2008年05月27日

第六回 迷走した日本サッカー

1964年の東京オリンピックと68年のメキシコオリンピックを率いたのは、現サッカー協会最長老の長沼健だった。
1962年から代表監督を務めてきた長沼はメキシコ大会三位の快挙を土産に1969年秋に代表監督の座を知将、岡野俊一郎に譲った。

岡野は上野の老舗和菓子店、岡埜栄泉の御曹司で、東大卒のエリートだった。理論家らしく歯切れのよい口調は当時、多くの女性ファンをひきつけていた。周囲の期待を一身に受けて代表監督についた岡野だったが、代表チームの成績は芳しくなく、一年半で監督の座を下ろされてしまった。

長沼は日本サッカー再建をゆだねられて、再度代表監督に復帰し、それから四年の長きにわたって指揮をとった。通算で十一年も代表監督をつとめたのは後にも先にも長沼ただ一人だ。

1992年、オフトが就任するまで代表監督は猫の目のように代わり、森孝慈、横山健三を除けば、十年間に六人もの監督が交代したことになる。これでは代表監督に長期的視点にたった指導なぞ望むべくもない。

案の定、監督交代のたびに日本サッカーがめざす方向性がクルクル変わった。ソ連型の組織サッカーから南米型の個人技サッカー、そして激しいイングランドサッカーに振り子がぶれた時もあった。さらにドイツ人コーチ、クラマーを思い出し、ドイツサッカー復活を掲げたこともあった。
こうしてメキシコ大会以降、日本サッカーは成績不振と協会中枢部の指導力不足で、長い混乱・停滞の時代を強いられてきた。

そんななか、三浦カズ、ラモスがプロ選手として代表に選ばれたが、プロ意識の高い選手とアマチアの代表監督(横山健三)との間に、さまざまな確執が表面化しだしてきた。
協会が下した結論は、プロ選手をコントロールするにはプロの監督を据えるしかない、だった。ヤマハのコーチ経験もあり、日本人選手をよく知るオランダ人のオフトに代表監督をゆだねることになった。


オフト起用は代表チームにとって最良の選択だった。練習方法や選手の起用法にあれこれと口をはさむ我の強いラモスも、オフトの前では次第におとなしくならざるを得なかった。
オフトのもとで代表チームは意思統一がはかられ、チーム戦術も明確になり、徐々に一つのチームへと変貌していった。その結果は既述の通り、アメリカ大会の切符を九分九厘手にするまで、日本代表は急成長する。

サッカーにおける監督の仕事とは試合前までの準備段階が全てといって過言でない。なぜならサッカーは試合がはじまればピッチ上のキャプテンが実質的な監督の役割を果たすスポーツである。時々刻々変化する状況に応じて、選手同士が個々にジャッジを下し、ゲームの流れを読んで組織的なプレーを心がけねばならない。
監督が試合中に選手に指示すべき余地はごくごくわずかだ

posted by futbolwold |10:22 | サッカー全般 | コメント(0) | トラックバック(0)
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