2009年01月28日
『田中浩康』
誠に主観で申し訳ないが、守備が上手い選手が好きだ。
しかし華麗であってはならない。あくまで地味で堅実でなければならない。
こういう選手は概して小技が上手く、従ってバントも右打ちもお手の物。素晴らしい。安心できる。打球が飛ぶたびに背筋に汗をかかされるのも中々魅力的だとは思うが、あまり多いと水が欲しくなる。
安定感があるのは大前提である。毎シーズン荒削りな選手にポジションを脅かされながら、結局のところいつもと同じようにそのポジションへ落ち着く蘇生力。実に得がたい。多くの選手が必死に練習して得ているものを、平然と持ちえているかのような小憎らしさ。もちろんその裏には涙も枯れるような苛烈な努力を自らに課しているのだろうが、それを見せないオーラが素晴らしい。
故に彼らは打ちすぎてはならない。3割は打ちすぎ、二割五分ではポジションが危うい。よって二割七分が適当である。根拠を求めるのは野暮と言うものである。打順は二番や八番であって欲しいが、自然と落ち着くので心配は無い。二塁手であればなお良い。
過去ヤクルトには土橋がいた。西武には辻が居たし、最近であればロッテに堀がいた。そして各チームは優勝している。そんな共通点なんぞ探せばいくらでもあるだろうが、それを指摘するのも野暮である。
今のヤクルトをこの条件で検索すれば、ググるまでもなく田中浩康が出てくるのは火を見るより明らかだ。だってレギュラーなんだもの。当たり前じゃない?
とはいえ、自分の理想とはチト違うのである。
今や日本を代表する二塁手になった感もある彼だ。僕のような素人がそんな田中浩康選手に対しあれこれ言うのは難癖と言われも仕方なく、実際難癖以外の何者でもないのだが本人が違うといっているのだからそうなのであろう。個人の理想とは、他人に犯されることを良しとしない厄介な欠点を前面に押し出しているからたちが悪い。世の中に議論の余地が無いものほど手に余るものは無く、故に理想は他人にとって実に敬遠すべき議題である。
とはいえそんなことを言ってはこの記事の意味が無い。と言うわけで、以下自分の理想像との整合を図ってみる。
まず二塁手。これはいい。というかここから田中浩康は導き出されたのだから、違っていたら元も子もない。
守備。堅実である。どのくらい堅実かと言えば、そこら辺はこちらの記事を参考にされたい。
因みに管理人さんから引用許可を頂きました。どうもありがとうございます。
『田中浩に足りないもの』(東京ヤクルトスワローズ観察日記)より引用
>たとえばワンアウトランナー1塁に俊足のランナーがいる。
打球は1、2塁間に飛び、セカンドがギリギリ追いつく。
体勢も不安定、ランナーは俊足。
ここで荒木はセカンドに送球できるプレーヤーだろう。
田中浩はおそらく、セカンドに目をやってファーストへ送球するタイプだ。
堅実に一つひとつアウトを取らなければならないときもある。
というよりそういうことの方が多いだろう。
失敗すればワンアウト1、2塁、送球が逸れる可能性もあるからピンチが広がりやすい。
しかし絶対にピンチをつくってはいけない場面で、荒木はこのギャンブルが出来る。
田中浩康の堅実さをここまで明確に表している文章を、僕は嘗て見たことが無い。
この記事だけでなく全ての記事が素晴らしく、且つ興味深いので全部読んで頂きたい。そしてそれを苦にさせないだけの名文でもあるが、ここまで僕の冗長にして愚鈍な文字列を見せ付けられて精魂尽き果てた方も居られるだろうので、一部引用させて頂く。因みに毎日チェックしてる。お気に入りのブログである。
確かに少々堅実さが過ぎる嫌いもある、という部分がゴールデングラブ受賞の弊害になっているのは間違いない。とはいえ僕の理想像のみに当てはめれば、これは悪くない。また、彼の堅実だが持つ欠点についてはこの後の結論と関わる部分もあるので敢えて触れない。
では何が合わないのか。
はっきり言おう。打率である。三割に届くかと言う打率。これが頂けない。打ちすぎである。もう二分か三分下げて欲しい。
とはいえただ打率を下げてしまっては理想の選手どころかただのスケールダウンである。これは田中選手も望むわけが無く、僕も望んでいないとあればwin-winどころかlose-loseという何のメリットも無い提言になってしまうのだから、そもそもここまでグダグダと書いてきた意味も無い。
要するに、二分の打率と引き換えにしてもらいたいことがあるわけだ。では何をして欲しいのか。
ズバリ、『考えて』頂きたい。
別に『何も考えずに野球をしている』と言いたい訳では無い。僕よりさらにずっと考えて野球をしているだろうことは予想できる。何も考えずに野球を出来るのは古今東西新庄剛士くらいのものである。
僕が言いたいのは『更に考えてくれ』ということだ。
それこそ突き詰めて突き詰めて、考え抜いてほしい。捕手が中軸を務めないのは何故か?リードの負担があるからである。打つことだけを考えるのでなく、全体の状況を考える。これにより打率が下がってしまうのは仕方が無い。
しかし何をしたら相手が嫌なのかを、とにかく考えに考え抜いて欲しい。そしてそれを実行に移して欲しい。
田中浩康は何でも出来る選手である。何でも出来るからこそ、何かをしなければならない。だからこそ考えに考え抜いて欲しい。今の彼は地味で印象に薄い。しかし野球において、地味だが実に印象強い選手は存在しうる。そこにあるものが、『考え抜く』ということだと思うのだ。
勿論ヒットを打てるに越した事は無い。しかし、所詮は三回に二回は失敗する。野球にはそれより高い確率を求められることが、それこそ頻繁に現れる。
そこに田中浩康がかち合ったとき、彼は何をするべきか。
ヒットを打つべきか?右打ちを心がけるか?バントをするのか、それとも盗塁のアシストをするのか。
考えて頂きたい。何が最も嫌で、何が最も確率が良いのか。
目立つ必要は無い。堅実で結構。地味で結構。打率だって.270で十分。
しかし、実に嫌らしい。皆も嫌らしさを期待する。僕はそんな田中浩康が、見たい。
故に僕は彼に期待する。彼ならば、僕の理想に近づけるはずである。地味だけど嫌らしく、忘れられない選手になれるはずだ。ひょっとしたら上記の条件を全て満たしながらも、打率だって三割を超えるような怪物になっちゃうかもしれない。その時彼は完全に土橋を超えるのではなかろうか。
偉そうに長々と記してきたが、田中浩康自身の理想像がいったいどこにあるのかは、また別の話である。僕の理想と重なっているのであれば、こんなに素敵なことはないのだけれど。
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2009年01月27日
こう来れば、スポーツナビに来られる賢明な方々であれば何の話題かは大体解るであろう。
無論FA移籍してきた相川亮二、その保障に関する顛末である。ヤクルトファンの間で喧々諤々の大激論の議題となったこの一件であるが、結局のところ金銭保障という予想外の結果を落としどころとして終結するようである。
個人的には願ったり叶ったり、といった所だ。馴染みのある選手が横浜へ移り、他チームの選手を応援せざるを得ない状況に陥るはずだったが、横浜に払う6000万(たぶん)と引き換えにヤクルトの選手はヤクルトに残ることになった。
この決断、僕にとっては好ましい。ヤクルトもそこまで層が厚い訳ではないし、報道等から見ても横浜側の人的保障の選択肢は『将来性のある若手』しか無かったのかもしれない。となると、横浜は『物になるか解らない若手』よりも『今そこにある現金』を獲った、という穿った見方も出来なくは無い。実際はどうなのかは解らない。
この見方に沿って眺めた時、他チームのことに頭を突っ込んで恐縮であるが、やはり選手を獲るべきではなかったかと思う。言い方は悪いが『数打てば当たる』という諺もある通り、やはり選手は多い方が良いのではないか。微妙なところで止まっている選手ではなく、同レベルの若手であれば、切磋琢磨して成長スピードも速くなるのではないだろうか。それが結果出場時間を分け合うようなことになったとしても、そこを何とかできねばどうしようもあるまい。
もしかしたら他に多くのデメリットがあるのかもしれない。チームになじむ時間もかかるだろうし、監督が実力を見抜くまでの時間も足りないかもしれない。あくまで個人的な意見なので、お気を悪くされた方が居たらば申し訳ありません。素人のたわごとなので許してください。
とはいえ今オフのヤクルトは、入る選手は多いが、戦力外以外で出る選手は居ない。
戦力的には申し分無い上積みを得た。優勝を成し得るかは別としても、出来うることは全て行い、そして成し得た。
オフの補強は満点と評しても良いのではないだろうか。
珍しいと感じてしまうのはいささか寂しく感じる部分も少なからずあるのだが、プロ野球のある種閉鎖的なルール内では仕方が無いか。
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2009年01月23日
相川亮二のヤクルト移籍が成立したことにより、ヤクルトファンは『プロテクトリストの製作』という未だ嘗て無い一大選択を科せられることになった。
プロテクトリストを作成するファンはシビアである。はっきりと『必要な選手』と『必要でない選手』を分類し、「○○ならいいや」「△△は要らない」といった会話が繰り返される様はさながらトップ会議の如く。ファンの性とはいえ現場が聞いたら「事件は現場で起こってるんだ!」と怒鳴られそうな発言の数々である。ただこの上司にはなんの権限もないわけで、だからこそ怒鳴られなくて済むのですけどね。
本来なら僕がここで華々しく『プロテクトリスト予想』なんて花火なんて称するのも憚れるほどの散っちゃい火の玉をぶち上げるのが筋であるが、生憎僕はそのようなことは苦手である。
というか、慣れん。大体28人は少なすぎる。ファンを自称してることもあってヤクルトに所属している選手は大体名前くらいは知っているのだが、だからこそ28人に絞るのは難しい。
誰かを外さざる終えないし、誰を外しても実に嫌な気分になる。身を切るような、と言うほどの拒否感があるわけではないが、少し首筋が痒くなる様な、そんな不快感はある。
いろんな人のリストを覗いてみたりしたが、やはり自分が完全に満足するようなリストなどあるはずも無いし、仮に幾分納得できるようなリストに出会っても、外れた選手に対し「仕方ないかな」と思わなければならないのは、なんというか好ましいものではない。
何故こんな思いをせねばならぬのか。出来ればこんな思いなどしたくない。
そして気付く。何も僕らがやる必要はないのではないか?
だから、僕は考えるのを止めた。
どう足掻いても誰かは移籍してしまうのだから、それに対しわざわざさき回ってイライラすることも無い。僕はフロントの判断を甘んじて受け入れることにしよう。それが僕の望まぬものであることはもはや明確なのだ。
そして去っていった選手にも変わらず声援を送ろう。「僕は君に残って欲しかった」と、それが茶番に過ぎなくても、僕はそう言い続けよう。
決断から逃げるのはきっと臆病者のやることだ。けど、スポーツの中くらいそれが許されてもいい。
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posted by えんをる |19:08 |
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2009年01月19日
古田敦也が西武のキャンプに参加すると言う。
「裏切りだ!!」などとヒステリックな反応をする訳ではないけれど、なんとも不安をそそるニュースである。自分の無二の親友だと思っていた人が、他の友達とさらに仲良さそうにしているのを目の当たりにした感覚に似ている。いや、別に構わないのだけど、少なくとも安心できるかと言えば、別れが微妙だっただけに少々頷けない。
自信満々に「Yes!!」と言うには成績が足りなかった、というのはなんだか切ないところです。まあ古田が悪いのかフロントが悪いのか、微妙なところなんですけどね。
喧嘩両成敗は結構なことだけど、それが仲直りに有効かは微妙どころか果てしなく怪しい。と言う訳で、古田とフロントになんの柵も無いんですよと無邪気に信じることは出来ないのです。少なくとも僕には、というのが救いになるのは、なんというか自分の存在価値的な哀れさを感じるのだけど、そんなこといっても始まらない。
まあ、その違和感さえ押さえ込めば、そう悪いことではないような気がしないでもない。プラスにはなってもマイナスになることはありますまい。決まった経緯もなかなか気軽で素晴らしい。何のパイプや戦略も感じない。
「球受けたいんだけど」「別にいいよ」
実にイノセントなやり取り。うむ、友情とはこうあるべきだという、お手本のような会話。まあ渡辺監督と古田の間にどのような絆があるのかは、ぶっちゃけよく知らんのですが、同い年だし何かと接点があるのかもしれませんな。うむ、友達っていいものですね。
古田にかのノムさんは、「外から見つめなおせ」とのお言葉をお掛けになられたことを考えると、一時的とはいえ西武のキャンプに参加する今回の動きはなんだか有意義に思える。少なくとも古田のキャリアにおいて、どんよりとした影を齎すようなものでは無いでしょう。
とはいえファンの心情に立ってみれば、『本当に戻ってきてくれるのかいな…』と心配になってしまうわけです。宝物は、一時的でも他人に貸したく無いものなのですよ。
少なくとも、古田敦也は過去20年においてヤクルトの宝物であった訳で、それは僕以外の誰もが頷いてくれるものだと思います。その宝物を手放すか意地でも保持するか、というのは感情が絡まるからいろいろと難しい面もあるのだけれど、ファンの感情からすれば手放すなんて以ての外なのですよ。
今回のことが直接そこに繋がるかは正直微妙なのだけど、そこはかとなく複雑なものを漂わせているのは確かなのですね。
古田敦也の未来がヤクルトと共にあればいいな、と思います。正直そういう保証があればこんなニュース「別にいいじゃん」とか何様だよと思うような台詞を吐けるんですが、どんな場合においてもそんなものは望むべくも無いわけですよ。
だからフロントさん、ホントお願いしますよ。勝手な話だけど、古田敦也っていう財産を手放したら、承知しませんからね。
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posted by えんをる |20:24 |
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2009年01月16日
今オフ最大の驚きと諦観と白々しさを齎した西武・三井浩二投手だが、二回目のポスティングも入札が無かった。
僕はポスティングは嫌いでは無い。権利なのだから、使えばいいと思う。
それは僕が長野久義について書いた時にはっきりと述べたし、特にそれを撤回する気も無い。
ただ、一つ。一つだけ言いたい事があって、この記事を書くことにする。
ポスティング、そこには重みがある。
何年も何年も大リーグ移籍を思い続け、何年も何年も実績を積み重ね、その結果としてポスティングが無ければならない。
そこには球団側が根負けしたという事実が残る。それは選手の一念が巨石を穿ったという明確な証であり、だからこそファンも「仕方ない」と認める。「その代わり活躍しなければ承知しないぞ」と代表として送り出す。少なくとも大リーグから金を得て、その代償として選手を明け渡す以上、そこには金だけに留まらぬ責任が生じてくる。
だからこそ、ポスティングは爽やかなものであるべきだ。それが我侭でないと見て取られるくらい、長い時間が必要なのだ。
少なくとも、ヤクルトにおけるポスティングはそういったものだったと僕は認識している。
彼は、どうだろう?
三井浩二は、どんな思いを持ったのだろう?球団はどんな思いを持って、彼を送り出したのだろう?ファンはどんな思いを持って、彼を見つめていたのだろう?
球団は大きな反対もしなかった。「功労者だから、本人の希望通りにしてあげたい」などという球団の言葉を、その額面どおり取る人がいるとは思えない。そこには言葉と裏腹な、酷く冷たい目線が混じっている。
翻ってファンはどうなのだろう?「あれだけ活躍すればしかたがない」と思うのか?「出て行くからには活躍して欲しい」と思われているのだろうか?「いつかは帰ってきて欲しい」と思われているのだろうか?
ポスティングには重みがある。
ファンの心を、球団の意思を、日本プロ野球の評価を全て背負って、彼らは活躍しなければならない。
そうまでしなければ、ポスティングという制度は成立しない。
何故三井がポスティングを行うことが出来、上原はFAまで待たねばならなかったのか?何故石井弘寿は、肩を壊す前に大リーグへ行けなかったのか?
ポスティングは、選手の為に生まれた制度である。だからこそ、使う側も考えて使わなければならない。少なくとも、成績を残した選手が損をし、当落選上の選手が得をするのは絶対に間違っている。
だから、言う。
個人の夢とか決断に、他人が口を挟めないことは百も承知だが、言う。
ルールを守る彼に、何も言う資格が無い僕は言う。
三井浩二。あなたは、自制すべきだった。
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2009年01月15日
どこぞの球団の若手選手が未成年のクセに飲酒をしたという。ヤクルトファンの僕にとって石川がカツオカーブを開発しているくらいにどうでもいい記事ではあるが、こんな記事を上げている以上そんな主張を繰り返したところで政治家のマニフェストほどの信頼性しか無い。
とはいえ筆が進みそうなのだから逃す手は無い。嫌々でも書かなければ、次の機会がいつになるのか解らんのである。因みに別に嫌々書いている訳ではない。
まあいい。僕がいいたいことは極めてシンプルな暴論により成り立つ。
たった一言である。『せめて、隠れて飲め』。それ以外、僕が言いたいことは何も無い。
プロ野球は夢を売る仕事である、などと言う眉唾物の話は誰が言ったか知らないが、それなりに広範な場所で語られる一つの標語のようなものだ。これに纏わる逸話もいくつか存在する。正しいかどうか僕には判断できないが、現在のプロ野球の立ち位置からして多くの選手が”夢”という酷く曖昧ながらも確かな輝きを持ったものを求めて、若しくは携えて、プロ野球という舞台に参画していることは、ファミコン並みのスペックもあるか怪しい僕の頭脳でも十分想像できる。
その夢を壊さないように行動しろ、という権利は僕には無いような気がする。
でも、壊さないで欲しいな、という願いは様々な人が持っているのではないかと思う。少なくとも、僕はそう思っている。
だから、法を犯すなんて以ての外、なのだ。
自分が大好きな選手が飲酒運転をした。引ったくりをした。脱税の容疑をかけられた。
そんな思いなんて、誰だってしたくない。だから、そんなこと僕はして欲しくない。
今回問題になっているのは未成年の飲酒である。もちろん喜ばしいことではない。
しかし、敢えて誤解を恐れず断言する。飲酒は"やっても構わない"レベルの罪であると考える。
だから、やることは構わない。未成年だろうが、飲みたければ勝手に飲めばいい。
しかし、隠せ。人にバレない様に、飲め。絶対に人に迷惑をかけるな。自らが余りよくないことをしていると言う実感を持て。それがバレたらば問題になるということを、重く受け止めて、飲め。
それを、ファンの目に入れるな。
そういう覚悟を持てよ!
それが出来ないならば、飲むな。僕は選手がプロ野球の舞台で活躍するところを見たいのだ。法を犯してガヤガヤ言われてるところなど、見たくもなんとも無い。
流石に暴論が過ぎるような気がするので少しだけフォローする。
別にバレなければ何をしてもいいと言っている訳は無い。ただ、未成年飲酒程度であれば多くの人が経験しているのも、また事実である。
プロ野球という場に関わるのであれば、もっと慎重に行動して欲しい、というのがこの記事の本意です。以上!
だいたい納会なんて公の場で飲むなんて、自覚が足りない。せめて一人部屋で飲め。阿呆。
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posted by えんをる |19:40 |
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2009年01月14日
若松勉とは、小さい。
別に器とかそういったことを言っているのではない。
そもそも画面を通してしか、若しくは数十mの遠距離から出しか見つめることのできぬ人物に対してああだこうだと言う権利など僕にはない。そういったことは彼と苦楽を共にした友人こそがするべきであり、如何に古田が「支えてあげたくなる」と評したからと言って、僕が彼を「そうだと思った」などと評することは適わない。「そうかもしれない」と若松氏の外見からその香りを探し出すことしか出来ない。
その香りを、恐らくは色気と言うのだろう。
そして、若松勉にそんな香りは無い。でも、彼が古田の言うとおりの人間であることは、何故か納得できてしまう。言うなれば、『空気』とでも言うべきなのだろうか。若松勉はそんな『空気』を実に自然に、しかし大きく纏っている人間だと思う。
この空気を纏っている人はあまり居ない様に思う。勿論野球界には華々しいオーラを身につけた人は何人もいる。王貞治は華やかに、長嶋茂雄は底抜けに、野村克也はしめやかに。他の幾多の大打者、大投手もある種の威厳のようなものを携えている。
だが、彼らの中に常に微笑んでいる人がいるだろうか?あれほどの落ち着きと、つつしみを持って微笑んでいる人が、一体どれくらいいるのだろうか。
一見目立たないものの、やるべきことをきちんとこなせる。このような人物は、本来最も世界に必要な人材なのだ。若松勉はどうであったか。野球界に於いて、その座に最も近い人物であると僕は断言する。故に彼はカッコイイ。プロ野球の中で、最もカッコイイと僕は思う。イチロー?役者が違う。あれは作り上げたカッコよさで、僕が求めるものではない。
若松勉はきっと、野村克也のように船を操縦することは出来ない。王貞治や長嶋茂雄のように、皆の灯台になることは出来ない。
しかし、彼は人の手をとって立たせることができる。みんなの先頭を立ち、進み、「何もありませんよ」と伝えて周りを安心させることが出来る。躓いた人を待っていて挙げることができる。
このような人間こそ、世界を変えるべきなのだ。皆の先頭に立ち、何かを一変させるべき人物なのだ。
しかし、彼はそれをしない。
だからこそ若松勉はカッコイイのである。それを否定する人物が居るのであれば、いいだろう。いつでも私が相手になる。でも負けちゃったら若松さんごめんなさい。あと偉そうに呼び捨てしてしまった監督の皆様失礼いたしました。
最後に何がいいたいかというと、若松さんは最高にいい人であって欲しいな、ということです。以上!
若松さん、殿堂入り本当におめでとうございます!!
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posted by えんをる |09:23 |
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2009年01月10日
ノーサイドと言えば、ラグビーで使われる言葉である。意味は試合終了。
試合が終われば敵も味方も無い。その精神。全てを出し切った清々しさに、勝ちも負けも無く、ただ健闘を称えあう。素晴らしき瞬間の残滓。その残り香として名付けられ、未だに残り続ける遺物。
勝負論から言えば、実に臭く無為にして、澄み渡る清流のごとき気高い精神に割り込んでくる異物とも取れる。何故今しがた敗北した相手に笑顔で握手をせねばならぬ。敗北を受け入れず、悔しさを押し殺し、歯を食いしばって励み、次に来るときに備えて牙を研ぐ。そうした高尚な精神もまた美学であり、それが幅を利かせることを僕はなんらおかしいとは思わない。
しかし、ノーサイドもまた美学である。
思えばプロ野球にはこの風景が無い。負けたら一目散にベンチへ戻る。そして静かに荷物を片付け、あるものは負けたグラウンドを睨みつけ、ある者は背を向けて通路に消えていく。勝者もほとんど変わらない。これにグラウンドでのハイタッチと、笑顔で談笑することを加えれば、そっくり勝者の行動が出来上がる。そして、そこに勝者と敗者の交わりは無い。
しかし、ラグビーにはある。少なくとも精神だけは、明らかに存在している。サッカーも、試合が終わればユニフォームを交換する。高校野球ですら、終わったら整列する。
勿論、これらは建前に過ぎない部分も多々あるだろう。試合が終わった。ユニフォームを交換した。残るもの?ロナウドのユニフォーム。これは素晴らしい。ただ押し付けた自分のユニフォームはどうなっているのか?おそらくダンボールに入れて、押入れの奥へ。再び日の目を見るのは相手が予想外のビッグネームになったときか、引越の時くらいのものだろう。引退し、孫に自分の道を説明する時に、ピッチでの姿を思い出すことはないだろう。
それくらいの重みしかないのに。チャンスで四番を敬遠し、ホームで捕手を突き飛ばし、スパイクを立ててスライディングをし、そうやって勝った相手を何故称えねばならぬのか。そう考える人も居るだろう。そういったポーズやアピールは、バラエティやイベントでやればいい、少なくともグラウンド内では、選手は勝負に徹する存在であるべきだ。それもまた正しい。文句の付けようもない。
ただ、僕は思うのだ。プロだからこそ、その姿をグラウンドで見せてはくれないだろうか。
別に毎回見せる必要は無い。サッカーだって、リーグ戦ごとにそんなことをやっている訳ではない。必要な時、必要な場所で、それを見せてくれればいい。それは甘っちょろい世迷いごとなのだろうか?
九回裏。二死。満塁。四番。エース。
こんな一瞬が終わった時くらいは、この笛の音が響いてもいい。敗者が駆け寄り、負けたよと相手を称え、次はこうはいかないと伝える。全てを出し切ったがゆえの交流。そう観客には見えるだろう。たとえそれが、皮膚を突き破るほどに握り締めた拳の末搾り出した態度だったにしても。
今のプロ野球に、そんな光景は無い。シーズンオフに笑顔で談笑はしても、試合後にしかめっ面で向き合うことも無い。それがどんな試合でも、無い。少なくとも、僕は見たことが無い。
しかし、その光景こそ人が求めるものではないだろうか?
そしてその姿が様になるくらい、いろんなものを背負った選手こそ、僕らが本当に求めているものだと思うのだが、どうだろう?
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posted by えんをる |16:10 |
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