2010年01月19日

「岡田ジャパン」の意義。

普段から代表を追ってる人にとっては当たり前なことかもしれないことですが,私はあんまり追ってない人で,それでもふと代表について考えてみたことがあるのでちょっと書いてみようかなと。

代表をめぐるここ数年のキーとなる概念は,おそらく「日本(人)らしいサッカー」ということだろうと思います。それをおそらく明確に打ち出した最初の代表監督はオシムさん。いや,その前からそれらしきことはいわれていたことはあったかもしれませんし,あるいはそういうコンセプトでもって代表チームを作ってた人もいたかもしれませんし,例えば,トルシエやジーコだって,「日本らしいサッカー」が頭に無かったとはおそらくいえないと思います。しかし,おそらくこの時初めてそのコンセプトがファンの心にまで響いたような気がします。

これが何でインパクトがあったかといえば,それはドイツワールドカップでボロボロになって,大した総括もなく,川淵さんがオシムさんを引っ張り出してきた時に,ドイツワールドカップではなぜボロボロにやられたのか?という多くのフットボールファンの疑問への1つの答えに見えたからではないかと。つまりは,日本人が「日本らしいサッカー」をしていれば世界と戦えたのだよ。私がそれを証明してみせるよ,と。オシムさんがそういっているようにみえて,(わかっていたこととはいえ,それでも世界の厳しさに)自信を失いかけたファンにある種の勇気を与えたからではないかと。

で次の岡田さんは「人もボールも動くサッカー」ということですが,それが意味するところは岡田流「日本らしいサッカー」ということであって,オシム流でやるつもりはないけど,「日本らしいサッカー」ということには変化がなかったのではと思います(「ただコンセプトに関しては、日本人が戦っていくことを考えると、誰がやっても変わらないと思います。」といっているように)。

岡田さんに関しては,だいぶ前の新聞のインタビューを読んで思ったことがあって,確かこんなことをいってました。選手間の距離に関して,ヨーロッパでは攻撃の時は距離を広げて大きくピッチを使い,守備の時は狭めて守る,それが良いとされているが,日本人なら守備の時に狭めた距離のまま,攻撃を素早く展開できるのではないか,ヨーロッパの常識にとらわれることはない,みたいな(細部は違っているかもしれませんがおおよそこのような内容だったと思います)。実際に岡田さんが作ったチームがそういうフットボールをしているかどうかはともかく,岡田さん自身はどうも「反権威」=「反ヨーロッパ」的な視点にこだわりがある人だと思いました。例のベスト4発言も,ヨーロッパ的常識をひっくりかえしたいみたいなところもあった,といってたと思います。岡田さんにとって,代表チームが勝つため,であると同時に,おそらく個人的な趣味の問題として「反ヨーロッパ」という意味も含んだ「日本らしいサッカー」ということにはこだわりがあるのだろうと思っています。

まとめると,「岡田ジャパン」が南アワールドカップに臨む1つの意義として,おそらく自覚的に「日本らしいサッカー」というものを掲げて挑む最初のワールドカップであること,ということがあるのではないかと。「トルシエのサッカー」でもなければ「ジーコのサッカー」でもなく,「岡田のサッカー」であって「日本らしいサッカー」を掲げて戦うワールドカップ。ナショナルな感情からいえば,前の大会などに比べてもっとも盛り上がれる環境にあると思いますし,これは結構凄いことじゃないかと。

なぜなら,例えばベスト4などのように,好成績を収めれば,当初の予定,オシムさんの見立て通り,日本は「日本らしいサッカー」をすれば世界と戦える,めでたしめでたし,となるわけですが,好成績を収められなかった場合,日本は「日本らしいサッカー」をしても世界と戦えなかった,じゃあどうしよう?と悩まずにはいられなくなりそうだからです。異なる(フットボール)文化同士の戦いともいわれるワールドカップにおいて,初めて「日本らしいサッカー」≒「日本の(サッカー)文化」を明示的に主張しつつ破れれば,それは大げさにいえば「日本の(サッカー)文化の敗退」ともいえるわけですし,自分たちの長所を生かしたはずのサッカーが世界に通じない,となれば前の大会の後以上に途方にくれることになりそうだからです。どの大会においても「日本の(サッカー)文化」を提示しているといえば提示しているわけですが,おそらく今回程自覚的に提示しようとしていることはなかったし,それゆえそれが与える影響は良い意味でも悪い意味でも大きくなるのかなと。

この大会の総括はなかなか興味深いものになると思います。日本は「日本らしいサッカー」をしても世界と戦えなかった場合,「日本らしいサッカー」の「らしさ」が足りなかった,より「日本らしいサッカー」をすれば世界と戦えるのだ,ということでより「らしさ」を追求していく路線と,「日本らしいサッカー」ということを部分的に修正するか破棄する路線,おおまかにいって2つの総括の仕方があると思いますが,より「らしさ」を追求していく路線をとる場合,実は始めて代表監督の選考,代表チームに「継続性」が生まれそうな環境が整うような気がします(好成績を収めた場合もそうなるでしょう)。次のブラジル大会もほぼ同じコンセプトで続けて戦ってみる,場合によっては岡田監督の続投もある(ただ何となくですが,岡田さんに次の大会もできれば続けようという希望があるようには私には見えません。岡田さんに課せられたノルマはグループリーグ突破,あるいは1勝すること,だと私は思っていますが,それを達成して続投する,という感じがなんとなくベスト4を掲げた岡田さんからはしないんですよね),そういうことが起きるのかもしれません。

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2009年12月19日

クラブワールドカップのポテンシャル。あるいは,本家ワールドカップの限界。

前の記事で

>まぁこうやって歴史を積んで価値のある
大会になればいいですなぁ

というレスを頂いたのですが,ここでふと疑問に思ったのは,果たしてこの大会は歴史を積めば価値のある大会になりうるのか,ということです。

結論から先にいえば,Yes。本家ワールドカップをしのぐ大会になる可能性すらあるんじゃないかと。なぜかといえば,クラブワールドカップには,本家ワールドカップの限界を超えうる特徴があるからです。

本家ワールドカップの限界とは何か?これは本家ワールドカップの持つ魅力の裏腹ともいえるのですが,例えば,仮にこの世界にカカーが100人いたとします。しかし,ワールドカップでプレーできるのは最大で約23人に過ぎません。ポジション適性の問題で実際はもっと少なくなるでしょうけど,少なくとも77人のカカーはプレーできない計算となります。その理由は彼らが「ブラジル人」であるがゆえに。

つまり,本家ワールドカップには選手の実力以外の「国籍」という「政治的な指標」により選手を制限する仕組みがあります。100人のカカーなどというと極端な話ですが,実際クオリティの高い選手が数多くいるブラジル代表ではこれに似た現象は起きており,クオリティの高い選手がプレーすることを最優先に考えるなら,それはつまり大会のクオリティを上げることを最優先に考えるなら,ブラジル人チームを何チームか作って弱小国の代表チームに替えて出場させるべきでしょう。しかし,そうすべきでない,というのが本家ワールドカップ。なぜなら,本家ワールドカップは,スポーツの祭典であると同時に「政治ゲーム」「政治の祭典」でもあるから,つまり,ブラジル vs アルゼンチンのような政治共同体の代表らしき者同士が戦うという擬似的な国家競争のフォーマットを維持することをフットボールのクオリティよりも優先すべき(おそらくそっちの方が大会が盛り上がるという判断がある)という思想が背景にある大会だからです(余談ですが,同様なことはオリンピックにもいえます)。つまり,フットボールにはあんまり関心がなくても,アルゼンチンに勝って幸せになりたいブラジル人なら楽しめる,そういう窓口の広い大会にしたい,ということです。

クラブワールドカップには,このような制限は一応無いといえます(普段のリーグ戦やカップ戦での登録制限はあるのでそれにつきあう形でどのチームも編成される以上ある程度の制限はありますが)。もちろんクラブチームにもクラブチームなりの限界がありますが(一番大きいのはおそらく金銭的/経済的な限界),原則として上記のような限界は無いだけに伸びしろがある大会ともいえます。100人のカカーがいれば,23人以上のカカーがプレーできる可能性がある大会,つまり本家ワールドカップを超えるフットボールのクオリティが実現される可能性のある大会だと。

また本家ワールドカップとの比較でいうと,本家ワールドカップを「夢の祭典」とするなら,クラブワールドカップは「現実の祭典」といえる特徴があると思います。

例えば,今度の南アフリカワールドカップではおそらくアフリカ勢が躍進するのでしょうが,彼らの一部は「アフリカ代表であって,アフリカ代表ではない」存在です。彼らはアフリカ各「国」を確かに代表しているのかもしれませんが,強豪国の代表チームではアフリカでプレーしている選手はほとんどおらず,多くの選手達が普段プレーし,生活の基盤をおいているのはヨーロッパを始めとする他の社会なわけですから,アフリカ「社会」あるいはアフリカの「フットボールコミュニティー」を代表しているとはストレートにはいい難い気がします。

クラブワールドカップでもの凄い地域間格差を感じたり,あるいは歪なトーナメント表を見て何これ?と思うのは,まさにその世界の現実が反映されている,つまりは基本的にはヨーロッパの1人勝ちであって,南米のみ何とかそれに対抗しうるという現実が反映されているためといえるでしょう。そして,その競争が成り立っているとはいい難い現実を見て,観戦者にはある種のシラケた感覚が生まれるわけです。本家ワールドカップを見た時になぜこういう感覚が生まれにくいのか,というと,そういう現実を近代的な「平等な国家の集合体=世界」という理屈,「政治」でもって前もって組み替えリセットしているからです。アフリカの選手達は,ワールドカップの時は普段生活しているヨーロッパなどの社会/現実/日常から抜け出て,あたかも本国の社会/現実/日常で生きているかのように振る舞う,つまり現実には存在しないであろうフットボールコミュニティーをその時だけ想像させて,見ている人が覚えるであろう格差感を少なくとも競争が成り立っていると思わせる程度には縮減しているわけです。本家ワールドカップが「政治の祭典」だと前に書きましたが,上記のような意味でもそういえるでしょう。クラブワールドカップはそれと対比していえば,いわば「経済の祭典」といえるかもしれません。何億ユーロとかけて作った夢のチーム。普段人はお金と共に生きていますから「現実の祭典」といえると思います。

このように考えてみると,実はクラブワールドカップで勝つことは,本家ワールドカップで勝つことよりある意味意義深いのではないか,といえるかもしれません(現状ではとてもそうはいえませんが,将来的に規模が拡大して成熟した大会になった場合には,です)。特にアジアやアフリカなどヨーロッパや南米のクラブではないということで現状「その他のクラブ」扱いされているクラブのある地域にとっては。クラブワールドカップに勝つということは,お金の力であれ何であれ,そのクラブが存する社会に世界最高レベルのフットボールがあることを意味することになると思いますが,本家ワールドカップで優勝してもそれは必ずしも意味しない,遠いヨーロッパの地にあるだけかもしれないからです。いいかえれば,本家ワールドカップはチームの大半が「ヨーロッパ組」でも勝てるタイトルですが,クラブワールドカップは「ヨーロッパ組」が存在しないチームでしか勝つことができないタイトルであり(もちろんヨーロッパのクラブは違いますが),つまりその地のフットボール力が試されるタイトルである,ということができると思います。

posted by coladevaca |07:35 | スポーツ文化 | コメント(3) | トラックバック(0)
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2009年12月05日

少々古いですがスポーツへの助成金についての「事業仕分け」の結果に関して。

これまでさらっと見た限り,いわゆる「事業仕分け」においてスポーツへの助成金であるところの国庫補助金を縮減するという結論が出されたことについて少なくともスポーツ界においては反対という意見が強いようです。

たとえば

事業仕分け:強化費縮減 「切り捨てに憤り」 フェンシング・太田ら、実情訴え会見

仕分け人が「リュージュ、ボブスレーなどマイナーな競技にも補助が必要か」などといってしまったのも反発を買ったようです。

また以下のブログの議論は単純な反対論では無く参考になると思います。

スポーツ界にとって事業仕分けは大きなチャンスです
スポーツ関連の事業仕分けについて... 補足

まず事実として確認しておきますが,スポーツへの助成金は3つあり,事業仕分けで縮減という話になったのは国庫補助金約59億円で,他に2つ,toto助成金約70億円とスポーツ振興基金約10億円があるそうです。で役割分担も決まっており

国庫補助金→27億円:代表選手の強化や国際大会への派遣費用
      32億円:国体開催などで日本体育協会や地方自治体へ
スポーツ振興基金→各競技団体ごとの強化事業,選手個人への助成
toto助成金→ジュニア選手の発掘・育成

という感じだそうです。

つまりは縮減対象とされた国庫補助金のうち半分以上が「国体」などに使われるようで。「国体」にどういう批判があるか,ウィキペディアから引いてくれば,

「近年は開催都道府県が総合優勝杯である天皇杯・皇后杯を獲得することが常態化している。これは開催県の代表が予選結果に関係なく全種目に出場出来るいわゆる「フルエントリー制」の存在や開催県が選手強化や大会運営に資金を注ぎ込み、さらには開催地が変わる度に所属先団体および代表県を転籍して出場する選手さえも存在するためである。」

「また国体開催を期に開催県は施設の新設を強いられ、税金の無駄遣いであるという意見も聞かれる。」

とするなら,国庫補助金を縮減対象とするのはまんざら間違いでは無いかもとか思ったり。多分仮に縮減という方向に話が進んだ場合,「国体」の費用はなぜか削られることなく代表選手の強化費だけが削られることになったりするのかも。

さて,上記のような細かい議論をしたいのでは実はなくて,個人的にもっと根本的な問題に関心があったりします。つまりは,「スポーツに税金を投入する」という行為についてです。

そもそも税金を投入する事業というのは,少なくとも何らかの公益,いいかえれば社会的な利益が考えられなければならないわけです。もっとも何らかの公益があるからといって,すぐに税金を投入すべきだという話にはならないでしょう。なぜならほとんどの事業において何らかの公益を見つけることができるのが普通ですから,それだけで税金を投じていたらいくらお金があっても足りないわけです。無駄の象徴とされる大型公共事業も,何らかの公益がある場合が殆どでしょう。

というわけで,他になんらかの基準がなければ,ということで色々あるでしょうが,やはり費用対効果の視点が重要だと思いますし,あるいは最近ではエラく評判が悪くなってしまったかつての小泉政権では「民間でできることは民間で 」(でも民間でできないから政府が,というわけでは必ずしもない)というのが抽象的ながら1つの判断基準を提供していたと思いますし,「事業仕分け」も基本的にはその延長線上にあるのかなと。「小さな政府」というと抵抗が大きいですが,政府の支出が収入に比べて恐ろしく膨らんでいるので政策の「効果」を再検討して「効率的な政府」,それを目指しましょうという。

スポーツの持つ公益性とは何か。

色々あるのでしょうけど,ここではJOCなどが「27億円は諸外国と比べてむしろ少ない。死活問題」とする代表選手の強化事業費を考えてみると,これに一体どういう公益性があるか。1つには,まあようするに「国威発揚」?五輪における好成績が日本を元気にする,というのはそういうことですよね。簡単にいえば,日本人がメダルを獲ると同じ日本人であるあなたも何となく幸せになれる。ナショナリズムの魔術という感じですが,このちょっとした幸せな感じをもたらすために税金を投入すべきかどうか,という議論は今までどれぐらいなされたのか,という感じがします(おそらく他の公益性もあると思うので,もし思いついたら教えてください)。

(ちなみに,ナショナリズムは関係ない,スポーツが素晴らしい,活躍している選手の姿が素晴らしいのだ,というのであれば,自分達の国の選手以外の活躍している姿を見ても幸せになれるはずなので,日本の税金を日本の選手に投じる必要性は乏しくなる気がします。他の国がせっせと税金を投じて作った選手達の活躍をタダで楽しめて幸せになれるわけですから,なぜ自分達の懐をさらに痛める必要があるのかといえるのではないでしょうか?)

さて,反発を買ったであろう仕分け人の「リュージュ、ボブスレーなどマイナーな競技にも補助が必要か」という発言。これを上記の観点からあえて擁護するならば,「マイナーな競技のメダル獲得における国民への幸福感発生効果は大したことないのではないか」という発言だと解釈できるでしょう(ちなみにこの理屈を押し進めると,おおよそ五輪でメダルを獲れそうにない,あるいは社会的な注目を集めるほど好成績を挙げられそうにない競技は国民を幸せにすることもない,したがって税金を投入するに値する公益性を有しない,という話になるでしょう)。それに対しては「マイナースポーツこそ補助が必要。切り捨てる言葉に憤りを感じる」という反論というか,反発があったようです。「マイナースポーツこそ補助が必要。」という議論は,マイナースポーツにとっては,他からの支援が比較的充実しているメジャースポーツに比べて国の支援に頼るところが大きいので減らされるのは困る,感情論的にいえばマイナースポーツを馬鹿にしているのか,という観点からのものだと思います。が,ここで語られるべきなのは,マイナースポーツの代表選手の競技活動という「事業」がいかに税金の投入に値する公益性を有するか,いかに有意義な効果を社会に対して有するか,という話であるべきではないかと思うんですよね。マイナースポーツの代表選手の競技活動への支援は,たとえ打ち切られたからといっても生活保護のようにその人の生存に関わるようなものではなく,したがって少なくとも経済的に苦しいよと訴えただけで政府の支援の必要性が明らかになるようなものではないと思うからです。一体リュージュやボブスレーが社会に対してどのような貢献できるのか,そういうことを今までスポーツ界はどれだけ社会に対して語ってきたのでしょう?

スポーツとは基本的には「暇つぶし」から生まれたものであり,というか多くの文化とされる現象は,生存のために必要な活動から解放されて生まれた暇から生まれたものでしょうから,人の生存のためには必ずしも必要ではない現象です。政府の役割を考えてみると,極端には,市場の失敗事例以外政府は社会に介入すべきではないという意見もありえますし,そこまでいかなくても,まずは人の生存に関わることから優先順位をつけて税金を投じていくべきだ,という意見はありうるでしょう。そのような立場をとった場合,政府が代表選手強化という「事業」に税金を投ずることについて疑問がでてきてもおかしくはありません。スポーツ界や多くのスポーツファンは,諸外国と比べて我が政府が代表選手強化に投じている資金が少ないことを問題にしていると思いますが,例えば,仮に諸外国と比べて多くないといわれる分を減税しているのであれば(ただ,実際は他のことにお金を使ってるのでしょうけど),そのお金で納税者が個々に余暇を,好むならスポーツを楽しむ経済的余裕が生まれているわけで,そちらの方がより社会的利益に資するという議論だってありうるはずです。

この事業仕分けで明らかになったことは,政府もスポーツ界も,今までは結局のところ大した議論も無く惰性的に税金を扱っていたということです。この仕分け結果によりそれを認識することができたわけでその点では非常に有意義だったと思います。政府が社会においてどのような役割を果たすべきかについて議論してきたわけでもなければ,代表選手の強化という「事業」がいかに税金を投じるに値する社会的効果を有するかについて,あるいはマイナースポーツの有する社会的効果について議論してきたわけでもない。国庫補助金約59億円というのは政府の予算から見れば決して大きい額とはいえませんが,この手の議論無き惰性的な支出をあらゆる方面で重ねた結果,政府の支出が肥大化し,我が国の借金がトンデモないことになってしまっている気がします。

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2009年04月20日

もうフェデリコ・マケダは出てこない?進む「青田買い」規制。

マンUのマケダ君が17歳で2ゴールを決め,世界から注目される中で,ラツィオのロティート会長がマンUの「青田買い」を批判し,マケダ君のお父さんが反論するなど一連の論争があったのはご存じの通りです。で最近某雑誌を読んで始めて気づいたのですが,実は1ヶ月以上前に「青田買い」規制が関係者の間で合意されていたんですね。

UEFAのプレスリリースによれば,UEFA,ECA(クラブ),EPFL(リーグ),FIFPro Division Europe(選手)の代表者が話し合い,「青田買い」規制に同意したとのこと。その内容は,18歳以下の選手の国際移籍を禁止するとの内容。そもそもFIFAルールでは18歳以下の選手の国際移籍が原則として禁止されているのですが,それにはいくつかの例外があり,そのうち,EUやEEA圏内で行われる移籍であって,16歳から18歳の選手に関するものは,いくつかの条件を満たせば国際移籍が認められるというルール(FIFA移籍規定Article 19-2b))になっていました。それがFIFA移籍規定の原則にあわせる形で改められることになりそうだとのこと。

ちなみにECAの代表者にはうちのラポルタの名前なんかがあったり。

それじゃマケダ君みたいなケースが無くなるかどうか,っていうと実際どうなんでしょう。

というのは,Article 19-2aには,両親の移住と新しいクラブとの間にフットボール的な関係付けがないなら,国際移籍もOK,例外として認められるというルールが以前からあり,それは今回の改正をもっても変わらないようです。実際,このルールが想定しているようなケース,つまりはご両親の転勤とかで他の国に移住した時にフットボールクラブに所属することができない,なんて話になると選手にとっては大問題になるわけでこのルールを変更することはできないでしょうが,確か以前からこのルールを抜け道にして国際移籍が行われていたのでは。これを厳格に運用すればクラブが両親の家と職を世話して,家族丸ごと移住させて選手獲得みたいな手法は使えなくなるのでしょうけど,実際両親の移住がフットボールと関係があると決めつけるのは難しいわけで,それでアフリカの少年とかがヨーロッパによく来ているのではないかと(もし違ったら指摘して頂けるとありがたいです)。

このルール改正は何を意図しているのでしょう。公式には若いプレーヤーを守り,ユース育成を促す,ということらしいのですが,本音はもっぱら「反プレミア」でしょうね。つまり,16歳からプロ契約,大金を積んでひっぱるというプレミアのやり方が気に入らない。それ以外にはないかと。

以前にも言いましたが,もし「青田買い」そのものを問題視するなら,プレミア勢による国際移籍の禁止だけでなく,バルサやマドリーやミランやインテルやバイエルンなどのビッグクラブが自国内で将来有望な若手選手を青田買いするのを禁止する,つまり国内移籍も禁止しなければ筋が通らないというものです。また,そもそも国境という「柵を乗り越えるな」というルールを決めれば,柵の中の羊(若手選手)が育つようになるというのは明らかに胡散臭い理屈です。柵の中の環境が余り草が生えていないとかで良くない環境であるならば,よその沢山草が生えている環境に移動した方がその羊の成長にとって良いのではないか,と考えるのは普通であり,多くの若手選手達が環境を変える理由がおかしいとは一見して思えません。あくまで一つの柵の中に囲い込む方が良く羊が育つのだ,と考える何か優れた根拠があるならばそれを提示すべきですが,そうされたことは今までないでしょう。プラティニの思い込みみたいなのはインタビューで聞いたことがありますが,客観的な証拠が提示されたことはないと思います。

というわけで,うまく話をすり替えてプレミアクラブを追い出した偉大なる将軍プラティニに乾杯!!と欧州各地で祝杯が上げられたことでしょう。

posted by coladevaca |08:24 | スポーツ文化 | コメント(4) | トラックバック(0)
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2009年01月20日

カカーはミランに残留するって。

Milan President Silvio Berlusconi Claims Kaka Is Unsellable - Manchester City Deal Is Off

スカイイタリアが,移籍金1億2000万ユーロでミランとシティが合意し,カカーには以前に報じられたより少ない約週給25万ユーロ,つまりは年俸1200万ユーロの契約が用意され,残すは契約期間についての合意のみ,と報じたようなのですが,結局,カカー自身が残留を決めたらしいです。

ベルルスコーニは,カカーは,シティのオファーを盾に年俸をアップを要求することなく,残留を決めた素晴らしい男だ,さすが「I belong to Jesus」Tシャツを着ているだけのことはある,と褒めちぎってます。

というわけで,この冬最大のトランスファーサーガはこれにて終了,ということになりそうです。カカー残留を願ってたミランサポの皆様おめでとうございます。逆に,巨額の移籍金を元にチームの刷新を望んでいたミランサポの皆様には,残念なことになりました。

で,次はカンプノウ?やめてくれー。

posted by coladevaca |07:29 | スポーツ文化 | コメント(3) | トラックバック(0)
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2009年01月19日

シティ「革命」?あるいは,ビッグクラブとは何か?・・・カカー移籍騒動について

本当はバルサのことを書こうかと思ってたのですが,最近色々と他におもしろい話題があり,今回はそっちについて書こうかと思います。

そう,世間の度肝を抜いたカカー移籍騒動についてです。(他にはやはり,マドリーのカルデロン会長が迷走の末辞任したことでしょう。チキートさんのところを読むとかなり笑えます。スヌーピーの名誉って・・・(‐^▽^‐))

皆さんもご存知のように,今回の移籍騒動は,マドリーやチェルシーがカカーを追ったケースが基本的にはメディアが騒いでいるだけの,まやかしだったのと違って,どうやらかなり具体的な,「リアル」なの話のようです。

移籍が成り立つには,基本的に所属クラブとの合意と,選手との合意が必要なわけですが,メディアに流れているコメントを見る限り,ミランは売る気満々ではないにしろ,1億ユーロとも1億1200万ユーロともいわれる巨額の移籍金にグラっときてしまっているようです。元々イタリアのクラブの財務状況は,入場料収入が観客動員減によって低下し,テレビ放映権料頼みでバランスも悪く,よろしくないといわれていますし,ミラン自体もCL出場権を逃したおかげでかなり収入に穴が空いているはずであり,それに現在の金融危機に端を発する世界的な経済不況,ベルルスコーニも多額の損失を被ったかもしれない,そもそも彼は政治活動に多額の資金を投じており,以前ほど余裕のある懐具合ではないといわれていたはず,となればいくらクラブの象徴的選手といえど,あまりに巨額な移籍金にクラブがグラっと来てしまうのもわからないではない話ではあります。一般に,移籍話においては,選手の意向が反映される傾向にあり(その意味で,先夏のCR7のマドリー移籍話では,オファーが具体的だったかどうか怪しかったことは留意する必要がありますが,選手が望んだのに,クラブ側が抵抗し,それがうまくいった珍しいケースだったと思います),クラブの抵抗も無さそうだということになると,選手の意向のみが問題,つまりはカカーがどう考えるかで全てが決まりそうで,それがここまで話が盛り上がる要因となっているといえると思います。

カカーに提示された年俸は,手取りで1500万ユーロというビックリな額がどうやら最低ラインのようで,さらには代理人などにも数千万ユーロという巨額が支払われる見込みのようです。つまりは,シティは「外堀」もきちっと埋めている,カカーの周囲に移籍を成立させようとするインセンティブに溢れた人間を多数作り出しているわけで,こういう状況では彼が冷静な判断を下すのはなかなか難しいことだろうな,と思います。

もっとも,これらの金額を否定する報道もあります。

ヒューズ監督:「カカー獲得はまだ先」
Kaka: Deeply reluctant to join City

1億ユーロとか1500万ユーロという金額は,どちらかといえば,巨額オファーにショックを受けたといわれるミランサイドから出てきたものだと思うのですが,シティサイドは否定気味。とすると,カカーをできるだけ高額で売りたいミランサイドの高値誘導策なのでしょうか。

さて,この騒動に対する個人的な感想ですが・・・

まず,クレの1人としてこれは他人事ではないな,と。つまり,彼らが今度はカンプノウに訪ねて来ることもありうるのではないか,と容易に予想できるわけです。標的は当然ながら,現在神がかったプレーを見せ続けているレオ・メッシーです。スペインにおいては,契約に必ず違約金条項,移籍金条項が盛り込まれるようであり,メッシーのそれは1億5千万ユーロともいわれていたと思います。常識的にみれば,このような金額は誰も払うはずのない金額,そういう前提で設定された金額,メッシーがバルサをどうしても出て行きたいといわない限り,クラブは安心していよいはずの金額,だったはずですが,シティにはどうやらそのような考えが通用しないようなのです。シティが本気で乗り出して来たら,移籍金の問題はクリアされ,我々としては,メッシーのバルサ愛に頼るしかない,という少々心もとない状況にあるわけです。なお,メッシー君は,「僕の人生の残りをここで過ごしたいと考えているし、そうなることを望んでいる」などという素敵なコメントを残してくれています。

仮にレオ・メッシーをシティへもっていかれたりしたら個人的には大変なショックを受けるでしょうが,他方,他のブログや「カカーのシティ移籍が意味するもの」という記事(なお,この記事は本当に飽きれるばかりに酷いです。特に酷いのが,シティをけなしたいがために,マンチェスターという街までをもけなしている点です。「ヨーロッパの中心地から遥か遠い場所に位置しており、自慢できる文化に乏し」い街に,ユナイテッドもあるわけですが。果たしてこれがユナイテッドへの移籍だったらマンチェスターの街をけなしていたでしょうか?「魅力に欠ける」街のことなど議論にさえしていなかったのでは?)に散見されるシティへの嫌悪感みたいなものは,自分の立場で考えればそれは筋が通らないことかな,と思ってます。結論からいってしまえば,たとえレオ・メッシーをとられたとしても,それは自分達のやってきたことが,今度は自分達の身にふりかかってきただけ,ビッグクラブが「スーパービッグクラブ」に選手を獲られるだけ,それに嫌悪感を抱くのはビッグクラブのファンとしてはダブルスタンダードも甚だしいかな,と。ダニ・アウベスを3000万ユーロ強で奪われたセビジスタに比べてバルセロニスタが特権的な地位にあるのであって,セビジスタの嘆きに比べてバルセロニスタの嘆きが尊重されなければならない,と考える理由が思いつきませんし,そう考えることは,ガザで民間人の虐殺を繰り広げるイスラエルが,ハマスのロケット弾の脅威を訴えるのと同じぐらいハレンチなことではないかと(いいすぎ)。

シティといわゆる「ビッグクラブ」の違いって何でしょうか?

金で選手を買い漁ってる?

しかし,他のビッグクラブもやってますよね?そんなことは。若手を育てていると称されるアーセナルでさえも,育てる対象であるところの有望な若手選手を金で買い漁ってますよね,自分達よりも経済的に弱い小さなクラブから。

シティが使うお金の額が余りにも巨額だから?

ベンゲルさんは,クラブにはテレビ放映権料や入場料収入,さらに商品やスポンサーなどによるコマーシャルな収入,などがあり,それらクラブの収入の範囲内でお金を使うのが真っ当なクラブのやることである,というような趣旨のことをいっていました。これは最もなことだと思います。しかしながら,実際,そうじゃないクラブ,つまりクラブ事業による収入以外,オーナーの資産などを頼りにクラブを運営しているところはビッグクラブも含めて山ほどあるわけですし,今回シティの標的となったミランも,その点ではシティと余り変わらないように思えます。違いがあるとしたら,それはベルルスコーニは,アラブの王様程にはお金持ちでは無かった,ということでしょう。ベンゲル理論を貫徹するならば,多くのクラブの経営をひっくりかえす必要があるわけで,オーナーの資産への依存具合をもってシティだけを非難するのは少々おかしいといえるでしょう。

また,ベンゲルさんのいう着実なクラブ経営がなぜ褒められるべきか,その理由を財政面から考えれば,それは長期間に渡ってクラブを安定的に経営できるためであり,長い時間をかけて投資リスクを分散しているから,ということがあるはずです。しかし,そもそも投資リスクを余り気にする必要がない程お金がある,というのであれば,一気にお金を注ぎ込むこと自体が悪いことだとはいえない気がします。さらには,そもそも自分のお金をどのように使おうとそれはその人の自由ではないか,ということもあります(もっとも,アラブの王様の財産は,封建的かつ人権抑圧的,反民主的な政治制度を基盤に成り立っているのであって,そのような財産そのものがけしからん,という理屈は成り立つ気はします)。お金をかけずにチームを強くする,そういう「スマートさ」を備えたクラブは素晴らしいクラブだとは思いますが,他方,そういう「スマートさ」だけでビッグクラブになるのは難しいことですし,また実際に巨額の投資の積み重ねをせずに「スマートさ」だけでビッグクラブとなったクラブなどないのも事実です。長期的にみれば,間違いなく「ビッグクラブ」というのは「タイトルをお金で買ってくるクラブ」のことであり(お金をかければ必ずタイトルを獲得できるわけではありませんが,お金をかけなければタイトルを(継続的に)獲得するのは不可能,という意味で。また,ただ金をかければ良いということもなく,やはり何かしらの「スマートさ」は同時に必要とされるでしょう。),そうなりたいのであれば巨額の投資をする他なく,したがって,シティのやっていることは,ビッグクラブになるためには必要不可欠かつその点からみれば正当な行為であり,またそうだとするなら,50年かけて数億ユーロを使うか,それとも5年で数億ユーロを使うか,それは個々の自由であって,好きなようにすればいい話な気がします。時間を短縮しようとする分だけ余計にお金を払っているかもしれませんが,それは個々の選択の問題にすぎないでしょう。

あるいは,一気にお金を使われると,フットボールにおける価格形成が歪められる,という意見もありうるかもしれません。しかし,シティはカカー以外,例えば,サンタクルスへのオファーやベラミーなどのウェストハム勢へのオファー,獲得したブリッジへのオファー,さらにはHSVへ出したデ・ヨングへのオファーをみていると,このカカーのケース以外では,意外にも今までの常識の範囲内で動いていると思いますし,価格形成を歪める行動をことさらとっているとは思えません。何かこのカカーのケースだけが突出している感じがします。そうすると,この1億ユーロには何か他とは違う特別な意味がある,とみるべきでしょう。「カカーは1億ユーロに値するか」という記事は,カカー1人に1億ユーロというのはスポーツ的には割りにあわない,その額で将来有望なタレントが数人買えるだろうから,これはそれ以外の意味が大きく,「誇示のための消費」なのだ,といっていますが,それはあたっているように思えます。

個人的に付け加えるならば,ミランという世界的に成功している歴史を持つビッグクラブの1つから,そのクラブの象徴的選手を引き抜く,これはバルサも含む既存のビッグクラブが形成している現在の秩序に割って入り,それを打ち倒し,新たな秩序を打ち立てるのだ,というシティによる一種の「革命」宣言だと思っています。マドリーが作った移籍金記録を,歴史は長いものの,新興クラブといえるシティが塗り替えようとする,これもまさに「革命」的な出来事です。

フェルナンド・トーレスは,シティはカカーにはふさわしくない,イングランドでタイトルをとれない中堅クラブじゃないか,というような真に常識的な発言をしています。常識的であること,それはまた,既存のビッグクラブによる秩序を擁護することも意味しています。現在のイングランドの「ビッグ4」体制は,多分にCL出場権獲得による収入との関係が深いものであるだろうと思います(やはり「お金の問題」!!)。仮に,シティが台頭した場合,「ビッグ5」になる可能性は低く,おそらくどこかが「ビッグ4」から落ちることになりそうです。そして,それはやはり最終的には「お金の問題」となり(なぜ「お金の問題」になるか,といえば,変動する成績のリスクからクラブを守ってくれるのがお金,つまり時にCL出場権を逃してクラブ収入に穴が空いた時に,選手の放出で穴を埋めること無く次のシーズンに巻き返す余裕をお金は与えてくれるからです),「ビッグ4」の中でも相対的に財務状況が良くないアーセナルかリバプールということになりそうであり,リバプールに所属するトーレスがシティに反感を覚えるのも当然といえば当然です。しかし,これらの常識を破壊すること,既存のビッグクラブによる秩序をひっくりかえすこと,シティはそれを意図しているのであり,そのような考え方に染まっている人間の頭を,今回「1億ユーロ」というハンマーでわざと引っ叩いたのだ,といえると思います。このように考えると,今後実際にカカーが移籍しなかったとしても,今回の件でシティが自分達の存在感を示し,将来における野望を宣言し,フットボール界を大きく揺さぶったことは確かであり,この時点でシティにとってはある程度満足できる結果を得たことになるのかもしれません。

ここまで見て来たように,私自身はシティの行動にはあまり否定的ではありません。くりかえしになりますが,仮にメッシーをとられたなら,深く嘆き悲しみ,文句の1つもいうことでしょう。しかし,彼らの行動がモラルにもとるとか,「サッカーの伝統と本質」の破壊などとは思わない(そもそも「サッカーの伝統と本質」が何なのかがよくわかりませんし)と思います。彼らはビッグクラブになりたいのであり,そのために彼らは我々と同じやり方で少々急進的に物事を進めているにすぎません。先にビッグクラブになったからといって,彼らのやり方を非難する資格は我々にはないでしょう。どのクラブにもビッグクラブになる権利はあるはずですし,それは尊重されてよいはずです。

余談ですが,これってちょっと地球温暖化の問題に似ていると思いました。先進国が長きに渡ってCO2を排出し地球を汚してきたくせに,発展過程にある後進国の行いをどうして(道徳的に)非難できるのか,という話に。温暖化の場合,現在からの後進国の「暴走」は地球自体を潰してしまう可能性があるために自ずと限度があり,罪にまみれた先進国といえど,後進国の「暴走」を一定程度非難できる理由はあると思いますが,フットボールにおける新興クラブの「暴走」にはそこまでの決定的な制約がない,したがって,それを非難することは難しいように思います。そもそも,この不況下で各クラブとも経営が苦しい中,シティーが大金を色んなところで使ってくれるのはプロフットボール界にとっては「恵みの雨」,称賛すべき行為とも考えられます。「シティによる 1人ニューディール」?

最後に,興味深かったのがこの件に関する各クラブの指揮官のコメントです。ロッシさんとスパレッティさんは,こういう巨額なオファーを拒絶した時の後始末をどうするのか,という問題を指摘しています。これは具体的には,ここでいわれているような,引き止めのための年俸アップをすべきかどうか,アップした場合他の選手の間に不満が貯まりかねないのだが,とか,別の中心選手に対するオファーを今後受けた場合に,嫌でもカカーのケースと比較せざるをえなくなり,その扱いによってはチームに亀裂が走りかねない,とかそういうことでしょうか。あとロッシさんのこの発言はかなり気にいってます。

「モラルに欠くオファー?セリエC2の選手が月給2000ユーロであることの方が、よほどモラルを欠いていると思う。これでは、2人の子供を養っていくことはできない」

posted by coladevaca |07:22 | スポーツ文化 | コメント(7) | トラックバック(0)
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2008年08月09日

オリンピック参加問題から,今後議論されるであろう参加ルールを考える。

今回のメッシーを始めとするオリンピック参加問題に関するCASの仲裁判断についてのプレスリリースが出ています。

報道ではわからなかったことですが,今回のCASの判断は,イスラエルの方1人と,スイスの方2人,合計3人の弁護士で審理した結果であること。FIFAの決定は,なぜか1人で出したものだったわけで,当時からちょっとおかしいなと思っていたのですが,やはり複数人で議論して結論を出す方が公正な感じはしますよね。

さて,8月5日に双方の意見を聞いて検討した結果,以下の結論に達したとしています。

1.北京オリンピックは,コーディネートされたマッチカレンダーには含まれておらず,また,クラブに23歳以下の選手の解放すべき義務を定立するFIFA Executive Committeeの特定の決定は存在しない。

2.慣習法に基づいて北京オリンピックに選手を解放しなければならないとするクラブの法的な義務を正当化する要件は充足されてない。

したがって,クラブには選手を解放すべき法的な義務はないと結論づけるとしています。

但し,なぜそういう判断に至ったのか,という詳細な理由は記述されていません。

あとは,報道にも上がっていたように,この決定は選手の参加資格には影響はないことを述べ,最後にFIFAのいうオリンピック精神を考慮して,合理的な解決策を見つけてくださいね,というコメントがついてます。

報道になかった点として,FIFAがいっていた1988年以来の慣行により慣習法が成立し,それがクラブに選手の解放を義務づけるという主張は明確に否定された,ということがあります。結局,CASは,慣習法は成立していない,ということをいっているのか,ちょっと判断に迷うところがあるのですが,仮に慣習法が成立しているとするなら,それに基づいて選手の解放義務があると考えるのが素直なように思えます。

というわけで,現状においては新たなルールの策定は必須だといえるでしょう。その方向性ですが,考えられるものとしては,

A.23歳以下の選手でチームを構成するという現在の枠組みを維持したうえで,選手の提供を義務化する。

B.20歳以下の選手でチームを構成するというように,参加資格を有する年齢を下げた上で選手の提供を義務化する。この場合,下部カテゴリーのワールドカップとの統合がありうる。

C.そもそもオリンピックへの参加をやめる。

一応こういったところだと思います。

ところで,将来のルールを考える上で,今回の代表とクラブを巡る騒動への理解を深めることは有益だと思いますが,私は以下のように整理しています。経済的利益を巡る争いを除外して,思考の上でどういう点が争いになったのか,その特徴は?といえばおそらくこういうことではないでしょうか。

例えば,ワールドカップは,最高の選手達が代表レベルで争う最高レベルの大会だ,という認識が多くのフットボール関係者にはあると思うのですが,オリンピックの場合,その立ち位置が明確ではないように思います。

アルゼンチンは23歳以下+オーバーエイジで「最高のチーム」を構成する,という認識でチームを編成したわけですが,クラブ側からすると,ラポルタの発言にもあったとおり,オリンピックは「最高の選手達の大会ではない」という認識があったようです。つまり,今回の代表とクラブの争いは,オリンピックの持つ「23歳以下」という年齢による区切りは,単に形式的なものなのか,それとも,実質的なものなのか,という争いだったのではないかといえると思います。

アルゼンチンは,形式説をとり,23歳以下で最高の選手をかき集めようとメッシーを招集したわけですが,クラブ側は,実質説,つまり,23歳以下という区切りには,最高の選手達ではない,という意味を含むという立場,したがって,最高の選手であるメッシーを招集されるべきではない,という考えに流れるわけです。

FIFAは,オリンピックを23歳以下の大会と位置づけたましたが,これはワールドカップとの峻別,ワールドカップは最高の選手達が集う最高レベルの大会であり,オリンピックはそれよりレベルの低い,いいかえれば,最高の選手達が集うべき大会ではないのだ,という位置づけを与えたのでしょうか?そうだとするならば,最高の選手であるメッシーが参加すべきでないとするクラブ側の見解は,それと整合的であり,自然だともいいうるでしょう。

そうすると,おそらく議論しなければならないのは,アンダー・カテゴリーってそもそも何なのか,その意義をどう理解するのか,ということだと思います。例えば,ボージャンのように17歳でU-17,U-21,フル代表と招集されそうになるのをみて,仮にアンダー・カテゴリーが形式的な区切りにすぎないのだとすれば,その招集もわからないではないことになりますが,それが実質的な区切り,つまり,選手の能力による区切りを含意するなら,少なくともU-17での招集は明らかに不相応ということになるでしょう。

一般に,年齢による区切りは,抽象的には能力による区切りを含意し,したがって,実際の例でみてもしばしばそれは一致することにはなるのですが,メッシーやボージャンなどのケースで明らかなように,その不一致は起こりうるのであり,アーセナルなんかを見れば明らかな通り選手の若年化が進んでいる今はそれがそれなりの確率で起きるようになっているのだ,ということがいえそうです。

色々とりとめなく書いてきましたが,まとめると,個人的には,代表のカテゴリーは,形式的には年齢別となっているもの,本来は,個々人の能力に応じてチームに振り分けられるべきだという立場から,大体以下のように将来的にルールを規整すべきではないか,と考えます。

まず,オリンピックの地位の明確化が何よりも必要であり,ルールはそこから導かれるべきでしょう。

最高の選手達が集う最高レベルの大会だと位置づけるなら,資格制限は撤廃すべきです。この場合,ワールドカップの有する権威が相対的に低下することは甘受すべきこととなるでしょう。

そうではない,低レベルの選手が集う低レベルの大会だと位置づけるなら,それに応じて資格制限をかけます。その際,どういう資格制限をかけるか,議論をしていいと思いますが,仮に年齢で制限をかけるならば,他の大会との関係をどう捉えるかにより,23歳以下でも,20歳以下でもかまわないと思いますが,最高の選手達が集められることのないよう,フル代表など上のカテゴリーの(一定数の)キャップを持つ選手は年齢にかかっても資格を与えないようにすべきです。この不可逆的ステップ・アップともいうべきルールは,オリンピックにかかわらず,できれば全カテゴリーに統一的に導入されるのが望ましいと考えます。当然のことながら,大会の地位を不明確にする,オーバーエイジのルールは撤廃すべきです。

なお,不可逆的ステップ・アップ的なルールを推すのは,若くて特別の才能を有する選手が年齢が低いことを理由にあらゆるカテゴリーの代表で使い回されるということが回避できるためで,他にそれを達成できるルールが考えられるなら,別にこのルールでなくてもかまいません。

IOCが,低レベルの選手が集う低レベルの大会だと位置づけるのに抵抗し,フットボール界としてワールドカップが唯一の最高レベルの大会だ,という立場を崩したくないなら,オリンピックからは撤退すべきでしょう。

また,現状の8月〜翌年5月までというシーズンで,間に代表戦を挟む,というフットボール界一般のスケジュールと,8月開催というオリンピックのスケジュールは明らかにあっていないので,もし今後もオリンピックに参加を続けるなら,これには何らかの調整が必要でしょう。


★メッシ、バルサへ感謝

とあくまで感謝の心を忘れないレオ・メッシー。ムンドの記事をみると,他にも色々いってますが,とくにバルサとの不仲説を一蹴してるところがファンとしては思わず頬が緩んでしまいますね。

僕は,バルサの人達を知っている,僕に全てを与えてくれた人達だ。僕の家族のようなものであり,僕がハッピーになることを願ってくれる。みんなチームにとってベストなことを望んでいるから,僕もオリンピックの金メダルと共にバルサに帰ってきて,次のシーズンは,大きなトロフィーを勝ち取って偉大なシーズンにしたい。

というようなことをいっています。


Marc Valiente, traspasado al Sevilla ‘B'

バリエンテ君のセビージャ・アトレティコ行きが正式に決まったようです。3年契約みたいですね。バルサは,バリエンテ君のファースト・チームでの試合数に応じて2008-2009シーズンの終了時に呼び戻しオプションを有するそうです。また,将来の移籍金の25%がバルサに支払われるそうです。

スエルテ!!マルク!!

posted by coladevaca |01:23 | スポーツ文化 | コメント(13) | トラックバック(0)
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2008年03月18日

プレミアリーグの海外進出計画について(グローバリズム/ナショナリズム/ローカリズム)

いまさらながら,プレミアリーグの海外進出計画についてちょっと述べてみたいと思います。

いきなり話題が変わるようですが,新聞に小熊英二さん(歴史社会学者,慶応大学教授)のインタビューが載っていました。ナショナリズムとグローバリズムに関するものなのですが,概観としては優れものだと思ったので,内容を要約して紹介します。


A.ナショナリズムとグローバリズムは,仲の悪い双子のようなもの。両方とも,交通通信技術の発達に基づく均質化と資本主義化の産物である。(身分差や地方差を解消する)均質化が国内でなされるとナショナリズムと呼び,国際的になされるとグローバリズムと呼ぶ。ナショナリズムの形成そのものが,グローバル化の結果。

B.両者が対立するように思われる原因
B-1.国家関係の存在。
大国のグローバルな展開に,劣位の国が対抗手段としてナショナリズムを形成する,など(例:ペリー来航と明治維新)。

B-2.利益を得る階層の違い。
ナショナリズム=国内均質化は,国内における身分制廃止や福祉政策,格差解消につながる(「”同じ日本人”なのにおかしい」)→中の下ぐらいの階層(保護貿易,補助金,外資規制で守られる農民・商人,終身雇用の会社員など)の利益になる。

グローバリズム=国際的均質化は,上層(海外の投資先を模索する投資家,外国語を話し,国外でも高収入を得られる特殊技能を身につけている者など)+下層(移民労働者など)の利益になる。

C.最近の日本でナショナリズムに引きつけられる人が増えたのは,1992年以降の経済停滞が原因の1つ。経済成長の停滞,産業空洞化,若年失業者の増加→新自由主義的政策の導入→貧富の格差拡大→移民排斥運動やネオナチの支持者増加,という欧米でみられる現象の焼き直し。

D.ナショナリズムは常に反グローバリズムであるとは限らない(例:新自由主義者のサッチャー,レーガン,小泉は,同時にポピュリズム的なナショナリスト)。「アメリカでは国旗に敬礼しているから日本でも」「日本人としてのアイデンティティーをしっかりもたないと国際人としては通用しない」などの論調は,ナショナリズムとグローバリズムの混交,双子の関係をよく表している。

E.ナショナリズムとグローバリズムの敵は,ローカリズム。交通通信技術と資本主義の発達でローカリズムや地域共同体を破壊させてこそ,人々に国家という想像の共同体に愛着をもたせることができる。グローバル企業にとっても,自給自足のローカル共同体は破壊すべきもの。


という感じです。

個人的に補足するなら,E.について,ローカリズムは,ナショナリズムあるいは国家によって壊されていきましたが,当然良い面もあり,それはそこから逃れた自由な「個人」が誕生したことでしょう。中間団体の破壊なくして自由な「個人」は誕生しえませんでした。

こんなものをなぜここで紹介したのかといえば,これを道具にプレミアリーグの海外進出計画について分析してみたい,と思ったからです。

プレミアリーグの海外進出計画については,FIFA,UEFA,AFCなどから反対され,今のところ計画はほぼ頓挫したようです。これらのアクターの行動の根底に(プレミアリーグも含め),経済的利益の追求があることはほぼ間違いないことでしょう。

しかし,経済的利益からAFCなどが反対するのはわかりやすいのですが,FIFAやUEFAが反対するのはそうわかりやすい話ではありません。

UEFAの会長であるプラティニさんのインタビューを読むとそれはどうやら,ナショナリズムからのグローバリズムに対する反対,つまり,彼の中では,フットボールの有する価値(観)は,国家という政治共同体が形成する境界に沿って生成されたものであり,それを乗り越えることは許されない,という立場からの反対ではないかと考えられます。ブラッターのコメントは詳細ではなかったのでよくわかりませんが,今までの言動からするとおそらく同様の立場からの反対なのでしょう。ビジネス的な面からいっても,彼らは,国家に沿った既存の境界があるからこそビジネスができる(例えば,ヨーロッパスーパーリーグができてしまえば,UEFAチャンピオンズリーグは不要になるわけです。つまり,国際組織は,「国」が無くなったらいらなくなってしまうわけですから,それを希薄化させるような動きには組織防衛/自己保存の観点から反対しなければならないわけです。)わけですから,反対するのも当たり前でしょう。

一方で,選手やサポーターからは,過密日程などの理由からの反対もありますが,ここではより理念的な問題をとりあげようと思います。その一例として,ギジェム・バラゲさんのコラムをとりあげます。

余りまとまりが無い文章ですが,簡潔にまとめるなら,おそらくプレミアリーグの「地元と密接に結びついた歴史や伝統」が海外進出によって損なわれてしまうのではないか,という懸念から反対するという意見だと思われます。これは,グローバリズムに対するローカリズムからの抵抗,ということになるでしょう。ここで注目されるのは,プレミアリーグが,ナショナルなものとしては捉えられていない,ということです。世界中で放映され,それによって多額のテレビ放映権が流入し,オフには海外集金ツアーをし,世界中でユニフォームを売り飛ばしているプレミアリーグを,ナショナルなものとするのは無理があるという認識だろうと思います(この点で,プラティニやブラッターよりよほど現実的な見方といえるでしょう)。それでも,プレミアリーグの根本にはローカルなものがあるのであり,プレミアリーグの海外進出は,それをほり崩してしまうのではないか,という懸念があるというわけです。

つまり,プレミアリーグの海外進出計画(グローバリズム)は,ナショナリズム(UEFA,FIFAなど)からもローカリズム(地元サポーターなど)からも反対にあってる,ということになります。多方面から反対にはあっているが,その反対は同床異夢だということになりそうです。これはEで描かれた構図(グローバリズム,ナショナリズム vs ローカリズム)とは少し違いますね。

プレミアリーグの海外進出計画が今後どうなるか,はよくわかりません。ナショナリズムは置いておいて(説得的な理由を彼らが並べられるとは思えないので),ローカリズムの保護を訴える意見は,「地元と密接に結びついた歴史や伝統」を重んじ,いってしまえば無意識にしろ地元のサポーターの地位を特権化(地域性に基づく特権化)するわけですが,海外のサポーターは,それこそサポーターという地位の「均質化」を求めることでしょう(”同じサポ”なのにおかしい)。ギジェム・バラゲさんのコラムから引用すれば

「イングランドのファンが、おれたちのために1試合観戦するのをあきらめることは、そんなに問題なのか?」

ということです。これは(文化的な意味において)クラブが誰のものであるのか,ということを考えざるをえない問題です。リーグは,クラブの集合体であるからです。そして,それはたとえソシオ制度をとったとしても同じことです。クラブは,「地元のサポーター」のものなのか,それとも(どこに住んでいるかは関係はなく)「クラブのサポーター」のものなのか。前者なら,地元のサポーターが特権的にふるまうのは仕方のないことでしょう。クラブが地域共同体の象徴なら,その地域共同体に参加するサポーターこそが大事なサポーターであり,そこに参加していないサポーターなど二級サポーターだ,ということになりそうです。後者なら,それらは理由がないことになるでしょう。地元のサポータが優遇されているように見えるのは,単に数が多いからにすぎないということになるでしょう。ほとんどのクラブはこの点が曖昧になっている(今までは,明確にする必要性がなかったですし,クラブ経営の観点からもそれは賢明なことだった)と思いますが,仮にプレミアリーグが海外進出しようとするなら,この困難な問題に一定の結論を出さなければならないと思いますし,それに興味がありますね。

ちなみに,上記で「明確にする必要性がなかった」と書きましたが,日本の場合は,「地域密着」を唱うのが流行ってるように,あえて明確にする場合が多いように思います。クラブ立ち上げ期には有効な手法でしょうから,それは妥当なことだと思いますが,歴史的な観点からいえば,明治維新以降とり壊しが進んだ地域共同体を復活させる1つの動き(もちろん時代の流れに適合した新しい形で。地域共同体が復活したからといって「個人」が消失するなどは考えられないように。)と捉えられるかもしれません。いずれ「代表 vs クラブ」の議論にも影響することになるかもしれませんね。

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posted by coladevaca |02:53 | スポーツ文化 | コメント(9) | トラックバック(0)
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2008年02月16日

フットボールに「キャッチフレーズ/スローガン」は必要か?

なんとなくもやもやしていたものを,ちょっと晴らしてくれたのが以下のコラム。

【加部究コラム】何のためのキャッチフレーズか

全ての内容に賛同というわけではないですが,加部さんが,キャッチフレーズ/スローガン(以下「キャッチフレーズ」といいます)に疑問を感じているようなので,その点には賛同したいものがあります。

ちょっと話が変わるようですが,この一節に私は違和感をもったんですよね。

/*「人もボールもよく動く」

 これはフル代表のオシム前監督を筆頭に、U-17代表を率いた城福監督まで一斉に口にしてきたキャッチフレーズである。そしておそらく日本中の指導者たちが、同じ言葉を繰り返しながらあらゆる層を教えている。裏返せば、日本中の選手たちは早くからそればかりを強調されながら育ってくるわけだ。*/

オシム爺さんの代名詞のようにいわれる「人もボールも(よく)動くサッカー」なるキャッチフレーズ。しかし,私の中では,オシム爺さんとキャッチフレーズってどうにもそぐわない感じがするんですよね。

ということでちょっと調べてみました。

オシム会見全文集

試合の前後で行われている公式会見で果たしてそのキャッチフレーズがどれだけ出てくるのか。全部を読んだわけではなく,単純に「人もボールも」でぐぐってみたのですが,その結果,オシム爺さんがそれらしいことをいったのは,

キリンカップ,コロンビア戦後の会見

/*いつものように(試合内容が)満足かそうでないかは、詳しく述べない。何しろ私の考えは大事ではないからだ。(ジャーナリストの)皆さん、そしてサポーターの皆さんがどう感じたかだ。よく注意してもらえれば分かることだが、何か発見はあったと思う。それが何かは、私が申し上げるのでなく、皆さんが感じたことを話し合ってほしい。ヒントを付け加えるなら、人もボールも動く時間帯は、非常に美しくエレガントではなかったか、ということだ。
 たまには、私の方から宿題を出したいと思う。こんな答えでよろしいだろうか。*/

というこの一節だけではないか,これが最初で最後ではないだろうか,ということがわかりました。もちろん,ジェフ時代やあるいはその前,本や他のインタビューで連発している可能性もないわけではないでしょう。私は,オシムマニアじゃないので発言を追いまくってるわけでもないのでわかりません。

ただ,私は,どうもこのキャッチフレーズを生み出したのは,オシム爺さんではなく,その周囲の人間ではないか,オシム爺さんの考えを消化しようとするうちに,勝手にキャッチフレーズ化したのではないか,と思ってます。ちなみに,私は反町さんがキャッチフレーズ化について重要な役割を果たしたとふんでいます(^_^)

人もボールもよく動く,この内容自体は,ごく当たり前のことですから,他の時代の選手や監督もいっています。例えば,アテネ五輪U-23の監督だった山本さんは,

/*われわれが目指してきた、人もボールもクリエーティブに動いて、できたスペースにどんどん絡んでいくというサッカー*/

といってたりします。

では,なぜキャッチフレーズ化すると問題があるのか,といえば,結局,キャッチフレーズって何にもいってないのと一緒なのに,それだけで聞いてる方は何かわかった気になる点なんですよね。「人もボールも動くサッカー」というのが何の意味もないことは,人もボールも動かないサッカーなんて存在しないところからも明らかでしょう。どう人を動かし,どうボールを動かすか,が重要(そして,できる限り言語化しなければならない)のにキャッチフレーズ化するとそれがスポンと抜け落ちるわけです。そもそも,キャッチフレーズ化はコミュニケーションコストを削減するために行われるものだと私は思ってます。色々言うのが面倒なので,キャッチフレーズで済ませるわけです。かつての小泉さんの「構造改革」とか「抵抗勢力」なんかが典型です。聞いてる方としても,キャッチフレーズなんて短いのでその情報に接するのに大したコストをかけずに済みますし,簡単に理解した気分になれるわけです。私がオシム爺さんとキャッチフレーズがそぐわないと思ったのは,オシム爺さんは大好きなフットボールについては,自分の身にふりかかるコストなど気にせずに饒舌に語りまくる,説明しまくる人間だと思ったからです。

オシム爺さんの考えを消化するためにキャッチフレーズを用いることは,結局,オシム爺さんの考えから,多くのものを抜け落ちた形で理解することにつながりかねないわけです。フットボールのスキルが高いプロのコーチなどは,オシム爺さんの考えはやってることを見れば理解できるので,キャッチフレーズ化しようとしまいと差はないのかもしれません。しかし,フットボールのスキルが低い,フツウのサポーターや一般市民に向かって,キャッチフレーズを連発するのは,フットボール文化の育成に向けて有意義なことだとはとても思えません。

キャッチフレーズに頼らずに,いかにフットボールをわかりやすく説明するのか,それが日本のフットボール関係者に問われていることなのではないでしょうか。

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posted by coladevaca |08:08 | スポーツ文化 | コメント(4) | トラックバック(0)
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2008年01月22日

浦和レッズは「クラブ時代」の象徴か?

浦和レッズがスポナビ・アワード2007に選ばれたそうです。ここのコメント欄をみると,罵声を浴びせ合っている人達がいてなかなかおもしろいですが,ふと目を留めたのが,「クラブ時代の象徴 浦和レッズが導いたもの」という宇都宮徹壱さんのコラムです。結論部分を引用すると,

/*2007年という年は、間違いなく“青の時代”から“赤の時代”へと移行するターニングポイントであった。もちろん“青”は日本代表であり、“赤”は浦和レッズ、つまりクラブである。それまで代表人気で回っていた日本のサッカー界は、この年、浦和を象徴とするクラブに、完全に自転軸をシフトさせたのである。*/

私は,この論調には違和感を覚えました。

結論からいえば,

「それでも,代表優位の時代は変わらない。」

ということになると思います。

そもそも,なぜ日本のフットボールシーンがクラブではなく代表中心に回っていたのかを考えてみると,様々な要因があるものの,大きな理由の1つとして,

「代表チームの参加するコンペティションが世界とつながっているオープンなものであったのに比べ,クラブが参加するコンペティションはドメスティックでクローズドなものであったから」

というシステム/制度レベルの差があったと思います。

クラブの戦いはいくら頑張っても日本一どまり。日本のフットボールのレベルが世界レベルにあるならそれもOKなのでしょうが(メジャーリーグベースボールのように),世界では評価されないレベルにあるため「日本一」といわれても微妙な感じは否めません。ACPなんてものもありましたが,「日本がトップレベルにあるようなアジアって微妙」という感じで,結局,クラブの戦いが制度的に有する閉塞感は拭いされなかったように思います。

一方,代表の戦いは,日本のフットボールのレベルとは無関係に,制度的には世界のトップにたどりつける(世界のトップと戦える)可能性があるため,やはりそれは魅力的なものがあったのだろうと思います。

このような状況において,クラブワールドカップは,日本のクラブシーンにおいて存在していた閉塞感を打ち破り,制度的に世界への扉を開いてくれたということができます。浦和レッズのブレイクは,トヨタカップからクラブワールドカップへという制度/システム変更が無ければ存在しえなかったでしょう。

しかし,ちょっと立ち止まって考えてみましょう。

「クラブワールドカップは,本当に制度的に世界への扉を開いたのだろうか?」

宇都宮さんのコラムを引用してみましょう。

/*最終的に浦和は、この大会で「世界3位」の称号を得ることになった。だが、ミランとの準決勝で明白となった彼我の差もまた、ほろ苦い思い出となった。スコアこそ0-1と僅(きん)差であったが、その1点は長谷部誠が語った通り、「5点、10点に匹敵する」1点であった。とはいえ、これまで「別世界」でしかなかった欧州のビッグクラブに対し、日本のビッグクラブが公式戦で真剣勝負を演じたことが、日本サッカー史のメルクマール(指標)となったのは紛れもない事実。浦和ファンのみならず、日本のサッカーファン全体にとっても、世界のトップとの距離感をはっきり認識することができた。その意味で、今大会における浦和の貢献度は計り知れない。*/

ここでキーとなるのは,欧州のビッグクラブが真剣勝負を演じた,ということです。しかし,今回のミランは真剣だったかもしれないが,次のヨーロッパチャンピオンがどこまで本気でやってくれるのか,疑問に持つ人は多くいると思います。クラブワールドカップというタイトルの重みはいかほどになるのか,それが予測できない状況においては,クラブワールドカップは必ずしも世界への扉を継続的に開いてくれることにはならないかもしれない。つまり,日本に「クラブ時代」が訪れるかどうかは,欧州のビッグクラブがこのコンペティションに対してどのような姿勢をとるか,にかかっている部分が大きいということになるわけです。

ワールドカップのタイトルは,既に権威あるものとして確立されているが,クラブワールドカップのタイトルは,まだまだ未知数。ワールドカップでの戦いは,世界との戦いであるとほとんどの人が認識しているが,クラブワールドカップは,必ずしもそうでもない(浦和レッズの世界3位に「」を付けたがる人が何と多いことか!!)。このような状況において「クラブ時代」の到来を告げるのは時期尚早であるといえるでしょう。

さらに,より根本的な疑問をこのコラムからは感じました。

また,宇都宮さんのコラムを引用してみます。

/* 私見では、決勝のセパハン戦よりも、むしろ準々決勝、準決勝での韓国のクラブ(全北現代、城南一和)との死闘こそが、今大会のクライマックスであったと考える。代表戦ではない、クラブ同士の対戦でも「日韓戦」がこれほどまでに両国のサッカーファンを熱くさせるということを、浦和とそのサポーターは私たちに証明して見せた。普段は浦和の「数の力」を快く思っていない他クラブのサポーターでも、この「日韓戦」には心底感情移入できたのではないか。*/

この発想は,正直「クラブの時代」とは全くそぐわないものだと思います。結局,クラブ同士の戦いを「疑似代表戦」にみたてて盛り上がっているわけですから。それなら別にクラブ同士の戦いじゃなくていいわけで,代表戦の数を,「日韓戦」を増やせばいいじゃない?ということになるでしょう。

前の引用にも現れていますが,宇都宮さんは,浦和レッズの戦いを評価するうえで,「日本サッカー史」とか「日本のサッカーファン」とか,「クラブ」とは別の「日本」という尺度における成果でしか評価しようとしていないといえます。宇都宮さんは,浦和レッズのサポーターでは必ずしもないでしょうから,浦和レッズとのつながりを求め,それを評価するうえでは,どうしても「日本」という尺度に頼らざるをえないのでしょう。しかし,それは「クラブの時代」を語る言葉として適切なものだとは思いません。「クラブの時代」においては,他のクラブの躍進を,そのクラブのサポーター以外が持ち上げる必要などないはずだからです。他のクラブは,基本的には自クラブの生存を脅かす,利害が対立する存在のはずですから。

今回,宇都宮さんは,でもどうしても,他のクラブを褒めたくなった。同じ「日本のクラブ」だから。だから「日本」という尺度を持ってくる。しかし,「日本」という尺度は,基本的には「代表」のものなのです。「日本」という尺度から「クラブ」を語ることは,「代表」から「クラブ」をみているのと同じ,「浦和レッズ」を「日本代表」の代替物として扱っているのと同じなのです。

したがって,「クラブ」を「代表」のアナロジー以外で理解することが「クラブの時代」の到来には必要であり,「クラブ」が「日本」という尺度から語られ続ける限り「代表優位の時代」が続くことになるだろうと私は思います。

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posted by coladevaca |01:42 | スポーツ文化 | コメント(4) | トラックバック(1)
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