2009年12月10日

岩本輝雄の挑戦(2006クラブワールドカップ回顧)

本日は、クラブワールドカップ(アブダビ開催)の開幕戦、アル・アハリvsオークランドシティが行われる(日本時間9日25時キックオフ)。

残念ながら、現在、ヨーロッパ出張中のため、今日の試合は観られないが、アル・アハリvsオークランドシティと言えば、3年前のクラブワールドカップ開幕戦を思い出す(もっとも、今年のアル・アハリは開催国UAEのクラブ、3年前のアル・アハリはエジプトのクラブと、全く別のクラブではあるが)。

というわけで、当時、別のブログに書いた原稿を転載。オークランドシティの一員として、クラブワールドカップに出場した岩本輝雄についての文章だ。当時は大変だったけど、今思い起こすとやっぱり楽しかった思い出のほうが多いかも。


始まりは一本の電話だった。 

「ヨーロッパのクラブの練習に参加したいんだけど。スペインやイタリアのクラブだったら最高だけど、もちろん、そうじゃなくてもかまわない。1部のクラブじゃなくてもかまわない」 

“テル”こと岩本輝雄は、とにかくプレーする場所を欲していた。とりあえず、彼の現状を聞くため、8月下旬に五反田の豆乳鍋屋で会った。久しぶりに会った彼は、自分の人生にかなり焦りを感じているように見えた。聞けば、足の痛みはもうほとんどなく、Jリーグ復帰への道を模索していたとのこと。実際、獲得を前提にJ1アビスパ福岡の練習へ参加することが決定していたそうだが、アビスパ福岡フロント内部のトラブルにより、一方的にその話は立ち消えとなったという。Jリーグの登録期限は9月15日。8月下旬のこの時期に“持ち駒”のなくなったテルにとって、Jリーグ復帰への道は事実上閉ざされたと言ってよかった。 



2004年5月、名古屋グランパスに在籍していたテルは、ナビスコカップ・新潟戦の試合中、右足首を痛めた。最初に診察をした医師の診断は、靱帯の一部損傷、全治にそれほど時間はかからないだろう、というものだった。その診断により、テルは痛みを抱えながらもすぐにピッチへ復帰した。プロサッカー選手は、医師が「大丈夫」と言えば、基本的にピッチへ立たなければならない。そうしなければ、チームへの背信行為と受け取られる。しかし、いつまで経っても痛みはひかない。それどころか、日増しに痛みは増し、まともに走ることさえできなくなった。テルは自分の意志により、チームを離れ、信頼する医師の診断を受けに千葉へと足を運んだ。 

診断結果は右足首の靱帯断絶。当然、ピッチへ復帰するためには、すぐに手術が必要になる。しかし、この時、所属クラブの名古屋グランパスから、耳を疑うような要求を突きつけられる。「この時点(10月)で手術をするならば、来シーズンの契約は結ばない。もし、手術しないで頑張るのならば、前向きに考える」。足首の靱帯が切れている選手に対して、手術しないで何を頑張れと言うのか。テルは迷いなく名古屋を後にした。ちなみに、名古屋グランパスは、テルが退団した時点ではそれを発表せず、契約満了となる1月31日の直前に、岩本輝雄の退団を発表した。うがった見方をすれば、クラブが取った非人道的な対応を隠蔽するために、最も目立たない時期に発表したとも考えられる。 

右足首の手術は成功したものの、6時間を超える大手術だったこともあり、術後約2カ月の間、入院を余儀なくされた。自分も何度か千葉の病院に足を運んだが、テニスボールのように腫れてしまった右足首を見て、言葉を失ったことを覚えている。退院後、6月の復帰を目指し、ひたすらリハビリに励むも、なかなか痛みは治まらない。靱帯が少し良くなったと思いきや、今度はその周辺箇所が痛み出した。これではいつまで経ってもピッチへ復帰できない。そう考えたテルは、4月、知人の紹介で元日本代表ドクター・竹井経憲医師を訪ねる。竹井医師の診断では、右足首の患部に、おそらく抜糸時に残ってしまったと思われる糸があり、その糸の周りの肉が腐敗して癒着してしまっているという。手術によって癒着していた肉をはがすと、痛みは嘘のように消えてなくなった。 

その年の11月、テルはプレーするチームを求めて、メキシコに渡った。知人の紹介で、メキシコ1部リーグのトルーカに、入団を前提として練習参加出来ることになったのだ。しかし、またも右足首の痛みがテルのチャンスを奪う。再び右足首が痛み出したため、満足にプレーすることすら出来ず、結局、実質3週間ほどで帰国することとなった。帰国後、すぐに武井医師のもとを訪ねると、右足首のくるぶし部分に2カ所のヒビ(亀裂骨折)が確認された。「とりあえず、様子を見よう。2カ月間はトレーニングしないほうがいい」。度重なるアクシデントに、さすがのテルも復帰へのモチベーションを失いつつあった。 

翌年(2006年)1月、テルは気分転換も兼ねて、スペインへ渡る。昼は語学学校へ通い、夜はトレーニング、週末はリーガ・エスパニョーラ観戦という生活を1カ月ほど続けると、再び、ピッチへ立ちたい、という気持ちが沸き上がってきたという。加えて、ある人物との出会いも、復帰への気持ちをかき立てることになった。その人物とは、あのロベルト・バッジョの専任トレーナーであったナンニ医師である。知人の紹介でボローニャにあるイソキネティック・センターにナンニ医師を訪ねたテルは、そこで驚くべき診断結果を聞く。「リハビリによって癒着している患部を柔らかくすれば治るかもしれない。イソキネティック・センターで1カ月ほどリハビリを行えば治る可能性はかなり高い」。一時は諦めかけた復帰への道が再び開けたことに、テルが歓喜したことは言うまでもない。 

ただ、諸処の事情から、すぐに1カ月間、イタリアに滞在することは無理だったため、とりあえず一時帰国し、再度イタリアを訪れて手術を行うという段取りになった。帰国後、ナンニ医師の診断を持って武井先生のところを訪れたテルは、癒着している患部に応急処置として痛み止めの注射を打ってもらった。すると、痛みはほとんど取れた。時を同じくして、NHKから『街道てくてく旅』という番組で、東海道五十三次を歩かないか、というオファーが舞い込む。足の状態がかなり良くなっていたこともあって、テルはこのオファーを受けることを選択。そして、番組が終わる6月にイタリアに渡って手術を受ける、という計画を立てた。 

『街道てくてく旅』の収録は4月3日から6月16日まで行われた。約2カ月半という長丁場の間、収録の合間を縫って、テルはリハビリに励んだ。そして、6月に入った頃、右足首の痛みが消えた。テルは痛みが消えた理由について、「約500キロ歩くのはかなりハードだから、歩くこと自体がリハビリになって、癒着していた部分が柔らかくなったんじゃないかな」と語ったが、おそらくそのとおりだろう。右足で片足ジャンプすることすら出来なかった状態から、ボールを蹴っても痛みを感じなくなる状態まで回復する——長年、痛みと戦い続けたテルが、これを奇跡と感じたのも当然のことだろう。 

6月から本格的にピッチ復帰へ向けたトレーニングを始めたテルは、コンディションがある程度まで回復後は、近所の大学や静岡FC(JFL)、そして韓国Kリーグの仁川FCなどの練習に参加し、実戦感覚を養った。そして、8月末にはアビスパ福岡と契約直前までこぎ着けた。しかし、冒頭にも記したように、今シーズン中のJリーグ復帰の道は閉ざされた。五反田で会ったテルは、時折、自嘲気味に、「もうダメでしょ。これだけやって入るチームが見つからないなら、もう引退するしかないよね」と口にした。 

どうにかして、テルをピッチに立たせる方法はないか。イタリアやスペインのクラブは、練習には参加出来たとしても、2年以上もピッチから離れている選手と契約を結ぶとは思えない。そこで思いついたのが、クラブワールドカップにオセアニア代表として参加するオークランドシティFCだった。自分の所属している会社が、クラブワールドカップのオフィシャル・パブリッシャーである関係で、オークランドシティFCとはつながりがあった。しかも、オークランドシティFCが昨年のシドニーFC同様に、日本人選手を欲しがっているという前情報もあった。 

すぐさま、電通及び日本サッカー協会に可能性を打診すると、答えはNGだった。理由は、「昨年のシドニーFC×カズのように、クラブワールドカップのための移籍を画策するのは今年はやらない」という方針になった、ということだった。しかし、テルはクラブワールドカップに出ることが目的ではない。もう一度、ピッチに立つことが目的なのだ。その点を再度説明すると、電通及び日本サッカー協会は「積極的に協力することは出来ないが、かと言ってピッチに立ちたいという岩本選手の移籍を禁じることも出来ない」と、ほぼ容認に近い返答をくれた。 

こうなれば、あとはオークランドシティFCとの直接交渉あるのみである。幸い、交渉は順調に進み、クラブワールドカップの抽選会(10月12日)に合わせて来日するオークランドシティFCの会長と東京で会い、そこですべてを決定しようということになった。アポイントの日時は、抽選会の前日である10月11日。場所はウェスティンホテル東京。まず、我々(自分+社長、通訳)が会長と交渉し、大筋でまとまれば、近くで待機しているテルを呼んで、会長に紹介する。条件面でほぼ合意していることからも、交渉は簡単に済むはずだった。 

しかし、ここで大きなアクシデントが我々を襲う。会長が約束の時間が過ぎても現れないのである。結局、4時間近くが経過しても会長は現れず。もちろん、待ちぼうけをくらったテルは、怒り心頭だった。このまま連絡が取れなければ、移籍そのものが流れてしまう……。誰もが最悪の結果を頭に浮かべた直後、会長から連絡が入った。聞けば、ホテルのバーで我々のことを待っていたという。フロントだけでなく、部屋にもメッセージを残してもらっていたことから、彼が本当に待っていたのかどうかは定かではないが、とりあえず、まだオークランドシティFC側もテルを獲得したがっているという意思だけは確認出来た。 

翌日の深夜、再びウェスティンで待ち合わせ、今度は時間どおりに会長がやってきた。条件面もほとんどもめることなく合意。テルと会長はその場でがっしりと握手をかわした。 

———————————————————— 

12月10日、テルはトヨタスタジアムのピッチに立つ。おそらく、オークランドシティFCは、アフリカの強豪、アル・アハリの前になすすべなく敗れてしまうだろう。両者のチーム力には、残念ながら、それだけの大きな差がある。しかし、それでもなお、自分はテルが何かやってくれるのではないかと期待してしまっている。ワンプレーだけでもいい。観る者の印象に残るようなプレーをやってほしい。クラブワールドカップという最高の舞台で、最後の輝きを放ってくれることを、友人の一人として願ってやまない。 

from1-129468.jpg


posted by from1 |00:23 | Jリーグ |
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2009年08月14日

最も熱い日本代表の物語

「今度、ブラインドサッカー日本代表の取材を始めることになったんだよね」

著者の岡田仁志さんにそう言われたのは、確か渋谷の串焼きやで飲んでいる時だっただろうか。岡田仁志さんは、深川峻太郎というペンネームでも執筆活動をされており、著書には『キャプテン翼勝利学』(集英社インターナショナル)があるので、「ああ、あの本を書いた人か」と思うサッカーファンもいるだろう。自分と深川(岡田)さんが出会ったのは、自分が編集長を務めていた『月刊サッカーズ』という雑誌で、深川さんに『お茶の間にルーズボール』という連載を執筆してもらったからである。副編集長のYさんが、「面白い文章を書く人がいるから、連載頼んでみない?」と言ってくれたのがきっかけだった。そうしてスタートした連載は、Yさんの読みどおり、サッカーライターとは違う視点でサッカーを見た、非常に面白くレベルの高いものだった。

2005年に連載が終了してからも、互いの家が近いこともあって、定期的にお酒を飲んでいたのだが、サッカー雑誌の連載がなくなったことも影響してか、深川さんは次第にサッカーへの興味を失っていたように感じていた。もっとも、息子さんのサッカー熱が高まるにつれ、少年サッカー(息子さんのチーム限定)に対する関心はアップしていたように思うが。

そんなある日、冒頭の言葉を深川さんが発したのである。正直、驚いた。自分にとっての深川さんは、フリーライターではあるが、ジャーナリストではなかったからだ。その深川さんが、ブラインドサッカー日本代表に密着して取材をするという。

その後、深川さんは、フリーライターとしての仕事と並行してブラインドサッカー日本代表の取材を続け、二度も南米に行き(アルゼンチン、ブラジル)、韓国や中国にも行き、国内でも関西を中心に多くの都市を訪れた。自他共に認める方向音痴で旅が苦手な深川さんとしては、画期的な変化である。深川さんの日誌(http://www.kt.rim.or.jp/~h_okada/fukashun.html)で取材の様子を追いながら、単行本を発刊する日を心待ちにしていた。

そして2009年6月、ついに深川さんがブラインドサッカーの本を出した。タイトルは『闇の中の翼たち ブラインドサッカー日本代表の苦闘』(幻冬舎)。タイトル中の「翼」は、おそらく、『キャプテン翼』から取っているのだろう。ブラインドサッカー日本代表選手の多くが『キャプテン翼』の影響によりサッカーを始めた、というエピソードが本文中に出てくることからも、ほぼ間違いないはずだ。

読み始めてしばらくは、ブラインドサッカーを取り巻く環境や、目の見えない状態でサッカーをやるためにはどのようなことに気を付けなければいけないのかなど、新たに知るさまざまな事実に、ただただ感心させられるだけなのだが、読み進めていくうちに、この『闇翼』(深川さんはこの略称を使用している)が、完全なスポーツ・ノンフィクションであることに気付かされた。全盲のフットボーラーたちは、世界のレベルに近付き、追い越すために、すさまじい「負けず嫌い」を武器に、どんどんレベルアップしていく。そして、勝利するためには何が必要なのか、自分が上手くなるためには何が必要なのかを常に模索し、実行していく。その姿勢は、健常者のプロサッカー選手と何ら変わりない。むしろ、サッカーにかける情熱においては、彼らのほうが上ではないかと感じられるほど、それぞれの選手の“熱さ”が見事に描かれている。

また、この『闇翼』を読んで、一人のジャーナリストとして、これだけの取材を成し遂げ、一冊の本をまとめ上げた深川さんを非常にうらやましく思った。深川さんはすべての取材を自費で行っている。たとえ、『闇翼』が何度か重版かかっても、おそらく、大きな利益にはならないだろう。費やした時間も含めて考えると、むしろ、赤字の可能性が高い。しかし、この本の取材を通して、選手や関係者との間に深い信頼関係を築き、すべての関係者に称賛されるレベルの作品を書き上げた喜びは、言うまでもなく、お金には変えられない価値のあるものである。

サッカーファン、そしてスポーツファンには、ぜひとも『闇翼』を読んでほしい。くり返しになるが、そこにはプロサッカーを上回るほどの情熱がある。

from1-105700.jpg


posted by from1 |20:10 | 日本代表 |
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2009年07月15日

史上最高の欧州CL決勝(欧州出張レポート)

中村俊輔のセルティック最終戦を取材した翌日、グラスゴーからアムステルダム経由でローマへ。いよいよ、今回の旅のメインである、UEFAチャンピオンズリーグ決勝の地に降り立つ。到着後、カメラマンのKさんと合流し、夕食。1年半前に、一緒に行ったリストランテで、たっぷりと飲み食いし、英気を養う。やっぱり、イタリアンは格別。

翌日は、ホテルをチェックアウトし(CL決勝前後は相場が急騰するため、別のホテルへ移動)、カメラマンのKさん、Aさんと合流。ローマのオペラ座の前にあるお店でランチ。後から、ライターのS氏らも合流。S氏は今回は申請が下りず、10万円以上出して購入したそうだ。S氏だけに限らず、今回の決勝は、相当申請が厳しいとのこと。実際、当日のスタジアムには、日本からやってきている記者は、数えるほどしかいなかった。そんな状況で申請を許可してくれたUEFAには感謝。

ランチ後、スタディオ・オリンピコへ。アクレディテーションセンターで、無事、プレスパスをゲット。大丈夫とはわかっていても、実際に手にはいるとホッとする。その後は、スタジアム内で記者会見&練習取材。先がマンチェスター・ユナイテッド、後がバルセローナ。どちらも試合前ということで、軽めの練習だったが、それでも技術の高さや、誰と誰が組んでアップをしているかなど、見どころはたくさん。印象的だったのは、パス回しの練習における、両者の微妙な違い。ともに、8対2(8人でボールを回し、2人がDFとしてボールを奪いにいく。パスはダイレクト)の練習をやっていたのだが、マンチェスター・ユナイテッドの輪に比べて、バルセローナの輪が一回り小さい。もちろん、マンチェスター・ユナイテッドの輪も、相当小さいのだが、バルセローナは驚くほどの狭さで、正確に速くボールを回していた。中でも、シャビ、イニエスタ、メッシの3人は別格。パス回しを見ているだけでとにかく面白い。

取材後、スカパー!のスタッフと合流して、夕食へ。解説担当の柱谷幸一さん、実況の八塚さん、コーディネーターのウィリー(スカパー!のセリエA中継でお馴染み)、そしてスカパー!のスタッフ一同、総勢10数人で盛り上がる。乾杯直後、空港からタクシーを飛ばしてきたバンちゃん(播戸)も合流。G大阪がACLに出場しているため、ナビスコカップのグループリーグは免除された結果、まるで計画したかのように、短期オフとCL決勝の期間が一致し、バンちゃんはローマへやってきたわけだが、当然、現役選手がシーズン中に渡欧して試合を観戦するのはさまざまなリスクがある。だが、そのリスクを冒しても、現地でしか得られないものを得るために、遠路はるばるやってきたバンちゃんはエラい。きっと、この決断が生きる日が来るはず。

さて、試合当日の夕方、バンちゃんとホテルからオリンピコへ向かうため、ホテルのフロントでタクシーを呼ぶと、「30分以上かかる」という。ローマ市内で大規模な交通規制が行われているため、タクシーが引っ張りだこなんだとか。どうにもできず困っていると、先にタクシーを呼んでいた2人組が、一緒に乗せて行ってくれることに。この2人、イングランドから来たという2人は、イングランド3部のミルウォールのサポーター。特にどちらを応援するとかではなく、ビッグマッチを見に来たとのこと。また、彼らは昨年のクラブW杯でのG大阪vsマンチェスター・ユナイテッドもテレビで見たらしく、バンちゃんがその試合に出たと言うと、かなりハイテンションな対応をしていた。それにしても、バンちゃんのコミュニケーション能力の高さには驚かされる。カタコトの英語ながら、ボディランゲージをまじえてガンガン会話する姿を見て感心させられた。

オリンピコの入口の前でバンちゃん&イングランド人たちと別れ、スタジアム内へ。まずは編集部や関係者に頼まれたオフィシャルグッズを購入するため、グッズショップに。人混みでもみくちゃになりながら、何とか購入成功。驚いたのが、マスターカードではなくVISAカードでも購入できるということ。自分の前に会計していた人が実際にVISAカードで購入していたのだが、これには驚いた。FIFAの大会でも同じなのだろうか。

試合前には、フジテレビの解説として来ていた風間さんと1時間ほど雑談。CL決勝の話だけでなく、日本サッカーの目指す方向性にまで話は及んだ。風間さんの話は、いつもながらシンプルでわかりやすく、本当に勉強になる。他にも、ジョン・カビラさんやトニーさんらと挨拶。

試合の内容は割愛するが、勝敗を分けたのは、キックオフ前とハーフタイムに大量にまかれた水かもしれない。水を含んでボールが走りやすくなったピッチが、マンチェスター・ユナイテッドのロングパスを封じ込め、バルセローナのパス回しを加速させたことは間違いない。一説には、バルサ側からの「試合前にピッチに水をまきたい」という希望を、マンU側は快諾したと聞くが、それがもし本当ならば、マンU側にはある種の慢心があったと言えるのではないだろうか。

試合後、バンちゃんやダイスケ(トリノ在住の友人)と試合を振り返りつつ、パチモノのマフラーなどを購入。その後、ウィリーらスカパー!スタッフの車に同乗させてもらって、夕食へ。前日にみんなでやったスコア予想は、正解者なし……。でも、最高の内容の決勝を見られたことで、みんなムチャクチャテンションは高かった。プレミアリーグ王者であり、イングランドで最も人気のあるマンチェスター・ユナイテッドと、リーガ・エスパニョーラ王者であり、スペインで最も人気のあるバルセローナ。しかも、世界で最も人気のあるクリスチアーノ・ロナウドとリオネル・メッシの2人の対決、という構図まであった今回のCL決勝は、これまでで最も最高のカードだったと言えるだろう。そんな試合を取材できた幸運に感謝したい。

(カターニア篇に続く)

from1-100467.jpg
CL決勝開催に備えてリニューアルされ、美しく生まれ変わったオリンピコ

from1-100468.jpg
プレスの熱気も史上最高

from1-100469.jpg
前日練習時に、スコア表示のリハーサル。残念ながら、マンUにゴールは生まれなかった……


posted by from1 |16:16 | 欧州サッカー |
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2009年07月03日

中村俊輔のセルティック最終戦

ヴォルフスブルクの優勝を見届けた日の翌日、朝一番のフライト(アムステルダム経由)でグラスゴー入りした。グラスゴーについたのは11時半すぎ。セルティックvsハーツ戦のキックオフは13時だったため、タクシーを利用して急いで空港→ホテル→セルティックパークと移動する。道が空いていたため、キックオフ30分前にはスタジアム内へ。俊輔のセルティック最終戦ということで、日本人メディアも相当な人数がやってきていた。また、この試合はスカパー!で生中継するため、解説の川本さん、実況の加藤さん、そしてスコットランドプレミアリーグの中継スタッフらの姿もプレス席にはあった。

セルティックの優勝条件は、ハーツとの最終戦に勝利し、なおかつ、同時刻に行われているダンディー・ユナイテッドvsレンジャーズで、レンジャーズが負け、もしくは引き分けに終わること。昨シーズンは、ほぼ同様のケースで、セルティックが逆転勝ちしているだけに、可能性は十分にあった。

しかし、前節のハイバーニアン戦で勝てず(0-0)、首位から転げ落ちたセルティックの選手たちには、もはや再び逆転優勝を成し遂げるだけの力が残っていなかった。ハーツ相手にリードを広げることで、レンジャーズ側にもプレッシャーはかけられたはずだ。しかし、決定機を外し続けると、逆にレンジャーズが先制、前半終了間際にはそのリードを2点に広げた。ハーフタイムに、レンジャーズ2点リードの知らせを聞いたセルティックの選手たちは、後半、“今シーズン最低”とも言えるようなプレーを続けた。勝利を目指して必死になっていたのは、俊輔のみ。それでは、勝てるはずがない。ブーイングの中、俊輔のセルティックでの4年間が終わった。

もっとも、最後のシーズンで2位に終わったからといって、俊輔の4年間が否定されるわけではない。国内リーグ3連覇、そしてUEFAチャンピオンズリーグでの2年連続の決勝ラウンド進出。マンチェスター・ユナイテッド相手に決めた2本のFKをはじめ、印象に残る多くのゴールを決めた俊輔は、確かにセルティックの歴史に足跡を刻んだと言えるだろう。

試合後、グラスゴーの中央駅でスカパー!スタッフやうじきつよしさんらと合流し、中華レストランでたっぷりと飲み食いした後、ホテルに戻り、原稿を書く。テーマは、「中村俊輔、横浜凱旋!」。そう、この時に書いた原稿は、今回の急転直下のエスパニョール移籍によって、“幻の原稿”となってしまった。せっかく書いた原稿がボツになったのは悲しいが、中村俊輔という選手のことだけを考えると、夢であったリーガ・エスパニョーラに挑戦できることは、本当に幸せなことだと思う。「日本人はスペインでは通用しない」という現地での評価を、俊輔の活躍が覆してくれることを期待したい。(「ローマ篇」に続く)



from1-97913.jpg
from1-97914.jpg


posted by from1 |16:26 | 欧州サッカー |
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加

2009年06月22日

ヴォルフスブルクvsブレーメン(2)

前回に引き続き、ヴォルフスブルクvsブレーメンの話を。

何とかスタジアムに入ることに成功し、ビールとプリッツェルを手に試合観戦。長谷部は、この日は右サイドバックではなく、中盤の右で先発出場。ヴォルフスブルクは序盤こそブレーメンに押し込まれたものの、徐々に落ち着きを取り戻し、7分、いきなり、先制に成功する。右サイド、高い位置で相手ボールを奪った長谷部が、短いドリブルからクロスを上げると、一度はDFにはじき返されたものの、そのクリアが小さくなったところをミシモヴィッチがなんなく押し込み、ヴォルフスブルクが先制。ゴールしたミシモヴィッチに一番に駆け寄って飛びつく長谷部。

その後も、15分(グラフィッチ)、26分(オウンゴール※グラフィッチの突破から)と、立て続けにゴールを挙げたヴォルフスブルク。ブレーメンも、この日、一人気を吐いたジエゴ(この後、ユーヴェへの移籍が正式発表。今思えば、ジエゴ本人はこの試合が最後の試合になることをわかって、試合に臨んでいたのだろう)が31分に決めて1点を返すも、その後が続かない。後半も、始めはブレーメンペースだったが、56分(グラフィッチ)、74分(ジェコ)と、自慢の2トップが加点したヴォルフスブルクが、引き分けてもほぼ優勝という試合を、圧勝で飾り、見事に初優勝を成し遂げた。

この日は後半早々に交替となったが、終盤での活躍も含め、長谷部はレギュラーとして一シーズンを戦ったと評価して良いだろう。本人も語っていたが(長谷部のロングインタビューは、7月2日発売の『WORLD SOCCER KING』に掲載)、まさかここまで充実したシーズンを送ることには。この試合でチームを去ることになったマガト監督との出会いも含め、ヴォルフスブルク移籍は大成功だったと言える。

試合後は、“恒例”のピッチへのサポーターのなだれ込みとなったが、その後、サポーターが落ち着き、再びスタンド(及びスタンド近くのスペース)に戻るのを待ってから、セレモニーが行われた。各選手が自国の国旗を身にまとって喜ぶ中、長谷部も日の丸を掲げながらウイニングラン(日の丸は日本人サポーターにもらったとか)。

from1-95903.jpg

優勝セレモニーを見届けた後は、カメラマンのKさんと一緒に、急いでフランクフルトへ。本来ならば、市庁舎で行われる優勝報告会の取材も行いたいところだったのだが、翌日のセルティックvsハーツ戦を取材するためには、フランクフルトに戻り、朝イチの飛行機に乗る必要があるのだ。後ろ髪ひかれつつ、フランクフルトに戻り、中央駅の構内にあるアジアンフードで晩ご飯。

おまけ)以下の写真は、スタジアムから駅への帰り道で目にしたもの。センス抜群。

from1-95900.jpg
from1-95901.jpg
from1-95902.jpg

(セルティック篇に続く)


posted by from1 |18:04 | 欧州サッカー |
このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをはてなブックマークに登録 newsing it! このエントリを Buzzurl に追加