2010年04月09日

シドニーの自転車族

この10年、オーストラリア人の自転車所有熱は、車をしのぐ数の伸び率らしい。化石燃料の車100万台に対して、自転車は140万台を所有している。人口は、昨年の後半に2200万人に達した。人口100人あたり,まだ6.3台の普及だから、日本の2005年の人口100人あたりの68台とひかくすれば、かなり少ないとは言える。


しかし・・・・


通勤形態の手段として自転車を選択する人々の数は確かに増えた。2006年の自転車通勤は、通勤者全体の0.8%に過ぎなかったものが、2016年までには、通勤する人の5%が自転車になるとみられている。


2009年11月に、NSW州政府は、輸送計画の青写真にバイクを組み込むことで、ペダル・パワーの環境と健康と実益について、地域社会の意識向上を幅広く図ろうとした。



事実、これとともに、300-キログラムのバイクと2トンのセダンまたはハッチ型の自動車を利用する人たちの間で、拳を振りまわさんばかりの反目が起きた。



サイクリストは、「血流における病原と抗体の関係のように、車は道路上に集団で押し寄せ、われわれを取り囲み、鎮圧して、潰そうとする」と主張する。それに対して理解ある一部のドライバーからは、そうだ、その通りだ、という声もあがっている。



両方のグループは、サイクルコースが拡大するにつれ、安全のために、自ー自(自転車ー自動車)分離してほしいと夢見る。だが、NSW州自転車連盟のアレックス・アンウィン会長は、「サイクリングの急成長は、当然、自転車通路の拡大をもたらすと考える」と言う。



「我々は、基本的な転機に達している。10年前、自転車に乗ることは特殊な人の活動だった。しかし,いま、自転車が主流の活動になってきた。ますます、政府はこれは良い傾向だと考えている。シドニー市は自転車通路の拡充に投資をしてきた。現在、州政府は自転車計画に協力している。そして、今年は国のサイクリング戦略の見直しが行われれている」と、会長は言う。

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アンウィン会長は、サイクリングの成長には3つの理由がある述べた。



①健康的であること。  

②環境的責任を果たせること。

③座っていることより、交通の中を疾走することはよいこと。



「大きな成長の影には、通勤5キロ~10キロ圏内に住む人々が、市内は車が混んでいるので職場まで賢明で迅速な通勤方法として、自転車は最適だと見ていることが挙げられる」と、アンウィン会長は言った。


自転車走行も、以前よりは安全になっていることもある。「自転車利用者が増えれば、意識も向上する…そうなれば、道路も充実する。…それで、安全設備は整い、自転車に乗ろうとする人も増えていく」と、語った。



この夏、自家用車の背後にサスペンションをつけて、一家で自転車をぶら下げながら、旅をする光景が、いつもの年より多く目だったのも、社会的背景を裏付けている。


サイクリングの人気が急上昇するにつれて、2輪車に乗る人達の人種がおおまかにいって、5種族に大別されると、ある専門家は指摘する。



①健脚族(別名プランス・アームストロング族)

精巣腫瘍との闘病の後、ツール・ド・フランスで前人未到の7年連続総合優勝(1999年から2005年)を達成した、アメリカ、テキサス州出身の自転車プロロードレーサー、ランス・エドワード・アームストロング氏の名前をとって、プランス・アームストロング族ともいう。


軋轢とか恐怖などほぼ感ぜず、妄念にとり憑かれたようにペダルを漕いで疾走する人たちの足は、子牛革のように艶があり、英国のナインピンの木球のように固い。そして、自身の心の中に、常にツール・ド・フランスの世界がある。


市道や高速道路、町外れの道を走り回り、ダーリングハーストのカフェでカフェ・ラテを飲むためにだけ止まり、目を焦がすような黄色いプジョー・スパンデックスやライクラを着て、ひときわ存在感を示す。


ツール・ド・フランスの時には、テレビの前に動かない自転車の模型を飾ったりし、ピレネー山脈からパリまでのコースを画面で真剣に追う人たち。 シドニー市内で稼ぐ自転車のプロ・メッセンジャーは、すべて、この種族に属する。



② 固定族、またはオタク族

このグループは、屋内自転車競技場レースで使用される、オタク的固定ドライブ式自転車に乗る。 固定ドライブとは、シングル・ギアを意味する。全く真面目な話だが、しばしば通常のブレーキではない。


しばしばアゴヒゲを蓄えたこれらの変人?は、すべての障害物を予期して禅の悟り状態に入り、赤信号であってもまるで色盲のごとく薄笑いを浮かべて無視していく。 


この種族はひたすら走ることで停止することは気が進まないが、どうしても停止しなければいけない時や、色盲の如く走れない時は、固定族は後のタイヤを上げて、一種の扇動的ゼスチャーをし、かつ非”禅”状態のバニーホップしながら止めて、彼らのフロント・タイヤで道路を削岩するような形をとる。と言っても、自転車ごときでは、道路表面は削られることはなく、自分のタイヤが摩耗するだけなのだが。 


プロ・メッセンジャーのように、一瞬でも止まる場合には、彼らは、自転車のハンドルでくねらせて、8の字を書くようにようにして、絶対地面に足をつかないようにする。それはまるで、足を地につければ、プライドまで地に落ちるように思っているのか、まるでサメから噛み付かれないようする仕草をとるのである。傍じゃあ、そんなに思っていないよ。



③道路苦労族

鈍く光るドロップ・ハンドルのレーサーから、キシミ音をたてながらも年取った忠実な自転車乗りまで、あらゆる方法で乗っている毎日の通勤者のグループを指す。


彼らは、健康上の理由、/経済的理由、環境的理由、または交通機関に幻滅を抱いて職場に漕いでいく人たちだ。


あるいは、つむじ曲がりの動機で漕いでいる人もいる。いや、それが結構多いような気もする。または少しくらいあいつらに接触しても構わないと思っているようなシドニーの殺人的運転手に、ゲンコツくらい振舞ってやろうというつむじ曲がりや挑戦的に自転車を漕ごうという動機で乗っている人もいるかも知れない。


この種族の特徴は、微妙に調整できるな安全ギアを装備し、ギアに蛍光塗料を塗ってあったり、バックパックに光ものをつけ、ヘルメットの後にも光物、ヘルメットの前にはまさにヘッド・ライトをつけ、職場用の服をいれたバックパックを背負っていたり、伸縮性のある黒いショート・タイツをはいている。


そうそう、フリーウェーの中央を嫌味なほど遅さでうねりながら走るのも,この種族の特徴だ。「友よ、このレーンも俺のものだ」と言わんばかりに。




④バスケット族

この種族は、質素な自転車利用者で、実用的な使い方しかしない。


この種族は、 より古めのタイプの自転車に乗って、角っこの食料品店と自宅とを往復したり、近くのプレ・スクールに子供を迎えに行ったり。


自転車のハンドルの位置は高めで、そこに篭を取り付けたり、後ろに子供用の荷台をつけて赤ん坊を乗せたり、その取り付け方もちゃんと心得ている。


彼らは、アノラックを着て、仰々しく右手や左手で合図するのが特徴だ。ブルンブルン震える泥除けの上に、なぜか「車を1台減らそう」などというステッカーをお貼りになっているのですぐわかる。



⑤平場で漕ぐ初心者族

オーストラリア人が所有する自転車は、自動車より多くなった。この⑤番目の最大グループは、職場に、店に乗っていこうと考えてはいるが、実際はそうしない人々である。 アンダーカバーの最大勢力とでもいっておこうか。


別名を”スピンクラス@ジム”族とも呼ぶ。ドレスアップして、MTVの前か何かにあるジムで動かない自転車に乗る人達だ。


「会社終えて、必死で来たのよ~。走って。と受付のお姉さんに言ってみたけど、無理。だって自転車の数には限りがあるもんねえ。。」というタイプの人。



1時間、ぶっ続けで音楽に合わせて漕ぎまくり。。。。


インストラクターの指示に沿ってギアをチェンジし、圧を上げたり下げたり、立ったり座ったりして漕ぎまくる。。。ご苦労様と言いたい。


通常、外にでれば、車の運転手やバスの運転手から怒りを向けられるタイプの種族らしい。ジムの中でやってる分には問題ない。


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2010年03月26日

スポーツ と 天気

オーストラリアは、少しずつ秋に近づいている。
が、まだ暑い。

世界各地で、今年に入っただけでも、地震、水害など天災が起きている。

数日前、オーストラリアのパースでは、大嵐が二日間にわたって吹き荒れ、ゴルフボール大 の雹(ひょう)で、外に止めておいた車はぼこぼこにやられ、外に展示してあった自動車販売会社なども大被害を受け、値引きセールをやる始末だ。


屋外スポーツの世界も、グランドでやる以上、天候の変化を大きく受ける。 
今回は、スポーツと天気をテーマに、書いてみよう。


去年の9月23日は、オーストラリアはビッグ・レッド呼ばれた日だ。空が真っ赤 なことは、オーストラリアでは別におかしくない。綺麗な夕焼けは、誰でも見慣れた景色だ。しかし、朝から視界中がすべて、真っ赤なのだ。朝焼けではない。 レッドセンターと呼ばれるオーストラリア中央部の赤土地帯から、赤土が西風に乗ってやってきたのだ。

ナショナル・ラグビー・リーグのクロヌラ・シャークスの選手が、歴戦の記録を収めたトロフィーのキャビネットを開けて驚いた。1997年のシーズン最終戦の翌朝以来、朝からこんなに埃っぽいことはなかった、という。なにしろ、深呼吸をする気になれないほどの砂塵 だ。深呼吸どころか、普通の呼吸ですら、息を吸えば、砂塵が入ってくる。


シドニーとブリズベーンでの競馬は中止になった。人間は強い。この真っ赤な砂嵐の中、オーストラリア・フット ボール・リーグのパラマタ・イールズは、翌日の試合に備えて、午後遅く、この真っ赤な砂が舞う中、走りの練習をしたのだ。とても、目を開けていられる状態ではなかった。


しかし、クインズランド州のアルビオン・パークとイプスウィッチでの2箇所のグレイハウンドレースは中止と なった。犬の都合か、観客の都合かわからない。 


この砂塵の舞った日は、ウィークデーだったので、スポーツ選手と生徒は最も影響を受けた。NSW州カソリック・カレッジとトンガの男子学生チームのラグビーの試合がペンリスで行われたが、オリンピック・パークのあるホームブッシュ・ベイで行われる予定だったハイスクール大運動カーニバルは延期された。砂塵が収まり清浄されるまで、待機せよとの通報がだされた。


すべての禁止通達のなかで、最も破壊的だったのは、ニュー・サウス・ウェールズ州教育省が、どんなスポーツ、PE レッスン(体を使う授業のこと)もしないようにとお触れを出したことだ。これは、すべてのやる気のある児童から登校する願望を奪ってしまった。休憩時間にフッ トボールもだめ、クリケットもダメ・・となったから。


【ラグビー】
2006年のスーパー14のファイナル。 クルセイダーズ(ニュージーランド:クライストチャーチ市)対ハリケーン(ニュージーランド:ウェリントン市)の試合は猛烈な濃霧だった。ジェイド・スタジアム(現 クライストチャーチのAMIスタジアム)で、クルセイ ダーズはハリケーンに勝ったようだと、皆は思っている。でも、誰も確かなこと はわからなかった。それは、霧で誰もはっきり見えなかったからだ。状況は滑稽であっ た。ワン・トライだけはたしかに記録されたのだ が、結果は19-12。すべては選手 と審判のみが知る幻のスコアだった。


【ラグビー・リーグ】
2000 年にオーストラリアの首都のキャンベラ・ス タジアムで、リーグ初のトップ争いが行われたが,グ ランドは雪の中でアイスリンク状態になった。結果は、キャンベラ・レイダーズが、ウェスト・タイガースを24-22で破った。ある記事では、あまりにも寒 かったので、ストリーカーでさ え服を着ていたと書く。この国は、裸でグランドを回 る観客が時々登場するので、そのことを言っている。しかも、この時の観客数は7384人だったという。
で も、記事では、入場者数は、そのようなひどい天気の中で予想されたより7384人多かったと書いた。面白い記事だった。本当は、誰もこないと踏んで いたのか。この時の選手には、凍傷の症状が出た。レイダーズのマル・メニンガ監督は、普段は冷たい水を配るトレーナー が、選手の体をほぐすためにお湯をあげてたよ、と言っていた。トンガ出身のタイガーズのジョン・ホポア テ選手は、雪を一度もみたことがなかったと感激していた。


【クリケット】 
2002年。フェンスを越え て山火事が迫ってきたシドニー北部100キロのセスノックのクラブ・ク リケット選手は、ボウラーと一緒に歩き続けたが、こ の時カメラマンが撮った写真が優秀賞を獲得した。迫る火勢に悠然と歩く選手のシルエットを撮ったものだ。
だが、昨年、クリケット史に残る珍しいことがおきた。テスト・マッチの日、蜂の群れがインドのデリーを襲い、クリケット・グランドにもやってきた。インド代表チームと、オーストラリアのバットマン、マシュー・ヘ イデンとリッキー・ポンティングは、 審判のアリーム・ダールとビリー・ボーデンの指示で、全員が芝生の上に手足を伸ばして伏せた。もちろん指示した審判員も。この写真を見たときに、私は、雷 が襲ったのかと思った。


【テニス】
オーストラリアのプロ・テニス選手トッ ド・リードは、2004年に、アルメニアのサルギス・サルギシアン選手との5セットのゲーム 中猛暑にやられ、ボーダフォン・アリーナでとことん吐いてしまった。
さらに、これまでのどの選手より汗っかきのパッ ト・ラフター選手は、2001年、アンドレ・アガシ選手との準決勝で、テニス・シューズが汗でビッショリ濡れ、ワン・ステップごとに、長靴に水が入ったようにキューキュー音を立て始めたのだ。ファッションショーのごとく何回もシャツを着替えてはプレー したが、結局、ラフターは、5セットで負けた。その後、彼は点滴でしばしの時を過ごした,と聞いた。
いずれにしても、異常な天気は、いろいろなところで、スポーツに影響を与える。だからこそ、負けた時の言い訳にはなるのだが。(完)

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2010年03月19日

未来の日本代表に卒園式で出会った

昨日、息子の卒園式に。

2クラス、計44名の園児たちが一人ひとり名前を呼ばれると「はい」と元気な返事をして、「僕は大きくなったら○○になりたいです!」と自分の将来の夢を言ってから園長先生のところへ。

園長先生から卒園証書をもらって振り返り、母親のもとへ言って「毎日美味しいお弁当をありがとう!」など母親へお礼してから着席。
中には色々な想いがこみ上げたのか泣き出してしまう園児も。

そんななか、スポーツって凄いなぁ。メディアのチカラって凄いなぁと改めて感じたことが・・・

卒園する子供たちの夢にはバンクーバーがきっかけになったと思われる夢がいくつか。
「僕はおおきくなったらボブスレーの選手になりたいです」
「僕は大きくなったらスノボの選手になりたいです」
「僕は大きくなったらスピードスケートの選手になりたいです」

昨年、同じ幼稚園を卒園した娘の卒園式では全然出てこなかった夢。


ボブスレーいいねー! 都内のどこでやるんやろ?

なんて思いながらこの子たちがスポーツに触れる機会をもっとたくさん創れる社会にしてあげたいと思いました。


今回のバンクーバーオリンピック、パラリンピック出場者には長野出身と北海道出身選手が多いと現地取材に行かれた方から聞きました。


長野五輪、札幌五輪でまだ子供だった彼らですね。

身近にトップアスリートの戦う姿を観て、その競技をやる環境が近くにあったことが少なからず影響しているのだろうな。



今回のバンクーバーでは、派遣を見送られた選手、競技がいくつかありました。理由は色々あるのでしょうが、年間人生をかけて準備してきた選手が出場さえできないことで次の世代がついてくるだろうか?


日本のスポーツや次の世代を育てることを考えると決して良い判断ではなかった。 と感じて欲しい。

オリンピックの時しかそのスポーツに触れる機会がなく・・・その瞬間だけをみて結果を求めてしまう・・・そんな状況を変えていくためにももっと情報発信を積極的にしていかないと。

posted by buruta |09:21 | buruta | コメント(0) | トラックバック(0)
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2010年03月16日

ロニーのアンダーシャツにはマデイラと書かれていた

ロニーとは、言わずと知れた クリスティアーノ・ロナウド・ドス・サントス・アヴェイロのことだ。 

超有名選手だから、ロナウドのことは詳しい人が多いと思うので、ロナウドとマデイラのつながりだけをご紹介しておこう。


1985年2月5日、クリスティアーノ・ロナウド(人はロナウドと書き、発音するが、彼の故郷フンシャルやリスボンでは「ロナルド」なんですけどね)は 大西洋に浮かぶポルトガルのマデイラ島最大の街フンシャル(マデイラ自治領の首都)に生まれる。


家族は両親と兄1人、姉2人で、ロナウドは末っ子である。父親のディニスは公務員として働きながら、地元のアンドリーニャというサッカークラブの管理を 手伝っており、ロナウドはこのクラブで6歳の時にサッカーを始めた。


4年後の1995年にCDナシオナルに入団。この頃からロナウドの名が広まり始めた。一年後にスポルティング・リスボンのスカウトを受けて、母親と共に リスボンへ移住。


一方サッカーでは急速な成長をみせてユースを駆け上がり、2001年9月29日のS STAR戦で17歳にしてプロデビュー。以降25試合に出場し、クラブ史上最年少ゴールも決めた。


私もロンドン時代、何回かマデイラ行きを計画したが、ついぞ果たせなかった。その人気のリゾート地、大西洋のポルトガル領マデイラ島で今年2月20日、 前夜からの豪雨で土砂崩れが発生し、記録的豪雨による洪水で42人が死亡し、120人が負傷した。行方不明者は数十人とみられている。


ロナウドの故郷である中心地フンシャルなど同島南部では土砂崩れと浸水で、道路や家屋に大きな被害が出た。泥水の勢いで横転した車や倒木が見られ、フン シャル市内では住民が軍の施設などに避難した。


マデイラは空前の土砂崩れで大被害を受けた。何百という人々が家を失った。ロナウドは、マデイラ島でチャリティの試合をすると発表し、救済事業に一役 買ってでた。彼は、ユニフォームの下の着るシャツに『マデイラ』と書いて、ひそかに故国の人たちと苦しみを分かち合っている。そして、彼の所属するレアル マドリッドが最近ヴィジャレアルに勝利した時、ユニフォームをまくって見せて、故郷にエールを送った。


「あそこは私が育った所、私の家族が住んでいる所だ。テレビで見たけど、信じられなかった。自分ができる方法で、何でも助けたい」と、ロナウドがその時 に言った。


このフットボールの巨星は、実は西オーストラリア州とつながっていることがわかった。


10年ちょっと前、ロナウドが10代のとき、ロナウドのお爺ちゃん、お婆ちゃんは、子どもたちのいる西オーストラリアに行って新しい生活をすると言い出 し、十代のロナウドは祖父母にさよならを言った。


ロナウドの母マリア・ドローレスは、その時、両親や兄弟に加わらず、マデイラの旧市街フンチャルのこじんまりした家に留まることを選んだ。そして、十代 の息子クリスティアーノ・ロナウドは、ポルトガルの原動力と言われるスポルティング・リスボンで実力を発揮した。ドローレスはマデイラでまだ生活をする一 方、彼女の両親、兄弟は、以来パースの郊外ヤンゲバプに定住したままだ。そこでは、世界で最も有名なフットボール選手の身内が、実はすんでいるということ は殆ど知られていない。


ロナウドの家族は、オーストラリアには合流しないかもしれないと思っているようだ。しかし、彼は、しばしばオーストラリアにいる家族たちに思いを馳せるらしい。4年前、彼は、彼が率いるポルトガルの試合をみてもらおうと、パースにいる祖父母、マリア・アンジェラさんとホセ・スピノラさんを、ドイツに呼び寄せたという。この4年前のワールドカップ・ドイツ大会では、ポルトガルみごと4位になった。


「フットボール・・・ロナウドは大好きだね。そして、彼は勝つことが好きなんだ。彼は非常に忙しいから、あまりたくさん話でないよ」と、ロナウドの伯父 アレックス・ヴィヴィエロスは話しているという。


パースの人々は、あの有名なフットボール選手が自分の甥に当たると言っても、誰も伯父さんの話は信じなかったらしい。しかし、話はゆっくりと広まって いった。


要するに、ロナウドのお爺ちゃん(81歳)、お婆ちゃん(80歳)には、なんと13人の子供たちがいた。そして、そのうち4人が両親とともにパースで暮 らしている。


パースのポルトガル領事館によれば、西オーストラリア州のポルトガルの人口は8000だ。そのうち、マデイラ出身が85パーセントを占める。マデイラ出 身の人は、1950年代にかなりの数が、移住してきた。そして、多くは漁師としてフリーマントルに定住した。


2月の土砂崩れで、幸運にもロナウドの親戚は生き残ったが、この災害はオーストラリアのロナウドの親戚にも大きな影を投げかけている。


もしロナウドが、お爺ちゃんお婆ちゃんのいるオーストラリアに移住してきて、国籍をとったら、どんなことになるのだろうか。ありえない話だが、可能性ゼ ロではないだろう。

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2010年03月05日

アジアカップ出場へ オーストラリア 1-0 インドネシア

オーストラリアは、3日、ブリズベーンで行われたAFCアジアカップ最終予選で、1-0でインドネシアを破り、アジアカップ、カタール2011の出場権を 獲得した。


サンコープスタジアムのピッチは、ブリズベーン地方に5日連続の大雨が降ったにもかかわらず、驚くべき整備だったようにみえる。その連日の雨の中、 20,422の観衆が駆けつけた。ファンとはありがたいものだ。そして、濃紺を主体とした新しいデザインのユニフォームで登場したサッカールーズ。引き締 まった感じを相手に与えたのではないか。


オーストラリアのスタメンとサブスティチュートは次の通り。ユージン・ガレコヴィッチ、シャノン・コール(72分マット・トンプソンと交代')、マーク・ ミリガン、サイモン・コロシモ、スコット・ジェミソン、ジェイコブ・バーンズ(89分にデイヴィッド・ウィリアムズと交代)、ルーク・ウィルクシャー、マ イル・ステリョフスキ(45分にマット・マッカイと交代)、主将ジェイソン・カリーナ、トミー・オール、ジョシュ・ケネディという布陣だ。


マーク・ミリガンの国際試合初ゴールであげた虎の子の1点を守って、サッカールーズが一丸となった。前半40分は、フラストレーションが溜まったが、サン コープ・スタジアムの観衆の前でいい試合を見せたのではないかと思う。


サッカールーズの勝利で、ポイントは11となり、オーストラリアはB組
のトップに躍り出た。クェートは8ポイント、オマーンは7ポイント。一方インドネシ アは、最終予選では、3引き分けで最下位で終了。


Aリーグ主体のチーム中で、海外組みは3人だが、2006年ワールドカップメンバーのミリガンには冷静な判断とツキもあった。ミリガンが、42分ルーク・ ウィルクシャーのフリーキックのリバウンド・ボールを蹴りこんで、出場権をものにした。しかし、インドネシアの3に対してオーストラリアのゴールショット は22であり、もう少し点が入っておかしくないところだ。


オーストラリアのボール占有率80%をみると、やはりインドネシアには冴えがなかった。サッカールーズのここ数試合のなかで、この試合が一番安心してみて いられたのは、この圧倒的なボール占有率に他ならない。インドネシアのキャプテンでストライカーのバンバン・パムンガスにも、これだけボールをとられて は、見せ場は作れなかった。


オーストラリアは80%近いボール占有率で圧倒しわけたが、その割にはゴールは一つだった。後半に入ってからも追加得点のチャンスが多数ありながら、得点 できなかったのは、ひとつは、ストライカーのジョシュ・ケネディの拙攻にある。


ケネディは、5分に二つのへダー(ヘディングシュート)をミスしたことと、国際デビューのトミー・オールの放ったクロスをインターセプトして、後ろで待ち受けるウィルクシャーへ つなぐチャンスを逸したことなどだ。


ジョシュ・ケネディはまるで当たらなかったが、カリーナ、ウィルクシャーとコロシモにはきわだったものがあった。キャプテンのジェイソン・カリーナは何回 もロングシュートを放って、GKのマーカスを揺さぶったが、真正面すぎたりして、得点にはいたらなかった。


右アタッカーのマイル・ステリョフスキは前半さえないプレーで、ハーフタイムでウィルクシャーが上にあがり、MF強化のためにステリョフスキを下げて、 マット・マッカイを投入した。ステリョフスキには、問題が残った。サイモン・コロシモは、ミリガンのゴールの後、果敢にヘディングを試みた。決まるかにみ えたが、GKのマーカスの美技に阻まれリードをチャンスをふいにしたが、ついていなかった。ジェイコブ・バーンズはがんとしてボールを獲りに行った。そし て、マット・マッカイはハーフタイムから登場して好印象を残した。


ミリガン(ジェフ・ユナイテッド市原・千葉)は、ウィルクシャーのクロスを肩で受けてクロスバーに当たったリバウンドボールの行方を冷静に みて、きわめてタイトのアングルから至近にいたGKマーカス・ハリソン・リヒヒナへ蹴りこんだ。ローアングルでボールはGKマーカス・ホリソンの足を通過 してそのまま勢いよくネットへ。ほめられて良い。


「とにかく、オーストラリア代表チームのためにあげた私の最初のゴールだ。ボールがクロスバーに当たって自分のほうに運よく落ちてきたのでラッキーだっ た。そうそう、こういうツキはあるもんじゃない。我々は、明らかに、あの一瞬が好きなんだ。我々は、チームとして守りは固かった。明らかに、もう一つの ゴールがほしかった。しかし、我々はインドネシアが固い守りをし、ボックスを守っているのもわかっていた。アジアカップに出場できるのはうれしい。それが 一番の問題だったから」と、ミリガンの声が弾んだ。



ミリガンは、この予選はFIFAワールドカップの前に働きを見せる最後のチャンスであると、みずから語っていた。彼は、国際試合初ゴールでその言葉を実現 したことになる。


「サッカールーズでの初めてのものなので、私は有頂天だ。選手はタフだった。決して楽な状況ではなかった。湿度はすごかったし、ピッチは重かったので、本 当によく戦ったと思う」と、彼が言いました。

地元の若手トミー・オールは国際舞台で攻撃的デビューをした。


見慣れない三桁のジャージナンバー121 。オールは速さと見事なまでに器用なフットワークで、ライバルを圧倒した。しかし、デザインを変えたサッカールーズのユニフォームと同じように上品であっ たし、それ以上に力強かった。


彼の力あふれんばかりのパフォーマンスは、結局レフェリーの目にとまり、インドネシア選手のジャージを掴んでイエローカードをもらってしまった。


ロスタイムで放ったゴールショットは残念ながらセーブされたが、これが決まっていたら、劇的なデビューになっていただろうが、プロの世界、やはりそうは簡単に問屋が卸さないものだ。


トミー・オールのプレーについて、ミリガンは簡潔だった。


「あいつは稲妻のようだ」と、彼は、驚いていた。


国際デビューを飾ったトミー・オールとシドニーFCのDFシャノン・コール(2人とも19歳と18歳だ)の、雨の中での見事な活躍は、今後 大きな戦力になることを十分にうかがわせた。フェルベーク監督が選んだ久々のヒットである、というと叱られるか。



フェルベーク監督は、シャノン・コールを72分でベンチに下げた。


「私は、あまりにたくさんの圧力を若手にかけたくなかった。彼は素晴らしいゲームをした、そして、私はあなたがこういうことができる若手の選手がいること が、オーストラリアのフットボールのために素晴らしいと思う。彼は、今年、信じがたい長足の進歩をとげた。ゼロから出発で、クイーンズランド・ロアーでプ レーし、代表チームに選ばれて、このようにすばらしいゲームをした。それは彼にとってはすばらしいことだ。そして、どうか圧力を彼にかけ続けないでほし い。普通のの18才の少年として育ててほしい。私は、それが大切なことであると思う」と、フェルベーク監督は試合後話した。



1ポイント、つまり引き分けで十分とはいえ、この試合を引き分けで行こうと考える選手はいない。長く苦労した最終予選だっただけに、この勝利はオーストラ リア・サッカー界を元気づける勝利だった。インドネシアが相手であったとしても、 Aリーグが国際的標準をなんとかクリアしたと考えていいのではないか。


対オーストラリア戦でインドネシアの最後の勝利は、1981年のワールドカップ予選である。インドネシアの30年間の勝利無しは、辛いものがあったのでは ないか。


インドネシアはゴールを取りに行ったときでも、チームがペースをつかめず、パムンガスやブディ・スダルソノのアタッカー組みとの連携が悪く、2人とも殆ど 有効な動きがとれなかった。


インドネシアは元気だったが、それ以上のものではなかった。インドネシア側で、担架が前半だけでも4回も運び込まれたことは、それをよく物語っている。ア ウェーのインドネシアにとって、これはダメージコントロールの課題でもある。(終わり)

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2010年03月03日

アジアカップ最終予選 今晩

勝たなきゃだめ」とルーカス・ニール


サッカーワールド・カップまで100日を切った。今晩の対インドネシア戦(ブリスベ ン:サンコープ・スタジアム)は、精神的にもサッカールーズにとって、大事だ。
サッカールーズのキャプテン、ルー カスニールは、本日のインドネシア戦に先立って、ピム・ フェルベーク監督にメッセージを送った。「われわれは、勝つ必要がある」と。


アジアサッ カー連盟が、今日水曜日を、FIFAの指定する国際試合の日に出来なかったために、フェルベーク監督だけではないが、チームの中に、予定した良い選手を入れることができなかった。

しかし、ニー ルは、「今回のインドネシア戦に勝って来年のアジアカップ出場権をとれば、選手自身がワールドカッ プ代表チームへの選考も含めて、フェルベーク監督のスポットライトが当たることになる。私は、彼らがやってくれる (勝つこと)と思っている。 われわれは、勝つ必要がある。我々には、後がない。アジア・カップはオーストラリアにとって非常に重要だ。私は、彼らが立派に仕事を果たしてくれると確信 する。彼らの何人かは立派な仕事をし、多分ワールドカップにもみごと選考される機会になるだろう。ワールドカップ出場のための選手選考は終わっていない。 誰かがブリズベーンで頭角を現すと期待したい。良いプレーをし、フェルベーク監督の最前線に出る絶好のチャンスだ。その時が来た」と、トルコから声援を送る。


レベルは違うが、今日の試合には、Aリーグの監督が、選手の品定めに、数人が来るらしい。そういう点でも、各選手、全力を出してほしい。


来年1月にカタールで開かれるアジアカップ決勝戦に出場するためには、オーストラリアは、ホームでのドローが必要だ。


今回もサッカールーズの主体は、Aリーグ所属の選手だ。昨年行われた豪ーインドネシア戦では、ジャカルタで0-0の引き分けとなっている。


その中にあって、ヨーロッパをベースとする選手は、新シーズン開幕直 前のディナモ・モスクワ所属のMFルーク・ウィ ルクシャーだけだ。


「ヨーロッパ在籍の選手は飛んでいって参加することができない。経験の少ない選手とウィルクシャーのような二~三の選手に頑張ってもらう しかない。サッカールーズの強運を祈る」と、ニールは声援を送る。所属するガラタサ ライは、先日の日曜日に、4-1でライバルのカシンパサを破った。


そこで、期待を一身に集めているのがルーク・ウィルクシャーだ。


5年間、サッカールーズに名を連ねるも、一度もゴールあげたことはなかっ た。今晩、ブリズベーンのサンコープ・スタジアムで、2011年のアジアカップ最終予選、対インドネシア戦が行われるが、ハットトリックを出しそうな勢い のルーク・ウィルクシャーである。


11月 の対オマーンで2-1の勝利。その後の今年1月の対ク ウェート戦での2-2の引き分けでは、いずれもウィルクシャーが得点 した。オーストラリアとしては、もっと早くアジアカップ決 勝出場を決めたかったところだが、サッカールーズが必要とする点をたたき出してきたのは、ダイナモ・モスコーのMFルーク・ウィルクシャーである。


彼は、フェルベーク監督のマスター・プランの海外組みの3人の一人である。後の2人は、ジョシュ・ケネディとマーク・ミリガンである。アウェイのインドネシア戦に、ウィルクシャー(28) は多くの責任が彼の肩に、彼の足と頭脳にかかっているということを認識している。


彼自身と数少ないストライカー、ジョシュ・ケネディへ注目が注がれているわけだが、ウロンゴン出身のウィルクシャーは、いや増す責任と重要性をおくびにもださない。


先週のキャンプでは、重要なMFを固めるために、いつも通りライトバックから出たウィ ルクシャーは、ハットトリックも十分ありるかなという動きを見せたらしい。


「僕だって他の選手のように、得点するのが好きだ。僕がクウェート戦でやった左足ボレーは自分にとっては全く普通のことではなかった。現実問題として、そうだ な、我々が試合に勝ち続ける限り、私が自分のキャリアの中でサッカールーズのためにさらに得点できなくても満足だ。チームが勝ち続けることが、僕にとって はるかに重要なことだ」と、彼が言いました。


ミドゥルスブラから、 ブリストル・シティ→トゥヴェンテを経由してモスクワの富裕クラブ、ディナモ・モスクワへの経歴は、 宣伝嫌いなウィルクシャーは、どんな称賛も受け付けない典型的に地味な選手である。


この1月に3年 の契約を交わしたウィルクシャーは、こう言った。「試合で うまくなっていくために、一生懸命やらせてもらう。そして、私は多分そういう考え方の人間だ。その秘訣は、絶えず上にいきたい、少しでもうまくなりたい、チャンスがくれば生かしたいという願望を 持っているからだと思う」


端役の選手から、2006年のワールドカップではフース・ヒディンク監督から人を引っ張る選手に抜擢されたが、ウィルク シャーは過去を振り返ることはしなかった。


彼は、インド ネシア戦で、ゴールドコースト・ユナイテッ ドのジェイソン・カリーナとキャプテンの地位を争うまでに なった。それは、自分で願っていないことかもしれないが。


キャプテンの腕章が彼を興奮させるわけでもないし、かといって、その腕章が彼の心を乱すわけでもない。


彼は言った。「そのことはそれほど心配することではない。僕は、戦える状態ができているようにと集 中している。キャプテンが回ってきたら、それはもちろん大きなボー ナスだ」


ゴールをあげられなくても、ライトバックに配置されれば、ウィルクシャーは、正 確なクロスと敵を出し抜く鋭い走りは有名だ。


ゴールができなくても、彼は長身の殺し屋、ジョシュ・ケネディにボールをまわして、インドネシアのディフェンスに高さを取れるようなチャンスを作れれば、彼は満足だ。


ウィルク シャーは、こう話した。「ジョシュは僕のの長所を知っている。僕は、彼の長所を知っている。我々は、お互い良く分かり合っている。彼は、チームに一味違うものをもたらす。彼にはチームの他の 誰も持っていない高さの才能を持っている。僕がボールを正しく入れられれば、彼はそこにいる、そういう人だ」


今晩勝利し て、アジアカップ出場資格を確実にして、モスクワに戻るか・・・ルーキーさん。いいとこ見せて頂戴。ロシアのサッカー・シーズンは3月中旬から始まる。

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2010年03月02日

豪日交流 七人のブルー子サムライがやってきた(下)

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七人の侍  といえば、歴戦の武士島田勘兵衛、勘兵衛の右腕片山五郎兵衛、勘兵衛の最も忠実なる家臣。何時もその影のように付き添う七郎次、苦境の中でも陽気な浪人林田平八、凄腕の剣客、兵法の鬼といわれる久蔵、半人前の浪人岡本勝四郎、勘兵衛に自分が侍だと思われたいがために他人の家系図を勝手に盗んで名乗った菊千代をさすが、こちらは、可愛い七人の子サムライだ。

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①波塚 陽介くん 小学校4年

「一番最初の日の練習が一番辛かった。飛行機に乗ってきた後で、体がなまっていたから。僕はホワードが好きなんですけど、TOCのチームを作って、オーストラリアのチームと戦ったことが一番楽しかった。皆頑張って、高校生にも勝ててよかった。ホームステイは楽しかった。2ヶ国語を話せる人がいて、英語でこれは何ていうのと聞くと教えてくれて・・・また、来たい。試合に活躍して、サッカー選手になることを目指します。シュートの威力というのが、勉強になった。勉強が難しくなっても、サッカーは続けていきます。ありがとうございました。」


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②本橋 周馬くん 小学校4年
「好きな科目は、体育です」

―成績いいの?
「はい、全部、2重丸。『大変良い』・・です。オーストラリアにきて、技術がちょっと上がったと思います。フェイントが勉強になった。オーストラリアの人たちはうまかった。日本の人が使わないフェイントがみられた。ホームステイは楽しかった。ご飯食べる時も楽しかったし、家に犬もいたし、プールもあったので、また来たいです。食べ物が日本と違うので、合わなかった時もありました。これからは、スピードをつけたり、技術を一歩一歩進めて、プロになっていきたい。世界の選手では、フェルナンド・トーレス選手が好き。初めての海外で、緊張していたけど、オーストラリアは自然がいっぱいで、景色もよかった。サッカーもうまくなったから、来てよかった。また、来たい。ありがとうございました」


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③杉山 豪希くん 小学校5年

―いつも笑顔ですね。
「ありがとうございます」
「こちらへきて楽しかったのは、日本グループとオーストラリア・グループで対戦できたことです。負けは無しで、勝ちと引き分けだけでした。

―オーストラリアの人と話をしてたでしょ。
「そう、名前や年を聞いてたんです。そしたら、あちらが、イチ、ニ、サン、シと日本語で言って・・。英語で伝えるのはむずかしかったけど、ジェスチャーを使えばなんとか伝えられるとわかったこと。」

「サッカーで勉強になったことは、オーストラリアの選手と組んだときに、コミュニケーションが大事だということがわかったことです。」

―キャンプにきたオーストラリアの人のテクニックで目を引いたのは?」
「えーと、マルセーユルーレットを使ったり、体で当ててドリブルしてきたり・・勉強になりました」「体では負けませんでした。」
「ホームステイは楽しかったです。泊まってよかったです。家の人がとてもよくしてくれました。」

―日本に帰ってからやらなきゃいけない課題は?」

「オーストラリアに来てサッカーやったら、みなからだ強かったから、ちょっと負けた時もあったので、もっと体を強くしたい」

― 一番恥ずかしがりやって聞いてたけど、楽しそうにやってたよ。
「あ、そうですか? ありがとうございます」


④梅田 至 くん 小学校6年

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「今度来て一番勉強になったことは、こちらの人は体が強いから、もっと鍛えたほうが言いと思いました。相手の人は体はめっちゃくちゃつよかったけど、日本対オーストラリアの子ども同士でやった時は、勝てました。とても楽しいキャンプだったです。」

―自信につながるかな?
「つながります。」

―今回きてよかった?
「こちらの人とサッカーができたことと、こちらの人の家に泊めさせてもらって、とても楽しかった。テンションがたかくて、家にプールがあって、泳ぎました」「日本に帰ってからは、パスもらってから出すのがおそいこと、走るのが遅いので、皆より倍以上の練習をして、頑張りたいです」

―コーチから言われたことで、一番頭に残っていることって何?
「えーと、練習をちゃんとやっていなくて、上から下に1個落とされました。ショックだった。」

―お父さんお母さんに会って最初に言いたいことは?
「ホーステイの人に親切してもらったことです。また来たい」


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⑤大竹 晃平くん 小学校6年
「中学校に行ってもサッカーはやります。好きなポジションは、フォワードかな?」

「今度オーストラリアにきて、日本では経験できない体格の差を実感できました。当たりが日本人よりも激しかったです。世界の人とやると、体格も違うし、プレーの仕方も違うので、よく考えてプレーしないと、ボールを取られたり、負けたりするということが一番勉強になりました。今こともするんだ・・ということもありました。そういう風に今まで分からなかったことも分かったし、もっと考えてやらなきゃいけないんだということもわかったし、自分のいけなかったところもわかったし、だから、オーストラリアに来てよかったと思います。」

「ホームステイは、家族の人がやさしくて、よかったです。」「オーストラリアの人は負けたくないという気持ちの強さを感じました。だから日本でも、そういう強い気持ちをもてるようにしたい。と思います。視野の広い選手になりたいです。」


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⑥板倉 達弥くん 小学校6年 好きなポジションMF
「オーストラリア人とサッカーで来たのが、一番楽しかった。全部が勉強になりました。オーストラリアの人は、個人技もすごいし、シュート力も強いので、そういうところを、自分で日本で勉強しようと思いました。来たかいがありました。」「体の大きい人もいたけど、でも、負けませんでした。」

―コーチからいわれたことで、一番頭に残っていることは何?ですか?

「次の動きを考えろ!ということです。パスした後、次は何処に走るかとか・・です。」

―体育の時間にサッカーやることありますか? うまいほうでしょ?
「はい(と、はにかむ)」

―中学に入ってもサッカーやるんでしょ?
「はい、クラブチームに入っています」

―また、オーストラリアに来たいですか?
「もちろんです」


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⑦下澤 悠太くん 小学校6年 好きなポジションMF
―今度のキャンプで一番勉強になったことって、何ですか?
「日本と違って、プレッシャーが早いことです。」

「今度来てよかったと思うことは、オーストラリアの人とサッカー出来たことです。これが一番うれしいです。外国の人とやったのは、初めてです。」

「ホームステイは優しくしてくれたので、気軽に楽しめました。行く前は緊張していましたが。」

「これからの自分は、もっとテクニックを磨いたほうがいいな、と思います。例えばシザーズとか、抜いた後の次の動き安堵を、もって磨きたいです。」

―コーチから教えてもらったことで、一番頭に残っていることは何ですか?
「『やる気があるのか!』と言われたことです。」

―言われた時、どう思ったの?
「いや、びっくり!日本では、言われたことありませんでした。」

―日本に帰ってから、ご両親に最初に言うことは?
「多分、『ただいま』です。そのあと、『オーストラリアは楽しかったよ』っていいます」

―よかったね、また来てください。
「えっ、いいですか?」


心地よい手ごたえ!Beyond the Camp
日豪対戦は、3日目にはじめてやって、ジュニアの部門で圧倒的に強くて、これはシニアとでもできるかなと・・。練習を個々でみているとそれはあまり感じないのですが、日本人として揃うとつよくて、最終日はシニアともぶつけて、結構ボロ勝ちしました。最後はシニアも本気になって、これはやばいことになりそうだときづいたんでしょう。ハンデをつけてあったのですが、ハンデもお構い無しになってきて・・・TOCの子は圧倒的にうまかったです。ポジショニング、ボールが無いときの動きとか・・オーストラリアの子は、まだまだだと感じました。

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ホームステイ先のお母さんからも、日本のこどもたちのマナーがよくて、帰ったら、日本のご両親に誇りに思うべきだと思います、とちゃんと伝えてくださいと頼まれています。子ども達の評判がよかったせいもあって、逆はいつ実現するのかと、親たちから言われています。自分の子ども達を日本につれていきたいんだけど・・というような声が強いです。「サッカーがユニバーサル・ランゲージと言われる所以です。来年もまたやりたいです」と、“来年度”に大きく夢を広げる。

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TOCも新年度は、現在30人の生徒を50人か60人に拡大することを検討している。子どもの評判の良さとは全く関係なく、彼は、帰国当日、小学生に二つのことをさせた。ホストファミリーに手紙を書かせた(写真下)。日本語を英語にしてあげたのも、彼だった。さらに、子ども達の親にも手紙を書かせた。大事なことである。感謝の気持ち、報告・・・親から離れたときに何をすべきかを教えたのである。子どもが書いた手紙は、やがて彼らの”決意”へと昇華する。前進させるためには、中心の車軸がしっかりしていれば安心だ。

buruta-144934.jpg人のために灯(ひ)をともしてあげれば、自分の前も明るくなる」と高哲は書いた。

子どもたちにとって、最も大切なものは、何か ── 。

“サッカーがいかにうまくなるか”は、もちろん大事である。 

しかし「一番大事なのは“人生”であり、“友人”である」ということの入り口に、今矢代表が子どもたちを立たせてあげようとしたのだ、と私は思う。

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何でもいい、「僕は一歩前進したよ!」 「僕は勝ったよ!」と自信をもって万歳を叫べる行進は大事だ。まず自分自身が強くなることだ。そして、ともに進む一人一人を強くしていくのだ。それが、ライフ・エジュケーションに欠かすことの出来ないものである。4月以降の苗木の成長が楽しみだ。  (終わり)


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2010年02月27日

豪日交流 七人のブルー子サムライがやってきた(上)

TOCシドニー・キャンプ

1月10日、真夏のシドニー空港に降り立った日本のサッカー少年7人(全員小学生)。TOCの生徒たちだ。TOCとは、Touch Of Classの略で、英語とサッカーを教える東京の新進のスクールだ。(迄ご参照:http://www.naocastle.com/blog)主催するのは、今矢直城TOC代表だ。


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シドニー郊外の真新しいヒルズ・スポーツ・インドア・センター(セブンヒルズ)で行われたオーストラリア側のFUTBOL TECの夏季キャンプに合流。相撲で言う“出稽古”である。合計42名の子どもの中には、2022年のワールドカップに備えて選手として育成されている子もいた。TOCシドニー夏季キャンプは、1月11日~14日まで4日間行われ、日本の少年たちは、シドニーの家庭にホームステイして、実際に異文化を体験した。


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将軍家指南役は3人。TOC今矢直城代表は、兵庫県生まれの29歳。ヌーシャテル・ザマックス(スイス・スーパーリーグ) 、ラ・ショー=ド=フォン(スイス2部)、ニュージーランド・ナイツ(Aリーグ、NZ)、マルコーニ・スタリオン(NSWプレミアリーグ)、VFBリューベック(ドイツ)で、活躍してきた。


オーストラリア側のコーチは、トリフィヒロ兄弟。


兄のジェイソン・トリフィロさん:U17のオーストラリア代表。2005年のワールドカップ・ペルーに出場。2人とも、テクニシャン系。サッカースクールのフットボール・テックを主宰。今回共同開催で合意し、TOCシドニー・キャンプが実現した。


弟のグレン・トリフィロさん:2008年にU20のオーストラリア代表でベトナム遠征。2006年2007年にオーストラリア高校生キャプテン。現在パースグローリー所属。

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今矢代表は、TOCシドニーキャンプの目的を、こう語る。

「日豪の架け橋を目指したい・・選手時代からの夢で、今日本でサッカー・スクールを開いて、オーストラリアにつなげていきたいと強く思っていました。私自身、10歳でオーストラリアにきて、文化の違い、考え方の違いを肌で感じとってきました。それを、子ども達に経験してもらいたいんです。

今回の目的は、日本のこどもたちに、まずオーストラリアのライフスタイルを見させてあげること。また、オーストラリアの子ども達には、日本の子どものテクニックをみせて、触発したかったです。特に、ボール持ってからの動きなどですね。そういうものを、オーストラリアの子どもたちが修正していければ、オーストラリアのこどもたちも、世界のトップレベルの選手になっていくと思います。オーストラリアのこどもたちにも、何か伝えたいという気持ちがありました。


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ホームステイ先のホストの方には、一言連絡して、日本食などなにもわざわざ買いに行かなくてもいいですから・・と。普段のままでと。食べられない食事もあったようです。でも、彼らが本当に海外でプレーしていくなら、乗り越えなくてはならないことです。

ライフ・エジュケイション、人生をどうやって生きていけばいいのかを、オーストラリア人は分かっていると思います。人生にはこれが大切だということを、オーストラリアで経験してほしいという願いがあります。必ずしも一流のサッカー選手にならなくても、別の分野で生かしていけばいいわけです。そのためには、日本の中だけで終わるのではなく、とにかく海外に出て、外を見るということが大事ですburuta-144411.jpg



今いる場所で全力を尽くす

今矢代表は、折に触れ、自分の思いをノートに書き止めている。


「ジュニアチームから17歳以下までのチームを含めると100人以上の選手が所属していたユースチームにいたが、最終的にプロサッカー選手になれたのは自分と、イギリス、プレミアリーグで活躍しているルーカス・ニール選手(当時15歳=註:最近トルコのガタラサライに移籍)だけだ。まあ、自分と彼との間には、かなりの格差があるが…。彼は、シドニーに帰っても決して気取りもせず、人間としてもできていて、尊敬できる素晴らしいプレーヤーの一人である。

しかしユース時代にうまかった周りの選手が、プロへのになろうとした道を二十歳にもならぬままになぜ、諦めていったのか…。

自分もサッカー以外にも人生はあるだろうと思うし、サッカーを続けるには犠牲にしなければならない事も出てくると思う。

どんな道を選ぶにしても、今いるその場所で、できる事を精一杯やっている人はやはり美しい。
そしてその努力が又、新しい道を生み出すと、確信する。buruta-144412.jpg


試行錯誤からの展開!

今矢代表は、二日目、日本の子の動きが鈍い・・と悩んでいた。ここは手を打つ時だ、と。


「二日目に言ったのかな、「やる気あるのか」って。このまま行くとずるずる行くなという気がしたので、2-2の練習試合をやらせました。オーストラリアの子と組むのです。これが転換点でした。とにかくコミュニケーションをとって、『今のはゴールだとか、そうでないとか』・・オーストラリアの子が助けてくれたんです。日本ではありえないようなことが起きて、ここはこうしようと、対応能力を磨く必要があるというのは分かったと思います。

ルールなんか関係なくなって、なんとしても勝とうとするオーストラリアがせこくて、このまま黙っていたらだめだというのが日本の子にわかって、その時初めて「What?」とか、「No goal」とか、英語が飛び出し、テンションは高くなりました。何人かの子は、私が日本でコーチしていても変わらなかったろうと思う子が、ここでがらっと変わったり、現地のコーチの指導を受けて、視野が広がったと思います」


「日本人同士と組ませなかったのです。パートナーを探してきなさいと言っておいたのです。何をしても勝っていいというものではありませんが、いい選手ほど負けず嫌いですから」


「今回の目的は、もう一つ。私は一番オーストラリアが好きなので、オーストラリアの子ども達に、日本の子どものテクニックをみせて、触発したかったこと。特に、ボールを持ってからの動きなどですね。そういうものを、こちらの子どもたちが修正していければ、世界のトップレベルの選手になっていくと思います」


(つづく)


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2010年02月06日

JESICA PASSES 12,500 MILE MARK

ジェシカは、順調な航海を続けている。今週は1日平均で120海里の航海を目指す。2月3日の節分の日・・・早朝、1万2500マイルの航海を記録した。


ジェシカは失語症に悩んでいた だから頑張っている


10代のヨットウーマン、ジェシカワトソンの母親が、世界1周の夢を駆り立てた娘の持つ苦悩を、初めて明らかにした。


ジェシカ(16歳)は、就学前にひどい失読症と診断された。クラスでは 10まで数えることも、アルファベットを復唱するもできない子供だった。しかし、”文盲”という汚名に耐えていた11歳の時に、お母さん(ジュリー)が、ジェシー・マーティンの世界単独航海の物語『ライオンハート(Lionheart)』を読み聞かせをした。このことは、半年以上も前のブログに書いた。この時、ジェシカには何かあるかなと、ふと頭をよぎった。ジェシカの運命が変わったのは、母親が読み聞かせをした時だったのだ。


「彼女は字を読むことができなかったので、私が彼女に読んで聞かせていたのだが、そのことは彼女は字が読めないということは他の人は気がついていなかった」と、ワトソン夫人は、QLDのサンデーメール紙にも話している。


「私は、娘が知りえなかった世界を知ることができるように手伝っていた。娘がジェシー・マーティンの話を聞いて、彼がどれくらいすごい人間だったを理解した時、ジェシカは非常に寡黙になった。娘の歯車が回り始めたな思った」


「娘は、ジェシー・マーティンがか弱さと人間性を持った普通の人であると気づいた。だから、彼はその本を書き著したのだ。それで、人が世界1周をするのに、超人的である必要はないと人々は分かった」


ジェシカの自宅は、QLDのサンシャイン・コーストにある。彼女は、今、南大西洋のほぼ半分を横断しつつ、世界1周航海の半分は達成した。そして、最年少、無寄港、単独の世界記録に向かっている。達成できるかどうかは、まだ分からない。


恐怖の10mの高波と格闘し、70ノットの風と闘った末、先週、彼女は壊れたヨット(イーラズ・ピンク・レイディ)の修理も終わった。


その後も、、海洋気象予報官ロジャー・バダム氏によると、ジェシカは最高風速30ノットの風を潜り抜けることになっていた。しかし、それは劇的なものでもなんでもない。


ワトソン夫人は、娘が極限の状態を切り抜けたことで、大きな個人的不安定さを克服し、今はそれが他者への勇気となっていると話している。


彼女の失語症は良くなったとはいえ、彼女自身が余分の注意を払わなくてはならないことに変わりはないが、それでも世界1周への挑戦をやめることにはならなかった。


「娘は、船の位置を通報する時に、数字の反転に注意しなければならない。ジェシカは、鍛えられた心の中に自信を積み上げながら進んでいると」と、ワトソン夫人は言った。


「娘は、ずっと、知覚力に苦労してきただけでなく、常に「綴りもできないのにそんな大それたことをするとは」という周囲の目にさらされていた、しかし、失語症を人の限界と受け止める必要はない」と、母親は言った。


困難をかかえているから、娘を家族で”壮挙”に送り出したのだ、と私は思っている。


ディスレクシア(英語:Dyslexia、ディスレキシアとも)とは、学習障害の一種である。失読症、難読症、識字障害、読字障害ともいう。1884年にルドルフ・ベルリンによって報告され命名された。


現在は特に英語圏で問題とされており、アメリカ合衆国では人口のおよそ1割の人が何らかの程度でディスレクシアを抱えているとも言われる。ディスレクシアは言語によっても現れ方が異なることが示唆されており、イタリア語など(文字がほぼ発音通りに綴られる)では英語やフランス語(綴りと発音の間に複雑な関係がある)より顕在化しにくい可能性が指摘されている。また日本語におけるディスレクシアの多くは、このような音韻に関係したディスレクシアとは異なるタイプとの見方もある。海外留学中の人が初めてディスレクシアと診断されたなどの例もあり、英語教育の普及などによりこれから顕在化してくる可能性もあ
る。今のところ日本では、成人のディスレクシアの判定法は確立されていない。


現在では視覚・聴覚能力の訓練や体性感覚と関連付けた学習、神経生理学的研究によって、障害を克服できた例が増えてきている。映画俳優のトム・クルーズが、ディスレクシアを抱えていたことを告白したこともあった。


イギリス国王・エリザベス2世の孫であるベアトリス王女も自身がディスレクシアであることを2004年に公表しているが、学業では優秀な成績を残している。


ディスレクシアであることを公言している著名人

アビシェーク・バッチャン(俳優)

オーランド・ブルーム(俳優)

ジェレミー・ボンダーマン(野球選手)

リチャード・ブランソン(実業家)

エリン・ブロコビッチ(パラリーガル)

カール16世グスタフ(スウェーデン国王)

スティーブン・J・キャネル(テレビプロデューサー・脚本家・小説家)

シェール(歌手・女優)

アンダーソン・クーパー(アンカーマン)

トム・クルーズ(俳優)

サミュエル・R・ディレイニー(小説家・SF作家)

パトリック・デンプシー(俳優)

ジョセフ・ファインズ(俳優)

ノエル・ギャラガー(ミュージシャン)

ウーピー・ゴールドバーグ(女優・コメディアン・歌手)

マイク・グラベル(元アメリカ合衆国連邦上院議員)

アンソニー・ホプキンス(俳優) 

(ウィキペディアから 2月1日アクセス)

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2010年02月02日

フェデラー優勝 全豪オープン2010

壮絶な試合だった。第3セット、崖っぷちに立たされたフェデラーだったが、崖から落ちることはなかった。


6-3 6-4 7-6 (13-11)


全豪オープンの決勝戦で、ロジャー・フェーデラーが、すばらしいテニスを展開し、2010年の全豪オープン3セット連取して、アンディ・マレーを破り、英国国民が待ちに待ったイギリス人によるグランドスラムの優勝は実現しなかった。


1936年の全米オープンで、フレッド・ペリーがスラムを制して以来、マレイが初のイギリス人になることをイギリス国民は期待していたに違いない。ところがふたを開けてみると、昨夏のウィンブルドンに優勝して以後、最初のグランドスラムを制したのは、やはりこのスイス人だった。


マレイが、フェーデラーに負けることは、恥でもなんでもない。フェデラーはグランドスラムのシングルスのタイトル数をこれで16に伸ばした。圧巻は、第3セットだった。マレイが第3セットをとったならば、勝負だからどうなっていたか、わからない。マレイは第3セットを5-2で有利に展開していた。マレイには、タイブレークで5つのセットポイントが訪れた。しかし、11-13と制したのは、フェデラーだった。表彰式で、2位が下唇をかむシーンが、全豪オープンの新たな伝統になりつつある。


昨シーズン、ナダルとフェーデラーは5セット闘った末に、ナダルが勝った。

フェデラーは表彰台の上で泣いた。そしてに、観衆に向かって言った。「神が、私を見殺しにした」と。今年それを感じたのは、マレイだった。死闘がすべて終わって、マレイは、優勝者フェデラーを褒め、イギリスとメルボルンのファンにお礼を述べた。やはり、涙で挨拶にはならなかった。それでも、一旦はマイクから離れたものの、彼は頑張って、マイクの前に進み出て言った。「私は、ロジャーのように泣きたい。ロジャーのようにプレーができなくて、恥ずかしい」と。


今年、フェーデラーがメルボルンで唯一涙を流すとしたら、双子の娘が待つホテルの部屋に戻ってからだろう。アンドレ・アガシが2003年に全豪オープンに優勝して以来、フェデラーは、グランドスラムに優勝した初めての父親となった。(双子の名前は、ミラ・ローズとシャーリーン・リヴァ)


マレイは、現代のイギリステニスでは、最高の選手であることは確かだと思う。エドワード8世治世以来イギリスで最も秀でた選手とオーバーな表現をする人にも納得出来るし、ひどい人になると、フランネルのズボン、木製ラケット、白いボールを使用していたテニスの『恐竜時代』以来の最優秀選手の登場だという。2008年の全米オープンの決勝を闘った二人だが、全豪オープンのグランドスラムの決勝戦にこの優れた彼が登場し、その相手が、すべての時代とすべての国籍を超越した最大の選手と見られている人とぶつかったことが、彼の不幸だったとしか言いようが無い。


フェーデラーが6-4、6-3、ととって、第3セットでアドヴァンテージ、ジュース、タイブレーク、マッチポイントと何回も緊張の応酬が続き、最後に13-11で制して、第3セット7-6で勝利したフェデラーは、全豪オープンのノーマン・ブルックス・チャレンジ・カップを手にした。これが4回目である。


その瞬間、司会者は、世界No 1のフェデラーを「王様、マスター」と表現した。「我々は、トーナメント期間中にウイリアム王子をここに迎えた。そして、今、われわれは、テニスの王さま、ロジャー・フェーデラーがここにいる」と。



マレイは、再び、グランドスラムの決勝で1セットも取れなかった。しかし、今回は、16ヵ月前のあのニューヨークでの決勝とは同じではなかった。今回のマレイは競争心旺盛だった。「ならば」の話が許されるなら、マレイがすべてのチャンスを生かしたならば、彼は第1セットと第3セットをとることができたはずだ。そうならなかったところが、28歳と22歳の経験の差であろうか。フェデラーは表彰式で、「あなたは驚くべきトーナメントをよく闘ったすばらしいプレーをした。そして、あなたはあまりにすばらしい選手だったので、グランドスラムに勝たなかったが、それについては心配しないほうがいい」と、後ろを振り返って、マレイに語りかけた。



決勝の二時間前に、ロッド・ラバー・アリーナの屋根が閉じられ、まるで試合が行われているようにみえた。それは史上初の屋内のグランド・スラムの決勝のようにみえた。そして、おそらくこれはマレイに有利ではないかと思わせた。マレイの14のシングルス・タイトルのうちの8つは屋根付きのコートでの優勝だ。それでも、優勝を争う二人がロッカールームから出てくる10分ほど前には屋根は開けられ、美しいメルボルンの夕方の空は鮮明な黄色、赤とブルーに染まっていた。そして、灰色のテニスをするとか、冷酷なテニスをするといわれているフェーデラーを責めることはできない。


まるでフェーデラーには汗腺がないように思われ、彼は汗をかかない選手と過去に言われた。しかし、31日は湿度の高いべたべたの夕方だった。そして、オープニング・セットではストレスもたまっていたようだ。フェーデラーの顔は若干赤味を帯びていた。


ゲーム毎に、彼シャツは、汗で沈んだ色の面積が増えていく。第1セット第7ゲームの後、彼はシャツを着替えた。


第3セット。マレイが5-3からセットを取ろうとしたところまで、彼のミスはほとんどなかった。だが、フェーデラーはマレイに激しく食い下がった。マレイの最高のチャンスは、6-5になった2回目のセットポイントの時と、バックハンドのボレーを決めて7-6としたときだった。


このあと7-7にしたフェデラーのショットと、11-11の後、フェーデラーは3回目のマッチポイント(われわれは、これをチャンピオン・ポイント呼ぶが)を迎えて勝ったときのショットは1ミリと違わなかったと言われる。11-11の後、マレイは苦しそうな息遣いを見せた。フェデラーのボールをマレイはバックハンドで返したが、ネットを越えることはなかった。すかさず、スイス人応援団から、大声があがった。「ヤー」

苦労したが、終わってみれば、3セット連取のフェデラーだった。


見ていても力の入った試合だった。


今大会も、7試合して、失ったのは2セットだけだった。


オーストラリアの新聞のマレーに対する反響は意外だった。


(1)チャンピオン 優勝おめでとう。私自身ではテニスプレーヤーといえるほどの者ではない。しかし、マレイに何らかのアドバイスを与えるとすれば、ベースラインから離れて立たないほうがいい。離れて立つ方がコートをカバーできると考えているかもしれない。それでは、悲惨だ。


(2)『イギリス人がグランドスラムに勝つのに、あと150,000年はかかりそうだ。”フェデラー・エクスプレス” 、もう一度、おめでとう』


(3)再び、一人のポム、おっと、ごめん。一人のブリッツ(英国人)、...おっと、これもまたまた失礼、彼はスコットランド人だったよね。彼は勝てそうになかった。彼がイギリス人ならねぇ・・・?...。とにかく、再び、一人のスコットランド人の息は絶え、すべての道はウィリアム・ウォーレスに戻るという歴史も潰してしまった。彼らはやはり敗北者なのだ!!

(註:POMとはオーストラリア、ニュージーランド英語で、イギリス人を指す。オーストラリア国立大学のブルース・ムーア博士は、 “Pom”の用語は差別的用語としては使用されておらず、むしろ親近感を込めてイギリス人を呼ぶときに使用されている言う。ムーア博士は、一般的に“Pom”は“Prisoner of Mother” (囚人の母:イギリス)の頭字語だと考えられているが、この考えは馬鹿げていると主張する。 “Pom”が使用され始めたのはイギリス人がオーストラリアへ移住を開始した1860年。“Pom”の語源は“Pomegranate”(ポメグラネイト:ざくろ)と言われており、“Immigrant”(イミグラント:移民)と音が似ていることから音韻俗語として使用されてきた。だが、この投書欄は????) (おわり)

posted by buruta |10:03 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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