたが、日本は韓国とともに開催国として無条件でフランス大会に続き、2大会連続でワールドカップに出場することが出来た。そして2006年、ドイツ大会は黄金世代が選手として年齢的に最も輝き、活躍できる大会となるはずだった。しかし、期待に反して世界との差をまざまざと実感させられた大会になってしまった。

そのショックもあったのだろう、黄金世代のシンボル的存在だった中田英が傍目には十分すぎるほどの余力を残しつつ、サッカー界から忽然と姿を消してしまった。
小野はオランダから期待されて浦和レッズに戻ってきたが、本来の輝きを取り戻すことなく再びヨーロッパへと旅立った。小野と入れ替わるように高原が浦和レッズに加わったが、ここまでのJリーグにおける活躍度は目を覆いたくなるほど、期待を裏切り続けている。
稲本はヨーロッパに渡っていくつかチームを渡り歩いたが、いまだにレギラーとして確固たるポジションを獲得できずにいる。唯一、中村俊輔が所属チームの主力選手として活躍しているが、ヨーロッパの各リーグにおいて、けしてレベルが高いとはいえないスコットランドリーグでの活躍である。

ワールドユース選手権で活躍した世界の選手の多くは、おおむね順調に成長して世界的プレーヤーとして活躍しているが、同じように日本の黄金世代の中からも世界のトッププレーヤーの一員として成長してもおかしくないはずだ。それだけの実績を過去、残してきたのだから。しかし、現実はそうなっていない。

日本の6歳から15歳くらいまでのジュニア世代は世界のジュニア世代に比べても、能力的にはほとんど遜色ないと内外から評価されている。もちろんトップクラスとはいわないまでも、それに準じる力を発揮している。しかし、その上のクラスになると、それまでの右肩上がりの成長線が急激になだらかなカーブになってしまう印象が強い。
ここのところ日本代表のゲームを見ていると、じりじりするようなゲーム展開が多い。パスはつながるが、攻撃的で勝負を挑むようなパスは少なく、ゴール前でのプレーの精度は低く、ゴールに直結するような迫力が感じとれない。

外国人から見た日本サッカーの特徴はきれいなサッカーはしているが、プレーの判断と早さ、闘争心、ゴールに対する執着心の希薄さを感じるという。ジュニアの頃までは世界との差は縮まっているのに、その後の伸びしろが少なく、結果的に世界との差が広がってしまうのはなぜなのだろう。

この負の特徴は日本サッカーの制度的な問題なのか、サッカーを取り巻く日本社会全体の問題なのか、あるいはそのいずれにもかかわっているものなのか、正直よくわからないことは多い。
制度的な問題に関してみると、日本のスポーツはサッカーに限らず学校での体育との結びつきが強い。というよりスポーツが民間のスポーツクラブやスポーツジムのように学校以外に頼るケースがようやく市民権を獲得し始めたところというのが現状である。

Jリーガーの出身母体の7割は高校サッカーである。Jリーグの下部組織やそれ以外のユースチーム出身は3割とまだまだ少数派である。
イギリスの場合、FA公認で全国に2500余りある「チャータースタンダードクラブ」、その上位クラスにあたる約500の「FAコミュニティクラブ」があるが、能力の高い子供たちは選抜され階段を上るように二つのクラブを駆け上がり、最終的にはプロチームのユースへと引き上げられていく。
ヨーロッパのスポーツに対する姿勢は「楽しさ」に重きを置くといわれるが、同時に一握りの子供たちにとってトッププロへの道は競争につぐ競争であり、常にスカウトの目を意識しながら目の前の勝負にこだわるという。競争心や闘争心は自ずと身についていくというわけだ。

日本の学校スポーツはその歴史の長さから一朝一夕にはなくなることは無いだろう。一部のトッププロを育てるにはさして効率的ではないかもしれないが、高校野球にしても高校サッカーにしてもこれだけの規模と盛り上がりを見せる全国的な大会は外国にもあまり例をみないそうだ。多くのプロ野球選手が高校野球のOBであり、そのOBたちがメジャーリーガーとして活躍をしている現状をみても、一概に日本の学校スポーツに大きな欠陥があるとも思えない。サッカーについていえばJFAがなすべきことは下部組織としてのクラブの充実に協力を惜しまず、同時に学校との良好な協力関係を築き上げるというのが、最も日本的な現実的方法であろう。

他方、サッカーを取り巻く日本の社会環境そのものはどのような影響を及ぼしているのだろう。
ここ10数年来の学校、とりわけ小学校に顕著であるが、過度の平等意識によって本来適度にあるべき競争心が好ましくないものとして、あらゆる場面で排除されてきた。
徒競走に順位をつけてはいけないとか、学芸会の主役を希望者全員に演じさせるなど、馬鹿馬鹿しさもことここに極まった感がある。一般社会での「平等」とは「機会の平等」を意味するのであって、あとは本人の能力にゆだねるのが世の常識である。
足の速い子は算数が苦手かもしれないし、国語の得意な子は絵がうまくないかもしれない、算数が得意な子は手先が不器用かもしれない。人間社会はじゃんけんのように、絶対的な勝者などいない。大人の社会でも「勝ち組と負け組み」などと一つの物差しですべてを計る愚を冒している。つまり日本社会は子供から大人まで、どこかボタンのかけ違いをしているようだ。子供の頃から「競争心」と「闘争心」を卑なるものと教え込まれていれば、ゴール前の動きが鈍るのも致し方ないのだろう。

2010年の南アフリカ大会に日本が出場できるという前提でいえば、黄金世代で代表に残るのは、中村俊輔一人の可能性が高い。代表の主力は皮肉にも黄金世代のあとの「谷間の世代」が中心になるであろう。
結局、黄金世代は当初の輝きをそのまま持続、発展したかと問われれば、首を縦に振ることは出来ない。第二、第三の黄金世代が最後まで輝きを失わなければ、ワールドカップで上位に食い込むことも夢ではない。

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2008年07月02日

因縁を感じるカタールという国

2010年、南アフリカWC、アジア最終予選で日本が戦う相手に「カタール」が同じ組に入った。

「カタール」の首都はドーハ。あの「ドーハの悲劇」で日本には因縁深い土地である。
初のWC出場をかけた最終戦、その悲劇的な決着は深夜テレビで見た方も多いと思うが、お化けのような視聴率は48%を超えていた。

カタールはアラビア半島の中ほどに位置し、ペルシャ湾に瘤が突き出たような形をした小さな半島国家である。人口、その数わずか84万人、日本の都市を引き合いに出せば大阪、堺市より若干大きく、東京世田谷区の86万人に及ばない、小さな国だ。
しかし、石油と天然ガスの産出で国民一人当たりのGDPは世界のトップクラスの金持ち国家でもある。
カタールは他のアラブ諸国と同じように、サーニー家という部族長が支配する事実上の絶対君主制下にある。サッカーにおいては潤沢なオイルマネーを使って、強化に努め、カタールリーグにはあのアルゼンチンのストライカー、バティストゥータ、スペインのイエロもそれぞれ2年ほど在籍していた。バティは日本がワールドカップに初めて出場したフランス大会で日本から先制点を奪った男である。

そして、元浦和に在籍し、Jリーグ得点王にもなったエメこと、エメルソンが前触れもなく移籍した先がカタールリーグである。
浦和時代にも遅刻常習犯で何かと問題を起こしたエメルソンだが、その後、年齢詐称、パスポート偽造、ブラジル代表歴隠し、カタール国籍取得問題など、彼にはトラブルが常に付きまとう。いまのところWC最終予選出場資格に引っかかり、エメルソン出場の可能性は低そうだが、中東世界は何が起きるかわからない。エメルソン自身も何をしでかすかわからない人物なので9月まで、まだまだ不可解なことがおきる可能性が無きにしもあらずだ。

砂漠の国、カタールと緑豊かな日本とはあまりにも気候が違いすぎる。そしてアジアは広すぎる。ホームアンドアウエー方式を改め、アジアカップのように場所と期間を決め、短期集中式に予選を行うか、あるいは文化圏の違い、民族的な異質性を考慮してアジアを東西に分ける方式も考えてもよさそうな気がする。

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posted by futbolwold |13:33 | 日本代表 | コメント(3) | トラックバック(0)
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