2012年01月28日

シーズン到来をもっとも鶴望する日

2012年は元日からビッグニュースが飛び込んだ。1995年に目黒公証役場の当時事務長だった男性を拉致・監禁し殺害・死体遺棄した事件で、指名手配されていたオウム真理教元幹部・平田信容疑者が、年明け寸前の12月31日深夜に都内の警察署に出頭し、元日早朝、逮捕監禁致死容疑で逮捕。この一報はテレビで速報スーパーが、まちでは号外が、翌日の新聞では第一面を大きく飾るなど、17年近くにわたって逃亡を続けていた男の扱いはもちろん小さくなく、忙しない年明けとなった。

その頃、我が家は帰省先の茨城・鹿嶋市で新年を迎え、初詣に初売り、地元の温泉で初風呂など毎年恒例の正月行事を楽しみながら静かに田舎で休養していた。そんな2012年も1月下旬に入り、朝晩きびしい冷え込みが続くなか、都心で平年より約2週間遅れの初雪を観測。交通に大きな乱れはなかったものの、練馬・石神井周辺ではうっすら雪化粧し首都圏の寒さはピークを迎えている。この時期は冷たいビールよりも日本酒の熱燗や焼酎のお湯割りがすすむ季節であるが、その一方で、春到来とともにシーズン開幕をもっとも鶴望するのがこの時期ではないだろうか。

各Jクラブは、1月中旬から2月上旬にかけて、新シーズンの体制発表や新加入選手の記者会見など、チーム始動に向けた動きが目に立つ。「新たな布陣は?新戦力は?新監督の采配は?」。キャンプを前に、自ら新体制をシュミレーションし、意気揚々したり、消沈したり、開幕前から新シーズンを胸算するのはサポーターの心理であろう。もちろん私もその一人だ。開幕への足音が徐々に近づくなか、クラブOBで元ブラジル代表のジョルジーニョ氏を新監督に迎えた鹿島が、先日、カシマスタジアムで2012シーズンの新体制が発表された。

昨年、創設20周年を迎えたクラブスローガンは「FOOTBALL DREAM NEXT」。そして今年は「SMILE AGAIN with PRIDE」(笑顔と誇りをもう一度)となった。昨年は「新たなサイクル元年」と位置づけ、クラブアイデンティティである「FOOTBALL DREAM」に「NEXT」を加えたスローガンを掲げ、節目の創設20周年を迎えた。近年まれにみる大補強も敢行し、アジア制覇と国内3大タイトルを狙う決意だった。だが、それは3月11日の東日本大震災でホームタウンが、ホームスタジアムが、そして茨城が被災してから歯車が狂い始め、かつて経験したことのない窮地に陥った。Jリーグ杯こそ制覇したものの、J1リーグは6位、ACLはラウンドで16でソウルに完敗、天皇杯はJ2クラブに敗れ早々に姿を消すなど不本意なシーズンに終わった。

今もなおホームタウンは復興途上にあるが、被災した本拠カシマが完全復活して迎える新シーズン。今年のクラブスローガン「笑顔と誇りをもう一度」。そのタクトはジョルジーニョ新監督が振ることになった。チームは30日に始動するが、積み重ねてきた歴史と誇りは揺らぐことはなく、また私たち信者との絆も途切れることはない。1月中旬からサンノゼ・アースクエイクス(米MLS)のトライアウトに参加している小笠原満男と本山雅志については、ジョルジーニョ新体制となる今季、できるだけ早く身体を仕上げてチームに合流しようとする並々ならぬ気概の表れと捉えている。新シーズン開幕まであと40日。その到来が待ち遠しい。

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2012年01月01日

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

昨年は未曾有の被害をもたらした東日本大震災が発災し、鹿島アントラーズのホームタウンである茨城・鹿行地区も大きな被害を受けました。

まちは少しずつ復旧が進んでいるとはいえ、まだ不便な生活を強いられている方も少なくなく、あらためて被災された皆さまやその家族、関係者の方々には謹んでお見舞い申し上げますとともに一日も早い復旧・復興をお祈り申し上げます。

さて、今季鹿島はクラブOBのジョルジーニョ氏を新監督に迎え、新たな船出を切ろうとしている。

「鹿島は常勝でなければならない」

震災で一部損壊した本拠カシマスタジアムはオフシーズンの完全復旧を目指しており、2012シーズンは難攻不落の城砦として蘇る。

1996~1998、2000~2002、2007~2011

新たな黄金期が2012年であることを願いつつ、新春のご挨拶とさせていただきます。

今年もよろしくお願いします。

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2011年12月31日

【天皇杯】FOOTBALL DREAM NEXT(最終章)

歴史に深く刻まれる2011年。国内では観測史上最大となるマグニチュード9.0の巨大地震とその直後に襲った大津波が発災し、同時に日本列島を、いや世界中を震撼させた福島第一原発事故。海外においては世界各地で相次いだ大規模な水害に、国際テロ組織アルカイダ指導者オサマ・ビンラディン、リビア最高指導者カダフィ大佐、そして北朝鮮キム・ジョンイル総書記らが死するなど、今年は国内外ともに大きなニュースが飛び交った。なにが起きてもおかしくなかった2011年。来年は平和な年であることを心から祈りつつ、ひとまず平穏に年が越せることを切に願っている。

さて、今年の日本サッカー界。震災の影響により大幅な日程変更を余儀なくされたものの、その後は順調に消化し、Jリーグ杯は鹿島、Jリーグは柏が戴冠。残す国内主要タイトルは天皇杯のみとなった。同杯も29日に準決勝が行われ、元日の決勝はFC東京と京都の、史上初となるJ2勢同士の対戦となった。今大会はかつてないほどのジャイアントキリング相次ぎ、J2以下のクラブがベスト16に5チーム、ベスト8に3チーム、ベスト4に2チームが勝ち残り、その2チームが決勝進出。格上に伍して健闘する格下クラブだが、今季最後のタイトルをJ2クラブ同士で競うとは予想だにしなかった。どちらが優勝しても初の快挙。元日決戦は静かに見守りたい。

天皇杯連覇を逃した鹿島は早々に2011シーズンの幕を閉じた。オリヴェイラ監督のラストゲームとなった同杯4回戦京都戦後にこう述べている。「私がやろうとしたことに対し努力を惜しまない選手たちに本当に感謝している。これだけ勝者のメンタリティーを備えたチームはまれだし、私がいなくなっても同じような気持ちを持続してほしい。指導者としてこれだけ充実した環境で仕事が出来るのはまれであり、本当に幸せなこと。3連覇も達成できたし、その日が偶然にも自分の誕生日だったというのも感慨深い。1月1日に国立で戦うという気持ちが強かっただけに今は失望を感じているが、後々この5年で得た多くの喜びをしみじみと感じられるだろう」と。

今季はゼロックス・スーパー杯準優勝、J1リーグ6位、ACLベスト16、そして9年ぶり単独最多となる4度目のJリーグ杯優勝と国内3大タイトルを5年連続で獲得し通算15冠を達成したものの、東日本大震災の影響により、本拠カシマスタジアム損壊、チーム一時解散、新戦力不発、決定力不足など多くの苦難・重圧が最後まで圧し掛かったシーズンだったように思う。今季まで5シーズン指揮を執ったオリヴェイラ監督は来季、ボタフォゴ(ブラジル)の監督就任が決まっており、後任監督の公式発表が近づいているようだが、鹿島にとって一つの時代の節目がこの2011年だったのは言うまでもない。

来季の構想は後任監督に委ねられるが、今季最大の課題であった決定力不足を、川崎からジュニーニョ、福岡から岡本英也らが加入することで、現有の興梠慎三と大迫勇也の良さが引き出せればゴール量産が期待できる。またMFにおいては、世代別にみても厚い選手層がJ屈指の中盤を形成し、流動的、有機的なサッカーで相手を制圧。DF陣も来季からU-22日本代表の山村和也が加入し、SBではポスト内田篤人として期待される伊東幸敏や、鈴木隆雅らユーストリオの加入もまた楽しみな逸材である。今年はこの上ない多くの苦難があった。2012年は本拠カシマスタジアムが完全復旧し、またあの場所に歓喜と笑顔が戻ってくることを心から願っている。それでは良いお年を。

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2011年12月18日

【天皇杯】FOOTBALL DREAM NEXT(第三章)

当節、日本開催のクラブW杯でバルセロナ、サントスに注目が集まるなか、17日に天皇杯4回戦が各地で行われ、準々決勝へコマを進める8チームが決まった。「ハッピーエンド…」。それはディズニー映画やおとぎ話、恋愛ドラマなどでよく聞く言葉で、この天皇杯でもと願っていたが、それは叶わなかった。私のハッピーエンド、つまり有終の美とは、今季限りで退任する名将オリヴェイラの最後の大会、来季ACL出場権を獲る唯一の大会、クラブ創設20周年のメモリアルイヤーといった数々の華を、天皇杯賜杯を持ち上げて飾ることだった。下のカテゴリーのクラブに敗れるのは、1994年大会の東京ガス(現FC東京)戦以来17年ぶり。今シーズン通した課題は顕然としているが、そこは次期監督に委ねられる。久々に長いオフシーズンを過ごすことになるが、最後にオリヴェイラ監督へ感謝の意を表したい。「『オズの魔法』本当にありがとう」と。

さて、話題を変えて今回は1960年代から1990年代初頭まで日本サッカー界を牽引した実業団時代を振り返ってみたい。Jリーグの前身であるJSL(日本サッカーリーグ)が誕生したのは1965年。終戦から20年。その年は東京オリンピック開催、東海道新幹線開通の翌年で、日本経済が飛躍的に成長を遂げながら先進国の仲間入りを果たす時期でもあった。戦後の復興から高度成長の波に乗って誕生した実業団リーグ。そのきっかけは日本代表の礎を築いたデットマール・クラマー氏の提言からであったのは有名な話で、当時、強い影響力を持っていた古河電工(現千葉)や三菱重工(現浦和)、日立製作所(現柏)らを中心とする8チームで国内初の実業団による日本サッカーリーグが発足した。

前述のとおり、JSLは長年月、古河電工・三菱重工・日立製作所といった丸の内御三家、そして関西の雄ヤンマーが覇を競っていたが、創始期に頭角を現したのは東洋工業(現広島)だった。65年の開幕シーズンでは12勝2分0敗と無敗で優勝すると翌シーズンまで23連勝を記録するなど、不滅のリーグ4連覇(1965-1968)の金字塔を打ち建てた。その勢いはオイルショックによる経営悪化で弱体化に陥るものの、JSL27シーズンの歴史で最多タイの5回の優勝を飾っている。また天皇杯では、1965年大会で初優勝すると、1965年から1970年までの6大会で決勝に5度進出し3度優勝。さらに国際舞台では、1969年大会のアジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ)に日本勢として初出場し3位入賞を果たしている。

前回第二章では、日本サッカー界の元祖クラシコは早慶戦であると述べた。では、日本サッカー界の「古豪」とは果たしてどこだろうか。創設年だけでみると、1922年に京都師範学校(京都教育大学)のOBチームとして誕生した京都紫郊クラブ(現京都)であるが、1965年創設のJSLに初年度から所属し、不滅のリーグ4連覇や歴代最多タイの通算5回優勝、また後身のサンフレッチェ広島を含めた2011年1月までに国内最多60回の天皇杯本大会出場や、決勝進出も国内最多の13回と名実ともに実績十分の東洋工業こそが日本サッカー界の古豪中の古豪といえるだろう。

JSLが2部制となった1972年以降は丸の内御三家とヤンマー、1980年代に入るとプロリーグ構想に積極的な読売クラブや日産自動車ら新興勢力が台頭し、天皇杯でもその様相は変わらなかった。その後、1991年にJリーグが正式に発足すると、JSLは1992年3月29日の最終節を持って27年の歴史に幕を閉じるわけだが、当時、そんなことには見向きもせず、私の関心事は週末のダイヤモンドサッカーと冬の高校選手権だった。また世界のビッグプレイヤーを目の当たりにしたのもこの時期で、1983年5月29日に国立競技場で行われたジャパンカップ・キリンワールドサッカー(現キリンカップ)の日本代表対ニューカッスル・ユナイテッド戦。ちなみに国立での観戦はこの試合が初めてだった。

当時、約5000人収容の住金グラウンドで観たJSL2部の住友金属戦でも感奮していたのに、2年連続バロンドールを受賞したケビン・キーガン(ニューカッスル)が、国内最大のスタジアム(当時)東京国立で日本代表と対戦するのはある種、田舎育ちの私にとって夢の変事だった。今まで経験したことのないチアホーンの大音量と満員の観衆に埋もれながら、ダイヤモンドサッカーで観るビッグプレイヤーが目の前に。あっという間の90分だったが、試合開始早々に決めたキーガンの先制点が、大きな歓声に包まれるより先に、国立を揺るがしたどよめきは今でも私の耳に鮮明に残っている。ちなみに田舎者のシャイな私が唯一叫んだコールは「(日本代表GKの)タグチ」。その意は覚えてないが、おそらく日本代表でもっともボールに絡んでいたのが田口選手だったのだろう。結果は0-4で日本惨敗であった。

早いものであれから約30年が経ち、時代変遷とともに日本サッカー界は大きく様変わりした。国内最古のカップ戦である天皇杯も、ACLへとつながるビッグトーナメントとなり、またJリーグ発足以降、プロとアマチュアが対戦できる唯一の大会になり、毎年、サプライズチームが生まれるようになった。近年では、2007年の第87回大会で同年のACL覇者浦和を破ったJ2愛媛や、今大会においても来季J2昇格を決めた松本山雅FCの大物食いが深く印象に残っている。私にとって今大会は下部リーグのクラブに敗れ連覇の夢が潰えたが、そういったジャイアントキリングもこの大会の醍醐味の一つといえるのかもしれない。次回はJリーグ創設の1993年以降の天皇杯と、今シーズンの鹿島を振り返る。

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2011年11月19日

【天皇杯】FOOTBALL DREAM NEXT(第二章)

北日本で今季一番の寒さが伝えられた11月16日、天皇杯3回戦が各地で開催された。前大会王者の鹿島は初対決となった富山を延長戦の末2-1で降し4回戦へコマを進めたものの、J1勢8チームが姿を消す波瀾が相次いだ。J1に所属するG大阪、磐田、広島、神戸、山形がJ2クラブに破れ、さらに甲府、福岡も敗退。またJFLの松本山雅(長野県代表)がJ1の新潟をアウェイで撃破。2回戦の横浜FCに続いてJクラブを倒し、初の16強進出を決めた。松本山雅は4回戦で横浜FMと対戦。両クラブは今年8月に急逝した元日本代表DFの松田直樹氏が所属したクラブでもあり、注目のカードになりそうだ。4回戦は12月17日に行われる。

さて、第二章で挙げるのは時代変遷の2強考察と、国内のクラシコおよびナショナルダービー論。その前に、90年に上る天皇杯をそれぞれ3時代に分けておく。まずは同杯創設の1921年から1960年代初頭まで覇権を握っていた大学蹴球部時代、初の全国サッカーリーグ「日本サッカーリーグ(JSL)」が誕生した1960年代中旬から1980年代後半までの実業団時代、そして日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設の1993年から無窮のJクラブ時代とその勢力図は3つの時代を経て現在に至っている。まずは創成期から約40年間、時代を築いた大学チームに焦点を当ててみたい。

「このたび大日本蹴球協會主催(現日本サッカー協会)の蹴球大会を開催するに至りたるを喜ぶ。蹴球はひとり英国の運動のみならず、今や世界的の競技となりつつあり。この競技の精神は今さらこれを説くに要せじ。諸君、願わくば紳士的にして本競技の精神をますます発揮せられることを」

1921年11月26日、第1回天皇杯(当時ア式蹴球全國優勝競技會)。場所は日比谷公園運動場。大日本蹴球協會の今村会長が上述のように挨拶し、13時20分、記念すべきキックオフの笛が鳴った。当時日本ではサッカーというスポーツが広く一般に普及してはいなかったため、開催地である東京以外では関心はもたれず、メディアの扱いも小さかったようだ。しかし、朝日、毎日両紙や、新愛知(現中日新聞)が大々的に広報したことや、決勝戦当日が晴天の日曜日ということもあって、日比谷公園には大勢の観客でいっぱいになったそうだ。

記念すべき第1回大会で優勝を飾ったのは東京蹴球団。その9年後、地球の裏側ウルグアイではFIFAワールドカップ第1回大会が開催されるわけだが、当時の日本はアマチュアの国際大会オリンピック至上主義で、それはあくまでも遠い異国の出来事の一つに過ぎなかったようだ。そんななか、日本サッカー界を牽引する大学チームは全日本蹴球選手権、東西学生蹴球対抗王座決定戦、そして関東・関西の両大学リーグが主要大会として存在し各地で熱戦を繰り広げていた。

大学サッカー界は東京高等師範、東京帝国大学がその礎を築いてきたが、長きに渡って覇権争いを演じたのはやはり早稲田大学と慶應義塾大学であろう。関西の2強と呼ばれた関西学院大学と京都帝国大学もそれには及ばなかった。当時、全日本蹴球選手権(天皇杯)よりも重要視されていた東西学生蹴球対抗王座決定戦(1929年から1965年まで行われていた東西両リーグのチャンピオンマッチ)の成績をみると、関西勢がその頂に立ったのはわずか9回で、一方の関東勢は24回とその差は歴然。大学サッカー界はその後、変遷を重ねるも関東優位の図式は今も昔も変わっていない。

実業団チームが天皇杯の歴代優勝に名を刻むには1960年代まで待たなければならなかったが、当時の情勢を振り返るとサッカーの環境が整っていなかったことや、社会人となったあとに選手生活を続けるのが困難だったことから、隆盛を極めた大学サッカー界がそのまま日本サッカー界を牽引する存在となっていったのはある意味では当然の流れだったかもしれない。天皇杯90年史で大学チームが築いた一時代。それは約40年で実業団時代へと移行するが、この時代の2強は紛れもなく早慶戦であろう。さらには日本サッカー界の“元祖2強”であり、“元祖クラシコ”といえる。20年のJリーグは大学40年の歴史には到底及ばない。Jでクラシコと呼ばれるカードが誕生するにはまだまだ時間が必要だろう。次回第三章は実業団時代を振り返る。

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2011年11月12日

【天皇杯】FOOTBALL DREAM NEXT(第一章)

「国内最大・最古のカップ戦」と呼ばれる天皇杯。その歴史は90年前まで溯る。第1回大会は大日本蹴球協會(現日本サッカー協会=JFA)創設と同じ1921年に「ア式蹴球全國優勝競技會」の大会名で幕を開けた。初回の参加チームはわずか4チーム(中国・九州地区代表の山口高校は棄権)、試合会場は日比谷公園の運動場だった。その当時を歴史的な視点で見てみると、国内では原敬首相暗殺事件が起き、隣国上海では共産党設立大会が開催。また、アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞し、アドルフ・ヒトラーがナチス党首に選出されたのもこの年だった。これらの出来事を振り返るだけでも天皇杯の歴史の深さというものが実感できる。

第一次世界大戦の戦火が収まってから2年後に開幕した天皇杯。その歴史は前述したとおりだが、私の人生のなかでも一時代の変遷を垣間見ることができた。少年期にはJリーグの前身JSL(日本サッカーリーグ)が全盛で、三菱重工やヤンマー、フジタ工業、古河電工らが日本サッカー界を牽引し、同杯でもその様相は変わらなかった。話は逸れるが、高校サッカーで当時、藤野監督率いる茨城・古河一高が黄金期を迎えていたのもこの時期だった。エンジのシャツに漢字で縦に「古河一」と。私の憧れのユニフォームの一つであった。あの頃は天皇杯よりも地元茨城の常勝軍団が、韮崎、帝京、清水東ら名門とぶつかる全国高校サッカー選手権に夢中だったのを記憶している。

さて話を戻して80年代に入ると、日産自動車と読売クラブといった新興勢力が2強時代を築いていった。天皇杯は83年から92年までの10年間で、9回(日産6回、読売3回)、この2チームで賜杯を分けあっている。当時はリーグ戦の読売、カップ戦の日産という勢力図が描かれ、印象に残るのは読売クラブの応援席から聞こえてくるサンバのリズム。80年代の応援はチアホーンと呼ばれるラッパを鳴らすのが定番のなか、読売だけはサンバを響かせる異彩な存在だった。私はその華やかな両者を、遠い雲の上の世界を唯々テレビから眺めていた。数年後、ジーコ氏が鹿島アントラーズ(当時住友金属)に入団するとは夢にも思わず……

日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が発足すると、各チームの実力が拮抗し毎年優勝チームが変わる戦国時代となった。J創設19シーズンのなかで、賜杯を持ち上げたのは11チーム。その混戦ぶりは今もなお続いている。参考まで、J創設以降の天皇杯通算優勝回数は鹿島が4回、横浜F、名古屋、東京V、G大阪、浦和が2回、清水、磐田、横浜FM、湘南、京都が1回となっており、2連覇達成は浦和、G大阪の2チームだ。ただ、意外なことに、90年の歴史ある天皇杯で3連覇を遂げたチームは未だかつて存在しない。2連覇は9チーム(鯉城蹴球団、関学大、慶応大、東京大、古河電工、読売クラブ、日産自動車、浦和、G大阪)もあるようだが、3連覇は前人未到の偉業である。

J創設19年で、2連覇を遂げたのは浦和とG大阪の2チームだ。惜しくも3連覇を狙う大会では、浦和は4回戦、G大阪は準決勝で敗退し両者ともその偉業は成し得なかったが、Jが群雄割拠を呈するなか、しかも一発勝負のカップ戦で2年連続賜杯を持ち上げた功績は、鹿島信者の私にとっては羨望する事実だ。ただ、以前からよく耳にする「クラシコ」「ナショナルダービー」といった言葉は両者には当てはまらない。それはかつての2強である三菱重工とヤンマーや、読売クラブと日産自動車。また、Jで7年間、リーグタイトルを分けあった鹿島と磐田も同様といえるだろう。時代とともに変遷した「2強」は、日本サッカー史を語るうえで大きなファクターとなる。それについては同杯3回戦を終えたあと、第二章で述べたい。

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2011年10月01日

鹿島、鹿嶋、カシマとともに歩んだ20年

鹿島アントラーズが時折り、Jのビッグクラブと称されることがある。Jクラブ最多のタイトルホルダーがゆえ、そう表現するのも分からなくはない。ただ、わたしはその言葉にいささか違和感を感じていた。ビッグクラブの定義は非常に曖昧で、欧州においては資金力があるという意味合いが強そうだが、日本の場合は強力な影響力を持つクラブがそれに当たるのだろう。「あれ?それなら鹿島は該当すんじゃない?」という声が聞こえてきそうだ。が、しかし、鹿島はビッグクラブではない。強いていえば「スモール・ジャイアント」。小さな巨人である。

あらためて述べるが、住友金属(鹿島アントラーズの前身)のJ参入は当時、99.9999%不可能。6つ並んだ9がこのクラブの出発点だった。豊富な資金力を有するわけでもなく、都市部を本拠とするわけでもない。「献身」「誠実」「尊重」といったジーコの教えとともに、謙虚に勝利を狙い続けてきた鹿島アントラーズ。「勝利のときに、謙虚になることを知る者は、2度、勝利者となる」。そんな格言を具現化しともに歩み続けた紅い鹿が、2011年10月1日、創設20周年を迎えた。

「鹿島町(現鹿嶋市)ってどこにあるの?」。そんな声がちらほら聞こえたJリーグ元年。サッカー王国でない、娯楽も少ない小都市から生まれた鹿島アントラーズ。その物語はジーコ来日から始まった。とはいえ、1991年、都内のホテルで行われたジーコ入団会見で、鹿島地区のまちの人たちは「なにやら住金で事故が起きたらしい」とサッカー界で名声を築いたジーコが事故に変わってしまったのは有名な話で、それほどサッカーとは無縁の地だった。さらに、ジーコを知らなかったのは住民だけでなく、住友金属の幹部の方にもいたようで、入団会見を都内のホテルで行うことに「社員食堂では駄目なのか?」と話した人もいたという。

さて、当時の鹿島地区の娯楽で代表的なものは「釣り」。鹿島灘や利根川、北浦、霞ヶ浦、ときに小さな池でザリガニ釣り。水郷のまち鹿島地区は春夏秋冬、季節を変えたその楽しみ方はさまざまだ。また、鹿島アントラーズが誕生するまでは近隣の佐原市(現香取市)や銚子市が地方の都として賑わっており、そこへ遊びに行くのも楽しみの一つだった。上京するときは下道の国道51号線で成田まで走り、そこから高速・東関道。成田-潮来間が開通したのは1987年で、それまで距離100キロほどの東京を遠く遠く感じていた。

1960年代、「農工両全」「貧困からの解放」をスローガンに茨城県下最大の工業集積を誇る臨海コンビナートを形成し、1991年、ジーコ入団とともにプロサッカークラブ「鹿島アントラーズ」が誕生。さらに、2002年には遠い夢のまた夢舞台であったW杯が日韓共同で開催され、アルゼンチン、イタリア、ドイツといったナショナルチームがカシマのピッチに立った。日本で開催されること自体驚きだったのに、その試合会場に鹿島アントラーズの本拠カシマスタジアム選ばれ、足が震えたことを記憶している。今、こういった歴史を振り返ると、陸の孤島・鹿島地区の転機はすべてゼロから始まる一大プロジェクト。不可能を可能にしてきた歴史ばかりだ。

茨城県南東部にそびえ立つ聖地カシマスタジアム。そこは鹿島灘の潮風や地元グルメ、そしてアントラーズという名の大家族が集う、ホームタウンのすべてが詰まったクラブアイデンティティの原点がある。昔時は大旗を振り、叫び、飛び跳ねていたわたしも、あれから20年が経ち、今や眼鏡に「老」を入れる年齢になった。こう振り返るとやはり20年という月日は短くないと感じるが、ふと、隣をみると息子が20年前のわたしと同じ姿で応援している。ゴール裏の世代交代も順調のようだ。サッカーだけでなく、人生の教訓ともいえるアントラーズ・スピリット。歳とともに身体が老いるのは致し方ないにせよ、アントラーズとともにすることで魂だけは老いることはない。これからも何か大きなものに立ち向かう小さな巨人、いつまでもそんなクラブであってほしい。次の節目は創設30周年。深紅のユニフォームにいくつ星を刻めるか。今年のチームスローガン「FOOTBALL DREAM NEXT」の如く、次の楽しみは尽きない。

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2011年08月12日

東日本大震災5カ月:つながれ!スーパードラゴン

東日本大震災から5カ月を迎えた8月11日、私は宮城県気仙沼市に行く機会があった。東京から早朝始発の東北新幹線やまびこ号で一ノ関まで行き、そこから大船渡線に乗り換えて気仙沼へ向かった。岩手県の一ノ関駅から同県大船渡市の盛駅間を約2時間半で結ぶ大船渡線は、東日本大震災による巨大津波で陸前高田、大船渡など6駅が流失し全線で不通となった。4月1日から一ノ関-気仙沼間で運行を再開したものの、三陸海岸沿いを走る気仙沼-大船渡間は今も再開のめどが立っていない。

今回なぜこのような記事をエントリしたかというと、4月1日に一部再開した大船渡線のスーパードラゴン号が三陸海岸に向けて汽笛を吹鳴したとき、被災地を見舞う小笠原満男の姿が目に浮かんできたからだ。発災後、幾度となく訪れた故郷。そして同じく被災したアントラーズホームタウンの子供たちを励ましながら、小笠原はピッチを走り続けた。疲労困憊での散漫なプレーに非難の声も少なくなかったが、彼のとった行動は当然至極。プロサッカー選手とはいえ、あの巨大津波で壊滅的被害を受けた自分の故郷をそのまま見過ごしてまでサッカーに集中できるわけがない。むしろ、優しくて強くなければできない人間味あふれた所業だったように思う。それは被災地を目の当たりにすれば分かる。

実際、私が気仙沼に入ったときも、気仙沼から大船渡へ向かう先の線路上には雑草が生い茂り、船が、車が、大きな岩が今も乗り上げたままで、さらに線路そのものが前景を残しておらず、津波で受けた甚大な被害は映し出されるテレビよりも遥かにリアルで残酷至極だった。ほかにも宮城沿岸での復旧作業を見てきたが、被害は広範囲に渡っているため、除去、撤去作業だけでも「数年、十数年」という時間が必要だろう。ここで私見を述べるつもりはないが、いま頑張ろう、被災地とつながろうとしているのは国民で、そうでないのは永田町の一部の政治家だ。すでに時遅しとはいえ「菅おろし」が前提の復興法案ではなく、被災地のための復興法案成立に尽力していただきたい。

今回、東日本大震災から5カ月を迎えた宮城県を訪れ、私なりの目線で何枚かシャッターを切った。ここで発災5カ月を象徴する1枚を、と思い選ってみたが、最終的に大船渡線の主力気動車・キハ100形にすることにした。今もなお過酷な生活を強いられている被災地の状況はメディアをとおして十分承知かと拝察するので、4月1日に一部開通し、三陸を、日本をつなぐキーパーソンならぬキートレイン、スーパードラゴン号を最後に焼きつけておきたい。その意はもちろん、全線開通を祈って。一日も早い復興を心から願っている。

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2011年04月07日

復興のシンボル

2011年3月11日に発生した太平洋三陸沖を震源とする東日本大震災。震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200Kmと広範囲に及んだ。かつてない巨大な津波、福島第一原発の放射線物質漏えいなど事態は極めて深刻となっている。連日の報道でその目が被害が大きい場所に向くのは当然である。クローズアップされることはないが、しかし、私の故郷であり、鹿島アントラーズのホームタウンである茨城県鹿行地域もまた被災地であることは間違いない。

復旧は少しずつ進んでいるとはいえ、今も街中の至るところで電柱が傾き、道路は陥没や隆起が起き、液状化現象もさまざまな場所で起きている。震度4~5クラスの余震はまだ続いているが、まずはこの度の東日本大震災により多くの命が失われたことに謹んで哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈り申し上げます。また被災された皆さま、そのご家族の方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復旧・復興をお祈り申し上げます。

先日、約1カ月ぶりに連休がとれ、鹿嶋に帰省することができた。震災の影響で一時はチーム解散を余儀なくされた鹿島アントラーズも、3月28日に全体練習を再開し、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)へ向けた調整が始まっている。クラブハウスでの練習はいつもと変わらぬ光景だが、周辺の道路や、鹿嶋市から神栖市にかかる124号線では隆起陥没が目立ち、地震の爪あとが鮮明に残っていた。街の復旧は少しずつ進んでいるとはいえ、福島第一原発の放射線物質漏えいによる風評被害や、液状化現象による生活不安が今もなお続いており、鹿島アントラーズの本拠・鹿行地域だけでなく茨城全域が深刻な問題に直面している。

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上記は練習再開直後の写真だ。私のカメラには望遠レンズが付いていないため選手一人ひとりの表情まで写しだすことはできないが、この地で再会できた喜びは選手を始め、オリヴェイラ監督やクラブスタッフ、そしてそれを見守るスタンドのサポーターも十分感じていたに違いない。昨日のACLグループリーグ第2節・水原三星戦では韓国の強豪相手にアウェイで勝ち点1。先制されながらも中田浩二の同点弾で振りだしに戻し、さらに勝ち点3を掴もうと必死に食らいついた。中断期間を挟み1カ月以上試合から離れていた影響は否めず序盤から苦しい展開だったが、強い気概を持って同点に追いつくことができた。次はシドニーFCとのアウェイ2連戦。鹿島アントラーズの歴史を一言で置き換えると、「苦難に打ち勝つ強靭さ」である。この街の復興のシンボルとして再び動き出した鹿島アントラーズ。ともに歩み続けてアジアの頂きに立ちたいと希う。 WITH HOPEプロジェクト football_dream-230518.gif 鹿島アントラーズは、水戸ホーリーホック・茨城県サッカー協会とともに、“いばらき復興のためにできること”として「WITH HOPEプロジェクト」を立ち上げることになりました。このプロジェクトは、一団体としての活動の枠におさまらず、茨城県復興支援の輪を広げることを目標としています。


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2011年02月06日

鹿島アントラーズ2011新加入選手会見(後編)

鹿島アントラーズ新人選手披露会見(要約)
○柴崎岳(青森山田高校から新加入)
「(鹿島の印象は)3連覇もしているし、非常に強いチームだなと。中盤には日本代表に入っていた3人の選手、小笠原満男選手、中田浩二選手、青木剛選手がいたので、もしやることになったら非常にやりがいのあるチームだなと思っていました。実際に入ってからは、そのとおり、練習からでも自分のプレーをさせてもらえないとか、やりがいのある練習をさせてもらっていたので、まだまだ成長できるのではないかと思っています。(鹿島の中盤は)みんな能力が高くて、まずはその先輩相手にどんどん果敢に挑んでいくということ。また、球際の強さだったり、したたかなゲームコントロールだったりというのは練習から学んでいきたいと思います。(自分を動物に例えると)・・・難しい(笑)。そうありたいと思うのは、鷹のような。もちろん飛ぶといった意味ではなくて、視野を広く持ち続けたいという意味です。今はたぶん雀くらいなので鷹のようになりたいと思ってます。(今年の目標は)1年目から試合に出て、チームに貢献することを目指し、次の目標はそれから考えたいと思います」

○土居聖真(アントラーズユースよりトップ昇格)
「(鹿島の印象は)ジーコさんが築いたチームですし、スタジアムで試合を見たり、テレビ観戦が多かったんですけど、映像を通して観ている選手たちと今こうやって一緒に練習したり、食事をしたりすることが夢のようです。最初は、みんな怖いんじゃないかとか、どうなんだろうという不安がありましたけど、優しい方々ばかりで、すぐに慣れることができました。自分の持ち味は得点に繋がる仕事をすることだと思うので、まずは自分の持ち味であるスピードに乗ったドリブルや勢いのある攻撃参加で、監督はもちろん、チームメイトにもアピールして信頼を築いていきたいと思います。また、献身的に守備をしたり、チームのために走ったり、そういう肉付けもしていきたいです。代表クラスの選手ばかり揃っているので、頑張っていきたいと思います。(自分を動物に例えると)猫かな。だいぶマイペースなので(笑)。僕はジュニアユースから鹿島にお世話になっていますけど、街の人も温かい人たちばかりで、スタジアムに集まるサポーターの皆さんもJ屈指のサポーターだと思います。早く顔と名前をしっかり覚えてもらって、一日でも早くピッチの上で素晴らしいプレーを見せたいと思います」

○梅鉢貴秀(関西大学第一高校から新加入)
「(鹿島の印象は)3連覇していたチームということで本当に強いチームだなと思っていました。地元が大阪なのでガンバ大阪と試合をするときはよく観に行っていたのですが、ガンバに勝つことがとても多くて強いチームだと感じていました。実際に入ってみると、練習中はキビキビとしているのですが、寮なんかに戻ると先輩たちが優しくしてくれて家族のような感じがしています。とても過ごしやすいです。鹿島アントラーズからオファーを頂くまで大学への進学を考えていたんですけど、小さい頃からの夢だったプロ選手になれるということで迷うことなくアントラーズに加入させて頂くことにしました。(自分を動物に例えると)ライオンになれるように頑張ります。日本代表については、2002年の日韓W杯を観てすごく興奮して、自分も将来ここでやりたいという思いを持ちました。いつか代表に入ってW杯に出たいと思います」

○昌子源(米子北高校から新加入)
「(鹿島の印象は)やっぱり強くて、オンザピッチでもオフザピッチでも厳しいんだろうなと思っていたのですが、実際に入ってみたら、オンザピッチでは厳しいんですけど、オフザピッチでは優しくして頂いてとても良い印象を感じました。(岩政選手、伊野波選手は)日本代表の選手でもあるので、そう簡単にはレギュラーを奪えるとは思っていません。2人の良いところを盗んで、自分のものにして、あの二人にも認めてもらいつつ、戦っていきたいと思います。(自分を動物に例えると)ライオンみたいに、百獣の王みたいに、オーラを放つ選手になりたいと思っています。目標としては日本代表に入りたいと思っていますが、その前に鹿島アントラーズで結果を出して、レギュラーを取ってから代表に入りたいという気持ちがあります。目標とする選手は、センターバックの伊野波選手と岩政選手を同じチームの先輩として尊敬し目標としてます」

前編ではカルロン、アレックス、西大伍、本田拓也ら新加入選手の挨拶を紹介し、後編では新人選手4人の入団会見を紹介した。史上初のアジア、国内のWクラウンを狙うため、近年まれにみる大補強を敢行した鹿島。中長的視野に立ち、顔ぶれが大きく変わる2011シーズンは、新しいサイクルに入ったことを強く印象づける。鈴木満強化部長は「ポジションは与えらるのではなく、競争に勝って、自らの力で奪いとるもの」と各選手の奮起を促す一方で、「チーム全体の底上げをしていくにはチャンスを与えることも必要。うまくローテーションしていかなければいけない」と強調する。例えば、登録選手は4人でも豪華な顔ぶれが並ぶFW陣はどういう組み合わせにするのか? 選手層が格段に厚くなった中盤は? SBは新井場徹を軸としながらも、新加入の西大伍、アレックスにU-21日本代表の當間建文がそれにどこまで割って入るか? CBの岩政大樹、伊野波雅彦が不在時は誰が鹿島の壁となるのかなど、選手起用が最大の焦点となる今季は、モチベーターと評されるオリヴェイラ監督の腕のみせどころといえる。まもなくキャンプイン、そして富士ゼロックス・スーパー杯まであと20日。楽しみは尽きない。

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