2010年04月01日
当ブログは、個々の選手へと焦点を当てた記事の投稿を主としています。
私がヤクルトファンであるため、ヤクルトに関連した人物を選び、勝手な思い入れと感情を書いていくというスタンスが基本となっています。
誠に不恰好な文章ですが、スポナビブログという場所にありながら適当なブログ運営を行った過去を反省し、出来うる限りヤクルトというものに真摯に、真正面から向かい合うべく努力しております。
私のエゴで、本来隠すべきその努力を皆様にお見せすることには多々ご意見があるとは思いますが、ご容赦いただければ幸いです。
このブログでは、引退した選手にスポットを当てた記事を基本としています。また、その時に応じて現役の選手も少し取り上げていければいいな、と思っています。
以下、私が取り上げさせていただいた選手を連ねておきます。興味がおありの方は、どうぞご覧ください。
09/28 真中満(2008年引退)
10/01 度会博文(2008年引退)
10/06 小野公誠(2008年引退)
10/11 河端龍(2008年引退)
10/22 石堂克利(2007年引退)
10/20 三木肇(2008年引退)
11/08 平本学(2007年引退)
11/12 副島孔太
※次回掲載予定選手:未定
よろしくお願いいたします。
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追記・10/30 通産50万アクセス達成です。ありがとうございます。
posted by えんをる |00:00 |
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2008年11月28日
石川雅規が、新たに選手会長へと就任しました。これで名実ともにヤクルトというチームを引っ張る立場になった訳ですね。
思えば彼は"エースの座を与えられた男"だったと思います。
彼の投球スタイルは、一般に思われる"エース"の価値観とは全く違うものです。直球で押し、変化球で捻じ伏せる・・・というよりはのらりくらりと凌ぎ、交し、如何にも技巧派といえるその投げっぷりは、石井一久や伊藤智仁といった投手を見てきた側からすれば物足りなく写ったことでしょう。
かく言う私もその一人です。石川がそのキャリアの多くを通じて二桁の勝利を挙げ、7年間で1100を超えるイニングを投げていることからも、彼がヤクルトの投手陣を支えていることは明らかでした。
しかしながら、僕は彼よりも川島亮をエースと考えていました。
投球スタイルのこともありますが、彼をエースと言えなかった所には防御率の問題もありました。4点台に乗ってしまう防御率は「抑えている」とは言いにくく、「先発が揃わないからこそ二桁勝つまで投げさせて貰っている」という悪評を呼ぶもとになっていたと思います。このようにギリギリで勝利を挙げていることから、仮に二桁勝っていても貯金は少なく、時にはマイナスに陥ることもありました。
昨年成績が落ち込んだ時は、彼の限界説まで囁かれたものです。
ところが、どうでしょう。今年の彼の防御率は2.67。セ・リーグの最優秀防御率です。
パ・リーグの岩隈やダルビッシュには及びませんが、それでも立派な数字であることは疑いようがありません。
今ならはっきりと言えます。石川雅規はヤクルトのエースです。少なくとも、それを務めるだけの実力を持っています。
今年もあまり貯金を稼ぐことは出来ませんでしたが、この防御率を見るからに援護に恵まれていなかったと言えるでしょう。はっきりとした数字は見つかりませんが、簡単に考えれば三点とれば勝てるはずなので、やはり援護さえあればさらに貯金を伸ばすことも可能だと思われます。
もともと球威をあまり必要としない為衰えによる影響は少ないと思いますので、怪我さえなければこれからも毎年安定した成績を残してくれるでしょう。
来年からの石川雅規にも、期待しています。
・・・そういえば、彼はWBCの候補に入っているのでしょうか?少し気になります。
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posted by えんをる |17:39 |
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2008年11月15日
五十嵐亮太が残留を決めた。
http://www.sanspo.com/baseball/news/081113/bsf0811131448001-n1.htm
単年契約。年棒9000万+出来高。来季のメジャー挑戦に含みを持たせた契約になった。
FA行使やメジャー挑戦をチラつかせながらの交渉だったからか、ファンからの意見はどちらかというと辛辣な部類に入るものが多い。二年間休んでおいて、今年即FAなんてよく言えたものだと、そのような意見が多かった。
正直交渉というものをよく解ってないのではないかと思わないでもないが、気持ちは解る。ニュースの情報だけで全貌を理解するのはたぶん不可能だから、切れ端だけを見れば印象が悪くなるのも仕方がない。
ただ、僕は五十嵐亮太がどのような人なのか知らない。
たぶん五十嵐亮太を批判している人も擁護している人も、ほとんどは彼がどのような人なのか知らない。交渉の席を誰が主導し、どんな雰囲気だったのか。五十嵐はどこまで本気だったのか。それをファンはみな、想像で語り合うしかない。
だから時々、水掛け論が巻き起こる。その度に、ファンとしての限界を少し感じてしまう。
僕は五十嵐亮太という投手が好きだ。
批判する人も、少なくとも彼が球界随一のセットアッパーor抑えであることは認めると思う。優勝したときも、それ以前もそれ以後も、彼がヤクルトの中継ぎとして多大な貢献をしてきた。
それは、この二年で全て潰されてしまう様な功績では無いと思うのだ。
僕は五十嵐亮太に期待し続ける。FA宣言をしても、メジャーに行っても、たぶん応援し続ける。これが、「ファン」である僕の意見です。
だから、「五十嵐が嫌いになった」的な意見を聞くと、僕は少し悲しいのです。ちょっと甘いのかもしれないけれど。
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posted by えんをる |10:14 |
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2008年11月12日
2001年10月24日。日本シリーズ第四戦。
相手は今は無き近鉄バファローズ。
1-1。同点。
イニングは7回。ノーアウト。走者なし。
対峙するは右腕、岡本晃。
2-1からの、四球目。
それが、副島孔太が最も輝いた瞬間だ。
副島孔太は1996年に、ドラフト五位でヤクルトに入団している。
一言で言えば、長距離砲だった。
巡り会わせが悪かったように思う。
この頃はヤクルトが黄金時代最後の残り香を放っている時期で、外野手は真中、佐藤、飯田、稲葉と駒が揃っており、新人選手の出る幕など無かった。
それでも副島は多くのチャンスを得ていた。
彼にとって決定的だったのは、ラミレスの加入だ。
ラミレスが加入したことにより、外野の層はさらに厚みを増した。守備面を考えれば、彼とラミレスを同時に起用するのはリスクがあった。
結果、副島はスタメン候補から代打へとそのポジションを下げることになった。
それが、2001年の話だ。
彼はこの年、代打として活躍したとは言いがたい。二年後、戎とのトレードでオリックスへと去る。
現在のヤクルトに彼がいれば、どうなっていただろう。
加入するのがあと五年遅かったならば、どうなっていただろう。
今のヤクルトに絶対的に欠けているであろう、長距離砲。今ならば、常時スタメンで使うことが出来るだろう。2000年に、三割を超えた打棒である。
畠山と同様か、それ以上の結果を出していたのではないだろうか。
まあ、所詮は妄想でしかない。
四球目。今となってはどこか儚げな輝きに見える、あの年。
打球は、高く、高く空に打ちあがった。勢いはギリギリで微妙ではあったけれど、かといって平凡なフライに留まるような物でもなかった。
祈るように、願うように。打球がなんだかゆっくりと、遠くへ、遠くへと運ばれている。
いつまでも落ちてこないような気がしたボールが、少しずつ、少しずつ落ちてくる。
落ちた場所は、フェンスをギリギリで乗り越える。
勝ち越しのホームラン。
2001年10月24日。日本シリーズ第四戦。
最後のバッターを高津が抑える。試合が終わる。
お立ち台に、副島孔太が上がる。背番号25が輝く。
副島孔太は既に、プロの世界から去った。
しかし、今も社会人野球で選手としてその人生を送っている。それを聞くたびに、僕はあの年のホームランを思い出す。
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posted by えんをる |08:23 |
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2008年11月08日
あまりに異様な投手だった。
右投げ。何故か両打ち。
サイドスローでありながら150km/hを超える剛速球。そして気持ちが良くなる位のノーコン。
そんな素質からかドラフトでは日米の球団が争奪戦を繰り広げた。
その注目度から新聞で取り上げられていた。その記事を読んだのが、僕が平本学という投手を認識した一番初め。
「こんな凄い新人が入ってきたのか」ととんでもなく期待した覚えがある。でも「体が硬い」とコメントしていて、ホントにそれで大丈夫なんだろうかと疑問にも思った。
様々な期待を胸に見たオープン戦。
ホントに、びっくりするぐらい四球が多く、あっという間に無死満塁。速球派投手のステレオタイプと言えるような投球内容に、むしろ爽快さを感じてしまった。期待に背かず不安定な投球内容。
その後三者三振で無失点で抑えたのも、平本がすごいというよりは古田に対する畏敬を新たにした。
それからしばらく見なかった。
久々に名前を聞いたのが二、三年前の春キャンプ。確か中継ぎが居なくなっていたからたぶん五十嵐と石井弘寿が既に怪我をしていた年だと思う。代わりとなる中継ぎ候補の一人として、何年か振りに懐かしの名前を聞いて毎日のオープン戦結果に一喜一憂していた。
しかし、その年も表に出ることはなかった。
次の年、彼はアンダースローに挑戦していた。
「体硬いのに大丈夫なんだろうか・・・」と少し心配になった。
そんな実に、実に解りやすい投手だ。直球のスピードに対する気持ちよさを、再認識させてくれた投手。
今振り返ると、あの直球は子供が投げる球みたいだな、と思う。
野球を始めたばかりの子供が、少しでも球速を出そうと全身の力をこめて投げる。その他に何も考えず、全力で。
コントロールとか、ペース配分とか、打者への攻め方とか、そういった細々とした物を全て忘れて、ただ投げる。速い球が、投げたくて。
そんな球が少しずつ速くなっていった結果、平本学という投手が生まれたような気がする。そんな純粋さが、あの球にはあった。
平本は、投げた。
純粋で、真っ直ぐで、しがらみのような物を突き抜けていくような、そんな直球を投げ続け、彼はヤクルトでの六年という時間を駆け抜けて行った。
ただ、一つ。
最晩年で取り組んだ、あのアンダースロー。
あの転向は、彼が野球少年では無く野球選手としてプロに向き合わざるを得ない出来事だったはずだ。
彼はそれをどう受け止めたんだろうか・・・いつか機会があったら、そんなことを聞いてみたい。
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posted by えんをる |09:39 |
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2008年11月04日
石井一久が、打たれた。
石井一久といえば、大舞台で図抜けた強さを発揮する投手だ。2001年優勝時、日本シリーズでの快投は未だ記憶に新しい。いてまえ打線と恐れられた近鉄の打者陣をまさに手玉に取ったあの試合は、まさに石井一久の面目躍如と言える場面だった。
メジャーから戻ってきてからの彼は、そこまで絶対的ではない。昔よりも不安定な面が大きくなっていて、今年の西武ライオンズで残した結果もらしくないものだった。
しかし、冒頭で言ったように彼は大舞台での異様な強さを持っている。そして西武ライオンズはポストシーズンへ進み、その能力を発揮する機会を石井一久は得た。
西武ファンの友人に、僕は常に言った。石井一久は、絶対に抑えると。彼が投げたときは必ず勝つ。だから西武は既に一勝しているも同然だと。
クライマックスシリーズ。彼は圧巻の投球を見せ、西武は日本シリーズへと出撃することになった。
僕は思った。
まだ彼の神通力は衰えていない。石井一久は未だに、いつも不安定なくせに大事な試合では完璧なピッチングをする、ヤクルト時代の彼のままだ。そう思った。
一勝一敗で西武ドームへと戻ってきた第三戦。
石井一久は投げていた。
変化球が、高く浮いていた。僕に解ったのはそれくらいだ。
あっという間に一点取られた。
気づいたら、四点取られていた。らしく、無かった。
その後しばらく無失点を続けた。序盤の失点は出会い頭だったんだな、やっぱり大舞台には強いな。そう思い始めたそのとき、ラミレスがそのバットを振りぬいた。
その瞬間、ヤクルトと石井一久をつないでいたものの一つが途絶えたような気がした。
それは僕が勝手につないだ何本もの糸の内の、ほんの些細な一本だったけど、なんだか無性に寂しかった。
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posted by えんをる |22:50 |
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2008年10月30日
三木肇
とにかく打てなかった。
三木肇。内野手。右投右打。
彼が表舞台に出てきたのは、2001年。
優勝したあの年。
ヤクルトにおける二塁手の代名詞ですらあった土橋勝柾が、衰えを見せ始めていたあの頃。
故に三木は現れた。土橋の後を継ぐかもしれない存在の一人として。当時はその立ち位置に抜きん出た存在が居たわけでは無かった。そこには野口祥順と城石憲之が共に居て、その三人がセカンドで入れ替わりながら試合に出ていた。
三木は24歳。野口が20歳で、城石は27歳。あの時、彼らには皆未来があった。土橋の後継者は、この三人の中から恙無く生まれ出でるのだと。そう無邪気に信じていた。
彼は控えという立場でありながら、その中でもさらに二番手であったと思う。
野口こそ怪我により遠回りを強いられていたものの、彼の前には常に城石がいた。より重宝されていたのは城石だったし、絶対的ではなかったものの、レギュラーを一時的に奪取したのも城石だった。
そして、田中浩康が土橋の後を継いだ。
三木の場所は、いつの間にか無くなっていた。
嘗て彼の役割だった場所には、河端、野口、梶本といった彼より若い選手が座っていた。あの頃若手だった彼もいつしか30歳になっていた。両打ちへと転換し、それでも尚向上することは無かった打棒と年齢は、彼の状況を少しずつ変えていった。
しかし、彼にはまだ脚が残っていた。
地位を固めることも叶わず、後輩は自分の前に行き、後から来た存在にポジションを奪われた。
でも彼は、グラウンドに立っていた。自らの両足で、その存在を周囲に発し続けていた。
頻繁に、という訳では無かった。ミスだって少なくなかった。
だからこそ、代走として登場したその一瞬一瞬には、とても、とても大きな意味があったと思う。
三木肇はそうやって、ヤクルトで12年という時間を築いて行ったのだと思う。
今年、彼は日ハムへと去っていった。結果として今年でユニフォームを脱ぐことになってしまったけれど、彼がプロで残した13年の日々は、三木肇という選手が如何なる存在であったかを静かに示してくれている。
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posted by えんをる |07:47 |
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2008年10月22日
石堂克利
右投げ右打ち。松坂世代。
誰が彼の名前を覚えているだろう。
松坂大輔が持て囃された98年。ヤクルトのドラフト一位入団選手。
スカウトは「松坂以上の才能」と言った。
しかしそんな彼が残した足跡は、同じ時代の旗手が残したものとは比べることが出来ないくらい乏しかった。
怪我、という逆風もあった。
入団してから何年か、彼の名前は聞いたことが無い。
始めて聞いたのは、既に2001年の優勝も通り過ぎた後。優勝に貢献していた多くの投手が、いつの間にか、悉く姿を消してしまったあの頃だ。
藤井は肘を壊した。前田と入来にはあの頃の面影など無く、石井一久は既にアメリカのマウンドに居た。
みんな居なくなった。
そして石堂の怪我が癒えた。ついに石堂克利が、ヤクルトのマウンドに登った。
皆切望していた。優勝時の先発陣が崩壊した後、新しいサイクルが生まれることを。
そしてその象徴になる選手の出現を、皆求めていた。
少なくとも僕はそうだった。
彼はとにかく、続かなかった。
開幕当初は素晴らしい。しかし、それは絶対に長続きしなかった。すぐに不調に陥っていく。
それが二年続いた。それすらも、二年しか続かなかった。
彼は一度、打者に転向したことがある。確か一昨年の秋季キャンプだ。
しかし、最後には再び投手として投げていた。
「もう一度、投手として勝負したい」と、そう言った。そこには、投手としてのプライドが垣間見えた。
石堂克利。
彼は自分の人生を歩んできたけれど、その足跡の多くは僕らの目に見えない場所にあった。
松坂がアメリカで躍動する中、彼は今ヤクルトの打撃投手を務めている。
隠れた場所にある足跡を、少し日のあたる場所に誘う。そんな仕事を、彼は今している。
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posted by えんをる |13:45 |
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2008年10月16日
由規。
10月8日 vs横浜ベイスターズ 先発・八回1失点。。
僕は、由規が今期活躍するなどとは一度も思ったことが無かった。
単純に力不足だと思っていた。たぶん、殆どの人もそう考えていたのではないだろうか。
もちろん当初先発陣はスカスカだったから、出番自体はあるだろう。しかし、だからといって高卒の選手がいきなり二桁勝つような、そんな楽観的な予想をそれこそ無邪気に信じていたファンが、一体何人いたんだろう。
由規は田中や松坂のように並外れた怪物性を甲子園で見せ付けたわけでは無い。ただ150km/hのストレートを投げることが出来ただけだ。もちろん他にも色々と持っているものはあったけれど、手に入れたものは優勝旗では無い。
しかし、記憶は残った。多少なりとも鮮烈なその記憶。僕はその記憶を、未来にとって置く事にした。直ぐには躍動することは無いだろう。もしかしたら、そのまま怪我で消えていってしまうかもしれない。
しかし怪我さえなければ、恐らくは。
それすらも、恐らく。世界というのは、たぶんそういうものだ。
そんな中、由規は今望外の結果を出すに至っている。
僕が想像していたようなひ弱さなんて、笑い飛ばすくらいに打ち破る、そんな姿が今マウンドにはある。
たまたま調子がいいだけかもしれない。来年はまた、長い二軍暮らしが待っているのかもしれない。
まだ二勝。されど二勝。
ゆっくりでいい。
乗り越えながら、迂回しながら、大きな柱になってほしいと。僕は素直にそう思う。
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posted by えんをる |11:16 |
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2008年10月11日
河端龍
中継ぎ。鮮烈なる右腕。
如何にもヤクルトらしい、細身できしゃなその出で立ち。
2001年。21世紀の始めの年に、新しくなるヤクルトの産声を上げたあの年。
確かに新しいサイクルが始まったと、そう思ったあの年。
ヤクルトの、今現在最も新しい優勝。
そこに河端龍は居た。
中心に居た、といっても過言ではない。
それまで殆ど名前を聞いたことの無い投手だったけれど、彼なくしてあの年の優勝は無かったのではないだろうかとすら思う。絶対的な存在では無かったのかもしれないが、本当に無くてはならない存在だった。
絶対的な抑えに高津がいたが、それだけで勝てる訳では無い。
ロケットボーイズが未ださほどの脅威では無かったあの年に、君臨したあの姿がどれほど頼れる背中だったことか。
ことに河端に関しては、崩れたという記憶が無い。
それくらい、大きな中継ぎだった。昨今のヤクルトの低迷は、ロケットボーイズの不在もさることながら河端も同時に潰れてしまった事だと思う。
この三人のうち誰か一人でも健康体であれば、あるいは。
それは叶わぬ願いではあったけれど、あるいはヤクルトはまた別の姿を見せていたかもしれない。
そんなことを考えてしまった。
結局のところ、僕は五年ほどしか河端龍を見ることが出来なかった。
その間彼はいつも勝ち試合で投げていた。
中継ぎの切り札としてマウンドに登り、ファンの期待を背負ってその右腕を振り回した。
あれから、たった七年。
たった七年で、彼は居なくなってしまう。あれほど頼りがいがあって、あれほど僕らの期待を背負ってくれた河端龍が、たった七年で居なくなってしまう。
どうしようもない。
怪我なのだ。どうしようもない。去年も一昨年も、彼が一軍で投げることは無かった。戦力外通告があったという話は聞いていない。だとすれば、本人の決断なのかもしれない。全ては僕の勝手な想像だ。
河端龍が表舞台から去ってしまう。
恐らくは10月12日に。
間違いなく明治神宮球場で。
彼がいろんな物を賭け、僕らが彼にいろんな物を願ったその場所で。
河端龍は、表舞台から、去る。
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posted by えんをる |10:06 |
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