2008年07月09日

ある日突然、並の選手に落ちるとき

最も輝き、その将来性を期待されながら、わずかの間に一転してプレーから輝きを失い、並の選手になったある選手を思い出す。

登りつめた栄光の頂が最も高い選手ほど調子が落ちたときとの落差が大きいが、その代表的な例といえば私は前園真聖を第一に思い浮かべる。
全盛期の前園のドリブルは確かに魅力的だった。どの国際試合だったか思い出せないが、ゴール正面やや左から、壁パスを使ってドリブルでペナルティー内に進入した前園は相手DFのタックルをきれいにはずして、ゴールした。あのシーンは不思議と鮮明に脳裏に焼きついている。
ゴールネットを揺らすあらゆる得点シーンはおしなべて美しいものだが、とりわけ前園のそれは強烈な印象を受けた。おそらくその理由の一つは、前園を超えるドリブラーにいまだめぐり合っていないかもしれない。こう書くと大分に移籍した家長、松井大輔ら何名かをあげる人が必ず出てくるが、それはそれでかまわない。
前園の栄光から挫折への落差が大きいほど、私の気持ちの中では彼のドリブルが一番、と勝手に思いが膨らむだけだから。

前園は鹿児島実業高校から横浜Fに入団したが、97年海外への移籍を希望する本人と横浜F側との意見の相違から海外移籍に理解を示すヴェルディ川崎へ移ったと巷間伝え聞く。実際同年に希望がかなってブラジル・サントスでプレーすることが出来た。しかし名門サントスからゴイアスというチームに早々に代わり、2000年には日本に戻り湘南ベルマーレ、翌年には古巣年東京ヴェルディへとチームを転々とした。
2000年からの2年間のプレーからは、かつての切れ味鋭いドリブルは陰も形も消えてなくなっていた。相手の執拗なマークに耐え切れず、そこには簡単にボールを奪われ、倒され、振り切られる惨めな前園しかいなかった。
Jリーグで満足のいく結果を残すことが出来ず、2003年に韓国Kリーグの安養LGに好条件で移籍したが、ここでも活躍をすることが出来ず、翌2004年は仁川へ移り、ぼろぼろになって日本に戻ってきた。そしてOFKベオグラードのテストにも落ちて2005年5月、31歳の若さで引退してしまう。
前園の転落の理由はいくつか取りざたされてきた。いわく弟分だった中田英と対比され、プロスポーツ選手としての自覚の無さをあげる人もいた。中田英とおなじ事務所に所属していた前園は一時期、コマーシャル出演が引きも切らず、時代の寵児と祭り上げられた。鹿児島の片田舎出の青年が分不相応な年収に踊らされ、自分を見失い、練習を怠ったのが最大の理由ともいわれている。
確かにその若さに起因するところは多いかもしれないが、前園の行動からは金におぼれたというところは見えてこない。

スポーツ選手にありがちなことだが、微妙に歯車が狂いだし、調子を崩すことはよくある事例だ。久保竜彦は日本人離れした運動能力で一時期、ゴールを量産したが、不調の原因は持病の腰痛であることがはっきりしている。ドイツから帰ってきた高原は以前、エコノミー症候群で選手生命が危ぶまれたが、それを克服して目覚しい活躍をしていた。ところが現在、いつまでたっても何故か彼本来の輝きを取り戻せないでいる。

前園の早すぎる引退はあまりにもドラマチックで、かつミステリアスだ。あのドリブルが輝けば輝くほど、人生の縮図を見せられているようで、選手としての前園の最後が惨めでならない。

posted by futbolwold |13:05 | 日本代表 | コメント(9) | トラックバック(1)
みんトピに投稿 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加