2008年11月12日
2001年10月24日。日本シリーズ第四戦。
相手は今は無き近鉄バファローズ。
1-1。同点。
イニングは7回。ノーアウト。走者なし。
対峙するは右腕、岡本晃。
2-1からの、四球目。
それが、副島孔太が最も輝いた瞬間だ。
副島孔太は1996年に、ドラフト五位でヤクルトに入団している。
一言で言えば、長距離砲だった。
巡り会わせが悪かったように思う。
この頃はヤクルトが黄金時代最後の残り香を放っている時期で、外野手は真中、佐藤、飯田、稲葉と駒が揃っており、新人選手の出る幕など無かった。
それでも副島は多くのチャンスを得ていた。
彼にとって決定的だったのは、ラミレスの加入だ。
ラミレスが加入したことにより、外野の層はさらに厚みを増した。守備面を考えれば、彼とラミレスを同時に起用するのはリスクがあった。
結果、副島はスタメン候補から代打へとそのポジションを下げることになった。
それが、2001年の話だ。
彼はこの年、代打として活躍したとは言いがたい。二年後、戎とのトレードでオリックスへと去る。
現在のヤクルトに彼がいれば、どうなっていただろう。
加入するのがあと五年遅かったならば、どうなっていただろう。
今のヤクルトに絶対的に欠けているであろう、長距離砲。今ならば、常時スタメンで使うことが出来るだろう。2000年に、三割を超えた打棒である。
畠山と同様か、それ以上の結果を出していたのではないだろうか。
まあ、所詮は妄想でしかない。
四球目。今となってはどこか儚げな輝きに見える、あの年。
打球は、高く、高く空に打ちあがった。勢いはギリギリで微妙ではあったけれど、かといって平凡なフライに留まるような物でもなかった。
祈るように、願うように。打球がなんだかゆっくりと、遠くへ、遠くへと運ばれている。
いつまでも落ちてこないような気がしたボールが、少しずつ、少しずつ落ちてくる。
落ちた場所は、フェンスをギリギリで乗り越える。
勝ち越しのホームラン。
2001年10月24日。日本シリーズ第四戦。
最後のバッターを高津が抑える。試合が終わる。
お立ち台に、副島孔太が上がる。背番号25が輝く。
副島孔太は既に、プロの世界から去った。
しかし、今も社会人野球で選手としてその人生を送っている。それを聞くたびに、僕はあの年のホームランを思い出す。
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posted by えんをる |08:23 |
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2008年11月08日
あまりに異様な投手だった。
右投げ。何故か両打ち。
サイドスローでありながら150km/hを超える剛速球。そして気持ちが良くなる位のノーコン。
そんな素質からかドラフトでは日米の球団が争奪戦を繰り広げた。
その注目度から新聞で取り上げられていた。その記事を読んだのが、僕が平本学という投手を認識した一番初め。
「こんな凄い新人が入ってきたのか」ととんでもなく期待した覚えがある。でも「体が硬い」とコメントしていて、ホントにそれで大丈夫なんだろうかと疑問にも思った。
様々な期待を胸に見たオープン戦。
ホントに、びっくりするぐらい四球が多く、あっという間に無死満塁。速球派投手のステレオタイプと言えるような投球内容に、むしろ爽快さを感じてしまった。期待に背かず不安定な投球内容。
その後三者三振で無失点で抑えたのも、平本がすごいというよりは古田に対する畏敬を新たにした。
それからしばらく見なかった。
久々に名前を聞いたのが二、三年前の春キャンプ。確か中継ぎが居なくなっていたからたぶん五十嵐と石井弘寿が既に怪我をしていた年だと思う。代わりとなる中継ぎ候補の一人として、何年か振りに懐かしの名前を聞いて毎日のオープン戦結果に一喜一憂していた。
しかし、その年も表に出ることはなかった。
次の年、彼はアンダースローに挑戦していた。
「体硬いのに大丈夫なんだろうか・・・」と少し心配になった。
そんな実に、実に解りやすい投手だ。直球のスピードに対する気持ちよさを、再認識させてくれた投手。
今振り返ると、あの直球は子供が投げる球みたいだな、と思う。
野球を始めたばかりの子供が、少しでも球速を出そうと全身の力をこめて投げる。その他に何も考えず、全力で。
コントロールとか、ペース配分とか、打者への攻め方とか、そういった細々とした物を全て忘れて、ただ投げる。速い球が、投げたくて。
そんな球が少しずつ速くなっていった結果、平本学という投手が生まれたような気がする。そんな純粋さが、あの球にはあった。
平本は、投げた。
純粋で、真っ直ぐで、しがらみのような物を突き抜けていくような、そんな直球を投げ続け、彼はヤクルトでの六年という時間を駆け抜けて行った。
ただ、一つ。
最晩年で取り組んだ、あのアンダースロー。
あの転向は、彼が野球少年では無く野球選手としてプロに向き合わざるを得ない出来事だったはずだ。
彼はそれをどう受け止めたんだろうか・・・いつか機会があったら、そんなことを聞いてみたい。
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posted by えんをる |09:39 |
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2008年10月30日
三木肇
とにかく打てなかった。
三木肇。内野手。右投右打。
彼が表舞台に出てきたのは、2001年。
優勝したあの年。
ヤクルトにおける二塁手の代名詞ですらあった土橋勝柾が、衰えを見せ始めていたあの頃。
故に三木は現れた。土橋の後を継ぐかもしれない存在の一人として。当時はその立ち位置に抜きん出た存在が居たわけでは無かった。そこには野口祥順と城石憲之が共に居て、その三人がセカンドで入れ替わりながら試合に出ていた。
三木は24歳。野口が20歳で、城石は27歳。あの時、彼らには皆未来があった。土橋の後継者は、この三人の中から恙無く生まれ出でるのだと。そう無邪気に信じていた。
彼は控えという立場でありながら、その中でもさらに二番手であったと思う。
野口こそ怪我により遠回りを強いられていたものの、彼の前には常に城石がいた。より重宝されていたのは城石だったし、絶対的ではなかったものの、レギュラーを一時的に奪取したのも城石だった。
そして、田中浩康が土橋の後を継いだ。
三木の場所は、いつの間にか無くなっていた。
嘗て彼の役割だった場所には、河端、野口、梶本といった彼より若い選手が座っていた。あの頃若手だった彼もいつしか30歳になっていた。両打ちへと転換し、それでも尚向上することは無かった打棒と年齢は、彼の状況を少しずつ変えていった。
しかし、彼にはまだ脚が残っていた。
地位を固めることも叶わず、後輩は自分の前に行き、後から来た存在にポジションを奪われた。
でも彼は、グラウンドに立っていた。自らの両足で、その存在を周囲に発し続けていた。
頻繁に、という訳では無かった。ミスだって少なくなかった。
だからこそ、代走として登場したその一瞬一瞬には、とても、とても大きな意味があったと思う。
三木肇はそうやって、ヤクルトで12年という時間を築いて行ったのだと思う。
今年、彼は日ハムへと去っていった。結果として今年でユニフォームを脱ぐことになってしまったけれど、彼がプロで残した13年の日々は、三木肇という選手が如何なる存在であったかを静かに示してくれている。
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posted by えんをる |07:47 |
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2008年10月22日
石堂克利
右投げ右打ち。松坂世代。
誰が彼の名前を覚えているだろう。
松坂大輔が持て囃された98年。ヤクルトのドラフト一位入団選手。
スカウトは「松坂以上の才能」と言った。
しかしそんな彼が残した足跡は、同じ時代の旗手が残したものとは比べることが出来ないくらい乏しかった。
怪我、という逆風もあった。
入団してから何年か、彼の名前は聞いたことが無い。
始めて聞いたのは、既に2001年の優勝も通り過ぎた後。優勝に貢献していた多くの投手が、いつの間にか、悉く姿を消してしまったあの頃だ。
藤井は肘を壊した。前田と入来にはあの頃の面影など無く、石井一久は既にアメリカのマウンドに居た。
みんな居なくなった。
そして石堂の怪我が癒えた。ついに石堂克利が、ヤクルトのマウンドに登った。
皆切望していた。優勝時の先発陣が崩壊した後、新しいサイクルが生まれることを。
そしてその象徴になる選手の出現を、皆求めていた。
少なくとも僕はそうだった。
彼はとにかく、続かなかった。
開幕当初は素晴らしい。しかし、それは絶対に長続きしなかった。すぐに不調に陥っていく。
それが二年続いた。それすらも、二年しか続かなかった。
彼は一度、打者に転向したことがある。確か一昨年の秋季キャンプだ。
しかし、最後には再び投手として投げていた。
「もう一度、投手として勝負したい」と、そう言った。そこには、投手としてのプライドが垣間見えた。
石堂克利。
彼は自分の人生を歩んできたけれど、その足跡の多くは僕らの目に見えない場所にあった。
松坂がアメリカで躍動する中、彼は今ヤクルトの打撃投手を務めている。
隠れた場所にある足跡を、少し日のあたる場所に誘う。そんな仕事を、彼は今している。
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posted by えんをる |13:45 |
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2008年10月11日
河端龍
中継ぎ。鮮烈なる右腕。
如何にもヤクルトらしい、細身できしゃなその出で立ち。
2001年。21世紀の始めの年に、新しくなるヤクルトの産声を上げたあの年。
確かに新しいサイクルが始まったと、そう思ったあの年。
ヤクルトの、今現在最も新しい優勝。
そこに河端龍は居た。
中心に居た、といっても過言ではない。
それまで殆ど名前を聞いたことの無い投手だったけれど、彼なくしてあの年の優勝は無かったのではないだろうかとすら思う。絶対的な存在では無かったのかもしれないが、本当に無くてはならない存在だった。
絶対的な抑えに高津がいたが、それだけで勝てる訳では無い。
ロケットボーイズが未ださほどの脅威では無かったあの年に、君臨したあの姿がどれほど頼れる背中だったことか。
ことに河端に関しては、崩れたという記憶が無い。
それくらい、大きな中継ぎだった。昨今のヤクルトの低迷は、ロケットボーイズの不在もさることながら河端も同時に潰れてしまった事だと思う。
この三人のうち誰か一人でも健康体であれば、あるいは。
それは叶わぬ願いではあったけれど、あるいはヤクルトはまた別の姿を見せていたかもしれない。
そんなことを考えてしまった。
結局のところ、僕は五年ほどしか河端龍を見ることが出来なかった。
その間彼はいつも勝ち試合で投げていた。
中継ぎの切り札としてマウンドに登り、ファンの期待を背負ってその右腕を振り回した。
あれから、たった七年。
たった七年で、彼は居なくなってしまう。あれほど頼りがいがあって、あれほど僕らの期待を背負ってくれた河端龍が、たった七年で居なくなってしまう。
どうしようもない。
怪我なのだ。どうしようもない。去年も一昨年も、彼が一軍で投げることは無かった。戦力外通告があったという話は聞いていない。だとすれば、本人の決断なのかもしれない。全ては僕の勝手な想像だ。
河端龍が表舞台から去ってしまう。
恐らくは10月12日に。
間違いなく明治神宮球場で。
彼がいろんな物を賭け、僕らが彼にいろんな物を願ったその場所で。
河端龍は、表舞台から、去る。
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posted by えんをる |10:06 |
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2008年10月06日
小野公誠
捕手。右投げ右打ち。
ヤクルトには古田敦也がいた。
ヤクルトの捕手には常に古田敦也がいた。
チームがグラウンドに散ったとき、彼は必ずホームベースの近くに立っていた。
故に、小野公誠が表舞台に立つことは少なかった。
しかし彼は、古田敦也が居ないときには常にグラウンドにいた。
控えという立場ではあった。代役という役割ではあったが、そこは間違いなく小野公誠の居場所だった。
彼は常に古田の影にいた。だけど、彼は常にヤクルトと共にいた。
彼が最も輝いていたのは、恐らく2001年だった。ヤクルトが優勝した、あの年。
中盤で古田が膝を壊し、故に回ってきたその座。やはり代役ではあったけれど、常にスタメンで出続けた。
彼は打った。古田の影を感じさせないほどに、打った。
あの時、彼は希望だった。古田がいなくなっても、小野がいれば何とかなる。そう思った。
それは間違いだった、とは僕は思わない。あの年結局は、小野は古田の穴を埋めることはできなかった。
古田は膝の水を抜きながら、グラウンドに戻らなければならなかった。
でもあの時、小野は間違いなく古田の後を継ぐような、そんな姿を見せてくれていた。
小野公誠。
古田敦也の影に生きた選手。ただ、彼は決して影そのものでは無かった。
そんな彼もまた、今年ヤクルトを去る。
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posted by end-world |13:26 |
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2008年10月01日
度会博文。
頼りになる控え。右打ち。一度聞いたら二度と忘れぬ名前。
草野球から見出された、ヤクルトの独特なドラフトを象徴する一人。
始めのころはなんと読むのか解らず、ウグイス嬢の声に必死で耳を欹てていた。
この人は常に控えだった。僕がヤクルトを見始めてから、彼がレギュラーに定着した年は一回も無かった。
だからウグイス嬢のコール自体が稀で、だから僕はいつまで経っても名前を覚えられなかった。
ただ「度会」という名前だけは、僕の目からはっきりと脳みそに刻みついていた。「度会」と「わたらい」が別の選手だと、そう勘違いしていた時期もあった。
友達に「ドアイ」と言って、「お前ほんとにファンなのか?」と問いただされた、実に笑えない昔話もある。
彼は実に多彩な場所を守っていた。それは逆に言うと、器用であるが故に使いまわされた感があった。守備が下手だったとは思わないけれど、かといって上手かったのかは疑問だ。
ベテランが築いてきた経験が、様々なポジションを守らせていたのだと思う。そこには背負ってきた時間があって、立ち姿は何故か見てると安心できた。
度会博文は、僕にとって代打だった。僕にとって代打といえば、度会博文だった。
彼から代打としての凄みを感じたことはあまり無い。でも、根拠はなくとも、何かをやってくれそうな打者だった。
何故かそんな思いを抱かせてくれた。それはやはり、打者として生き抜いた、その日々の重みなのかもしれない。
いつだっただろうか。
確か、若松が監督であっただろうか。度会の一振りで、試合が決まったことがあった。サヨナラだったはずだ。
お立ち台には度会が上った。そして言った。
「この瞬間のために、俺は代打をやっている」
いつからだっただろうか。
僕にとって度会博文は代打だった。僕にとって代打と言えば、度会博文その人だった。
彼は常に控えで、器用貧乏で、ついぞヤクルトでスタメンを奪い取ることは無かった。
明らかに二軍には納まらない実力がありながら、一軍で力を存分に発揮することは無かった。
しかし、彼は時々そこにいた。僕は彼に期待した。
出てくるだけで諦めがつくような、そんな切ない打者が何人も居る中で、僕は度会に対して期待し続けた。
彼ならば打ってくれる様な、そんな気がした。
度会博文。
代打。切り札。信頼できる男。
一度聞いたら二度と忘れぬ、名前。
恐らくは僕の中に長らく残るであろう、名前。
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posted by えんをる |11:40 |
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2008年09月28日
世の中には、何度見ても同じものを感じさせてくれるものがある。
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真中満。
この左投げ左打ちの巧打者は、当初僕にとって少しやきもきした物をもたらすような選手だった覚えがある。
というのも、ここでいう当初。つまり彼が台頭し始めたその時、彼の場所にいたのは飯田哲也その人だった。
言うまでもなく、ヤクルト黄金期の象徴ということができるすばらしい選手だった。飯田哲也という選手がそれまでの10年間に残した輝きは実に眩くて、僕はそれにはっきりと魅了されていた。
真中満が表舞台に表れるにつれて、飯田哲也の影を見ることは少なくなってきた。でも僕は、いつまでも飯田哲也を見ていたかった。なんとか再び飯田に輝いてほしいと、そう願った。
相手先発が左の時に出てくる飯田を見ると僕は少し嬉しくなったけれど、少し経つとそれも稀になった。
僕もだんだんと、真中が一番中堅であり続けるヤクルトに違和感を覚えなくなっていった。
そして彼はヤクルトから去っていった。
思えばこれが、去って行くベテランというものを初めて真摯に見つめた経験だった。日々の流れに心が抵抗し続けた。そんな数年間だった。
しばらく経った。
飯田が居なくなったことを寂しく思う気持ちもまだあったけれど、恙無く世代交代が行われたことに安心を覚えるようになった。僕は段々と、それを「仕方ないこと」なんだと納得できるようになっていった。
そして、新たな選手に希望を預けるようになった。その始めての対象が、真中満という打者だった。
彼は飯田ほどの守備や足は持っていなかったけれど、素晴らしい打棒を持っていた。実に「巧打者」という文字が似合う選手だった。体は小さかったけど、頼もしかった。
そんな真中も、いつの間にか見なくなった。青木宣親が台頭したからだった。
僕も飯田がいたあのころとは少し変わったようだった。僕は驚くほどあっさりとそれを受け入れた。そして青木に世代交代の象徴として期待を寄せた。
ヤクルトは真中満に来期の構想に入っていないことを告げたという報道があった。
実質的な戦力外通告だと、人は言う。
それを聞いたとき、あの懐かしい気分が少しだけ蘇った。
それは飯田哲也が僕の前から消えていこうとした、あの時ずっと僕の中にあったものだった。
これは見覚えのある景色だ。何度も見てきた。
飯田哲也は去った。
踏ん張り続けた池山隆寛も引退した。
ファンになってから常にチームに居た古田も、今はもう居ない。
見慣れた、といえば、間違いなく見慣れた景色である。
でも。
何度見ても、寂しい。
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posted by end-world |20:25 |
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