2010年02月27日

豪日交流 七人のブルー子サムライがやってきた(上)

TOCシドニー・キャンプ

1月10日、真夏のシドニー空港に降り立った日本のサッカー少年7人(全員小学生)。TOCの生徒たちだ。TOCとは、Touch Of Classの略で、英語とサッカーを教える東京の新進のスクールだ。(迄ご参照:http://www.naocastle.com/blog)主催するのは、今矢直城TOC代表だ。


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シドニー郊外の真新しいヒルズ・スポーツ・インドア・センター(セブンヒルズ)で行われたオーストラリア側のFUTBOL TECの夏季キャンプに合流。相撲で言う“出稽古”である。合計42名の子どもの中には、2022年のワールドカップに備えて選手として育成されている子もいた。TOCシドニー夏季キャンプは、1月11日~14日まで4日間行われ、日本の少年たちは、シドニーの家庭にホームステイして、実際に異文化を体験した。


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将軍家指南役は3人。TOC今矢直城代表は、兵庫県生まれの29歳。ヌーシャテル・ザマックス(スイス・スーパーリーグ) 、ラ・ショー=ド=フォン(スイス2部)、ニュージーランド・ナイツ(Aリーグ、NZ)、マルコーニ・スタリオン(NSWプレミアリーグ)、VFBリューベック(ドイツ)で、活躍してきた。


オーストラリア側のコーチは、トリフィヒロ兄弟。


兄のジェイソン・トリフィロさん:U17のオーストラリア代表。2005年のワールドカップ・ペルーに出場。2人とも、テクニシャン系。サッカースクールのフットボール・テックを主宰。今回共同開催で合意し、TOCシドニー・キャンプが実現した。


弟のグレン・トリフィロさん:2008年にU20のオーストラリア代表でベトナム遠征。2006年2007年にオーストラリア高校生キャプテン。現在パースグローリー所属。

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今矢代表は、TOCシドニーキャンプの目的を、こう語る。

「日豪の架け橋を目指したい・・選手時代からの夢で、今日本でサッカー・スクールを開いて、オーストラリアにつなげていきたいと強く思っていました。私自身、10歳でオーストラリアにきて、文化の違い、考え方の違いを肌で感じとってきました。それを、子ども達に経験してもらいたいんです。

今回の目的は、日本のこどもたちに、まずオーストラリアのライフスタイルを見させてあげること。また、オーストラリアの子ども達には、日本の子どものテクニックをみせて、触発したかったです。特に、ボール持ってからの動きなどですね。そういうものを、オーストラリアの子どもたちが修正していければ、オーストラリアのこどもたちも、世界のトップレベルの選手になっていくと思います。オーストラリアのこどもたちにも、何か伝えたいという気持ちがありました。


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ホームステイ先のホストの方には、一言連絡して、日本食などなにもわざわざ買いに行かなくてもいいですから・・と。普段のままでと。食べられない食事もあったようです。でも、彼らが本当に海外でプレーしていくなら、乗り越えなくてはならないことです。

ライフ・エジュケイション、人生をどうやって生きていけばいいのかを、オーストラリア人は分かっていると思います。人生にはこれが大切だということを、オーストラリアで経験してほしいという願いがあります。必ずしも一流のサッカー選手にならなくても、別の分野で生かしていけばいいわけです。そのためには、日本の中だけで終わるのではなく、とにかく海外に出て、外を見るということが大事ですburuta-144411.jpg



今いる場所で全力を尽くす

今矢代表は、折に触れ、自分の思いをノートに書き止めている。


「ジュニアチームから17歳以下までのチームを含めると100人以上の選手が所属していたユースチームにいたが、最終的にプロサッカー選手になれたのは自分と、イギリス、プレミアリーグで活躍しているルーカス・ニール選手(当時15歳=註:最近トルコのガタラサライに移籍)だけだ。まあ、自分と彼との間には、かなりの格差があるが…。彼は、シドニーに帰っても決して気取りもせず、人間としてもできていて、尊敬できる素晴らしいプレーヤーの一人である。

しかしユース時代にうまかった周りの選手が、プロへのになろうとした道を二十歳にもならぬままになぜ、諦めていったのか…。

自分もサッカー以外にも人生はあるだろうと思うし、サッカーを続けるには犠牲にしなければならない事も出てくると思う。

どんな道を選ぶにしても、今いるその場所で、できる事を精一杯やっている人はやはり美しい。
そしてその努力が又、新しい道を生み出すと、確信する。buruta-144412.jpg


試行錯誤からの展開!

今矢代表は、二日目、日本の子の動きが鈍い・・と悩んでいた。ここは手を打つ時だ、と。


「二日目に言ったのかな、「やる気あるのか」って。このまま行くとずるずる行くなという気がしたので、2-2の練習試合をやらせました。オーストラリアの子と組むのです。これが転換点でした。とにかくコミュニケーションをとって、『今のはゴールだとか、そうでないとか』・・オーストラリアの子が助けてくれたんです。日本ではありえないようなことが起きて、ここはこうしようと、対応能力を磨く必要があるというのは分かったと思います。

ルールなんか関係なくなって、なんとしても勝とうとするオーストラリアがせこくて、このまま黙っていたらだめだというのが日本の子にわかって、その時初めて「What?」とか、「No goal」とか、英語が飛び出し、テンションは高くなりました。何人かの子は、私が日本でコーチしていても変わらなかったろうと思う子が、ここでがらっと変わったり、現地のコーチの指導を受けて、視野が広がったと思います」


「日本人同士と組ませなかったのです。パートナーを探してきなさいと言っておいたのです。何をしても勝っていいというものではありませんが、いい選手ほど負けず嫌いですから」


「今回の目的は、もう一つ。私は一番オーストラリアが好きなので、オーストラリアの子ども達に、日本の子どものテクニックをみせて、触発したかったこと。特に、ボールを持ってからの動きなどですね。そういうものを、こちらの子どもたちが修正していければ、世界のトップレベルの選手になっていくと思います」


(つづく)


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2010年02月06日

JESICA PASSES 12,500 MILE MARK

ジェシカは、順調な航海を続けている。今週は1日平均で120海里の航海を目指す。2月3日の節分の日・・・早朝、1万2500マイルの航海を記録した。


ジェシカは失語症に悩んでいた だから頑張っている


10代のヨットウーマン、ジェシカワトソンの母親が、世界1周の夢を駆り立てた娘の持つ苦悩を、初めて明らかにした。


ジェシカ(16歳)は、就学前にひどい失読症と診断された。クラスでは 10まで数えることも、アルファベットを復唱するもできない子供だった。しかし、”文盲”という汚名に耐えていた11歳の時に、お母さん(ジュリー)が、ジェシー・マーティンの世界単独航海の物語『ライオンハート(Lionheart)』を読み聞かせをした。このことは、半年以上も前のブログに書いた。この時、ジェシカには何かあるかなと、ふと頭をよぎった。ジェシカの運命が変わったのは、母親が読み聞かせをした時だったのだ。


「彼女は字を読むことができなかったので、私が彼女に読んで聞かせていたのだが、そのことは彼女は字が読めないということは他の人は気がついていなかった」と、ワトソン夫人は、QLDのサンデーメール紙にも話している。


「私は、娘が知りえなかった世界を知ることができるように手伝っていた。娘がジェシー・マーティンの話を聞いて、彼がどれくらいすごい人間だったを理解した時、ジェシカは非常に寡黙になった。娘の歯車が回り始めたな思った」


「娘は、ジェシー・マーティンがか弱さと人間性を持った普通の人であると気づいた。だから、彼はその本を書き著したのだ。それで、人が世界1周をするのに、超人的である必要はないと人々は分かった」


ジェシカの自宅は、QLDのサンシャイン・コーストにある。彼女は、今、南大西洋のほぼ半分を横断しつつ、世界1周航海の半分は達成した。そして、最年少、無寄港、単独の世界記録に向かっている。達成できるかどうかは、まだ分からない。


恐怖の10mの高波と格闘し、70ノットの風と闘った末、先週、彼女は壊れたヨット(イーラズ・ピンク・レイディ)の修理も終わった。


その後も、、海洋気象予報官ロジャー・バダム氏によると、ジェシカは最高風速30ノットの風を潜り抜けることになっていた。しかし、それは劇的なものでもなんでもない。


ワトソン夫人は、娘が極限の状態を切り抜けたことで、大きな個人的不安定さを克服し、今はそれが他者への勇気となっていると話している。


彼女の失語症は良くなったとはいえ、彼女自身が余分の注意を払わなくてはならないことに変わりはないが、それでも世界1周への挑戦をやめることにはならなかった。


「娘は、船の位置を通報する時に、数字の反転に注意しなければならない。ジェシカは、鍛えられた心の中に自信を積み上げながら進んでいると」と、ワトソン夫人は言った。


「娘は、ずっと、知覚力に苦労してきただけでなく、常に「綴りもできないのにそんな大それたことをするとは」という周囲の目にさらされていた、しかし、失語症を人の限界と受け止める必要はない」と、母親は言った。


困難をかかえているから、娘を家族で”壮挙”に送り出したのだ、と私は思っている。


ディスレクシア(英語:Dyslexia、ディスレキシアとも)とは、学習障害の一種である。失読症、難読症、識字障害、読字障害ともいう。1884年にルドルフ・ベルリンによって報告され命名された。


現在は特に英語圏で問題とされており、アメリカ合衆国では人口のおよそ1割の人が何らかの程度でディスレクシアを抱えているとも言われる。ディスレクシアは言語によっても現れ方が異なることが示唆されており、イタリア語など(文字がほぼ発音通りに綴られる)では英語やフランス語(綴りと発音の間に複雑な関係がある)より顕在化しにくい可能性が指摘されている。また日本語におけるディスレクシアの多くは、このような音韻に関係したディスレクシアとは異なるタイプとの見方もある。海外留学中の人が初めてディスレクシアと診断されたなどの例もあり、英語教育の普及などによりこれから顕在化してくる可能性もあ
る。今のところ日本では、成人のディスレクシアの判定法は確立されていない。


現在では視覚・聴覚能力の訓練や体性感覚と関連付けた学習、神経生理学的研究によって、障害を克服できた例が増えてきている。映画俳優のトム・クルーズが、ディスレクシアを抱えていたことを告白したこともあった。


イギリス国王・エリザベス2世の孫であるベアトリス王女も自身がディスレクシアであることを2004年に公表しているが、学業では優秀な成績を残している。


ディスレクシアであることを公言している著名人

アビシェーク・バッチャン(俳優)

オーランド・ブルーム(俳優)

ジェレミー・ボンダーマン(野球選手)

リチャード・ブランソン(実業家)

エリン・ブロコビッチ(パラリーガル)

カール16世グスタフ(スウェーデン国王)

スティーブン・J・キャネル(テレビプロデューサー・脚本家・小説家)

シェール(歌手・女優)

アンダーソン・クーパー(アンカーマン)

トム・クルーズ(俳優)

サミュエル・R・ディレイニー(小説家・SF作家)

パトリック・デンプシー(俳優)

ジョセフ・ファインズ(俳優)

ノエル・ギャラガー(ミュージシャン)

ウーピー・ゴールドバーグ(女優・コメディアン・歌手)

マイク・グラベル(元アメリカ合衆国連邦上院議員)

アンソニー・ホプキンス(俳優) 

(ウィキペディアから 2月1日アクセス)

posted by buruta |09:03 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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2010年02月02日

フェデラー優勝 全豪オープン2010

壮絶な試合だった。第3セット、崖っぷちに立たされたフェデラーだったが、崖から落ちることはなかった。


6-3 6-4 7-6 (13-11)


全豪オープンの決勝戦で、ロジャー・フェーデラーが、すばらしいテニスを展開し、2010年の全豪オープン3セット連取して、アンディ・マレーを破り、英国国民が待ちに待ったイギリス人によるグランドスラムの優勝は実現しなかった。


1936年の全米オープンで、フレッド・ペリーがスラムを制して以来、マレイが初のイギリス人になることをイギリス国民は期待していたに違いない。ところがふたを開けてみると、昨夏のウィンブルドンに優勝して以後、最初のグランドスラムを制したのは、やはりこのスイス人だった。


マレイが、フェーデラーに負けることは、恥でもなんでもない。フェデラーはグランドスラムのシングルスのタイトル数をこれで16に伸ばした。圧巻は、第3セットだった。マレイが第3セットをとったならば、勝負だからどうなっていたか、わからない。マレイは第3セットを5-2で有利に展開していた。マレイには、タイブレークで5つのセットポイントが訪れた。しかし、11-13と制したのは、フェデラーだった。表彰式で、2位が下唇をかむシーンが、全豪オープンの新たな伝統になりつつある。


昨シーズン、ナダルとフェーデラーは5セット闘った末に、ナダルが勝った。

フェデラーは表彰台の上で泣いた。そしてに、観衆に向かって言った。「神が、私を見殺しにした」と。今年それを感じたのは、マレイだった。死闘がすべて終わって、マレイは、優勝者フェデラーを褒め、イギリスとメルボルンのファンにお礼を述べた。やはり、涙で挨拶にはならなかった。それでも、一旦はマイクから離れたものの、彼は頑張って、マイクの前に進み出て言った。「私は、ロジャーのように泣きたい。ロジャーのようにプレーができなくて、恥ずかしい」と。


今年、フェーデラーがメルボルンで唯一涙を流すとしたら、双子の娘が待つホテルの部屋に戻ってからだろう。アンドレ・アガシが2003年に全豪オープンに優勝して以来、フェデラーは、グランドスラムに優勝した初めての父親となった。(双子の名前は、ミラ・ローズとシャーリーン・リヴァ)


マレイは、現代のイギリステニスでは、最高の選手であることは確かだと思う。エドワード8世治世以来イギリスで最も秀でた選手とオーバーな表現をする人にも納得出来るし、ひどい人になると、フランネルのズボン、木製ラケット、白いボールを使用していたテニスの『恐竜時代』以来の最優秀選手の登場だという。2008年の全米オープンの決勝を闘った二人だが、全豪オープンのグランドスラムの決勝戦にこの優れた彼が登場し、その相手が、すべての時代とすべての国籍を超越した最大の選手と見られている人とぶつかったことが、彼の不幸だったとしか言いようが無い。


フェーデラーが6-4、6-3、ととって、第3セットでアドヴァンテージ、ジュース、タイブレーク、マッチポイントと何回も緊張の応酬が続き、最後に13-11で制して、第3セット7-6で勝利したフェデラーは、全豪オープンのノーマン・ブルックス・チャレンジ・カップを手にした。これが4回目である。


その瞬間、司会者は、世界No 1のフェデラーを「王様、マスター」と表現した。「我々は、トーナメント期間中にウイリアム王子をここに迎えた。そして、今、われわれは、テニスの王さま、ロジャー・フェーデラーがここにいる」と。



マレイは、再び、グランドスラムの決勝で1セットも取れなかった。しかし、今回は、16ヵ月前のあのニューヨークでの決勝とは同じではなかった。今回のマレイは競争心旺盛だった。「ならば」の話が許されるなら、マレイがすべてのチャンスを生かしたならば、彼は第1セットと第3セットをとることができたはずだ。そうならなかったところが、28歳と22歳の経験の差であろうか。フェデラーは表彰式で、「あなたは驚くべきトーナメントをよく闘ったすばらしいプレーをした。そして、あなたはあまりにすばらしい選手だったので、グランドスラムに勝たなかったが、それについては心配しないほうがいい」と、後ろを振り返って、マレイに語りかけた。



決勝の二時間前に、ロッド・ラバー・アリーナの屋根が閉じられ、まるで試合が行われているようにみえた。それは史上初の屋内のグランド・スラムの決勝のようにみえた。そして、おそらくこれはマレイに有利ではないかと思わせた。マレイの14のシングルス・タイトルのうちの8つは屋根付きのコートでの優勝だ。それでも、優勝を争う二人がロッカールームから出てくる10分ほど前には屋根は開けられ、美しいメルボルンの夕方の空は鮮明な黄色、赤とブルーに染まっていた。そして、灰色のテニスをするとか、冷酷なテニスをするといわれているフェーデラーを責めることはできない。


まるでフェーデラーには汗腺がないように思われ、彼は汗をかかない選手と過去に言われた。しかし、31日は湿度の高いべたべたの夕方だった。そして、オープニング・セットではストレスもたまっていたようだ。フェーデラーの顔は若干赤味を帯びていた。


ゲーム毎に、彼シャツは、汗で沈んだ色の面積が増えていく。第1セット第7ゲームの後、彼はシャツを着替えた。


第3セット。マレイが5-3からセットを取ろうとしたところまで、彼のミスはほとんどなかった。だが、フェーデラーはマレイに激しく食い下がった。マレイの最高のチャンスは、6-5になった2回目のセットポイントの時と、バックハンドのボレーを決めて7-6としたときだった。


このあと7-7にしたフェデラーのショットと、11-11の後、フェーデラーは3回目のマッチポイント(われわれは、これをチャンピオン・ポイント呼ぶが)を迎えて勝ったときのショットは1ミリと違わなかったと言われる。11-11の後、マレイは苦しそうな息遣いを見せた。フェデラーのボールをマレイはバックハンドで返したが、ネットを越えることはなかった。すかさず、スイス人応援団から、大声があがった。「ヤー」

苦労したが、終わってみれば、3セット連取のフェデラーだった。


見ていても力の入った試合だった。


今大会も、7試合して、失ったのは2セットだけだった。


オーストラリアの新聞のマレーに対する反響は意外だった。


(1)チャンピオン 優勝おめでとう。私自身ではテニスプレーヤーといえるほどの者ではない。しかし、マレイに何らかのアドバイスを与えるとすれば、ベースラインから離れて立たないほうがいい。離れて立つ方がコートをカバーできると考えているかもしれない。それでは、悲惨だ。


(2)『イギリス人がグランドスラムに勝つのに、あと150,000年はかかりそうだ。”フェデラー・エクスプレス” 、もう一度、おめでとう』


(3)再び、一人のポム、おっと、ごめん。一人のブリッツ(英国人)、...おっと、これもまたまた失礼、彼はスコットランド人だったよね。彼は勝てそうになかった。彼がイギリス人ならねぇ・・・?...。とにかく、再び、一人のスコットランド人の息は絶え、すべての道はウィリアム・ウォーレスに戻るという歴史も潰してしまった。彼らはやはり敗北者なのだ!!

(註:POMとはオーストラリア、ニュージーランド英語で、イギリス人を指す。オーストラリア国立大学のブルース・ムーア博士は、 “Pom”の用語は差別的用語としては使用されておらず、むしろ親近感を込めてイギリス人を呼ぶときに使用されている言う。ムーア博士は、一般的に“Pom”は“Prisoner of Mother” (囚人の母:イギリス)の頭字語だと考えられているが、この考えは馬鹿げていると主張する。 “Pom”が使用され始めたのはイギリス人がオーストラリアへ移住を開始した1860年。“Pom”の語源は“Pomegranate”(ポメグラネイト:ざくろ)と言われており、“Immigrant”(イミグラント:移民)と音が似ていることから音韻俗語として使用されてきた。だが、この投書欄は????) (おわり)

posted by buruta |10:03 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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