2009年12月27日

子にすぎたる財なし

勝利 敗北 引き分け・・・スポーツ選手たちの日々はまさに怒涛の如く波乱万丈である。

だが、スタジアムのスコアボードの彼方にある褒章・安らぎ・励ましが、選手たちの最大のファンである子ども達の笑顔の中にあることを知っている。


選手の子ども達は、父親の試合にやってくる。父親のチームのユニフォームを着て、横っちょから檄を飛ばす。父親が得点をあげ、タックルをし、フリーキックの列に入る・・・そのとき、父親としてのスター選手は、自分の子ども達の無条件の応援を肌身に感じることがある。



オーストラリアでも、スポーツ選手の父親ー息子の関係では有名選手は結構いる。グロス家、カリーナ家、ロジャース家、モーリス家、レディ家、アブレット家、モーティマー家などの親子だ。



しかし、お嬢さんをいれるとなると、また選手の顔ぶれは変わってくる。


厳しい試合を終えて帰ってきたスポーツ選手の父親に、息子や娘がどれほど幸せを送っているか・・・は、ドアを開けて父親を迎え入れた時、父親が試合に向かうために送り出す時に、感じるものらしい。



【NRL】 という組織がある。これは、ナショナル・ラグビー・リーグだ。このリーグには、子持ちのお父さんが115人いる。子供の数は199人という。


【AFL】 これは、オーストラリアン・フットボール・リーグだ。ここには、
お父さんは79人いて、子どもの合計は、132人。


【スーパー14】(当初はオーストラリアから3チーム、ニュージーランドから5チーム、南アフリカから4チームの計12チームが参戦しラグビーの国際リーグ戦を展開したが、2006年シーズンに新たに2チームが新規参入したため、“スーパー14”へと名称変更された)には、お父さんは20人。子どもの数は、42人。


サッカーの【Aリーグ】には、お父さんが60人。子どもは106人・・となっている。



あの2005年、オーストラリアがサッカー・ワールド・カップに出られるかどうかの、まさに選手やファンにしてみれば、生死を賭けた一戦。大陸間プレーオフの対ウルグアイ戦で、2000万オーストラリア人の夢を実現した現シドニーFCのジョン・アロイシ選手。


忘れもしない、2005年11月16日だった。16日夜シドニーのテレストラスタジアムで行われたオーストラリア対ウルグアイのサッカーワールドカップ予選で、オーストラリア・サッカールーズが4対2でペナルティーゴールを決め、過去30年以上叶わなかったワールドカップへの出場を勝ち取ったその本人である。


ユニフォームをとって、上半身裸でコーナーフラッグへ向かうアロイシ。それを追いかける選手。遠路来たウルグアイには辛い場面だったが、オーストラリアからは美しい光景として、今も瞼に残る。



そのアロイシ選手は、いま、3人の父親だ。

アリシアちゃん7歳。
ケイティアちゃん5歳。
アマヤちゃん2歳。

3人とも女の子。

「娘達は、いつも試合にやってきては、私を応援してくれます。2歳の娘は、あまりこのスポーツのことを分かっていませんが、ボールを見ると、私がプレーしているスポーツだと分かるようになったみたいです。子ども達が試合に来てくれることはすごいです。チームがゴールをすると、興奮します。子どもたち中には私のサッカーの血は入っていません。ボールも蹴らないし、ボールをもって遊ぶこともしません。テニス、ダンス、バレーの世界だ。辛い日が終わって、帰ってきても、娘達は仕事のことに入り込んでくるわけではなく、子どもたちも悩むことはありません。子どもは、遊んでもらいたいんです。特にあまり良くない結果の日には、子どもに夢中になれるのはよいことです。子ども達は、顔のところに笑顔を持ってきますが、それだけで重荷はとれます・・・」



ディラン・マカリスター選手 セントラル・コースト・マリナーズ 

マシアス君2歳

「マシアスは、私の人生にたくさんの潤いを運んでくれました。息子は、私がノルウェーでプレーしているときに生まれました。それまでは、私と妻と2人きりでした。オスロでは、他に家族はいませんでした。だから、息子が生まれた時は、大歓迎だった。息子のおかげで人生も楽しくなりました。今、2歳半ですが、フットボールのことはテレビでみて分かり始めたようです。私が出場しないと、機嫌が悪いらしいです。

毎試合の前に、息子はノルウェー語で「ゴールだよ」と言います。いいアドバイスですよ。それから、またノルウェー語で「いってらっしゃい」と言います。彼は、ノルウェー人がスタンドで歌うフットボールの歌も歌います」



アンジェロ・コスタンソ選手 ニューカッスル・ジェッツ  

ドメニッチ君 7歳
リリアナちゃん3歳

「2人とも、ニューカッスルの試合を見に、妻とやってくるんです。ホームでの試合の時は、ドメニッチは全試合を観に来ますね。それは自分でもプレーしているからです。その時、彼のエネルギーは全開します。そして、ジェッツの全選手を知っています。選手からトレーニングを受けているからです。フィールドで何があろうとも、帰れる家があるということはすばらしいです。子ども達は飛びついてきます。子どもは、私がどんなプレーをしようが、試合で何が起ころうが、常に陽気です」



ダニー・グリーン選手は、IBO世界/クルーザー/級王者 (30戦27勝(24KO)3敗)です。パンチ力のあるボクサーで、グリーン・マシンという異名をとっている。彼は、リングの詩人と言わる人でもある。

彼は、クローとアーチーという2人の子どもに詩を書いた。


 ぼくは、君たちのためにそこにいつもいる。

 君たちが幸せな時に、君たちのためにそこにいる。

 君たちが悲しんでいる時、君たちのためにそこにいる。

 君たちが興奮している時、君たちのためにそこにいる。

 君たちが怒っている時、君たちのためにそこにいる。


 君達が勝った時、君達のそばにいる。

 君達が苦しんでいれば、そばにいる。

 父親としての私の役割は簡単だ。私の命で君たちを守るために、私はここにいる。



アフリカのことわざには「子どもは村中みんなで育てるもの」とある。 

大聖哲は「子にすぎたる財なし」と仰せだ。


筑前の守、山上憶良の知られた歌として、「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも」(巻五)がある。銀も金も宝石も何の意味があるだろう、子に勝る宝はない、と言う意味だが、ここは、素直にそのままとっておこう。解釈はいろいろあるようだ。

 財宝を入れた千の倉より、子供の方が大切である。 

 千両蔵より子は宝

 万の蔵より子は宝

 子に過ぎたる宝なし




来年もまた、お父さん達の活躍のエネルギーの源は、この子たちの笑顔であり続けるかもしれない。 (この項終わり)




今年も、このブログにお付き合いくださりありがとうございました。

また、来年も、出来るだけ多くの話題を掲載しようと思っています。

どうか、寅年の来年 ご健康でありますように。

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posted by buruta |10:31 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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2009年12月02日

難民キャンプから世界のトップへ

ジュリアス・デイヴィスの驚くべき人生航路

先週、オーストラリアのスポーツ助成金削減提言の話をしたが、日本でも、オリンピック選手が補助金削減反対の声をあげ始めたようだ。目に見えない利益だから、削減の対象になりやすいが、金額はともかく教育費、「青年の夢」育成費用と考えると、そんな簡単に手をつけていいものかといいたくなる。


さて、今週の話題に移ろう。


いま、オーストラリアは、スリランカからのボート出国者の攻勢を受けてうけている。もちろん、オーストラリアへの難民亡命を希望している人ばかりだ。国連の難民スクリーニング制度があるにしても、軒並み来るボート・ピープルをすんなり受け入れそうな雰囲気には、厳しい対応を求める声は多い。

私も、長年の取材で難民の置かれた苦汁を分かっているつもりだが、インドネシアの仲介者がカネをとってオーストラリア海域まで運んでくる例もかなりあって、オーストラリア政府の及び腰を批判する声は、当然大きい。そういう亡命希望の船は、今年すでに50隻近くも、オーストラリア領海に現れているのだ。週1隻以上のペースである。同じく海に囲まれた日本では、想像できない現象である。

オーストラリアの現政権は、前政権とは違って人権擁護に傾いていることは確かだが、かといって、むやみに受け入れるのはどうかという問題が正直に言って存在する。

日本も、来年早々から、ミャンマーの難民の第三国定住として、年間30人を受け入れる。数は少ないが日本国としてはこれまでとは違った大きな政策転換になるのだが、それでも、今オーストラリアが抱えている問題とは大きな隔たりがある。


先日も、オーストラリアの税関の船に、70人以上が乗ったまま、1ヶ月近くもインドネシア沖で立ち往生したケースもあり、費用もただ事ではなかった。これだけ押し寄せてくると、もっと周辺海域の警備も厳しくすべきではないかという声が国内からわきあがってきており、私も当然のことと思うのだが、今日お話しするケースは、オーストラリアが難民への門を閉ざさなかったことで、一人の運命が大きく開かれることになったわけで、難民行政には一人の人間の大きな命運がかかっているということをいやがうえにも思い知らされるのだ。


飢えたフットボール選手が良いフットボール選手になるというなら、ジュリアス・デーヴィス君はスーパースターにならなければならない。また、なる価値がありそうである。ジュリアス・デーヴィス君の出身国はアフリカの西のシエラレオネ共和国である。シエラレオネ共和国では、1991年ごろから、東部のダイヤモンド鉱山の支配権をめぐる反政府勢力との大規模な内戦が起き、この悪名高いダイヤモンド戦争によって、ジュリアス・デーヴィス君は親に捨てられ、やがて孤児になった。

不法なダイヤモンドが、シエラレオネの紛争を激化させる役割を果たしていたのだった。国連安保理は2000年7月5日、決議1306号により、シエラレオネからの直接・間接を問わず、認証を通さない、シエラレオネ政府管理外のダイヤ原石輸入を禁止したのだ。ここでは、これ以上はこの問題に触れない。


彼は、生まれた母国を捨てざるをなくなり、隣国ギニア共和国の定住キャンプへ。一番上の姉のオリーブと一緒に住みながら、彼は小学校就学年齢で難民になってしまった。それから、ジュリアス・デイヴィス君は幼心の中で、自由への脱出を目指し、より良い生活へ向かってスタートを切ろうと小さな誓いをたてたのだった。


故国からははるか遠く離れた西オーストラリア州のパースが、唯一の故郷になった。たどって来た道は必ずしも容易な道のりではなかったが、安全であり、歓迎してくれる町だ。トゥアート・ヒルの公営アパートで育ったが、しばしばバス代すらもろくになく、夜もろうそくを使っての生活だった。それは、働き手のお姉さんのオリーブが電気代を都合できなかったからだ。


将来への彼のパスポートになったのは、フットボールだった。彼は学校に入学したが、めったに登校しなかった。彼の成績表には、”読書好き”とあるだけ。科目はゼロのオンパレードだ。それは、基本的に彼が殆ど出席していないからだった。その代わりに、彼は公園でボールを蹴っていた。やがて、彼のボールのタッチが人の目に留まることとなった。


地元のマウロというコーチが自分の手もとに置いた。家族を養うために、食料雑貨のお金も支払ってくれた。彼をトレーニングへ連れて行き、そこでマウロは、パースのサッカークラブであるイングルウッド・ユナイテッドに登録してくれた。デイヴィスの話が広がり始めた。州の監督ケニー・ロウは、コフス・ハーバーで開催された全国サッカー選手権に彼を出場メンバーに入れた。彼のスピード、強さ、ボールのタッチが、監督の目を引いたのだ。


デイヴィスは地元の教育計画に席を置いた。そこでも、ロウ監督は彼に助言し続けた。彼はその中に溶け込んだ。そして、物事は速く動いた。彼は、17歳以下のオーストラリア代表チームに選ばれた。彼はそれを誇りに思った。そして、ウズベキスタンに遠征した。そこで、オーストラリアは世界選手権出場をかけて予選を争った。


しかし、遠征先のタシケントで、彼は最初の大きな困難にぶつかった。国際サッカー連盟(FIFA)が、ちょうど適性規則を変更したところだった。デイヴィスは、新規則に引っかかってしまった。彼は、そのことでどれほど悔しい思いをしたか今でも忘れることはない。「僕は、ほんとうにプレーしたかった。僕は、準備万端だったし、精神的にも完全に乗っていた。僕は、オーストラリアがもっとプッシュしてくれるのかと思ってがっかりした」と言った。



デイヴィスはパースに戻って、しばらく悩んでいた。しかし、それは長い間ではなかった。彼の持つ才能は、どこでもひっぱりだこだからだ。彼は、シドニーに本社を置くウルトラマネージメント・スポーツ社と契約した。かつてのNSLで長年のプレーしたバディ・ファラーが、この未加工のダイヤモンドを磨き始めた。バディは、彼を大人として扱い始めたのだった。


ちなみに、バディ・ファラーは、かつてのNSL(ナショナル・サッカー・リーグ)のディフェンダーだったが、サッカールーズ入りの夢が果たせず、故国レバノンのベイルートでスターになった人だ。


さて、長姉オリーブは、上昇志向でうずずしていた。そしてデイヴィスも然りだった。彼の年上のいとこ、サミュエル・ソプロンも同じだった。彼らは、それぞれの夢を追って、一緒にヨーロッパに行った。そして、そこで、デイヴィスは自分さえ想像できなかった方法で夢が実現した。


今年、デイヴィスは、ドイツの巨人バイエルン・ミュンヘンと5年契約で調印した。彼は、まだわずか15歳という若さだ。監督はステファン・ベッケンバウアーといい、あの往年の伝説の選手の息子である。時々、デイヴィスは17歳以下のチームで1年間プレーする。17歳以下のチームの監督は、メフメト・ショールだ。毎週月曜日、彼は、プロスペクティブズという名のエリート・チーム、バイエルン・ジュニア・チームでプレーする。そこには、光った才能を持つと認められている選手ばかりがいる。


ヘルマン・ゲルラント(1軍監督ルイス・ファンハール監督のアシスタント・コーチ)に、しごいてもらっている。先日、アルゼンチンのスター、マルティン・デミチェリス選手が1軍とともにトレーニングをした後、たった一言こう言った。「すばらしい、すばらしいじゃいないか」と。デイヴィスを取り巻く環境は、明らかによくなっている。



もちろん、デイヴィスがまだ克服しなければならないものがある。子どもが義務教育で毎日登校しなくてはならないように、バイエルンも無断欠席には寛容ではない。クラブの寮には生活規則がある。そこで、日課の作業きちっとこなさなくてはならない。それから、天気の問題もある。彼は、人生で初めて雪の中での訓練を受けている。彼がトラックスーツをどのくらいの重ね着しようが、どうにもならないものがある。彼の体は暖かくならないのだ。「僕は、パースが恋しくなった。パースの浜辺、パースの天気を恋しく思っている」と、彼は吐露した。



しかし、デイヴィスはホームシックを乗り切れそうだ。そうならなければならない。疑問が生じる時はいつでも、自分の両足と両足の傷を眺めることにしている。傷のすべては、ギニアの硬い土ぼこりのグランドで裸足でプレーしていた時に出来たものだ。それは、ギニアでの生活を永久に思い出させる物であり、彼らこれから生きようとする将来の人生の励みになるのだ。


「時々、僕はあまりいいプレーができない。バディは私で私がバイエルンミュンヘンの選手としてもっと興奮してプレーしないのか僕をみて、心配しながら忠告してくれる」と、彼が言います。「でも、心の中では、これは僕にとって何というチャンスなのかと興奮しているんだ。僕の過去が、頑張らせくれているんだ。僕は人生で1つの選択肢を得た。それは、フットボールにおける経歴を作るためだ。それしかない。それがすべてだ。だから、そうなれるように努力しているんだ」


それがどういう風に実現するのか、お楽しみだ。フットボール界は、情け容赦のないビジネスだ。しかし、デイヴィスが間違いなく確実に心に秘めていることは、オーストラリアに難民として自分を迎え入れてくれて、自分の人生の転換点を作り出してくれたことに恩返しをしたいということだ。「誰も将来のことは分からない。でも、いつか、ある日、サッカールーズの一員としてプレーしてみたい」と、彼は夢を膨らませている。


大きな怪我をせず、着実に、順調に、夢を現実のものしていってほしい。


孤児になり、難民にもならなかったら、デイヴィス君のサッカーは、大きな陽の目を見なかったかもしれない。幼い時からの逆境を覆そうと努力する姿は、難民の模範であるばかりでなく、私たち普通の人間にも学ぶものばかりだ。

若い難民の代表として、世界に散らばる難民に力強いメッセージを送ってほしい。こんなことが出来るのは、そうめったにいるものではない。
デイヴィス君しかいないだろう。


こんな彼の話を聞くと、オーストラリアの難民政策も悪くはないか・・・と思ってしまう。


いよいよ、2010年サッカーワールドカップの組み合わせ抽選会が目の前だ。

(おわり)

posted by buruta |23:19 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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2009年12月02日

事業仕分けの強化費縮減について

いつも応援ありがとうございます。ブル太です。

事業仕分けでJOCに対する補助金が削減対象となったことで、フェンシング太田選手をはじめ五輪メダリストが会見されましたね。

日本を代表するオリンピックやパラリンピック競技になっているスポーツ選手でさえアルバイトをしたり遠征費が自腹だったりという現状は、そもそも時代錯誤な状況であることをもっと多くの方々に知ってもらいたいと思います。

世界第○位の経済大国(そろそろ順位が変わりそうなので)というわりには、スポーツにおいてはいまだスポーツ省もなく、オリンピックは文科省、パラリンピックは厚労省と、世界の先進国や民主主義国家からすると非常識ともいえる今の体制、国民に感動を与え、社会を元気にするスポーツを政策として取り入れない今の日本には大変残念です。

トップアスリートをメジャー、マイナー問わず輩出していくことが、どれほど価値があるか、これを機に様々な議論が交わされ良い方向に進むことを期待します。

そもそものアスリート支援やスポーツ振興に使われる税金が少なすぎると個人的には感じますが、これまでの補助金の使われ方が正しかったのか?という点についても色々と疑問はあります。


あと、スポーツはオリンピック競技だけではありません。

夢・目標を持ち世界に挑戦するアスリート達が社会に与えるチカラを
私たちBLUETAGもアスリート達とチカラを合わせて証明していきたいと思います。


Jリーグ発足にも色々なドラマがあったと聞きました。
前例がないとか時期尚早とか、変化(CHANGE)を避けていては何も変わらないと思います。日本のスポーツ文化は間違いなく変わらなければなりません。来年はサッカーW杯の年ですが、Jリーグなくして今の日本代表はあったでしょうか? 
最近ランニングブームで女性のランナーもたくさん見かけますが、2000年シドニー、高橋尚子金メダル、2004年アテネ、野口みずき金メダルとトップアスリートが輩出されたことが影響していないとは思えないのです。
記者会見された太田選手もメダルを取るまで知らなかった方がほとんどだと思いますし、フェンシングという競技に対しても認知は低かったと思います。

今回の記者会見を通して、太田選手はじめアスリートの立場からしっかりとした意見を出し、今後のスポーツ文化の発展と人間力のあるトップアスリートの輩出に向けた改革へつながることを期待しています。

posted by buruta |07:49 | buruta | コメント(6) | トラックバック(0)
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