2009年03月31日
44.○1―0 バーレーン ワールドカップ最終予選(埼玉) 009/3/28
バーレーン戦に向けたメンバー発表の記者会見。
「川口が選ばれなかった理由は?」
「久しぶりに選出された矢野に期待することは?」
「欧州組の4人は合宿に間に合うのか?」
「けがから復帰した楢崎に期待することは?」
「現状では内田篤人、長友佑都の2人をどのように評価しているのか?」
「巻誠一郎が選ばれなかった理由は?」
メンバー発表の会見なので、メンバーに関する質問が多いのは当たり前、しかし「皆さんは私の戦術に興味がないのですか」と、監督なら皮肉の一つも言ってほしい。
いつも「戦術に関しては詳しく聞かないでくれ」オーラが出ている岡田監督ですが、この会見で語った具体的な方針は「戦い方も、練習方法も、メンバーも大きく変えない」そして「リスクを負って戦う」という二点しかない。
「大きく変えない」もちろん親善試合のように、新しい選手を試す場ではないが、大きく変えないということは「私はリスクを負わないが、選手にはリスクを負ってもらう」と語ったのと同じではないか。
試合前日の「蛮勇に成らないようにリスクを冒す」という発言は、どのように理解すればいいのでしょうか。「リスクを冒す」というのは、失敗を恐れずに一歩間違えば「蛮勇」になる行動をとることです。
刃物を持った強盗に立ち向かう場合や、借金を抱えて商売を始めるケースを考えてみてください。ゴール前で倒れてPKを得るのも、シミュレーションでカードをもらうのも、どちらもリスクを冒した結果です。
「失敗しないリスクを冒しなさい」は無理な話。「リスクを冒さないで、リスクを冒しなさい」と言うようなもの。このように相反することを並べる曖昧な表現は、選手たちの意思の疎通にとってマイナスです。リスクを冒すのか冒さないのか、負けを恐れず勝ちにいくのか、引き分けでいいのか、はっきり選手に伝えるべきでしょう。
試合は予想通りタフな試合になりました。互いに相手へパスを渡すエールの交換は余計ですが、スピードある展開は見応えがあった。大久保が、俊輔が、闘莉王が、遠藤がゴール前へパスを出す。日本が押し気味、しかしどちらが先制してもおかしくない展開で前半を終えた。
ボールを果敢に奪いに行く気迫溢れた選手たちからは、この一年間で2勝2敗のバーレーンと決着を着けて、ワールドカップへ一歩近づこうという強い意志が感じられます。なによりもここで負ければ、WBCで盛り上がった野球に人気がさらわれる。
引き分けもあり得ると思わせて始まった後半開始早々に、玉田が得たFKを俊輔が決めて先制した。高い壁のマルズーキの頭に当たったボールは、絶妙の軌跡を描いてゴールネットを揺らした。背の高いディフェンダーを揃えたマチャラは、皮肉にもその高さゆえに負けてしまう。バーレーンにすれば悔やまれる1点です。
マチャラ監督は「日本の戦い方は知り尽くしている」と強気の発言をしていましたが、前日の会見では一転して「3位になればプレーオフの可能性もある」(ここまで日本に2勝しているが)「日本に勝利したのは本当に歴史的なこと」と下手のポーズ。日本人を挑発すれば、逆にモチベーションが上がると躊躇したのなら、確かに日本人を知り尽している。
選手たちは高額(1人1億円?)の勝利ボーナスに、それほど日本に勝つことが難しいのかと、逆に懐疑的になったのかもしれません。
翌日のスポーツ紙はワールドカップへ大きく前進したことを祝福しながらも「幸運な一勝」なのか、攻め続けた結果の「掴み取った勝利」なのか判断しかねています。間違いなく「幸運な一勝」です。
ワールドカップに近づいたが、ベスト4には程遠い。決勝トーナメントで戦う日本代表が目に浮かばないのは、私の想像力が欠けているからでしょうか。
勝っても修正すべき点は多い。これで余裕が生まれて次は戦い方も、練習方法も、メンバーも大きく変えるのでしょうか。変えないのは、まさか策が尽きたからではないでしょうね。リスクを負いたくても負えない。リスクを負う選手と負えない監督、それならいっそ手に負えない。
posted by 直木 善久 |23:47 |
岡田監督と日本代表 |
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2009年03月26日
相撲ファンの中には内容を問わず、星取表をつけて楽しんでいるファンもいるようです。結果だけを追いかけるスポーツファンが多いのは、そんな相撲ファンの影響でしょうか。今回は「日本のサッカーファンも相撲ファンに近づく」という内容です。
枡席の大相撲観戦ほど贅沢な観戦方法はありません。酒をチビリチビリやりながら観るのもよし、腹が減ったら弁当を食うのもよし。決してスペクタクルとはいえませんが、楽しい時間が過ごせます。
前篇で述べたように日本人は「緊張の周期が短い」のではなく、単に座って飲み食いしながらスポーツを観るのが好きなだけかもしれません。
ところが海外のサッカースタジアムでは、観客の将棋倒しを防ぎ、サポーターが暴れないように立見席が椅子席に変わりつつありますが、立って観るのが一般的でした。立見席は安い、多くのファンが観られるという理由だけでなく、選手と同じ立場で観戦するのが当たり前だったのでしょう。
選手が自分たちの宗教や、民族や、階級を代表する同志なら、選手が戦っている間に座って飲み食いすることなど考えられません。負けていたら胃が痛む。真冬でも屋根のない吹きさらしの立見席が、安全対策以外で問題になったことはありません。
枡席で飲み食いしながら相撲を観ていれば、観客と力士の立場の違いは明確です。相撲ファンはまるで芝居を観るように相撲を観戦しています。花道もあれば、桟敷もある。
そのうえ善悪をはっきり区別する勧善懲悪の物語を好むように、スポーツでも白黒をつけることを好みます。
特に相撲は引き分けを嫌います。狭い土俵上に行司、土俵下には審判員が六名、それでも判定できない場合はビデオで確認し、白黒をつけるための労力は惜しみません。同体なら取り直し、水入りでも決着をつけ、相手が休場なら不戦勝、「痛み分け」(取組み中の力士が負傷すれば引分になる)というのがありますが、観たことはありません。勝ち星が並んでトップに立てば優勝決定戦を行います。
日本人が引き分けを評価しないのは、絶えず侵略に脅かされている大陸のように、侵入者に対して戦争前の領土を守れば勝利に等しいという、大陸型の戦争を経験していないことが原因です。海が防御の役目を果たしている日本にとって、戦いとは攻めて出るものであり、引いて守ることが既に敗北のように捉えられます。
日本では引いて守るなら、潔く花と散ることが評価されてきました。これが長い緊張が続く攻防で、日本の方が先に緊張の糸が切れる原因かもしれません。
開幕当時のJリーグが延長戦を採用したのは、日本人の引き分けを嫌う性格を考えてのことです。状況にもよりますが、スコアレスドローでも「良し」と評価できるのは、今でも熱心なサッカーファンだけでしょう。
延長戦は世界基準を取り入れて撤廃されましたが、環境や制度を世界基準に近づければファンが増えず、国民性を考慮した環境や制度を選べば代表チームが世界基準に近づかないという状況は変わっていないのかもしれません。
相撲ファンの理想はタニマチです。タニマチはパトロンとして力士を贔屓し、親分子分のように付き合って関係を深めます。日本の一般的なファンもタニマチのように気に入った選手を贔屓にし、後援会を作って応援します。熱心なファンがスポーツ選手を役者のように連れまわすことなど、西洋では考えられません。「贔屓の引き倒し」は訳せないでしょう。
メディアも人気がある選手を特定して取り上げます。海外のチームに日本人選手が移籍した際に、そのチームよりも移籍した選手だけを追いかけるメディアの姿勢はタニマチ主義、タニマチズムそのものです。チームをまるで相撲部屋のように考えている。
日本代表も人気選手を招集しないと観客が集まりません。人気選手を招集して負けても、メディアは「よくやった」と書きますが、若手選手を使って負ければすぐに監督の責任を問うはずです。
実力評価よりも贔屓が優先され、贔屓が実力の判断を曇らせます。
日本はもともと個人主義の国ではないでしょうか。相撲、剣道、柔道、弓道などすべてが個人競技です。戦国時代までは集団で戦っていても、互いに名乗りあって一騎打ちで行われ、相撲や武道がその流れを引き継いでいます。
碁、将棋、麻雀、パチンコ、こいこい、じゃんけん、遊びも同じく個人戦、トランプでもブリッジのようなチーム戦は人気がありません。芝居でも小説でも人気があるのは一匹狼で、徒党を組むのは悪人です。「和の精神」が無かったから「和の精神」が声高に謳われた。
日本でサッカーがなかなか受け入れられなかった理由として、前編では長い時間集中力が持続しない日本人の性格、中編では身体性を抑制した江戸文化を取り上げましたが、チーム競技の伝統が無かったことも付け加えていいでしょう。
チーム競技の伝統がないということは、チーム競技を観る伝統がないということです。相撲のような一点注視から、ディフェンスラインを気にしながら、ピッチを動き回るボールを追い、次のプレーのための選手の動きにまで目を光らせることができるまでに時間がかかった。そう考えると、野球はチーム競技に慣れるための入門編として最適だったのかもしれません。
人気力士が引退すると、途端に観客数が減って視聴率が下がる大相撲。巨人という一チームの人気によって長く支えられてきたプロ野球。東京、札幌、長野と地元開催の大会のときだけモチベーションが上がって好成績を残すオリンピック。意外と日本ではスポーツ自体の底が浅いのかも知れません。
日本のサッカーの将来は、ファンの量だけでなく質にも委ねられています。ときどき見かけますが「サッカーを知らないヤツからとやかく言われたくない」と、すぐに線引きして白黒つけていると、やがて閉鎖的な底の浅い世界になってしまうでしょう。(これはファンよりも、サッカー協会に言うべきこと?)
贔屓の選手だけを追いかけてスタジアムへ足を運ぶファンや、結果だけを求めてスポーツ紙を愛読するファンを批判するつもりはありません。日本人ならそれが普通でしょう。スタジアムで弁当を食べながらサッカーを観ているファンを見つけても、蘊蓄を垂れるような野暮なまねはしません。私も単にサッカーを贔屓にしている一ファンに過ぎません。
ただ、オシムが「ヨーロッパではスタジアムに足を運ぶ観客の誰もが、監督以上に監督の仕事を知っています。日本ではミスが見られてないし、その回数を数えられることもありません」と指摘した状況からは脱したい。ファンが世界基準に近づけば、必ずサッカーも世界基準に近づきます。
ここまで「日本のサッカーは相撲に近づく」と題して長々と語ってきましたが、どちらかに軍配を上げるのが目的ではありません。蹲踞(そんきょ)の姿勢を守り、両者に力水をつけるつもりで書いてきました。それが独り相撲になっていないか心配です。
今、代表は土俵際で「残った」「残った」と声を掛けられている状況です。いつもカド番脱出のような地位に甘んじていますが、はやく全勝優勝を狙えるチームになってほしい。サッカー協会も花相撲のような親善試合など止めて、金星、銀星を狙って強豪と対戦し、満員御礼の垂れ幕が出るほどの観客を集めてほしいものです。
いろんな意見を「突き出し」ましたが、読んでいただいた皆様は私の揚げ足を「とったり」はせず、真摯なご批判にも気持ちを「切り返し」て、ご返事を「送り出し」ました。これだけ書いて反応がなければ「肩透かし」をくらうところでした。
それでは「これにて千秋楽結びの一番」、最後までお付き合いいただき有難うございました。(完)
「まな板の上のオシム」より
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posted by 直木善久 |21:33 |
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2009年03月23日
――今日も先輩と後輩が、サッカー談議に華を咲かせております。どこにでもある居酒屋風景、まぁちょっと聞いてやってください。
「先輩、お久しぶり」
「先週も一緒に飲みました」
「ハハッ、酔っ払って忘れてた」
「ところで、インタビューの受け答えが上手い選手って少ないよね」
「そうですか、まぁまぁ、乾杯!」
「なんか、みんな当たり障りの無いことしか言わない」
「それはメディアがすぐに揚げ足を取るからですよ。ちょっと生意気なことを言うとビッグマウスとか」
「ふーん」
「聞き手も『今日の試合の感想は?』『ファンに一言』『次の試合へ向けて抱負を』って、それじゃ同じような答えになってしまいますよ」
「ふーん、昔の話だけど高校生の福原愛が、逆転勝ちして『これで自信がつきましたね』と問われても、インタビュアーの誘いに乗らず『そんなきれい事じゃないと思います』と答えて驚いた。それ以来、福原ファンになった」
「なるほど」
「今注目するのは石川遼と錦織圭、言葉が気になるベストイレブンを選ぶなら、若手の2トップって感じかな。ちょっと優等生過ぎるのが気になるけど」
「まだ十代ですから」
「トップ下にはやっぱりベテランのイチロー。『折れかけた心をぎりぎりでこらえた』『これで初めて日本のユニホームを着た気分』」
「WBCですね、サッカー選手では…」
「引退した中田英寿は『ブラジルを小バカにするようなプレーをしたい』とか、自分の言葉で語ろうとしていた」
「それじゃぁヒデは右サイド、それなら左は中村俊輔ですか」
「頭が痒いなら、インタビューの後に掻いてほしい」
「ハハッ、確かに。女性陣を加えるなら…」
「やっぱり福原愛」
「それなら錦織との2トップでしょ」
「うまい!たまに面白いことを言うね」
「でもね。やっぱりインタビューに答えるのは難しいですよ」
「それも練習」
「練習?」
「練習で出来なかったことがゲームで出来るはずがない。人生も同じ。日々の生活が重要なときに出てしまうもの」
「先輩もたまにいいことを言いますね」
「オシムが言ってた」
「またオシム真理教徒って呼ばれますよ」
「まず、リップサービスをする。そしてインタビュアーの誘導に乗らない、乗せられない。手の内を明かさない。それでいて自分の考えや感想をハッキリ言う。これでいい」
「それが難しい」
「大阪人の挨拶の要領なら大丈夫」
「大阪人の?」
「『儲かりまっか』と問われても、『ぼちぼちでんなぁ』と相手の口車には乗らない」
「はぁ」
「『どこへお出かけですか』と聞かれても、『ちょっとそこまで』と手の内を明かさない」
「なるほど」
「それでいて『そんなアホなことしたらあきまへんでぇ』ときっちり意見する」
「はいはい」
「ヨイショはうまいし、これでボケとツッコミ覚えたら」
「吉本へ行ける!」
「オシムから学んだ選手は多いけど、インタビューの受け答えを学んだ選手や監督がいないのは残念」
「あれはちょっとやそっとでは真似できない」
「考え抜かれた言葉、縦横に行き届いた配慮、ユーモアも交えて…」
「そうですね。大将、お酒。えっ、今日は話ばっかりして注文が少ない?縦横に配慮が行き届いていない?」
「ハハッ、さすが大阪人、ツッコミがうまい」
――お後がよろしいようで…
posted by 直木 善久 |06:56 |
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2009年03月18日
前編と後編でまとめてみようと考えていたのですが、長くなってしまいました。今回は「中編」ということで、もう一回書かせてください。
オシムが代表監督に就任して「日本的なサッカーを目指す」と表明したときは驚きました。それまでは日本の流儀、たとえば体育会系の先輩と後輩の関係をピッチに持ち込むことや、指導者に絶対服従する体質は、サッカーにとってマイナスの要因だと考えていたからです。
オシムは敏捷で知恵を生かしたサッカーを「日本的」と表現しましたが、「日本的」という言葉が指し示すのは、そんなポジティブな意味だけではないでしょう。「日本的なサッカー」について考えるため、もう少し相撲とお付き合いください。
相撲の歴史は古く起源は古代の神事に遡りますが、江戸時代に現在とほぼ同じ形になり、江戸文化の興隆とともにその様式を完成させて興行としても人気を博します。
その江戸時代は鎖国政策によって、宗教も、階級も、民族も均質化され、対立を回避する意識が強くなり、その結果江戸文化は精神性が尊ばれて身体性を抑制する文化になりました。
日常生活においても、小走り程度にしか走れない着物や下駄で腰から下の動きを制限し、格式の高い生活ほど物静かな所作が要求されています。そして武術から茶道や華道に至るまで、静的な所作と型を教えて礼儀を重んじています。相撲でも握り拳で殴ってはいけない、髪の毛を引っ張ってはいけない、胸や腹を蹴ってはいけないという「禁じ手」によって攻撃性が緩和されます。踊りでさえも腰を動かさずに、手先の動きで表現する様式を完成させています。
ブラジル人選手の華麗なプレーはサンバと切り離せないでしょう。日本人がサッカーを積極的に受け入れなかったのは、前編で触れた長い時間持続しない集中力の他に、身体性を抑制した江戸文化の影響も大きい。
力士が他のスポーツ選手と競走し、懸垂し、腕立て伏せをすれば、いかに相撲が身体性を抑制した特異なスポーツかが分かります。あなたは相撲を取れば必ず負けますが、力士の頭を叩いて逃げれば100%逃げ切ることが出来るでしょう。勇気ある方は一度挑戦してみてください。もちろん自己責任でお願いします。
相撲は練習でも走る必要がありません。太って戦えない体を作ってから戦うという、逆説的な工夫がされた高級な遊び(文化)です。短い時間で勝負が決まり、互いにダメージを受けにくくする、長い歴史で得た知恵が活かされています。
余談ですが、曙がマラソン(東京マラソン?)に挑戦するのは、相撲と他のスポーツとの差異を認識していないから出来るのです。当事者や関係者でさも相撲の特異性を理解していない。
腰から下の動きを制限して手先が器用になった日本人に、手を使ってはいけないスポーツが簡単に受け入れられないのは当然です。そのうえ当時は「ナンバ歩き」走っても「ナンバ走り」右手と右足、左手と左足を同時に出して歩いていました。何故でしょうか?
それは着物や髷が乱れないからです。日本人は動く時でさえ「動」より「静」を優先します。時代考証を尽した時代劇を観ても、今では歩き方が違うと指摘する人はいません。現代の日本人の記憶からは、完全に消え去っていますが、「篤姫」の時代はまだ「ナンバ歩き」でした。
西洋式の軍事教練が始まって「ナンバ」が否定されたようですが、明治の人たちは西洋流の歩き方に戸惑って「走りながら考える」どころか、どうやって走るかを考えていたでしょう。サッカーが入り込む余地は無い。
サッカーが伝来した明治維新と比べれば、現代では洋間に暮らし、洋食を食し、洋楽を聴いてトイレも洋式、そしてダンスミュージックにあわせて踊るようになりましたが、胴長短足の体型がすぐに洋式にならないように、今でも身体性を抑制する文化が、サッカーや日本のスポーツに影響を与えています。
オシムが「走れ、走れ」と言ったのは、日本に走る伝統がないと感じていたに違いありません。「日本人選手にテクニックはあるが、あまりにスタティック(静的)だ」(NUMBER722号)私たちには十分動いているように見えても、オシムから見れば静的なのです。
日本のスポーツがしごきや暴力を必要としたのは、抑制された身体性を目覚めさせる役割があったからと考えます。もちろん暴力を肯定しているのではありません。日本では活発な子供たちは「落ち着きがない」と叱られながら育つことが多い。活発な子供たちを評価することが、身体性を抑圧から解放することになります。
相撲はまわしだけを着けて戦いますが、これは古代オリンピックと同じように道具や凶器を持っていないことを証明し、ズル賢いことをしないと宣言しているのと同じです。最初から卑怯な発想が出来ないスタイルになっています。
柔術や剣術も西洋のスポーツに倣って競技化されるまでは、自己修養、自己鍛錬、自己を高めることを目的とし、卑怯がもっとも忌み嫌われていました。
もともと日本にはブラジルで言う「マリーシア」(ズル賢いプレー)の伝統は無く、いまさらコンプライアンスを説かなくても、卑怯を排してルールを遵守する伝統しかありません。卑怯者は今でも村八分、だから外国に比べて日本は安全だと言われ、スポーツでもフェアプレー賞を獲得するのでしょう。
トルシエが代表選手にファウルの取り方を教えた時、協会やメディアはまるで小学生か中学生にファウルを教えたかのような勢いで非難していました。
「サッカーとは相手を欺くゲーム。日本のサッカーは、相手を欺かなくても生きていける日本の社会を反映している」とオシムは分析しています。
正々堂々と戦うのがスポーツ選手の鑑、これは世界共通のスポーツマンシップです。本音と建前を使い分ける日本人なのに、ここでは本音と建前が見事に一致しています。何故でしょうか?
力士は利益が共通する民族や階級を代表する闘士ではなく、異形の者(神に近い存在)として扱われてきました。理想を背負った存在であり、スポーツ選手は計算高く現実的に生きることが許されない、この気分は今でも深く引き継がれています。
力士はまわしだけで戦うのに、格闘の邪魔になる髷を結っています。何故でしょうか?
髷は強さのバロメーター。相撲では一心不乱に髷を乱して勝つ力士より、乱さずに勝つ力士が上だと考えられ、髷を乱さないことが力の証明になります。この評価の伝統が、日本のスポーツで「汚れ役」に徹する選手が現れない原因ではないでしょうか。なりふり構わないのはよくない、この気分も根強く引き継がれています。
サッカーエリートを育てるなどと言わず「汚れ役」に徹する選手を育てた方が、日本のサッカーは大きく変わるでしょう。
果たして日本の土壌から走ることを厭わない「マリーシア」な「汚れ役」が生まれるのでしょうか?それとも「日本的サッカー」に徹するのでしょうか?すべてを認めるわけではありませんが、結果的に朝青龍は日本の伝統と戦っています。果たしてサッカーは?
これだけ国際試合が行われ、外国人監督が雇われ、外国人選手が活躍しても、それぞれのお国柄がサッカーには表れます。どんなスポーツでも世界基準と土着化の間で揺れ動きながら、その国のスタイルが定着していきます。
Jリーグもここまで延長戦の廃止や1シーズン制への移行で、表面的には世界基準に近づいていますが、内容は土着化しているか疑ってみる必要があるでしょう。
代表はその力を誇示するために世界と戦うのに、日本が強国と戦うときはいつも「胸を借ります」という雰囲気が漂う。
相撲の出稽古じゃないんだから…(もう一回つづく)
「まな板の上のオシム」より
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posted by 直木 善久 |22:43 |
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2009年03月14日
――どこにでもある居酒屋風景です。先輩と後輩が酒を酌み交わしながら、サッカー談議に華を咲かせております。ちょっとお付き合いください。
「先輩、今日は呑みすぎですよ」
「開幕戦は観た?」
「テレビで見ましたよ、鹿島対浦和、いい試合でしたよね」
「いやー、すごかった。Jリーグが年々進化しているって実感できた試合。切り替えの早さ、攻撃のスピード、どこを取ってもプレミア級の試合だった」
「一点目が素晴らしい」
「フリーキックをキャッチした曽ヶ端が素早く前線のマルキーニョスへ、マルキーニョスがそのまま右サイドを駆け上がってためらわずに速いクロス、野沢が足で巧みに角度を変えてあっという間のゴール」
「はい」
「力強いサッカーだった。でも、翌日のスポーツ紙は当然のようにWBCの韓国戦が一面、『サムライニッポン!韓国に歴史的大勝利!』だ」
「それは当然でしょう。韓国相手にコールドゲームですから」
「裏面をひっくり返しても開幕戦じゃぁない!」
「まぁ、大阪ですから」
「めくっていったら、なんと、すべての開幕戦が1ページにこじんまりと収まっていた。たった1ページ、すべての試合が、開幕戦なのに、あんないい試合をしたのに、涙が出そうだった」
「WBCはワールドカップと同じじゃないですか」
「せめて裏と中に見開きで2ページは使って欲しかった」
「まぁまぁ、巡り合わせが悪かった。大将、お酒もう一本」
「WBCたって、アジアと中南米の限られた国だけでしょ、当のアメリカだって真剣にメンバーを集めてない!それでワールド・ベースボールなんておかしい!」
「野球ファンのお客さんもいるから、もう少し小さな声で、ねっ、小さな、耳元でそんな大きな声を出さなくても聞こえますから、ほらみんなこっちを見てますよ。Jリーグは国内リーグ、ねっ、すみません、酔っ払いですから、はい、この前みたいに、阪神の悪口だけはやめてくださいよ」
「それでACLの鹿島戦をチェックしたら、同じチームとは思えない試合をしていた」
「はい」
「パスミス、パスミス、パスミス。正確性を欠いたら勝てるわけがない。曽ヶ端までがミスキックでフライを上げてた。野球じゃないよ」
「2点目の失点はひどかったですね」
「そうそう、前半のロスタイムにスウォン(水原)陣地深く攻め込んでいたのに簡単にボールを奪われて、大きく蹴りだされても、もう笛が鳴るだろうとみんな気を抜いていた。笛が鳴る前にエドゥに決められ、終わってみれば4失点」」
「先発メンバーはまったく同じなのに、ほんと別のチームみたいですよね」
「これは戦略的な問題じゃない。浦和戦で手ごたえを感じた、今年はいけるって。お互いの信頼感も増した。そこで中2日のアウェイ戦。『ちょっと俺がゆるんでいても、誰かが何とかしてくれる』みんながそう思ってしまった感じ。頼って信じる信頼感」
「まぁ、結果的にそうかもしれないですね」
「これでは鹿島名産のレンコンだ、穴だらけ」
「(無視)」
「俺が編集長なら浦和戦の翌日は『プレミア級弩迫力』って見出しをつけて、『今の鹿島なら日本代表にでも勝てる』『今の鹿島ならプレミアリーグでも戦える』って書いたかもしれないなぁ、一面に」
「先輩のような片寄った人は編集長なんかできません。まぁ鹿島は今年一番の好ゲームと最悪のゲームを二つ続けて見せてくれたのかもしれません」
「うまいこと言うね。俺が編集長なら記事採用」
「まぁ、次のJとホームのACLに注目しましょう」
「大将、お酒。えっ、プレミア、プレミアって焼酎の話かって?ハハッ面白い。えっ、プレミア焼酎がある?」
「それじゃプレミア焼酎でも呑みましょう。先輩と私も信頼感で結ばれています。今日のお勘定も頼って信じる信頼感」
――お後がよろしいようで…
posted by 直木 善久 |10:09 |
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2009年03月11日
Jリーグが開幕、ACL一次リーグも始まりました。こんな時期に「なに戯言を言うとんねん」と言われそうですが、戯言か戯言でないかちょっと読んでみてください。
広くて四角いピッチで戦うサッカー、小さく丸い土俵で戦う相撲。90分間戦っても決着がつかないこともあるサッカー、立ち合いに変化すれば1秒で勝負がつく相撲。サッカーと相撲は全く正反対のスポーツです。片やチーム戦、片や個人戦、片やグローバル、片やローカルと、違いを上げればきりがありません。
そのサッカーが相撲に近づく?西洋文化が日本流に折衷されるのはよくある話です。でもサッカーが相撲に?そんな馬鹿なと笑ってしまいますよね。
日本代表監督、日本サッカー協会会長を歴任された岡野俊一郎は「日本人は緊張の周期が短い、だから野球が好きなんだ」と、サッカーが野球のように伝来してから素早く普及しなかった理由を述べています。
「ピアノコンチェルトやシンフォニーなどを演奏して、トータルで2時間。間に休憩時間があるとしても、それをじっくり聴くというのは日本人にはなかなか耐えられない」とも語っています(JDFA編「『ダイヤモンドサッカー』の時代」より)
長い時間集中できないのは、短い時間で決着がつく相撲を見慣れているからでしょうか。日本に伝来して瞬く間に国民的スポーツになった野球は、意外にも相撲と展開が似ています。
相撲は一つの取組みが終わると緊張が弛緩され、緊張と弛緩を交互に繰り返して勝敗を積み重ねながら結びの一番へと盛り上がって行きます。野球では攻守交代の時間で緊張が弛緩され、やはり緊張と弛緩を繰り返して得点を積み重ねながら最終回へと盛り上がります。岡野俊一郎が指摘するように、短いサイクルの積み重ねに慣れているのでしょう。
ヨーロッパや南米のように日本でサッカーが幅広く支持されないのは、サッカーと正反対の競技を育んだ日本文化が、いまでもサッカー文化の足を引っ張っているのかもしれません。
西洋の人たちは目をつむっていても、日本人ヴァイオニリストが分るそうです。音が微妙にビブラートしているらしい。民謡や演歌のこぶしが効いている。それを個性として活かすのか、欠点として矯正するかは別にして、西洋発祥の文化を学ぶなら、まずその事実を認識することが必要でしょう。
知らず知らずのうちに、日本のサッカーは相撲に近づいている。
相撲は土俵で感情を表してはいけないと教えています。勝っても喜びを、負けても悔しさを表さないのが戦う相手に対する礼儀とされています。朝青龍が休場から三場所ぶりに復帰して優勝してもガッツポーズが非難される。
かつてトルシエが、試合前の選手から闘志が感じられないと指摘したのもこれが原因でしょう。トルシエは試合前に自らが選手に罵声を浴びせて闘争心に火を付けていました。みなぎる闘志は相手を威嚇し、自らの精神力を高めるのに、無表情では燃えているのか萎縮しているのかも読み取れません。
高校野球でもガッツポーズが解禁され、オリンピックでも喜びや悔しさを表現する選手が増えていますが、まだまだ土俵で感情を表してはいけない古来の礼儀は、日本のスポーツ界に影響を与えています。
相撲は土俵で感情を表すだけでなく、審判にクレームを付けることもできません。どんな競技でも審判に従うのは当然ですが「それは違う」の一言も言えません。不服の表情さえも非難され、審判には絶対服従の姿勢が要求されます。Jリーグで審判に歩み寄っただけでカードを出されたという選手がいますが、それが事実ならこの審判員は相撲の流儀で審判したのでしょう。
サッカーの審判も相撲に近づいている。
相撲は土俵に上がって仕切りを繰り返しながら闘志を高めます。ボクシングではゴングが鳴れば、すぐに相手を叩きのめせる精神状態でリングへと上がります。この差は大きい。試合開始早々と終了間際が日本代表の弱点です。立ち上がりに失点するのは、ピッチへ出てから闘争心に火がつくからではないでしょうか。
選手も相撲に近づいている。
大相撲はラジオ中継の開始(昭和3年)とともに制限時間を導入しました。それまでは互いの呼吸が合うまで延々と仕切りが繰り返され、いつ試合が始まるのか、それを選手に委ねた不思議なスポーツです。今でも行司は試合開始を合図せず、軍配を返してゲームが問題なく始まったことを知らせるだけです。奇妙なことに相撲では、立ち合いに敵と呼吸を合わすことになります。
日本代表が格下のチーム、特にディフェンスを固めているチームと戦うときに、相手のペースと力量に合わせて戦う癖があるのは、この影響ではないでしょうか。相手の裏をかいて試合を始めるのは、立会いの変化みたいに卑怯な戦法だと考えているようです。
Jリーグでも監督経験があるスチュワート・バクスターは「日本代表は相手のプレーに影響されている」「相手のことを考えすぎて受け身に立つと、日本はいい試合ができなくなる」(2月10日付け朝日新聞)と語っています。
こちらから貪欲に仕掛けず、受けて立つのは横綱相撲の美学ですが、格上に横綱相撲をとれば必ず負けるでしょう。
戦い方も相撲に近づいている。
相撲は立ち合いで「待った」が許されるスポーツです。外国人から見ると「待った」は理解できないはず、「待った」は立ち合いの失敗ですから「負け」でないとおかしい。
「待った」が許されるのは相撲とヘボ将棋だけ、競技者を思いやった優しいルールといえます。日本人はスポーツの厳しさを口にしても、負けても責任を糾弾することが苦手で、次の機会まで待ってあげる優しさを持っています。
ファンも相撲に近づいている。
もしもサッカーが相撲の影響を受けているなら、野球も影響を受けているはずです。MLBのどんどん投げ込むピッチングと比較して、日本のピッチャー対バッターの対決は相撲の仕切りに似ています。「見合って、見合って」と間合いが長くなるのでしょう。
そのための15秒ルールでしょうが、確実に野球も相撲に近づいています。
皆さんはどう思われますか?果たして日本のサッカーは相撲に近づいているのでしょうか。「こんなことはこじつけに過ぎない!」「馬鹿も休み休み言え!」単なる私の「勇み足」でしょうか。
でも日本人がFIFAのランキングを気にし過ぎるのは、相撲の番付表の影響だと思いますが…(つづく)
「まな板の上のオシム」より
http://manaitanouenoosim.web.fc2.com/index.html
posted by 直木 善久 |06:11 |
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2009年03月04日
―― 本日はこの企画のために、遠いところお運びいただき、誠に有難うございます。それでは早速始めたいと思います。よろしくお願いします。はい。お元気そうでなによりです。最近はどのような生活をされているのでしょう。
オシム 0時まで家の中をうろうろして、それから横になって3時間半ほど眠るんだ。そして目覚まし時計が鳴り、テレビの前に行く。(2003-10-01 Sportske Novosti)
―― 日本にいる時と同じじゃないですか(笑)でも元の生活に戻れたわけですね。日本の試合もご覧になっていると思います。現時点で最終予選二位の位置を確保していますが、完成された強い代表がまだ実現されていないように感じますが…
オシム 常により良いプレーを目指しているから、いつまでたっても実現できません。近づくことはできると思いますが。(2003-07-12 仙台戦後の監督会見)
―― なるほど。召集メンバーはオシムさんの頃よりも若くなっていますね。
オシム 現代の強いチームというのは、総じて平均年齢が高いものです。若い選手というのは何かを成し遂げようという野心を持っている半面、何かをぶち壊してしまう危険も持っています。ときとして確実性に欠けます。(2005-07-09 新潟戦後の監督会見)
―― と言いながらオシムさんも絶えず若手を試していました。
オシム 経験がないからといって招集しなければ、いつまでたっても経験は得られません。(2006/8/4 トリニダード・トバゴ戦メンバー発表会見)
―― 若手は可能性があるけど危険、ベテランは安定しているけど伸びしろが無い、ということですね。
オシム 選手にそんなにマイナスのイメージを持つことはありません。もっとポジティブに考えたらどうですか?(2004-04-10 鹿島戦後の監督会見)
―― はい。恐縮です。岡田監督はオシムさんの呪縛から逃れようとし、ファンもオシムさんが目指していたサッカーを見失いかけているような印象を受けます。せっかく日本人に合ったサッカーを提示していただいたのに…
オシム 日本の長所は、あくせく、すばやく動き回れる点です。体が小さい分、ぴったり厳しいマークにつくことができます。日本人としての特性を、自分たちのやり方で生かさないと、もったいない。体の大小など関係ありません。知恵と工夫次第では、弱点を利点に変えることもできます。(2004-11-16 朝日新聞)
―― はい。でもそれが実現できていない。どちらかというと選手に頼ったサッカーになっています。その選手達はピッチで十分アイデアを生かしているようにも見えません。
オシム コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けているから、選手にもそれが欠けてしまう。コーチが本や紙を見ながらやっても、選手には違う現象が起こります。その現象をコーチが判断する。サッカーはそういうスポーツです。コーチが変わらないと選手は変わりません。コーチも常に変わっていく必要があります。(2003-11-1 Soccer Clinic)
―― はい、そうですね。ところで、岡田監督はワールドカップベスト4を目標に上げましたが、この発言をどう思われますか。
オシム 不可能だと誰が言えるのか。(2009-2-19 Number)
―― 私はドイツ大会のときのように「夢ばかり見て後で現実に打ちのめされるより、現実を見据え、現実を徐々に良くしていくことを考えるべき」(2005-03-03 日本経済新聞)と言われるかと思っていました。
オシム この監督を評価している、あの監督は評価しないと言うのは醜いことだ。なぜならどの監督も何かしらの野心に燃えているわけだからね。(2009-01-15 クロアチアのユタルニ・リスト紙)
―― 私は監督自身が高い目標を掲げて自分にプレッシャーをかけたのではないかと思います。しかし出来もしないことを発言したなどと批判するジャーナリストもいて、監督にとってはストレスの元でしかなかったのではないでしょうか。
オシム 日本はヨーロッパよりもストレスが少ないですよ。監督にとっては楽です。ヨーロッパでは常にスタジアムに足を運ぶ観客の誰もが監督以上に監督の仕事を知っています。日本はそうではない。ここではミスが見られてないし、その回数を数えられることもありません。(2003-12-01 Sportske Novosti)
―― でもちょっと成績が芳しくないと、オシム復帰などと騒がれます。
オシム ジャーナリストは好きなように話すことができるし、書くことができる。それは彼らの権利だからね。(2006-06-01 Sportske Novosti)
―― ワールドカップに出場できても、リーグ一位の突破でないとだめだと批判されます。私は出場できればいいと考えていますが…
オシム 日本人は平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。これは危険なメンタリティーです。受け身過ぎます。サッカーの世界ではもっと批判に強くならなければなりません。(2003-08-07 Number)
―― なるほど。岡田監督も批判を恐れず、たとえ人気選手であっても構想から外れた選手を思い切って切るべきでしょう。海外でも試合に出ていない選手は呼ばない。
オシム 誰かを「不要だ」などと言う人間は、いつか自分もそういう立場に陥るようになります。人生とはそういうものです。その時、自分はどう感じるか、考えてみたほうがいい。(2004-11-23 朝日新聞)
―― はい。恐縮です。今日は最後までお叱りをうけているような感じでした。短い時間でしたが本当にありがとうございました。最後に岡田監督と日本代表に何かアドバイスを…
オシム 監督には監督の視点があり、選手にも選手なりの視点があります。だけど両者の考えがあまり開いてはダメなので、自分がやろうとしていることと、選手たちができることをしっかりと分析してすり合わせる。そのなかで選手たちに自由を与え、自分たち自身で試合をクリエイトできるようにしてあげる。その過程で、選手たちを信じることが監督として一番大事なことです。(2003-08-28 sabra)
―― 本日はありがとうございました。これからも一層のご健康をお祈りしています。
タイトルを見て期待された方、申し訳ありません。
オシムの動向もあまり伝わってこないし、オシムファンはこんなことして遊ぶしかないんです。
すみません。
でも、オシム語録はいつ読んでも面白い。
私はオシムの言葉を読んでいると「論語」を思い出してしまいます。
私にとっては「オシム語録」というより「オシム論語」、もしもオシムにインタビューできるなら、「論語」を読んだことがあるか訊いてみたい。
「まな板の上のオシム」より
http://manaitanouenoosim.web.fc2.com/index.html
posted by 直木 善久 |22:33 |
いつまでもオシム |
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