2007年03月26日

欧州組の「魅力」と「限界」

おそらくは,長旅に疲れ果て,大したやる気も無く,お金を稼ぎにきたペルー相手に何がいえるのか?というのもあるが,結局,課題はいわゆるジーコジャパンの時とあまり変わっていないようにみえる。

「時間の無い中でどれだけ組織的な動きを根付かせることができるか?」

ジーコは,それを「問い」自体を変えてしまう形,いうなればジーコ流(というのがミソ)「セレソン・ブラジレイラ・スタイル」で答えを出そうとしたが,それに失敗した。

わざわざ欧州から出張してきた中村選手なり高原選手なりは,今回は結果を残してまあそれは喜ばしいことだけれども,チームとしてどうか,といえば,この相手にリードされながらもひたすら引きこもってきた相手に対して効果的に崩せたわけでもなく,中村選手のプレースキックが基点になったゴールで勝ったという何とも「微妙」な感じなわけです。これが権威ある大会での試合,ならば勝利だけでいいわけだけど,やはり「中身」が求められる試合でこれだと,風が強そうだった今日のコンディションと同じく少々「肌寒い」といわざるをえないでしょう。

ひたすら引きこもる相手を崩すのは,それこそ欧州の強豪チームでも簡単では無いわけだけで,結局,いつも以上に組織的にボールを回し,動き,スペースを作って崩すことが求められるわけだけど,やはり欧州組が加わってわずか2泊3日の即製栽培でできるわけもなく,それが素直に出てしまったようにみえる。オシム監督は,試合前に中村選手は人間だから,みたいなことをいっていたらしいが,その発言に対する私の解釈は,中村選手といえど,組織で駄目なら「個人」で打開,というようなことが期待できる選手ではない,ということだと思う。プレースキックは世界的にみても頂点に近いレベルにあると思うが,それ以外はおそらく「ビッククラブでやれるレベルに無い」選手(これはCLのミラン戦を見て痛感した)であって,過大に期待しすぎるのは良くない,あくまで組織のレベルをあげることによって戦うことを考える,ということなんだろうと思う。中村選手も高原選手も,欧州で成長してるし,ベストを尽くしていると思うけど,彼らを中心に戦って勝てる程の「個」というわけでもない。

組織をクラブレベルにまで洗練させていかないとおそらくは駄目なこの国の代表チームにおいて,組織化を促進する要因とはならないであろう「欧州組」をどう扱うのだろうか?ジーコと違い,プロフェッショナルな監督であるオシムでさえ,この答えを見つけられていないようにみえる。

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2007年03月20日

フットボール人間が,「NFL」を学ぶ。

最近,スポーツビジネスに関して適当にそれらしきものを語ったが,そこで「NFLの経営をおさえろ」みたいなレスを貰ったので,じゃあ,少しおさえてみるか,と読んだのがこの本。

種子田 穣 『史上最も成功したスポーツビジネス』 毎日新聞社,2002

経営学の先生でもあり,熱狂的なアメリカンフットボールファンであり,プレーヤーでもある1人の変人による渾身の一冊らしいのだが,ご本人が語るとおりNFLの強みの「一部」を伝えるものにとどまっている。正直,中身が薄いうえに,体系だって書いてないので読みにくい。まあ,「アメリカンフットボールとかルールさえよく知らんし」な私がイメージだけでも 掴めたのでまあ値段分の元はとれたと思いますが。

適当におもしろかった点を書いていくと,

まず完璧に初歩的の知識だけど,驚いたのが,NFLのレギュラーシーズンの9月上旬~1月上旬までという短さ,試合数はたった16試合という少なさ。期間の短さは,もともとMLBとの競合を避けるために期間をズラしたからだったらしいけど,試合数の少なさは,アメリカNo,1スポーツとなった今は,1試合の価値を高める戦略をとっているかららしい。

案外プロアメフト自体の歴史が古い。例えば,1899年にカージナルスがプロチームとして誕生したらしいが,これは我がバルサを,カンス・ガンペールが創設したのと同じ年。この頃のバルサは,当然ながらまだプロ選手がプレーするチームではない。バルサ初(それはスペイン初でもあった)のプロ選手,ジョセップ・サミティエールが誕生するのは1918年である。

ピート・ロゼールという28年間もその地位にあったカリスマ(?)コミッショナーにより,NFLの基礎が作られた。メディアの活用や,「NFL」というブランドの管理,AFLとの合併,リプレイスメントでストを乗り越え,年俸の高騰を防ぐ,など。川渕三郎みたいなものである。AFL以外にもNFLには,しばしばライバルである別リーグが登場するのがなかなかおもしろい。

ヘルメット→ファンから顔が見えない→スター選手が生まれにくい→ファンは選手のファンよりチームのファンになりやすい,理論。

NFL運営システム

も参照。

NFLは,長い歴史の中で,経営手法が徐々に洗練されていったわけなんだけど(つまりは,設計主義的にうまくいったわけではない),やはり印象的なのは,NFL・コミッショナーというリーグ組織の有する巨大な権限。私がそれなりに知識のある,欧州のフットボール,Jリーグ,日本のプロ野球,などの場合は,程度の差はあれ,いうなれば「クラブの連合体」という印象なわけだけど(JリーグはもっともNFL寄りだと思うが),NFLの場合は,とにかく「NFL」「NFL」「NFL」という感じで,リーグ組織が一番威張っており,そこが主体となって何でもやるという感じなわけです。例えるなら,前者は,アメリカやドイツのような「連邦制(地方分権型)国家」であるのに対し,後者は,日本やフランスのような「中央集権型国家」という感じでしょうか。欧州型,北米型という分類もありうると思いますが,私は,国家制度に例える方が,(リーグとチームという)組織の力関係がどうなっているか,すぐにイメージできてわかりやすいと思います。

では,NFLと欧州のフットボールの「根本的な差」は何でしょう?

この本によれば,チームとは,「オーナーのものであり,ファンのものであり,地域のものである」とされるけど,私にいわせれば「その前にNFLのものである」ということになると思います。チームは,フランチャイズ権とかいってNFLから許可を貰わないと作れないし,時にはフランチャイズ移転とかいってNFL全体の利益なりオーナーの利益なりで地域から移っちゃうわけで,「ファンのものであり,地域のもの」であるというのは,NFLの意向に沿う限りでそういえるにすぎません。先の国家に例えた話でいうなら,「東京都」が,日本国がそのような行政区分を設けているから存在しているにすぎないのと同じ感じです。所詮は,「地方自治体」にすぎないというわけです。アメリカ合衆国の「独立13州」のような,アメリカ建国前から存在した「独立した国」とは全然重みが違います。そう,「独立した国」のような地位にあるのが,欧州のフットボールクラブだと思います。NFLのチームとは全然重みが違うわけです。「NFLあってこそのチーム」か「クラブあってこそのLFP」か。この認識の違い,「主語」の違いが「根本的な差」だと思います。

NFLの場合,チームはタイトルを目指して戦い,競うけれども,私は全体として「ショー」的要素が強いと思います。チームは,いくら負け越しても,一定の収入は保障され,下部リーグに降格するでもなく,一定の有力選手も自動的に分配される。すなわち,「生存」は保障されています。HPにもあるように,NFLは,「最高のレベルで戦力の均衡したチームが繰り広げる競争状態」により,「リーグ全体が継続的に繁栄しアメリカ全土を熱狂させる」ことが目標,つまり,「NFLとしておもしろいものであること」が目標なのです。「NFL」が「生存」を賭けて戦っているとしたら,それは「MLB」や「NBA」,「NHL」などが相手ということになるでしょう。一般的な日本人が知っている例で,NFLに一番近いのは,ジャンルは全然違うし,チームスポーツでもないけれど「プロレス団体」「総合格闘技団体」だと思います。「新日」や「PRIDE」みたいな。

一方,欧州のフットボールの場合,例えば,我がバルサは,「LFPとしておもしろいものであること」のために戦っているのでしょうか?ほとんどのバルセロニスタはこんな風にいうと思います。「馬鹿いっちゃいけない。俺達は,我らがクラブ/街/カタルーニャの誇りのために,”美しく勝利する”ために,マドリーの連中を打ち負かすために,そして”生き残る”ために戦ってる」のだと。欧州のフットボールの場合,「ショー」的要素はもちろんありますが,NFLと比べて顕著なのは,「競争」要素が極端に強いこと,それはあたかも「生死をかけた”独立した国”同士の戦争」のようです。負け続ければ底なしに落ちていくし,収入は原則として自分達で手に入れるしかないし,選手も自分達で育てるなり買ってくるなりしなければならないし,「生存」競争に打ち勝つのは大変です。我がバルサは「LFP」として戦っているのではなく,「バルサ」として戦っているのです。

前に,スポーツビジネスには2面性がある,ゲームでは「競争」だけれども,ビジネスでは「共存共栄」だ,ということを述べました。NFLがこの定石にしたがって,ゲームとビジネスを明確に分離し,ビジネスにおける「共存共栄」の手法を独自に洗練化させていった結果,ゲームの「競争」のレベルをも高めることができ,質の高い「ショー」として観客を「熱狂」させることに成功しています。一方,欧州のフットボールは,この定石を破って,どちらも同じように「競争」原理を貫いた,その結果,まさに生きるか死ぬかの「戦争」が実現し,観客を「熱狂」させることに成功しています。どちらの「熱狂」がいいかは価値判断の問題でしょうが,前者が「安全で/管理された/理性的な」熱狂であるのに対し,後者は「危険で/混沌とした/本能的な」熱狂である,という感じがしますね。端的にいえば「劇場か,それとも,戦場か」の違いということだろうと思います。

この2つはおそらく両極端にあるモデルだと思うので,ほかのスポーツビジネスは,この両者の中間に位置することになると思われるけれども,そもそもこのような話題をとりあげることになったキッカケである日本のプロ野球の改革についていえば,おそらくはNFLモデルに近づいていくのがいいのだろうと思います(特に「選手」の目線を抜きにすれば)。改革のために打破すべき「既得権益」「抵抗勢力」は色々ありますけど,「中央集権型国家」モデルに,例えば熱狂的だといわれる阪神ファンがどれだけ抵抗感を示すか,といえば,フットボールで考えられるレベルには明らかにないだろし,戦う相手として「Jリーグ」というのもあるわけです。いくらわが国でプロ野球の人気が高かろうとも,球団はわずかに12しかないなど,NFLのようにアメリカで成功しすぎたがゆえにアメリカ市場で飽和状態,マンネリ化を防ぐために外に飛び出さざるをえない,という状況にもないわけですから,「プロ野球」として「Jリーグ」を相手に戦う,というのは悪くない気がします。今の地位からすれば,マジメにやれば,ほぼ勝利を約束されているといってもよい「戦い」なわけですし。もっとも,その「今の地位」というのがクセモノなんでしょうね。

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posted by coladevaca |22:42 | スポーツビジネス | コメント(2) | トラックバック(0)
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2007年03月18日

プロ野球の裏金問題について・・・「学生野球」という名の「宗教」(その2,皆様への返信に代えて)

文章が長くなってしまったので,コメントのところでは無くここで皆様のレスにお答えするということにしたいと思います。

前回の最後の一段落は余計なことを書いたと後悔しているのですが,前回の文章の意図は,いろいろ理屈をこねて清水選手の行いなり,西武球団の行いなりを正当化しようというのとは少し違います。

何人かの方の意見は,

「いろいろ問題あるかもしれないにせよ,一応ルールがあり,それを明確に破ったのだが,やはり悪いだろう」

というものだと私は理解しましたが,それは一つの意見として説得力があると思いますし,それを否定するつもりはありません。

私が前回の文章を書いたのは,前回一番最初に掲げた記事を読んだ素朴な感想として,

「なるほど,お金をもらってはいけないというルールを破ったので非難する,まあ,これは理解できる。でもさあ,プロと練習しちゃいけない,そのルールを破ったから非難する,ってどうなのかな?非難している人達って,本当に「選手」とか「野球」のことを考えてるんだろうか?自分達のルールってそんなに"マトモ"だと思ってるの?「選手」からしてみれば,「日本で一番うまい人達に教わってうまくなりたい」,これ当たり前の感情じゃない?そういう「選手」の当たり前の感情を原則として否定しているルールってどうなのよ?」

と思い,そこからいろいろ思考を巡らせていった結果です。「ルールを破ったから悪い,正当化できない」という意見はもっともなものだとは思いますが,それとは別の次元の「ルールを破った,破った,と騒いでいる人達がいうルールそのもの自体を問い直す」という視点から書いたものだと理解して頂けるとありがたいです。

次に,何人かの方は

「プロ・アマの断絶という長い歴史的背景があり,それを理解しなければこの問題はわからない」

ということをおっしゃってたと思います。

『柳川事件』とプロアマ関係

不十分かもしれませんが,とりあえず,ここに書いてある程度の歴史を踏まえてみて,改めて考えてみます。

まず,私が述べた「アマチュアリズムという信仰」という考え方は,歴史的にみてもそう筋が悪いものではないな,と思いました。「信仰」や「宗教」という言葉がファナティカルな印象を与えるのでしたら「思想」あるいは「信念」と言い換えても良いのですが,先のHPによれば,学生野球は,戦前,文部省の強力な統制下に置かれていたそうです。それが,戦後,自主的な団体を設立して自主的に管理・運営しようとしたわけです。そうすると,その団体を纏め上げる何らかの思想的/信条的な背景が必要になり,それが「アマチュアリズム」だったのではないか,と推測します。「あくまで教育の一環である野球」と「プロ野球」との違いは?と聞かれたら,プロとは違う,「アマチュア」なんだという「思想」でもって差別化し,団結し,自立しようとしたというわけです。

そうしますと,このようなことがいえる気がします。

まず,「アマチュアリズム」というのは,必ずしも「学生野球」あるいは「あくまで教育の一環である野球」の本来的構成要素ではなく,団体としての自立という歴史的経緯から学生野球に付け加わったいわば「派生物」であること。いいかえれば,「学生野球というスポーツ面から導かれたものというよりは,日本学生野球協会設立という政治面から導かれたもの」であるといえるでしょう。これは少し言い過ぎかもしれませんので,学生野球において「アマチュアリズム」という考え方が強まったのは,団体として自立しようとしたときからである,という理解でもいいかもしれません。これは,先に私が述べたように「学生野球の理念にアマチュアリズムは必ずしも含まれていないのではないか」という疑念を裏付けるものでもある気がします。

次に,非合理的だから,プロアマの垣根を無くしていこう,という意見に対しては,おそらく,彼らも非合理であることを知りつつ,なかなか垣根は無くせないんだろうな,と思います。というのは,垣根を無くしてしまえば,「アマチュアリズム」という「信仰」は弱まってしまい,その結果,団結が弱まって,団体として自立していけなくなる,少なくとも,団体としての力が弱まることが予想されるからです。垣根を払ったとされる社会人野球の実情がどうなっているのかよく知りませんが,垣根を払えば,いずれは力の強いプロに吸収されてしまう(つまり,事実上,下部組織化する)ことを恐れているのかもしれません。いずれにしろ,プロアマの垣根を無くすことに抵抗するのは,まさに「組織防衛」に他ならず,論理的にみてある意味当たり前だということがいえます。私は,プロ・アマ断絶の歴史をみて,「省益あって国益なし」の縦割り行政だとか,戦前の陸軍と海軍の対立(歴史の知識が乏しく,よく知らないですが,あくまでイメージだということで)だとかを思い出しました。何か大事なもん,あんた達忘れてんじゃないのか?と。また,「アマチュアリズム」が弱まってしまうことは,「甲子園」という莫大な利権(お金)にも悪影響でしょうから,なかなか踏み出しにくいところでしょう。

話は少々変わるんですが,「甲子園」といえば,「清々しい,ハツラツ,一生懸命,汗,涙,青春」など「アマチュアリズム」的ポジティブイメージ満載で,我が国の国民にも大人気だと思うんですけど,私は,こういう風景に宗教的イメージを重ねるんですよね。なんというか,「球児=修道士」的な。ストイックで禁欲的な生活を送ると,「高み」に上り詰めることができるみたいな。私が,「アマチュアリズム」を「信仰」だというのは,そういうイメージが私の頭の中にあることが大きな要因だと自分で思ってます。

話を元に戻して,「プロアマの垣根を無くせ,交流を広げろ」という恐らくは一般的には支持されるであろう意見に対する私の見解を述べて終わりたいと思います。

矛盾することをいうようですが,私はこの見解について,必ずしも賛成ではありません。というのは,「アマチュアリズム」が「信仰」なら,人には「信教の自由」というものがあり,「プロアマの垣根を無くせ,交流を広げろ」というのは,実質「お前の信仰を捨てろ」といっているに等しいからです。私は「学生野球」というのを真にやりたい人達がいるなら,やらせてあげればいいと思うし,プロとかかわりたくないという人がいるなら,無理矢理関わらせることは無いと思う。今までのプロ・アマの不幸の歴史がなぜ生まれたか?それは,選手育成システムを「アマ」しか持っていない状況において,「プロ」が「アマ」に手を出さざるをえなかったところにあると思います。つまりは,異なる「宗教」を信仰する人達が交わざるをえなかったから,紛争が絶えないのだ,とこういえるのではないでしょうか?そうであるならば,これは前回もっとも言いたかったことですが,「プロ」が「アマ」に手を出さなくてもいい状況,すなわち,「アマ」の世界から「プロ」の世界へという流れに乗らない,最初から「プロ」の世界で選手を育成するシステムを作ることこそが必要とされているように思えます(もっとも,「アマ」→「プロ」という選手の流れも否定することはできませんから,交わり合いが無くなることは無いでしょうが,今よりは交わり合う機会が減ることにはなり,紛争も減るでしょう)。

実現するには,多大な労力とコストがかかりますし,難しいかもしれませんが,実現不可能だとは思いません。Jリーグでさえまがりなりにもそれなりにできているのに,日本で一番人気のあるプロスポーツであるプロ野球でできないとは思いません。前にも書きましたが,たとえ「甲子園」に出れなくなっても,「日本で一番うまい人達が教えてくれるというプロ選手への近道」へ参加しようという選手達のニーズはあるように思えます。

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posted by coladevaca |08:20 | スポーツ文化 | コメント(18) | トラックバック(0)
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2007年03月17日

プロ野球の裏金問題について・・・「学生野球」という名の「宗教」

当初のこのブログから路線とはますます外れていってしまうけども,裏金問題つながりということで。前回や前々回は,スポーツビジネス(?)という観点から長い間考えていたことを文章に起こしてみたという感じですが,今回は,「学生野球」という観点から裏金問題を切ってみます。今回は,思いつきがほとんで,おそらく「暴論」に近いものになるであろうことをお断りしておきます。

まずは,この記事を読んで皆様はどう思われたでしょうか?

「高3でプロ練習」衝撃 西武・裏金問題

「びっくりする話があった。(高校3年の)8月に西武の練習に行った、と。そんなばかなことがあるもんかと思った」そうですが,そんなことが何で問題になるのか,正確には「何で問題にすべきなのか」,私には理解できません。

形式的には,こういうことでしょう。日本学生野球憲章第10条によれば,

「選手及び部員は、職業野球に所属する選手、監督、コーチ、審判員その他直接に職業野球の試合若しくは練習に関与している者又は関与したことがある者と試合若しくは練習を行ない、又はこれらの者からコーチ若しくは審判を受けることができない。」

ようするに,この条文に違反した行為であるから,高校を問いつめる,と。しかし,です。そもそもこの条文,なんで設けられたのでしょうか?前文を読んでみましょう。

「われらの野球は日本の学生野球として学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの野球は成り立ち得ない。勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。元来野球はスポーツとしてそれ自身意昧と価値とを持つであろう。しかし学生野球としてはそれに止まらず試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも騎らず非運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強健な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない。この理念を想望してわれらここに憲章を定める。」

これによれば,

「学生野球の理念=野球自身の持つ意味と価値+フェアの精神を体得する事、幸運にも騎らず非運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強健な身体を鍛練する事」

であり,この理念を心に思い描いて憲章を作りました,とある。ようするに,前文に掲げられた学生野球の理念を具体化していくために憲章を作ったわけです。なるほど。で,問題は

「その学生野球の理念から,プロの練習に参加しちゃ駄目なことがどうして導かれるのか?」

ということです。私からみれば,プロ野球には全くフェアの精神がないか,といえばそんなことはないだろうし(皆様のレスでわかるように,例えば,ドラフト制度はフェアの精神にも基づいているわけです),プロ選手には,長いリーグ戦を戦う中で,幸運にも騎らず非運にも屈せぬ明朗強靭な情意(気持ち)が養われてる(メンタル面を鍛えることは勝つためには重要ですよね)だろうから,彼らと練習を共にするのはその面でもプラスの影響が見込めるだろうし,日本におけるトップレベルの練習に参加することは,いかなる艱難をも凌ぎうる強健な身体を鍛練する事につながるのではないでしょうか。まあ,多少こじつけらしきところもありますが,選手がプロ野球の練習に参加することを禁止しなければならないほど,プロ野球の練習が選手にとってマイナスの影響があるとは到底思えません。学生野球の理念には,「野球自身の持つ意味と価値」が含まれる以上,日本のトップの競技レベルに触れ,それに参加することを(トップレベルの練習に参加できる準備ができている選手を,トップレベルの練習に参加させることを),肯定することになりこそすれ,否定することになることは決してないように思います。日本の野球選手育成全体を考えても悪いことだとは全く思えません。準備ができているかどうかは,選手個別に,プロの側/アマの側の指導者が責任をもって客観的に判断すればいいことであって,「学生だから準備ができていない」というのは多様な個人を十把一絡げに型にはめようとする,何の根拠もない,非合理的な「信仰」でしかありません。

私は,学生野球の理念が,日本学生野球憲章の前文に現れているものに限られるとするなら,10条の条文は説明がつかないと思います。

いやいや,と反論があるかもしれません。君は,この文を見落としてはいないか?と。

「学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの野球は成り立ち得ない。」

「学生たること」ってのが重要なんだよ,と。しかし,「学生たること」とかいわれても具体的には何のことか意味がわからないし,日本語の文章的には「フェアの精神を体得する事・・・」以下が「学生たること」から導かれる具体的な理念であり,それを検討すれば足りるわけです。

なお,「勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。」からも,プロ野球選手と練習することが駄目だということは導くことはできないと思います。プロ野球選手にとっては,野球というチームスポーツをすること=働くことであり,勤勉と規律の見本を示している人達であるといえるからです。

この10条を説明するには「アマチュアリズム」なるものを持ち出してくる必要があるということになるのだと思います。しかし,ここまで検討してわかったように

「アマチュアリズムは,学生野球の理念には含まれていない」

日本学生野球憲章の前文を「素直に」読む限りそうだと思います。どこにもアマチュア,ないし,アマチュアリズムなどという言葉/概念はでてこない。「学生たること」から導かれるのは,「フェアの精神を体得する事、幸運にも騎らず非運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強健な身体を鍛練する事」という理念であり,アマチュアリズムではない。

もっとも,「学生」という言葉に読み込むのだ,というのがおそらく「正当な解釈」なのでしょう。ただ,日本語的にいえば,辞書を引けばわかるように,「学生=学校で勉強する人。主に、大学で勉強する人をいう。(大辞林)」であり,「学生≠アマチュア」です。学生の中にはスポーツにおけるアマチュアもプロフェッショナルも存在しえます。いいかえれば,学生であることとプロスポーツ選手であることは両立しえます。「学生たること=アマチュアたること」だ,というのは,単なる「思い込み」であり,「信仰」というべきでしょう。少なくとも,日本語的には意味不明だと思います。

ここでは,「学生=アマチュア」という図式を受け入れて話を進めていきます。さて,アマチュアリズムが,「スポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではないとする考え方」だとすると,スポーツによって金銭的な報酬を受けているプロ選手はその主義に反している人達なわけですから,アマチュアリズムに染まった人達からすれば,プロ選手というのは道徳的に堕落したか何かで関わるべき人間ではない,と考えるということはそれなりに理解できます。しかし,アマチュアリズム自体には,こう疑問が浮かびます。

「スポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではない?それはなぜ?」

と。私は,正直よくわかりません。知っている方がいれば教えてほしいのですが,私は,おそらく合理的な理由が無いんだろう,と思います。つまり,これは「信仰」だろうと。

個人的な価値判断ですが,アマチュアリズムの起源が「スポーツ界の中心だったブルジョアジーによる労働者階級の排除」であり,「身分・職業の差別」だとすると(Wikipedia参照),そんなに素晴らしいものか,と思ってしまいます。ピエール・ド・クーベルタン「男爵」は,「オリンピックは、参加することに意義がある。」とおっしゃったそうですが,同時に「参加できる資格を身分・職業によって限ろうとしていた」のだとしたら,「"誰でも"参加することが素晴らしい」というような通俗的なイメージとはだいぶ違うように思います。「オリンピックとは,自己が富裕階級に属する者であることを確認する場だった」といえなくもない。Wikipediaには,こういう説明があります。

「報酬を受け取らずにスポーツを行い、且つオリンピックのような大きな大会や、テニスの国際トーナメント、試合数の多いサッカーや野球のリーグ戦に参加することは非常に困難で、それが可能なのは一部の裕福な者に限られる。オリンピックは長い間アマチュアに参加を限定し続けていたが、これは彼らが貧しい階級が参加することを拒絶したためである。一方のテニスやサッカー、野球では20世紀初頭と言う早い段階から、すでにプロ化が始まった。」

アマチュアリズムに染まっている人がいうほど「プロスポーツ」が道徳的によろしくないものなのか,むしろ,「アマチュアスポーツ」こそ道徳的によろしくないものなのではないか,こういう疑問さえわいてきます。

ここまで検討した道具をつかって,裏金問題を切ってみます。

「学生野球」とは,理念からすると「野球自身の持つ意味と価値+α」であり,その「+α」の中に「アマチュアリズム」が含まれます。しかし,「アマチュアリズム」というものには合理的な根拠は見いだしがたく,一種の「信仰」である,ということができると思います。つまり,「学生野球」の世界というのは,野球を基礎にすると共に,「アマチュアリズム」という信仰を共にする「宗教共同体」なのだ,ということができます。清水選手は,その宗教の「戒律」に反してしまったので,「宗教共同体」を追放された,ということになるでしょう。言い換えれば,「アマチュアリズムという生き方」に反した生き方をしてしまったために,道徳に反する存在だとして追い出されてしまった,というわけです。

私は,前に,野球においてもプロ球団が幼少期から選手を育成すべきではないか,と述べましたが,今回,適当にですが考えてみた結果,それはやっぱり必要ではないか,と思うようになりました。我が国において,野球選手になろうとするとき,必ず一度「学生野球」という「宗教共同体」に入信し,「アマチュアリズム」という信仰に改宗しなければなりません。それしか選手になる道がないがゆえに,「アマチュアリズムという生き方」「戒律」に反したら,野球生命を絶たれることになりかねません。これは問題のように思えます。どのような生き方,「信仰」を持とうと,「野球のみで評価される」,野球選手になる道としてそのようなものが別に用意されてもよいのではないか,と考えます。

清水選手は,西武球団の「犠牲者」であり,かわいそうだ,という声が少なくないようです。しかし,私からすると,清水選手は,「学生野球」という「アマチュアリズム」信仰に支配された単線の選手育成システムしか存在しない「日本球界というシステム」の犠牲者ではないか,そのように考えています。

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2007年03月17日

イタリア方面がうるさい。

ロナウジーニョ、バルサでの将来がぐらつく

ロナウジーニョの移籍騒動で揺れるバルセロナ

バルセロナが来シーズンに向けて補強へ 夢はC・ロナウド

「人の不幸は,蜜の味」,とくに,それがバルサだったりした日には顔がニヤけてしょうがないであろう,マドリーメディアが,あることないこと持ち出してんじゃないの?まあ,ロベルト・デ・アシスさんの年俸引き上げ工作って面が例の如くあるんだと思うけど,バルサはケチ路線だから,大盤振る舞いというわけにはいかんのよ。ガスパー時代にそれにはこりたわけで。

<獲得予想>

C・ロナウド→× 
理由:マンUが出すとは思えない。バルサに金がない。エトーさんもロニーも絶対出さないから(よね?)。ただ,ミランがカカーにおつりつけてくれるならロニー放出+C・ロナウド獲得に金をつぎ込むってのもいいかもしれない。仮に,ロニーかエトーさんか,どちらかを出すことを選べといわれたら,私は,ロニーを出すことを選ぶと思う。ファンタジーがなくなるけど,シーズン通してみたら,多分エトーさんの方がチームに貢献していると思うから。

ロッベン→△
理由:限りなく×に近い△。チェルシーは金によっては出すだろうけど,多分バルサが払える額じゃない。

ダニエウ・アウベス→△
理由:ロッベンよりは本腰入れてとりにいってもいいと思うけど,あの狸親父に確実に足下を見られそうなので,結局,払える額に収まらないんじゃないかって気がする。

チャビ・アロンソ→×
理由:最近景気のいいリバプールが出すはずがない。ベニテスも評価してるだろうし。

アルベルダ→×
理由:バレンシアが,キャプテンを売り飛ばすようなチームだとは思えない。

スナイデル→○
理由:よくわからんけど,確実らしい。でも必要な選手だとは思わない。

アビダル→△
理由:アウベスより安いなら,アビダルでもいいと思う。

ランパード→×
理由:デコ+金銭トレードでも出してくれるかどうか。デコとモウリーニョとの関係もあんまよくなさそうだし。モウリーニョがいなくなる,って噂もあるけど。

アンドラーデ→△
理由:いい選手だと思うし,とれるものならとりたい選手。デポルティーボは金無さそうだから,そこまで高くならないと思うし。ただ優先順位は落ちるだろうから,金が余ってるかどうかによる気がする。

メッシ、インテル移籍も興味なし「ずっとずっとバルサでプレーし続けたい!」

これを見ながらニヤニヤしている私の姿は,周囲から見たらキモイんだろうなと思う。

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2007年03月15日

プロ野球の裏金問題について・・・ドラフト改革の方向性を考える(その2)。

疑問その2・・・ドラフト制度の「必要性」と「妥当性」を分けて議論する必要があるのではないか?というか「保留制度」についての話。

ドラフト改革の方向性を考える,というタイトルにもかかわらず,前回は,ドラフト否定論っぽい中身になってしまいましたし,今回は,おそらくドラフト制度から形式的にはかなり外れたところにもいくことになると思います。

まず前回の内容および皆様方のレスを自分なりに検討した結果をまとめてみたいと思います。ドラフト制度の存在理由(必要性)として,一般的に以下のものがあるといわれています。

1.戦力均衡→ファンにアピールする予測のつかないゲーム→観客増→安定経営という「共存共栄」のサイクルに貢献する。
2.契約金の高騰化を防ぐ。

このうち,1については,前回いろいろ書きましたが,皆様のレスをみてみるとやはり認めざるを得ないところだと思います。自分でも書いていて若干難癖つけている感があるな,と思ってましたし(笑)。

2については,ほとんど皆様のレスが無かったので,判断しかねるところがありますが(議論に値しない程の暴論だったのか,それなりに納得できる理屈だったのか),一応私としては後者,つまり,契約金の高騰化というのはドラフト制度を正当化できる理由としては不十分なものである,と考えています。普通の企業で考えてみますと,「ある案件に投資できる額がいくらまでなのか,経営者はそれを判断することができないので規制が必要」というのは馬鹿げた理屈だと思いますので。

1,2の理由とも根底には「共存共栄」という理念,あるいは,必要性があるということですが,私は,1の理由でしかドラフト制度は肯定することはできないのではないか,というのが結論です。

ところで,重要なのは,つまり達成すべき政策目標は,「共存共栄」ということであって,ドラフト制度はそのための「手段」にすぎません。プロ野球に関与するアクターというのは,主として,球団,選手,そしてファンという三者だと思いますが,「共存共栄」という政策目標を達成する「手段」は,三者間の利害調整をしたものである必要があると思います。余りプロ野球に興味がない,私のようなある種の「部外者」からしますと,球界は余りに球団の理屈が先行しすぎており,例の球団数減少問題以降,ファンの意見がそれなりに考慮されるようになったものの,選手の意見を考慮するのは未だ不十分ではないか,と思っています。

私が「選手の権利/意見を」というのには,私なりの経験がありまして(私はプロスポーツ選手ではなく,平々凡々の一般人ですが),本筋からは外れますが,それを述べたいと思います。

私は,前回「正直プロ野球はよくわからない,というかあんま興味が無い」と書きましたが,かといって,プロ野球を全く知らないか,というとそういうわけではありません。なぜなら,私の家族全員(私以外は)阪神ファンだからです。そうすると,必然的に居間のテレビは野球中継がついてることが多くなるし,家族の会話も阪神/プロ野球関係が結構あることになりますから,少なくとも阪神なりプロ野球なりの話題はそれなりに,表面的には私の頭に入るようになるわけです。私が選手の権利を考えるようになったのは以下のエピソードによります。

居間のテレビに野球関係の番組が映っていれば,自然,巨人関係の番組というものが含まれることになりますし,そうするとあの「江川卓」さんが解説者だかキャスターだかでテレビに映ることにもなります。そして,江川さんが映るとうちの父が決まってこのような趣旨のことをいうわけです。「あいつは汚いペテン師野郎だ。本当は阪神に来るはずだったのにルールを破って巨人に行きやがった」と(うちの父は,私なんかより遥かに上品な人間なので,実際はもっと丁寧な言い回しでいうわけですが)。いわゆる「江川空白の1日事件」を指して江川さんを非難するわけです。同じようなことを聞かされ続けたので,私は今でも江川さんをみると,ある種の(根拠の無い)不快感を覚えてしまうのですが,その後,たまたま事件のことを調べたりするうちに,「江川卓=悪」というのは余りに一方的な見方なんじゃないか,と少なくとも理屈では思うようになりました。確かに,野球協約の「脱法」的行為が行われたわけですし,巨人の姿勢を弁護しようとは全く思いませんが,うちの父が信奉する阪神自体が,巨人の行為に結果的には加担していますし,何より「江川選手が行きたい球団にいくのがなぜそんなに問題なのか」が理解できなかったわけです。江川選手の行為よりも,「選手の選択を全く認めない」ドラフト制度の理不尽さを問題とすべきではないのか。このような素朴な想い/経験が私の意見の根底にあります。

ところで,今まではドラフト制度を主としてとりあげてきたのですが,選手の権利制限という観点からみて,仮に「ドラフト制度だけ」存在するのであれば,実は大したことはありません。なぜなら,ドラフト制度により選手が希望の球団に入団できなくても,その球団と1年契約を結び,契約期間を全うした後に,自己の希望の球団と新たに契約を結び直せば良いからです。では,なぜそうならないのか?それは「保留制度」というものがあるからです。選手の権利制限の本丸といってもよいもので,ドラフト制度にしろ,FA制度にしろ,選手の権利に関わる制度を論じる際にはこの保留制度についての議論を避けるべきではありません。私の認識がずれているのかもしれませんが,ドラフト制度やFA制度が議論されることはあっても,保留制度について議論されることは余り無かったと思います。FA制度は,保留制度からの離脱という側面がありますから,その限りでは議論されていたともいえますが,正面からこの制度の是非を問うという意味でプロ野球ファン,あるいは,社会一般において議論されたことは無かったのではないか,ということです。

保留制度とは,選手の意思にかかわらず,球団が一方的な意思に基づいて選手を保有することが許される制度のことをいいます(野球協約66条以下参照)(ところで,日本野球機構が,野球協約を外部には公開していないことをプロ野球ファンのみなさんはどう思われているのでしょう?)。どういうことかといえば,契約終了後,選手が契約更新を拒否した場合,契約関係は終了しますが,そうだとしても,球団は保留権を有することにより当該選手の保有を主張でき,その結果,その選手は他の球団と契約を結びプレーすることができなくなるわけです。プロ野球における保留権は,デタラメといっていいほど強力で,例えば,引退した選手が,もう一度プロ野球に復帰しようとした場合,原則として当該引退球団にしか復帰できない(野球協約78条)など,選手に対する保留権は,「事実上生涯に渡って及ぶ」ことになります。

このような保留制度,言い換えれば,選手の移籍自由を制限する制度は,日本のプロ野球固有のものではなく,アメリカの4大プロスポーツや,イングランドのプロフットボールリーグなどにもみられる(た)ものでした。しかし,1960~1970年代にかけて,アメリカの場合は,MLBを除き(なぜ野球だけ除かれるのか,については合理的な理由がないとされ,後に議会制定法により野球にも及ぶことになりました)プロスポーツ選手の移籍自由を制限する制度にも反トラスト法(日本でいう独占禁止法)の適用があるという司法判断があり,反トラスト法に反しない形での選手の移籍自由を制限する制度設計が迫られ,FA制度などが整備されていくことになります。イングランドの場合は,コモンロー上の「取引制限の法理」で保留制度は直接無効とする司法判断があり,あらかじめ定められた契約期間についてのみ選手を保留することが認められることになりました(これにより複数年契約により選手を拘束する手法がとられていくことになります。また,後のいわゆるボスマン判決によりいわゆる移籍金制度にもメスが入れられることになります)。

保留制度の趣旨は,先に述べた「戦力均衡→ファンにアピールする予測のつかないゲーム→観客増→安定経営」というサイクルの「戦力均衡を維持する」というところにあります。ドラフト制度と同じというわけですが,前回のレスをくださった方の表現を借りれば「ドラフト制度は,保留制度への入り口であり,戦力均衡制度の核心は保留制度にある」といえるでしょう。このようにドラフト制度や保留制度には「共存共栄」という政策目標を達成する手段としての一定の合理性が認められることは認めなければならないでしょう。

しかしながら,「共存共栄」という政策目標を達成するための手段として「妥当」なのか,言い換えれば,そのような政策目標を達成する手段として他のものは考えられないのか,より選手への権利制限なり,影響なりが少ない手法をとることはできないのか,ということを考えてみる必要があるのではないのかと思います。

私が保留制度に賛成できない理由は,以下の点にあります。

まず,第1に素朴な感想として「契約が切れても相手を拘束することができるというのは,ある種の"奴隷制"なり"身分制”のようで,我々の社会の普通のルールから(著しく)逸脱している」ということ。

これをムズカシイ言葉でいえば,「選手契約に含まれる保留制度受け入れ条項は,競業避止特約を締結させるものとして憲法で保証された職業選択の自由の趣旨に反し,公序良俗に反するものとして無効だ」とかいうことになるのでしょう。ようするに,間接的に憲法に反するということですね。

第2に,上記の点とも関連しますが,少なくとも現状の野球協約に定められている保留制度は,我々の社会の普通のルールであるところの独占禁止法に反する疑いがあること。

アメリカやヨーロッパでは,選手達が司法の場で経営者側と戦い,権利を勝ち取っていったのですが,日本では訴訟になったことはまだ一度も無く,下級審判例の一つさえありませんのでそれが確かだ,とはいいにくいですが。詳細は長くなってしまうので避けますが,「不公正な取引方法の禁止」(独禁法19条)(優越的地位の濫用,一般指定14項)(排他条件付取引,一般指定11項)(拘束条件付取引,一般指定13項)とか,「不当な取引制限の禁止」(独禁法3条後段),「事業者団体による競争制限行為の禁止」(独禁法8条1項1号)などにあたるのではないかと思われます。なお,公取が,プロ野球選手は労働者であるがゆえに独禁法の適用がない,という見解を70年代に示したことがあるらしいです。

第3に,保留制度と同じ効果は,複数年契約を結ぶことにより(全面的にではないにしろ)達成できること。

これはフットボールでとられるシステムであり,そのメリットは,選手の選択/意思が尊重される点にあります。江川さんのようにどうしても巨人に移籍したい,という人には効果がありませんが,そのような選手まで縛り付けておかなければ,と考えるのだとしたら,そのような姿勢は「あたかも奴隷制を肯定するが如き」で問題があるというべきでしょう。選手は,球団と長期契約を結ぶことにより安定した選手生活を得るか,短期契約を結んで(選手生活の安定性を捨てるというリスクのある選択をして)他の球団に移るチャンスを得るか,という選択ができることになります。プロ入りたての選手というのは,自分のプロ選手としての将来についての見通しなど立たないのが通常だと思いますから,複数年契約,つまり,選手生活の安定性の確保を希望する例がほとんどになると予想します。力のある若手は,短期契約を結んで,好きな球団に移ってしまうではないか,その結果,戦力均衡がはかられなくなるのでは,という反論も予想されますが,それはそれで私はやむをえないのではないか,と思います。そのようにならないよう,球団が幼少期より育てて球団自体に愛着を覚えて貰うか,早いうちから長期契約を結ぶなどして青田買いを進めるか,というように対応することになるでしょう。

第4に,戦力均衡というのは,保留制度以外のものでは達成できないものなのか,疑問であること。

皆様から頂いたレスなども考慮して,戦力均衡とは,要するに,「資金均衡」であるとするなら,フットボール世界の知恵として移籍金制度(ボスマン判決以後は複数年契約→契約満了前の移籍による違約金制度),サラリーキャップ制度,ラクジュアリー・タックス制度,リーグによるテレビ放映権の管理と分配制度,など私がざっと思いつくだけでもこれだけの資金均衡策があります。このうち一体いくつが実行されているでしょう?おそらくは,FAの補償金制度を移籍金制度とみるなら,1つということになるでしょう。サラリーキャップは選手の側に不利益を強いるものですが,それ以外は球団側が主として利害関係を有するものであるように思います。前にも書きましたが,現状,戦力均衡策をドラフト制度と保留制度を中心とするというのは,「選手にのみ共存共栄という目標への犠牲を強いている」という点でアンフェアであると思います。「共存共栄」という目標のためには,その他の主要アクターである,球団やファンも痛みを分つべきでしょう。

私は,ドラフト制度を採用するなら,保留制度はやめて,複数年契約を中心としたシステムにするのが,選手の権利の観点を考えるとバランスがとれているのではないか,と思います。実質的には,現状のFA資格獲得要件であるところの稼働期間の短縮に等しいですが,契約消滅後も選手を拘束できるという保留制度の存在自体,社会の普通のルールを逸脱するもので私は望ましいものとは考えませんし,選手の選択を尊重するという点から,FA制度の改善より望ましいと考えます。

最後に,私の「選手に権利を」という姿勢がある種の誤解を招くかもしれませんので書いておきますが,私は,プロ野球選手が優れた人間なので,一般人に認められない特権を認めるべきだ,と主張するものではありません。今まで見てきたように,プロ野球選手というのは,確かに多額の報酬は得ているものの,選手としての稼働期間は短いですし,その法的地位は不安定/曖昧で,私たち一般人に認められているような権利/地位すら認められていない人たちだといえます。

「野球界のルールを実社会に当てはめてみると次のようになります。
『 あなたが今勤めている会社から転職が認められるためには、 1. 最低9年は今勤めている会社の主力部署でほぼ休みなく働かなくてはならない 2. 転職する際には、転職先の会社が今いる会社に今の年俸の1.5倍を払わなくてはいけない 』こうしたルールが、憲法で保障される職業選択の自由を出来る限り尊重したものであると言えるでしょうか?」

これは選手会のHPからの引用ですが,現状の野球界のルールは普通の社会のルールとの乖離が激しいように思います。「原則と例外」という思考方法を使うなら,我が国の社会は「競争」「自由」が原則であり,「共存共栄」をも旨とする球界はその例外的存在です。例外とはいえ,同じ社会における存在である以上,原則から全く離れるのは適当ではない。私の意見は,より原則に近づける形で両者のバランスをとってはどうか,と主張するものです。

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2007年03月14日

プロ野球の裏金問題について・・・ドラフト改革の方向性を考える。

バルサ中心のこのブログからすると全くイレギュラーなのですが,この問題について思うところを語ろうかと思います。正直プロ野球はよくわからない,というかあんま興味が無いんですが,スポーツビジネス自体には興味があり,そのような人間からみるとよく理解できないことがプロ野球界には,ドラフト制度にはあり,今回の裏金問題を機にそのことを書いてみるのも一興かな,と思ったからです。基本的には,フットボールの人間が,野球を叩くということで読んでる方の中には不快に思う方が出てくるかもしれませんが,ご容赦の程を。

疑問その1・・・ドラフト制度自体の「合理性」への疑問。

ドラフト制度というのは恐らくは独特なもの(made in USA)で,少なくともフットボールの世界にはありません。この制度の目的/趣旨は,wikipediaによれば(ドラフト会議)


「各チームが選手と自由に契約できる制度では、金銭的に余裕のあるチームばかりが有力な選手を獲得してしまい、戦力が偏り、その結果ワンサイドなゲームが増えそのスポーツの人気が低迷するいう考え。また、有望な選手との契約を目指すチーム同士が競い合い、契約金が非常に高額になるという考え。このような考えの元リーグ内の全チームの経営に関わる問題を防ぐための制度がドラフトである。」

としています。スポーツビジネスには2面性があるといわれます。すなわち,スポーツ面においてはゲームによって競争するも,ビジネス面においては共存共栄しなければならない(相手がいなければゲームは成り立たない)ということです。このようなことからすると,ドラフト制度は合理的なものであるとも思えます。しかし,この制度趣旨は本当に合理的なのでしょうか?

「各チームが選手と自由に契約できる制度では、金銭的に余裕のあるチームばかりが有力な選手を獲得してしまい、戦力が偏り、その結果ワンサイドなゲームが増えそのスポーツの人気が低迷する」

本当に?フットボールでいえば,ギャラクティコといわれて高額選手を買い漁ったマドリーが低迷しているのはなぜでしょう?野球の世界においてマドリー的存在である巨人が金にものをいわせてFA選手をかき集めても勝てないのはなぜでしょう?ニューヨークヤンキースもここのところワールドシリーズにまでたどりついてさえいませんよね,確か。まず,この議論は,直感的に,経験的に疑問符がつけることができるように思います。つまり,この議論は何より「勝利は金で買える」ことを前提にしていますが,しかし,スポーツにおける勝ち負けはそこまで単純ではないはずです。能力の高い選手が揃っていることは,勝利のためのファンダメンタルな条件ですが,それだけで勝利が約束されるわけではない,この程度にしかいえないように思われます。

もっとも「金をかける量にチームの勝利が完全に正比例するのであり,巨人が勝てないのは制度上今以上金を使えないようにしているからだ」という反論も成り立つかもしれません。しかしこの議論は,「金があるチームが1チームしか存在せず,しかもその資金力には際限が無く,その他のチームはみんな金が無い」という前提があるように思われます。しかし,これは非現実的な前提です。プロ野球界への参入を開けたものにすれば,球団間に格差ができるにせよ(つまりは,金持ち球団がいくつかできることはあるにせよ),ある球団だけがぶっちぎりで資金力がある,なんて状態はそうそう起こることではないはずです。金持ち球団がいくつか存在すること,これが予想される状態であり,その金持ち球団間でタイトル争いがされることになるでしょう。フットボールの例をみても,長期的にみて球界の構造が固定化されることはありうることだと思いますが,ワンサイドゲームが増えるかは疑問です。また,金持ち球団間のタイトル争いでリーグが盛り上がらないかどうか疑問ですし,少なくともそれが証明されているとは思いません。

「有望な選手との契約を目指すチーム同士が競い合い、契約金が非常に高額になる」

なるほど,そうかもしれません。しかし,よくよく考えてみましょう。球団というのは「どこかのお子様」なのでしょうか?欲しいものがあるから,自分の身の丈も考えずに金を出しまくる,結果,借金を重ねて経営が苦しくなる。これじゃ自己破産する人と一緒です。球団の経営者というのは「基本的に,理性的・合理的判断ができない人間である」という前提でもあるのでしょうか?球団というのは株式会社のはずです。株式会社というのは営利団体であって,営利事業を行い,それによって得た利益を構成員に分配するのが目的です。経営者は,当然のことながら利益を生むように経営しなければならない。プロ野球のスポーツ的/文化的意義を考えれば,球団経営の目的が金儲けonlyでは無いのは当然ですが,金儲けが1つの目的であることも疑いのないところであり,それを否定するのは馬鹿げたことです。金を儲けなければ,株式会社である球団は消滅しなければならないわけですから。

本来,球団の経営者は,高額の契約金をかけてでもその選手を獲得すべきなのか,つまり,「その投資に見合う利益をその選手は生むのか」,経営判断をしなければいけない。もちろん人間ですから,失敗することもあるでしょう。その失敗が非合理的な判断によるものだったら責任を追求されることになる。これはどの会社の経営者にもあてはまる当たり前のことです。ところが,今の球界は違うわけです。球団の経営者は,経営判断自体を「共存共栄」の名の元に,ドラフト制度によって免除されている。彼らは,厳密/厳格/合理的な経営判断を免除されているわけですから,球団経営が基本的に放漫経営/赤字経営になるのも理解できるところです。契約金の高額化が問題視されるのは,このようなおバカ経営者の存在を前提にするからに他ならず,そうであるならば,必要とされているのは,このようなおバカ経営者を排除する仕組みであるというべきでしょう。正確には,そのようなおバカ経営者を排除する仕組みはあるのに,株主(=オーナー)がバカだったために排除してこなかったわけなんですが,そのような株主の怠慢により,株主が被害を受けるわけですから,契約金が高額化しても何ら問題がないともいいうるかもしれません。

もっとも,問題は,おバカな経営により球団が消滅することになったら,株主ではなく,いわゆるファンが困ることになる(ファンが極めて重要なステークホルダー)ことであることにあるといえます。そうであるならば「ファンが株主となって,球団経営を監視/監督していくべきだ」というのが自然な結論のように思います。それを「おバカ経営者の存在はしょうがないからドラフト制度だ」というのは論理の飛躍があるというか,経営者・株主の怠慢の責任を選手に押しつているようでいただけません。

結論として,契約金の高額化は,ドラフト制度を維持すべき理由として根拠が薄いと思います。適当に金をつぎ込むおバカ経営者が,利益を度外視して球団経営をしてもかまわない,という社会主義的/国営企業的発想を是認しない限りは。

また,こういう点も指摘しておきたいと思います。

「球団は,人が創った選手を買うだけで,人が欲しがる選手を創ったことがない」

と。プロ野球の世界には,フットボールの世界にあるような幼少期からの育成システムは存在しません。学校でおこなわれる「部活動」に基本的には選手の育成は任せっきりで,「その果実を金で買い取る」ということしかしません。自分たちで金をかけて1から選手を育ててきたことはありません。FA制度における補償金を要求する趣旨として「契約金や選手育成等にかかった費用などへの投資を回収する」ということを球団は主張しますが,"選手育成"という言葉に失笑してしまったのは私だけでしょうか?無論,全ての球団が選手を1から育てるということをする必要は無いかもしれません(お金がある球団は,選手を買ってくればよいわけですから)が,「売れるものが無いのに,買ってばかりいたら,元々金を持っている球団以外は貧乏になるだけである」というのはごくごく当たり前のことだと思います。「売れるものを創ろうともしない者を,ドラフト制度によって助ける必要がどこにあるのか?」,私には理解しかねます。

「競争」だけでなく「共存共栄」という2面性がスポーツビジネスにはある。これだけなら私も賛同します。しかしながら,「だから,ドラフト制度だ」というのには賛同しかねます。最大の理由は,この制度は,「選手という個人にのみ共存共栄という目的への犠牲を強いている」からです(したがって,ドラフト制度をとるなら,FA制度は必要不可欠の制度だ,というべきです)。ドラフト制度の議論をみてていつも思うのですが,選手の目線から語る議論が少なすぎるように思います。次回はこの点から述べたいと思います。

なお,川淵キャプテンがいうところの「支度金制度=最高500万円」

川淵Cが明言!Jで裏金発生したら即降格

も疑問が多いものだと思っています。

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posted by coladevaca |19:40 | スポーツビジネス | コメント(30) | トラックバック(4)
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2007年03月14日

最近の2試合を振り返る。(その2~クラシコ編)

さて,クラシコについて。少なくとも前半,オレゲールが(不幸にも)退場するまでは「スペクタクルな試合」だった。見た目が派手な,という意味で。しかし,その実は「統率だった守備ができない,プレッシングが機能しないチーム同士が,ギガ・クラックの力に頼って戦うとどうなるか」をよく示した試合だった。

クライフ氏、R・マドリーとバルサ斬り!

クライフ様は時に適当な発言もなさるが,今回は全く同意する。なぜバルサが「スペクタクルな攻撃」ができたのか。それは,相手がリバプールで無かったから,としかいいようがない。プレッシングがかからない中では,判断のスピードが遅くとも,組織的な統一された意識が無くとも何とかなり,個人の力で打開することができた。メレンゲが点を採れたのも,3-4-3で空くサイドのスペースを生かした個人の力ということになるだろう。3-4-3の負の部分を一身に負ったという意味でオレゲールの退場は不幸だった。

仮にリバプール並みの組織だったプレッシングとそれに連動した攻撃を,攻防一体の組織だったフットボールを展開できたのなら,今のマドリー相手なら,相手にほとんどボールを渡すことなく攻めまくれたはずである。なぜそれができないのか,3-4-3の慣れないフォーメーションでポジショニングが巧くいかなかったというのもあると思う。プレッシングをどうかけるのか,空いているサイドのスペースをどのように埋めるのか,組織としての理解があったとはいい難い。イニエスタが埋めていたこともあったが,個人の才覚頼りであったことは否めない。この2試合を通じてわかったことは,やはりライカーの采配は失敗だったということ。3-4-3は機能していない。機能することは不可能ではないと思うが,やはりシーズンも終盤にいきなり変更してどうにかなるものではなかったということだと思う。サラゴサ戦でうまくいったのは,相手が全くの意表をつかれたから,ということなのだろう。

ライカーバルサは,スペクタクルな攻撃,の印象があるが,その実は「守備から始まるチーム」だったように思う。CLでリバプールが魅せたような組織立った素早いプレッシング,バルサのスペクタクルな攻撃はそこから始まったはずだった。今はその土台が根本的に欠けている。その土台に必要な,フィジカル面の整備とモチベーション/メンタル面の整備。

PSGからやってきたロニーは,何をやっても失敗して,失敗癖がついていたチームに「新鮮な風」をもたらした。その結果,チームのために,新鮮な気持ちで皆が働き,そして成功を手にすることができた。その代償として,成功は,チームにある種の「淀み」をもたらした。クライフ様がいうように今,バルサはひとつのサイクルの終焉を迎えつつあるように思う。正確には,今後も手をこまねいているようであれば終焉することになるであろう状態にあるということだと思う。

★目標はリーガ3連覇、そして2冠 

こののちもリーガと国王杯のタイトルは残っているし,つまりはドブレッテを達成する可能性もあるわけだが,たとえドブレッテを達成したとしても,この認識は,チームが余程良いイメージを見せない限り変わりそうにない。終わりつつあるサイクルを延命させるには,今,チームには「新たな風」を呼び起こす選手がチームには必要とされているように思う。

それが誰だかはよくわからない。C・ロナウド?ロッベン?

バルサ、来季に向けて始動。まずはロッベン獲得に動き始める

おそらくは,まだ成功を手にしていない,つまり,若く,成功へのモチベーションが高い選手だと思う。C・ロナウドやロッベンがそれにあたるかは微妙なところだ。抽象的にいえば,中小クラブに属する,ビッグクラブ(それがバルサであれば理想的)で成功したいと思っていて,そしてバルサにふさわしい才能を備えた選手,つまりはかつてのロニーのような選手ということになるだろうが,それが誰だかは本当によくわからない。見つけるのは困難であることは当然ながら予想されるが,それを見つけてくるのがチキらの仕事だろう。今のバルサには,そういう選手を迎えいれれば再び飛躍するだけの基礎はある。チームの中心はカンテラ出身者が占め(プジョール,チャビ,イニエスタ,バルデス,そしてクラシコでハットトリックを決めた,今後のバルサの象徴となるであろうレオ・メッシー),たとえブラジリアン達が去ることになろうとも,チームの土台は揺るぎが無い。ここがメレンゲとの大きな違いである。無論,ロニーやデコなどを放出しろ,とは現時点では思わないが,彼らが最終的に立ち直れなかった時のことも考えておくべきだと思う。

補強の話でいえば,ピボッテの問題にケリをつけることも重要だと思う。期待されたモッタは,逃亡事件もあったりするなど「いつになっても期待される選手止まり」であり,エジミウソンもマルケスも今イチということで,今季このポジションはどうにもこうにも定まらなかった。シャビ・アロンソなどが噂されているようだが,彼の展開力は魅力的だとしても,ベニテスが手放してくれるとは思えないし,同じ役割をこなせるチャビやイニエスタがいる以上どうしても必要だとは思えない。むしろ,かつてチームにバランスを取り戻したダビッツのような,もっといえばかつてメレンゲにいたマケレレのような,献身的に守備をしてくれる,フィジカルに強い選手が必要とされているのではなかろうか。

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posted by coladevaca |14:45 | バルサ | コメント(2) | トラックバック(0)
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2007年03月14日

最近の2試合を振り返る。

最近の2試合とは,CLリバプール戦とクラシコですが,簡単にふりかえってみようと思います。何でこんなに時間が空いてしまったのか,といえばそれは凹んでしまってウダウダと書く気すら起こらなかったわけで。

まずは,ヨーロッパの舞台から早くもサヨナラすることになったリバプール戦から。全体的な印象としては,スコアの上では一応イーブン/アウェーゴールで敗退,ということですが内容的には完敗中の完敗。リバプールは,ベニテスの戦術をものの見事に組織立って立派に遂行したのにくらべ,こちらは組織立った戦いよりも何とか個人の力でどうにかこうにかふんばったというだけで,中身はお寒い限り。バルデスのスーパーセーブが無かったり,リバプールにもうちょっと運があれば,もっとゴール差は開いたでしょう。この時点で敗退したのもショックだが,何より中身が酷かったのがショックだった。ライカー流にいえば,良いイメージが全く見いだせなかった。エトーさんが本調子に戻るのもまだまだ先のようだ。

しかし,リバプールは3位とはいえ,リーグで首位から勝ち点19も離されているチームとは信じられない。プレミアのレベルは世界最高だ,といわれるのもうなずけるものがある。統率のとれた見事なプレッシングからボールを奪い,そこからくりだされる素早いカウンターアタックは良い時のチェルシーにさえひけをとらない。もっと良いデランテーロがいればもっと勝ち点を重ねていてもおかしくはないはずだと思う。

3-4-3が問題だった,というのもあるが(ロニーは相変わらず守れないし,デコはトップ下の動きができなかったし(それを求める方がどうかとも思うが),マルケスは玉を散らすのが下手糞(これもしょうがない),つまり結果的にはライカーの采配が失敗に終わった),がどうもそれだけとは思えない。どうもチーム全体としてつまらないミスが多すぎる。

グジョンセン、選手に犠牲心と頑張りが足りなかったことを認める

例えば,試合の翌日には必ずチーム練習に参加しないブラジリアン+元ブラジリアン・クラックとか。原因は試合終了後の夜遊びか。もっとも,勝ってるうちは遊んでても別に気にならない,つまり遊んでても勝ってるわけで,それが原因とは必ずしもいいきれないけど,負け始めると今まで積み重ねたチームの歪みが一気に顕在化してくるとも考えられる。

ところで,グジョンセンって真面目で正直な人なんだな,と思う。メレンゲなんてバルサよりもっと酷いはずなのにこういうこと,つまりは(建設的な)チームメートへの批判をメディアでいった人間はいなかった。チャビなんかはメディアで公表するのはチームの雰囲気を悪くするから,という理由で反対みたいだけど,うすうすみんな感づいていることをドーンと明らかにして,外部からの監視を強めるのも時には必要だと思う。おそろしいのは,メレンゲのようにズルズルと堕ちていってしまうこと。それを食い止めるために,まず現状を皆が認識することに意味があるのだとしたら,グジョンセンの発言は貴重だと思う。

(以下,続く)

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posted by coladevaca |00:10 | バルサ | コメント(2) | トラックバック(0)
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2007年03月06日

気を取り直して。

ご存知のとおり,バルサは,セビージャに敗れ,リーガの首位から陥落してしまいました。

首位決戦を制したセビージャ、バルサを蹴落としてリーガ首位へ

プレスをかけて試合の主導権を握り,先制点をゲット,その後ロニーが倒されて,相手が退場,PKゲットと理想的な展開でしたが,ロニーがPKを外すと,流れが変わり,その後人数の少ない相手に押し込まれるようになっていき,逆転されてしまいました。って前のリバプール戦になんとなく似てるなー。相手を決定的に叩けず,ワンプレーのミスで,精神的に(?)崩壊してしまうのって。逆にセビージャは相手のミスから生まれた逆転への流れをうまくつかみ,それを離さなかった。ダニエウ・アウベスなりカヌーテなりが目立っていたが,そのような個人というよりも,チーム/組織としてセビージャは,守備にも攻撃にも統率のとれた動きをみせ,勝利に値する素晴らしいプレーを見せたと思う。まあ,相手を褒めなきゃやってられないわけで。

とはいえ,試合前にライカーがいみじくも言っていたように,リーガはまだ終わったわけではない。まだ,チャンスは当然あり,今後も二転三転する展開になるだろうから,今後も気を引き締めて戦っていけばよいわけだ。

問題は,2点差以上で勝つことが求められるチャンピオンズリーグです。負けたら終わり。連覇の夢は潰える。状況が厳しいうえに,リバプール戦やセビージャ戦でみせるチームトータルとしての「決定力」に欠ける姿に,甚だ不安が募ってきます。非常に好意的に今の状況を解釈すると,ライカーは,ここ2試合,実戦でいきなりフォーメーションを3-4-3に変更して試しているが(中盤を横に4人並べるのはドリームチームとは違うけど),これは貴重な試合をある意味「捨て駒」にして,チャンピオンズリーグ生き残りの準備をしていたといえなくもない。大量点をとりにいかなければならないリバプール戦の前に,より攻撃的なフォーメーションが機能するかどうかをテストした,ということである。いいかえれば,ライカーは,チャンピオンズリーグにもっともプライオリティを置いて準備してきたふしがある。もしそうだとするなら,そのライカーの意気込みが伝わって,選手が一層の奮起をしてくれることを期待したいところです。

エジミウソン、バルセロナのプレシーズンツアーを批判

このような意見に対しては,先シーズンツアーをやりながらも2冠を達成したじゃないか,という反論がありうるでしょう。とはいえ,今期はワールドカップもあった中でやったから,より大きな影響を与えたことが考えられます。少なくとも,チームに,スポーツ面でいい影響を与えているとは考えがたいこのプレシーズンツアー,最悪でもワールドカップシーズンはやめるべきだし,できれば全廃して欲しいところです。

フットボールにおいて美しくプレーし,勝利すること。このことがバルサの根幹・目的であり,全てクラブの運営はこれを達成するための手段として考えられるべきです。確かにプレシーズンツアーは,補強資金を稼いだり,チームのブランド力を高めるなど(長期的に)経済的に良い影響を与えるでしょうが,そのために勝利の足を引っ張っているのだとしたら本末転倒です。クレは,準備不足のいいわけは聞きたくないのではないかと思います。

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posted by coladevaca |08:35 | チャンピオンズリーグ | コメント(2) | トラックバック(0)
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