2011年11月01日

お久しぶりです

本当にお久しぶりの更新です。もう今回のタイトルは「お久しぶりです」しか思いつかないくらいのお久しぶりです。約半年振りの更新となるので....平伏する程にお詫び申し上げたいと思います。

実はDREAM PRより「いい加減にブログを更新してください!」とブロック・レスナーのタックルのようにかち込まれ、さらにはこのまま大晦日までできるだけマメに更新することを約束させられたので、その目標を達成できるよう精一杯務めます。

とりあえず本日は、大晦日の件....ではなく、ちょっと前にツイッターでもつぶやきましたが、格闘技ファンにも、それ以外の人たちにも話題になっている「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の感想を改めて書こうと思います。

これから読もうとしている方々もいらっしゃるでしょうから、なるべく内容には触れないようにしますが....本書は700ページ2段組の圧倒的なボリュームなので、私がここで内容に多少言及したところで「群盲象を評す」でしょう。ですので、むしろ私のこのブログを読んで、「笹原の言うことはよく分からん!」と思い、「それなら本を読んだ方が早い!」と即行動に移していただければ幸いです。なんと、深謀遠慮な作戦でしょう。

という前置きで紙幅を稼いだところで、いよいよ本題です。
本書を一言で表すのであれば、木村政彦の評伝ということになるでしょう。ただ、評伝の定義が「ある人物の一生を描くノンフィクション」であるとするならば、こう断言するのがちょっと躊躇われます。何故ならそれは単に木村政彦という柔道家の一生を追っただけでなく、作者・増田俊也氏の「木村の無念を晴らす」という思いが全編に渡って伏流し、ときに奔流となって我々読者を飲み込んでしまうからなのではと思います(この「木村の無念」とは、皆さんもよくご存知の「力道山vs.木村政彦」戦における木村の敗北のことです)。

そうです。本書は木村政彦を描きながらも、時おり作者自身の相貌が行間から浮かんでくるのです。

これは個人の好みの問題なのでしょうが、ノンフィクションは事実を積み重ねることに重きを置くべきで、作者の思いは前景化すべきでない、と思う方もいるでしょう。しかし私はそうした色合いの作品よりも、作家として事実を積み重ねようとする客観性と、作家ではなく一個人としての対象への思いが激しくクロスするようなものが好きです。「作家としての客観性」と「対象への思い」の相克を経て、絞り出すようにして描かれるものこそが、私にとって面白く感じるノンフィクションなのです。

もちろん職業作家は、その相克と引き換えに仕事を得てお金を稼ぎ、ときに名誉や評価を得るワケですから、「当たり前の対価」である部分は否定しません。しかしながら、その描くべき対象の執念や怨念が作者に乗り移ることを起動させるのは、「当たり前の対価」ではなく、「これは俺にしか書けない。俺が書かなきゃダメなんだ」という決意です。本作「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」は、余人をもって代え難い、つまり「木村政彦を描くべき人」が、その決意と覚悟を持って描いた作品であるからこそ、ファナティックなまでの熱を帯びているのでしょう。

作者は、当時彼を取り巻いた歴史(主に戦争です)や、柔術や柔道の成り立ち、師匠や弟子との関係、そしてプロレスとの関わりなどを綿密に描写することで、木村政彦という格闘技史に埋もれた巨人を掘り起こすと共に、「力道山に負けた男」という汚名を晴らそうとします。
私が最も興味を惹かれたのは、もちろん師匠が木村政彦を最強の男に鍛え上げる描写もそうなのですが、それ以上に愛弟子との関わりについての描写です。

木村の怨念を受け継いだ弟子と、木村の無念を晴らそうとする作者の姿は、やがて木村政彦の姿へと収斂されていくように読み取れます。

果たして、木村政彦とは一体どんな人間であったのか。
なぜ、木村政彦は力道山を殺さなかったのか。

最後に辿り着く結末を、是非本書を読んで目にしてください。大書を読み終えた労に相応しい「何か(喜びなのか、絶望なのかはもちろん書きません)」を手にすることになるでしょう。


というワケで、大晦日の会見を終えたら、またブログを更新します!

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posted by dream_sasahara |22:14 | トラックバック(0)
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2011年04月22日

ありがとう、の意味

遅きに失した感もありますが.....ブログを更新します。



本日(4月22日)、小路晃選手が後楽園ホールで引退試合を行います。

皆さんご存知だとは思いますが、小路選手は最初のPRIDEと最後のPRIDEの両方共に出場した唯一の選手です(1997年のPRIDE.1と2007のPRIDE.34)。
「最後の日本男児」という肩書きも、確かPRIDE.5に出場するときに、当時所属していた慧舟會の方から「何か、格好イイキャッチフレーズ考えてよ」と言われ、うんうん唸りながら考えた記憶があります。「これだ!」と閃いて「『最後の日本男児』ってどうですか?凄く格好いいですよね?」と聞いたところ「....うん、いいんじゃないの」と、あまり反応がよろしくなかったのですが、気がつけば小路選手を表すキャッチフレーズとして定着しているのではと思います(あくまで自己裁定)。


私は、小路選手のエピソードで忘れられないことが一つあります。
それはPRIDE.1のヘンゾ戦です(PRIDE.4でのヴァリッジ戦後のマイクも印象深いですが)。
当時「グレイシー」と言えば、無敵の代名詞と言ってもいい存在で、戦前は「ヘンゾが圧勝する」と見られていました。しかし結果は、小路選手が粘り抜いてドロー。一躍、脚光を浴びました。

印象に残っているのは、試合そのもではなく、試合前の話しです。
小路選手はこの試合に臨む前に、部屋をきれいに掃除し、遺書をしたためリングに上がったそう。口幅ったい言い方であることを承知で書きますが、「死ぬ覚悟」でリングに上がったということです。


今やUFCでは、フィジカルや運動神経に秀でたモンスターのような選手が、技術の粋(すい)を尽くして、鎬を削るレベルに到達しています。その現在の地点から見れば、「試合前に遺書を書く」なんて、前時代的な過去の遺物のような振る舞いに見えるかもしれません(もちろん、それに近い覚悟や、そうした行為をする選手はいるのでしょうが)。
ただ、当時は、バーリ・トゥードに出るということは、そこまでの覚悟を強いられるほどの非日常性をまとっていました。私は、その非日常性や、遺書を書くような覚悟が素晴らしい、と申し上げているのではありません。
今、豊穣なる総合格闘技という世界があるのは、こうした先達の精神性があり、その常軌を逸したような執念や怨念のようなものが、今の豊かで、健全な世界の立脚点であることを心にとどめるべきだと申し上げているのです。

誕生した当初から、健全で、つつがなく運営され、常識的な振る舞いの元に成長するジャンルなんてありません(多分)。そのジャンルが、奇跡的な成長や進展を遂げる推進力となるのは、ある人たちの狂気や、「その身が滅びても構わない」というほどの覚悟です。


と、私が、このブログで叫ばすとも、その小路選手の生き様や、彼の為した行為の意味を理解し、受け止める人がいます。はい、対戦相手の三崎選手です。


「銀河鉄道999」では、「永遠の命」とは親から子へ、子からまたその子どもへ受け継がれることと教えています。小路選手の思いを三崎選手が受け継ぎ、そしていつか三崎選手の思いを誰かが受け継いで行くのでしょう。そうです、闘いもまた、永遠に連鎖することに実は意味があるのです。


その闘いの発端を作った一人である小路晃。


だからこそ、今、総合格闘技を楽しむファンも、総合格闘技で口に糊する我々や関係者も、心を込めてこう言うべきでしょう。

「総合格闘技を選んでくれて、ありがとう。戦ってくれて、ありがとう」と。

posted by dream_sasahara |12:12 | トラックバック(0)
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2011年04月08日

でも、戦う

日本中が戦っています。


そんななか、川尻達也、青木真也、高谷裕之の三人が、4.9ストライクフォースでの戦いに臨みます。


震災以来、テレビや新聞やラジオやネットで様々な意見や考えが飛び交い、多くの人たちはどの意見に、誰の言葉に耳を傾ければいいのか分からない、という心境だと思います。


被災された方々の気持ちを考えよう。
募金をしよう。節電をしよう。
救援物資を一刻も早く届けよう。
原発の問題はどうなるのか。
東京電力の対応は。政治家の対応は。
自粛と反自粛。
買いだめ。風評被害。
今、我々にできることをしよう。
「頑張れって」って、言われたくない。


もちろん、意見を出し合い、議論を重ねることでしか、その答えに近づくことはできませんが、あまりにも多くのことが複雑に絡み合っていて、誰もが信託できるような「答え」が見えてきません。


彼ら三人の胸中を慮ったときに、きっと色んなことを考えながらも、練習に集中し、戦いを迎える精神と肉体を研ぎすませて行くことは大変だったろうと、思わずにはいられません。


格闘技をやっている場合じゃないかもしれない。
被災された人たちに比べたら、自分たちは恵まれている。
戦うことが職業だから。
自分には格闘技しかないから。
戦うことで、日本に夢や勇気を届けたい。
ただ、戦う姿を見せるだけ。


どれもが、彼らの胸中に去来したことでしょう。
そして、今なお、彼らのなかに言葉にならない思いが渦巻いているはずです。


でも、彼らは戦います。
周りの声や、周りの思いや、そして自分自身の思いに明確な答えが出ていなくとも、戦う。



でも、戦うんだよ。


そこに、もしかしたら誤解や非難があり、敗北があり、震災で本当に苦しんでいる人に何も届けられなかったとしても。


でも、戦うんだよ。
彼らは、そう決めて、戦いに挑むのだと思います。


「でも、戦う」という、僅かな言葉のなかに込められた思い。
それを、全ての人たちに理解してくれとは言いません。


私はただ、それを見届けたい。そう思っています。

posted by dream_sasahara |18:12 | トラックバック(0)
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2010年12月12日

ただマイヨ・ジョーンのためでなく

自転車レースに興味はなくとも、「ツール・ド・フランス」の名前を聞いたことがある人は多いはず。簡単に説明すると、23日間に渡って都合3,500キロあまりのコースを走破し、タイムを競う過酷な自転車レースです。

100年以上の歴史を持つこのレースにおいて、1999年から2005年の7年間に渡って前人未到の七連覇を成し遂げた選手がいます。この名前も耳にした人はきっとたくさんいるはずです。

その名もランス・アームストロング。

七連覇という偉大な記録が彼の名が燦然と輝せているのはもちろんなのですが、さらにその輝きを目映くさせているのは、彼が癌を煩い、闘病生活から復活し、この金字塔を打ち立てたからです。

「ただマイヨ・ジョーンのためでなく」は、彼が2000年に上梓した「It's not about the Bike」という自伝の邦題(マイヨ・ジョーンとは、ツール・ド・フランスにおいて個人総合成績の1位に与えられる黄色のジャージのこと)です。
この邦題はちょっとリリカルに訳し過ぎている感じがしますが、ストレートに訳せば「自転車の話しではない」ということ。“レーサー”アームストロングではなく、“人間”アームストロングが病に如何に立ち向かい、そして如何に夢や希望を見いだしたのか、という意味が込められたタイトルなのでしょう。実際に本書のなかでは病と闘う様子や、心の有り様に紙幅が割かれていますし、「ツール・ド・フランスの勝利者と言われるより癌生還者と言われたい」といった当人の言葉が再三登場します。

とは言え、これを単に闘病記として読むのでは充分に含意を汲み取れないでしょう。私にはむしろ「自転車の話ではない」というタイトルを敢えて付けたことで、逆にレーサーとしての矜持があぶり出されているような気がします。思い切って書くのでれば、「自転車の話ではない」という言葉は「しかし、私は自転車に乗る」という言葉によって補完されているという感じすらします。先に挙げた「ツール・ド・フランスの勝利者と言われるよりも....」というアームストロングの言葉は、彼の胸の裡を偽りなく表した言葉なのでしょうが、本書を読めば、その行間から改めてレーサーとしての強さや、凄みを感じる取ることができるはずです。

癌という大病を煩い、そこから苦しい闘病生活を経て復活を遂げる。

と、言葉にしてしまえば非常にあっさりと綴れてしまうのですが、言うまでもなくそこには当人の呻吟や闘いがあり、家族や周りの支えがあります。そのなかにあって、日常生活のなかではぼんやりとしか意識しないであろう「生きる意味」や「周りで支えている人々」について真正面から向き合うときに、その競技者にとっての競技は、今まで彼が知ることのできなかった奥座敷を覗かせるのでしょうか。


ご存知の方もいると思いますが、宮下トモヤ選手は癌を患い、現在闘病生活を送っています。先日病室に訪れた際に、彼はこんなことを言っていました。

「DREAMにも出られて、DEEPでは今成選手とのタイトルマッチもすることができた。そして癌になり、もう引退しようと思っていた。けど、時間が経つと、やっぱりもう一度リングに立ちたいって思うんです」


アームストロングが自転車に乗り、レースに挑む意味があるように、宮下選手にもリングに立ち闘う意味があります。一人ベッドの上で、たくさんの思いや言葉がよぎっているであろうことは、想像に難くありません。もちろん、その意味を今知りたいとは思いません。

再びリングに立ち、リングの上から我々に聞かせてください。

posted by dream_sasahara |22:01 | トラックバック(0)
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2010年11月11日

10年

皆様、お久しぶりです。

前に更新したのはいつだったか。
あれはまだ僕が若くて右も左も分からず、触るものみな傷つけていた頃.....と、書き出したくなるくらい前に更新して以来、今までサボっていたことをお許しください。

久しぶりの更新にも関わらず、今日は格闘技とはあまり関係のない内容です。


すでのDREAMのホームページでも告知されている通り、佐藤大輔氏が車椅子バスケをテーマにした漫画「リアル」のPV(プロモーションビデオ)を作成しました。

「リアル」が連載10年目を迎え、さらに11月26日には節目となる10巻が発売されるということで、担当の編集の方から「DREAMとコラボして、何か面白いことやりましょうよ!」という素敵なご提案をいただき、今回の企画が実現したワケです。

作者である井上雄彦氏については説明するまでもないでしょう。「スラムダンク」も「バガボンド」も国民的マンガとして人気を博し、誰もが認める日本を代表する漫画家の一人です。その「スラムダンク」や「バガボンド」の個々の魅力について書き始めると、際限が無くなってしまうので、このブログでは三作品の共通点について、ちょっと書いてみようと思います。

と、ここで誰も聞いたことのない素晴らしい分析を発表できれば、笹原株も急上昇するのでしょうが、生憎そんな機知は持ち合わせていませんので、ここは私の見聞の及ぶ範囲で、最も膝を打った分析を引用します。漫画にも造詣が深い思想家(という肩書きで良いのか分からないけど)内田樹(うちだ・たつる)氏が、非常に分かり易く説明してくれています。

「短期間内に急速に成熟しなければならない少年の成長のドラマ」

おぉ、確かに。
いわゆるビルドゥングスロマン(主人公が精神的に成長し、人間形成される様を描く物語。「教養小説」と訳されたりします)ってことです。

桜木花道はバスケットボールプレイヤーとして、武蔵は剣士として、そしてリアルの3人の主人公は人として成長する物語だということです。


成長とは、敢えて大雑把な言い方をすれば「強くなる」ということです。
我々読者は、壁にぶつかり、挫け、乗り越え、精神的にも肉体的にも強くなっていく登場人物達の姿に心を揺さぶられるワケです。花道も、ミッチーも、リョータも、武蔵も、野宮も、戸川も、高橋も、彼らは全員強くなりたい、強くありたいともがいています。そして我々は、ときに彼らにエールを送り、ときに自分自身の姿を重ねながらも、その行間から発せられている一つの問いかけに気付くはずです。眼光紙背する程に読む人ならば、ページを繰る手を止めてしばし黙考するでしょう。なぜならそこには「強さっていったいなんだ?」という深淵で、究極の問いかけが横たわっているからです。

言うまでもなく、この問いかけは作者自身がもっとも探求したいと願っていることなのでしょう。でなければ、物語の登場人物が再三そうしたセリフを口にしないでしょうし、あまつさえ三作品ともにビルドゥングスロマンという話形を選ばないはず。私の勝手な思い込みを書いてしまうと、彼らが作者自身のアバターであるならば、作者自身も強くありたいと、そして強さとは何かを知りたいと思っているということです。

そうです。これって格闘家と同じなんですよね。

「強さっていったいなんだ?」を求道し、表現する漫画家。
「強さっていったいなんだ?」を求道し、格闘する格闘家。
ほとんど相似形と言ってもいいでしょう。

強くありたいと願えば願う程、同時に強さっていったいなんだ、という煩悶は大きくなってくるはずです。もっと言えば、そのジレンマのなかからしか、「本当の強さ」という万里の道への一歩は踏み出せないはずです。強さとは、その踏み出す一歩のことなのかもしれません。

果たして「リアル」には、三人の主人公達の「一歩」が描かれています。

10年という決して短くない時間を経て描かれた(というか、今まさに描かれようとしている)その一歩は、10年という風雪に耐えうる強靭さを持っています。そしてその一歩を強靭たらしめているのは、描く作者自身の一歩でもあるからです。


そして目を転じてみると、今年の大晦日は2001年より始まって、10年目の大晦日格闘技となります。10年間、一年最後の日を越えて来た格闘技の強靭さ見せるには、何よりも創り手である我々が強靭であらねばと、思っています。

posted by dream_sasahara |17:54 | トラックバック(0)
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2010年07月09日

この闘いが終わったら

この闘いが終わったら、我々はどんな光景を目にするのでしょうか。


もし、PRIDEが安泰のままで、この対戦が実現していたら。
もし、やれんのか!が行なわれていなかったら。

きっと、この闘いの持つ意味は全く違ったものになったでしょう。


彼らが闘う「今」は、かつての繁栄の残像だけがある、ある意味砂漠であり、ある意味焼け野原なのかもしれません。しかし二人は、共に夢を抱き、荒れた大地を耕してきました。

時に、全く違うジャンルに飛び込み、そこに君臨する英雄に挑みました。
時に、遠く海を越え、乾坤一擲の大勝負に挑みました。
それは、当然自分自身への挑戦という意味もあったでしょう。
しかし彼らを一歩踏み出させた原動力は、夢を取り戻したい、という願いにも似た思いだったはずです。

荒れ果てた大地を捨て、豊穣な世界へ飛び出すこともできたでしょう。
甘い思い出に浸り、まどろみ続けることもできたでしょう。

が、彼らが選択した道は、そのいずれでもありませんでした。


ただひたすら耕し続け、ある時ふと顔を上げると、目の前にお互いが立っていた。
言葉を交わさなくても、お互いが耕した大地を見れば、どんな思いで鍬を振るってきたのか、ありありと理解できたはずです。

そんな二人が、明日、初めて拳を交えます。

わがままで、生意気な青木真也。
不器用で、無骨な川尻達也。
きっと二人が描く夢は、わがままで、生意気で、不器用で、無骨なものでしょう。


この闘いは、PRIDEではありません。
ましてや、やれんのか!でもありません。
そう、DREAMの闘いです。
今という現実に立ち向う二人が描く夢なのです。


明日、終了のゴングな鳴った時に、我々が目にするものは、きっとそれです。

posted by dream_sasahara |19:22 | トラックバック(0)
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2010年05月28日

1986年

この年.....ハレー彗星が76年ぶりに地球に大接近し、スペースシャトル「チャレンジャー号」が爆発事故を起こし、男女雇用機会均等法施行され、土井たか子が日本社会党委員長に就任し、ファミコンソフト「ドラゴンクエスト」が発売され、宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」が公開され、渡辺美里が「My Revolution」をヒットさせ、広島の山本浩二選手が引退し、マラドーナが「神の手」を使い、そして清原・桑田のKKコンビが、プロ野球デビューを果たしています。


そんな1986年に、一人の男の子が誕生しています。

彼が小学校六年生の時に、「PRIDE.1」が開催され、物心がついたときにはすっかり「格闘技」に魅了されていました。
グレイシーと闘う桜庭和志に声援を送り、電光石火の飛び十字を極める佐藤ルミナに驚き、フランク・トリッグに膝蹴りをぶち込む桜井マッハ速人に熱狂し、火の玉のように闘う山本KIDに震えたことでしょう。
そして、きらびやかな舞台で大歓声を受けて闘うスター達を見上げ、「オレもいつか、あんな場所で闘ってみたい」と、念ずる程に思ったはず。

やがて少年は、柔術を学び、レスリングにも取り組んみ、19歳の時に総合格闘家としてデビューを果たします。それから4年の歳月が流れ、彼は今、23歳。
改めて周りを見渡した時に、少年の頃憧れた選手達に囲まれ、不思議な感覚を味わっています。

「僕は、昔憧れていたPRIDEみたいな熱を取り戻したいんですよねぇ」
「もし海外で闘うんだったら、DREAM代表として闘いたい」
と屈託なく言う彼に、その道のりの険しさや、責任の重さは実感できていないかもしれません。

が、その目標は、かつて憧憬を抱いた選手を倒さなければ、いや倒し続けなければ達成できないことを、経験を積む程にありありと実感するはずです。

彼が闘うべき相手は、目の前の宮田和幸であり、かつての憧れであり、そして今と言う時代なのです。
もちろん、対する宮田選手が易々と道を譲るはずがありません。憧れの存在達は若い芽を全力で摘みにくるでしょう。時代という大きな壁は、小さな夢など簡単に跳ね返してしまうはず。

現在、世界最強の玉座に在るエメリヤーエンコ・ヒョードルがリングスに登場したのは、彼と同じ23歳の時。10年の研鑽と経験を経て、彼は今、全ての格闘家が憧れる頂点に君臨しています。果たして大塚隆史が10年後に眺める景色は一体どんなものなのでしょうか。

闘う者、観る者達の夢を乗せて、明日はいよいよDREAM.14です。

posted by dream_sasahara |19:39 | トラックバック(0)
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2010年05月13日

波濤を越えて

すっかりブログをアップするタイミングを逃してしまいました。
前回が4.14でしたので、約一ヶ月振りとなります。すいません。

さすがに一ヶ月もほったらかしにしていると、言及すべき話題が多すぎて何が何やら分からなくなってきます。って、自分がさぼっていたから自業自得なのですが。

青木×メレンデスのストライクフォース。
吉田選手の引退。
K-1 MAX -63キロ開幕。
DREAM.14がケージでの開催を発表。
桜庭×ハレックなどの追加カード発表。

と、僅か一ヶ月の間に、思惟を巡らすことが多々ありました。

色んな事象を短い言葉で簡潔に言うのであれば、ツイッターは最適です。あのお手軽感に慣れると、改めてじっくり文章を書くことを敬遠してしまいがちになります。
「K-1 MAX ファイヤー原田サイコー!」とつぶやけば、ひとまず自分の心情は吐露でき、加えて同じような感想に触れられれば、感情の共有すらできます(念のために書いておきますが、別にそのことを批判してるんじゃありません)。しかし、当然ですが、何がどう最高だったのか。その時のもっと深い自分の心の有り様はどうったのかを振り返るには、やはりそれなりの紙幅が必要になってきます。もちろん、そのことと筆まめさは比例しませんが。

というどうでもいい言い訳はさておき本題です。
昨今、口端にのぼるようになった「ガラパゴスMMA」です。

念のためにざっと説明しておきましょう。
数年前より情報通信系の分野で、「ガラパゴス現象」とか「ガラパゴス化」という言葉が使われる
ようになったそう。

「ガラパゴス」とは、南米エクアドル共和国に属するガラパゴス諸島のこと。
エクアドルという国名がスペイン語で「赤道」を意味することからも分かる通り、この諸島も太平洋上の赤道付近に位置します。各大陸から隔絶された土地のため、独自の進化を遂げた固有種が存在しており、この島を訪れたダーウィンが「進化論」の着想を得たことでも有名です。

という蘊蓄はさておき、「ガラパゴス化」とは、外部から隔絶され独自の進化を遂げることを言います。日本の携帯なんかはその典型のように言われます。どちらかというと「取り残された」という、ネガティブな意味で用いることのほうが多いようです。

転じて、日本のMMAも「ガラパゴス化」しているのでしょうか。
アメリカを中心にケージによる試合が盛んになり、リングとは違った技術体系ができあがっている。
もはやリングは時代遅れだ。加えてマーケットのマジョリティもケージなんだから、そっちに合わせ
るべきだ、という意見。UFCを頂点とするヒエラルキーを考えれば、まぁ説得力のある言説です。この意見を受け入れるのであれば、ジャパニーズMMAも北米を目指すべき!という主張に収斂されていくでしょう。

言うまでもありませんが、リングにもケージにもそれぞれ一長一短があり、優劣をつけることは簡単ではないでしょうし、そもそも優劣をつけること自体がナンセンスなのかもしれません。観る側からすれば、それぞれ楽しみ方があるってことです。もちろん「どっちでもいいから、面白いモノ見せてくれ!」という意見もごもっともです。つまんないリングの試合もあれば、面白いケージの試合もある。もちろん逆もしかり。

一方でファイターはどうでしょうか。おそらく「ケージじゃなきゃ闘わない。リングじゃなきゃイヤ!」と言っている選手はほぼ皆無かと思います。深層のところでは好みや、もっと言えば得手不得手はあるんでしょうが、基本的なスタンスは「主催者が与えてくれた条件のなかで闘う」ということなんでしょう。そりゃそうです。そんなこと言ってたら、闘う場所が限定されてきちゃいますからね。というか、選手が目指すべき地点は「圧倒的な強さ」のはず。どんな条件におかれても、最高のパフォーマンスを発揮して勝つ。換言すれば、それは「最強」を目指しているってことでしょう。そこには「ケージなら」とか、「リングであれば」といったエクスキューズは存在しませんからね。

と、観る側とやる側をざっと眺めてみるだけでも、語るべきポイントはたくさんあることに気付かされます。なので、この論争は、拙速に結論を出すよりも、むしろ巧遅であるほうが良いような気がします。議論百出するまで、意見を闘わせれば、何か未来に向けたヒントが生まれるかもしれません。
だからこそ、単にリングとケージの長所や短所を言い合うところに墮するのではなく、もっと深淵にまで手が届くような議論になればと思います。

じゃあ深淵って何?とお思いでしょうが.....そう、これって「あなたにとってMMAってなんなの?」という話しなのです。おそらくPRIDEが隆盛であったころ、北米において「今、リングがマーケットも持っているんだから、UFCもリングにすべき!」なんて議論は巻き起こってないでしょう。同様に、「このままだとガラパゴスだ!」なんてこともそうです。こうした議論の深化は、とても日本的な感じがします。文化といっても大袈裟じゃないでしょう。

流行に乗ってMMAを観戦することを別に否定する気はありません。楽しみ方は人それぞれですから。
ただ、格闘技は自分の人生を重ね合わせるように観て、語った方が断然面白いはず。自分の思いを傾注すれば、その思いの重さと等価の答えを手にすることができるでしょうから。


そうそう。これだけはちゃんと書いておかなくてはなりません。
DREAMはどうして行くのか。
誤解を恐れずに言えば、「ガラパゴス化」そのものが悪いワケではありません。独自の進化自体は大いに結構。問題はその先です。独自の進化で完結してしまうのか、それとも更なる進化を求めて別の大海に漕ぎ出すのか。もちろんDREAMが目指すものは.....大海です。

では、大海に漕ぎ出すこと=リングをケージに変えることなんでしょうか。
そして、その大海=北米なんでしょうか。
リングは日本の文化だから。
ケージは世界の主流だから。
ルールは統一すべきだ。
PRIDEルールを復活させるべき。
日本の格闘技界は一致団結すべき。
北米で勝てるようなシステムを作るべき。
と、頭を悩ませる課題はたくさんあります。というかMMAを愛する人であれば、看過できる話題なんて一つもないのです。

ガラパゴス諸島のピンタ島に、「ロンサム・ジョージ」と呼ばれる一匹のゾウガメがいます。この亀は、他のゾウガメとも違う進化を遂げており、独立種ではないか、と言われています。が、その名が示す通り、たった一匹しか存在が確認されていません。

譬え話です。
もし彼に波濤を超えて、大海へ向かう体力や、経済力があったなら。そして何より絶対にあきらめない勇気があったなら。決してロンサムではなかったでしょう。

DREAMはロンサム・ジョージではありません。
必ず荒波を乗り越えて行きます。

posted by dream_sasahara |18:59 | トラックバック(0)
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2010年04月14日

4.17 ナッシュビル

多くの日本人は「ドーハ」という都市の名前を聞くと、この単語を真っ先に思い浮かべるでしょう。そう、「悲劇」です。

同様に「ジョホールバル」と聞けば「歓喜」という言葉を思い浮かべるはず。

説明するまでもなく、ドーハとジョホールバルは、それぞれサッカーW杯最終予選が行なわれた都市名。その幕切れがあまりにも劇的だったため、「ドーハの悲劇」、「ジョホールバルの歓喜」という言葉とともに、広く日本人に膾炙される都市名となりました。というかドーハにしろ、ジョホールバルにしろ、それぞれどこにあって、どんな街なのかは知らなくても、都市名だけは鮮烈に記憶に刻み込まれている、と言ったほうがいいでしょう。

ある出来事と共に、その都市の名が人の記憶に刻まれるって、よくよく考えてみると相当ドラマチックな感じがします。

サッカー以外で言えば、ボクシングでは「キンシャサの奇跡」なんて言葉があります。
モハメド・アリが戦前の下馬評を覆し、ジョージ・フォアマンをKOで破り、ベルトを奪還した試合のことです。今から振り返ること35年以上前の、1974年の出来事にも関わらず、多くのボクシングファンは「キンシャサ」という都市名をくっきりと覚えています。おそらく「奇跡」という漢字に、「キンシャサ」とルビをふっても違和感を覚えないくらい、二つはセットになっているはず。


プロ野球で言えば都市名ではなく、「10.19」という日付が思い浮かびます。もしあなたの周りにプロ野球ファンがいたら、「10.19(じってん・いちきゅう)」と耳もとで囁いて見て下さい。言葉にならずに泣き出すか、もしくは3時間くらいしゃべりっぱなしになるか、いずれかです。

「10.19」は、1988年に川崎球場で近鉄×ロッテのダブルヘッダーが行なわれた日のこと。非常に大雑把に説明すると、連勝をすれば優勝となった近鉄が、1試合目こそ勝利を納めたものの(って簡単に
書いてますけど、凄い試合でした)、2試合目で引き分けに終わり優勝を逃した一日のこと。「日本プロ野球史上、最もドラマチックだった一日」なんて言われ方をするときもあります。



「ドーハ」も、「ジョホールバル」も、「キンシャサ」も、「10.19」も、何らかのエポックとともに、ファンの記憶に刻まれた都市であり、日付です。もちろん、私が思い浮かばないだけで、ここに挙げた以外にもこうした例はたくさんあるでしょう。

本来であれば、何の感情表現も持ち得ない都市名や数字の羅列。しかし、時に起こる悲劇や、歓喜や、奇跡によって人々の記憶に刻まれる。むしろその言葉自体が自己主張しないぶんだけ、そこに隠されたドラマチックな出来事や、関わった人の思いが閉じ込められている気すらしてきます。

ドーハの土を掘り返せば、そこから悲劇が湧いてくる。
ジョホールバルの道を歩けば、歓喜の歌が聞こえてくる。
キンシャサには、神に祝福された奇跡ような朝日が降り注ぐ。
10月19日は、毎年一年で最も長く、最も切ない一日になる。

と、言われても、我々はほとんど違和感を覚えないでしょう。



来る「4.17」
開催地「ナッシュビル」

この日付と場所が、10年後も、20年後も格闘技ファンに語り継がれる街であり、日付になるかもしれません。


いよいよ、決戦です。

posted by dream_sasahara |19:04 | トラックバック(0)
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2010年04月06日

献身とは何か?

このブログを、尊敬するレイモンド・チャンドラーに捧ぐ。



といった具合に書き始めると、なんだかちょっとブンガクの香りが漂ってきませんか?てきとーな内容にも箔がつくというか。このように、物語などの冒頭に書く文章を「献辞」といいます。

最愛の人や、その本を上梓するにあたってお世話になった人達へ捧ぐ、というのが一般的でしょう。

「献」という漢字を見てみると、「南」と「犬」に分解できます。何故この二つの組み合わせで「献」の意味になるのでしょうか。金八先生ならば、それらしい説明をしてくれるんでしょうが、残念ながら私は金八っつんじゃないので分かりません。皆さんご自分で調べてみて下さい。


なにゆえにいきなりこんな話しをし始めたのかというと、『MMA Legend』という雑誌の第三弾・桜庭和志の表紙に「栄光への献身」というコピーが書かれていたからです。

表紙をめくると、見開きで超満員のUFCの写真。その次のページには、過去にPRIDEやUFCで行なわれた名勝負。そして桜庭×ホイス戦の写真へと続きます。蛇足とは思いつつも、敢えて説明するならば、「今、この隆盛があるのは、一人の男の献身があるから」という意味なんでしょう(時間を巻き戻しした構成なんですね。個人的にはこうした意匠は大好きです)。

「リングへの献身」でも意味は成立するんでしょうが、「栄光」のほうが断然いいですね。「献身は栄光の母である」なんて名言はありませんが、桜庭選手の目指すところが「リングの向こう側」であることがクッキリ伝わってきます。
とは言え、「栄光に献身する」ってよくよく考えてみると凄い言葉です。もし私に子どもがいて「パパ、僕大きくなったら、栄光に献身したいの!」などと言われたら、子どもの額に手を当てて熱を計るか、飲んでいたお茶をグレート・ムタばりに吹き出してしまうでしょう。そうです、言うまでもありませんが、栄光に献身できるなんて、誰も彼もができることではないのです。


神様は時折、その本人の意志に関わらず、ある世界を担い、そして救うべく重たい十字架を背負わせることがあります。そうした時、我々は「あの人は選ばれた人だ」なんてことを、時に畏敬の念を込めて、時に無責任に、口にすることがあります。「選ばれし者の恍惚と不安」とは、桟敷にいる我々から見た「畏敬」が「恍惚」であり、「無責任」が「不安」ということなんでしょう。

彼らが背負う十字架は使命と言い換えてもいいでしょう。その重さは、自分が立っている地面が沈んでしまうくらいのものなのかもしれません。使命をまとまった者はその泥濘のような地面でもがき、抜け出そうとする。普通の人が乾いた地面をすたすた歩いていくのを横目で見ながら、「何故、自分だけが....」と自身の運命を呪うことだってあるでしょう。もはや、歩みを進めることだけが精一杯で、この先に何があるのかすら分からなくなってしまった。でも、ただ前だけを見て、一歩ずつ足を運ぶ。

この行為を献身と呼ぶのでしょう。

おそらく編集部は、こうした熟考の末に、「栄光への献身」というコピーをつけたはずです。間違っても、30分くらいの会議で考えたワケではないはずです。たぶん。

そもそも格闘技に献身なんて必要無い。だって格闘技は個人の競技で、個人が勝利のために最善を尽くすものでしょ。という意見も断然正しい。そりゃそうです。選手は自分自身の勝利のために全力を傾けるわけですから。桜庭選手も、過去においても、そしてこれからも全力を傾注して勝利を目指すはずです。

果たして、そもそも献身が美徳なのかどうかは、私には分かりません。勝利を超えたところに献身がある、なんてことを言う気もありません。

一つだけ確かなことは、献身が観る者の心を揺さぶる、ということだけです。
そして、桜庭和志は心を揺さぶるファイターだということです。

posted by dream_sasahara |12:07 | トラックバック(0)
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