2009年01月30日
ずいぶん楽しませてくれたことに、先ず御礼を言いたい。
豪州に住んでいて、これほど日本人に入れ込む機会を作ってくれた二人に最大限の感謝。
ウィリアムズ姉妹(米国)に3-6、3-6で敗れた。
それにしても、強烈姉妹だった。速射砲だった。
敗因はいろいろある。
1) 姉妹の強烈なストロークに負けた。
2) サービスゲームを杉山が維持出来なさすぎた。
これに尽きると思う。
日本人にとって、2009年の頭書を飾る忘れ得ぬ快挙であった。
杉山組の今年の残りの大会制覇に、我々も引き続き応援したい。
ありがとう。
posted by buruta |20:54 |
gensan |
コメント(0) |
トラックバック(0)
2009年01月29日
全豪オープン会場のあるメルボルンのヒート・ウェーブは弱まらず、今日29日は午前で水銀柱が39度近くに上昇。
昨日書いた、エクストリーム・ヒート・ポリシー、EHPが適用された。
コートの外の気温が35度以上、湿球黒球温度が28度を上回れば、主審が試合開始時間を遅らせることができるようになっている。
準決勝戦出場の杉山・ハンチュコバ組は、屋内コートに変更された。これも、ツキにまわった。
ノーシードのナタリー・ドシー(仏)マラ・サンタンジェロ(伊)組に6-4、6-3で快勝し、優勝に大手をかけた。
落ち着いてプレーすれば、優勝は直ぐそこまできた。
ノーシードとはいえ、ダブルスの優勝経験者だ。
第1セットは、ハンチュコがボレーで頑張り、時折好タイミングで見せるロビングで、相手のミスを誘った。相手にロビングで揺さぶりをかけた。
ロブは、守備でも攻撃面でも、心理面でも、タイムリーに使うと見事な武器になる。ハンチュコの成長も大きな勝因だ。第1セットを6-4で取った後は、第2セットは楽々に勝利を収め、とうとう杉山は、ダブルスで全仏オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープンに続いて、念願の4大大会全制覇を目の当たりにするとこまで駆け上がってきた。
二人の優勝を祈りたい。どうせなら、頂点目指せ! ガッツでいこう。
posted by buruta |19:59 |
gensan |
コメント(1) |
トラックバック(0)
2009年01月28日
テニスの全豪オープンは、27日、メルボルンで第9日に入った。女子シングルス話題のジェレナ・ドキッチは、ついに昨日で力尽きた。
昨日27日、メルボルン・パークでの女子ダブルス準々決勝。
杉山・ハンチュウコバ組が、世界第1位のブラック(ジンバブエ)フーバー(アメリカ)組を破って、優勝に大手をかけた。2年前の準々決勝と同じ顔合わせ。で、その時の敗戦が二人の頭をよぎったことは確かだ。忘れるにも忘れられない試合だ。見事な粘り勝ちだった。見事なリベンジだった。
オーストラリアは、グランド・スラムがおこなわれる国で、唯一extrem heat policyを持つ国だ。エクストゥリーム・ヒート・ポリシーとは、EHPといい、コートの外の気温が35度以上、湿球黒球温度が28度を上回れば、主審が試合開始時間を遅らせることができるようになっている。
昨日のメルボルンは、34度。今日は41度の予想。明日木曜日は40度。金曜日も40度。女子ファイナルの土曜日は40度。男子優勝決定戦の日曜日は辛うじて30度に。杉山組の試合は3時間にも及ばんとする熱闘・死闘だった。
圧巻は第3セット。マッチポイントを7回もとられながらの反撃は痛快だった。ハンチュコバが強烈なサーブがますます冴え始めた。杉山がボレーを決める。
3時間の末に、杉山・ハンチュコバ組が世界一のペアをコートに沈めた。一度は失いかけたゲーム。諦めずに丹念に拾い上げて、ボールに食いつき、いよいよ優勝へ大手をかけるところまできた。二人の闘魂は、コートの温度以上だった。
準決勝はノーシードのフランス・イタリア組と対戦だ。声を限りに、われわれ日本人は声援を送ろうではないか。
posted by buruta |12:25 |
gensan |
コメント(0) |
トラックバック(0)
2009年01月25日
まずは、当地で行われているテニスの全豪オープンで、杉山愛とダニエラ・ハンチェコバ組が、ベスト16入りを果たした。
相手は、ベラ・ドゥシュビナ(ロシア)とオルガ・サフチュク(ウクライナ)組。杉山組は、連係プレー良く快調で、第2セットでは、頭から5ゲーム連取の“超快調”だった。6-4,6-1と相手を寄せ付けなかった。
果敢なる挑戦に、日本人として惜しみなく応援したい。
さて、写真で見るテント・ボクシングとは、オーストラリアで1920年代から1960年代にかけて、収穫祭などで一般的にみられた娯楽である。ヘルメットを着用するでもなく、名前入りのパンツをはくでもなく、ごく普通の男女がテントの中で相手を打ちのめすのだった。
時の流れか、今日では、もうそんじょそこいらで見ることのできない昔の余興になってしまった。
これはイングランドが始まりと聞いたが、今では、アメリカでも、危険だと言うことで、このスポーツは禁止されてしまった。オーストラリアの砂漠地帯の町などで辛うじて生き延びている娯楽スポーツだ。
言ってみれば、プロ・ボクシング興行の旅一座である。この一座は、オーストラリアの炭坑の町や砂漠の町を旅して歩く。地方に祭りがあれば、大型テントを持って、出かけて行く。観客のすべてが現金を掛けるのである。
オーストラリアで有名だったのはロイ・ベル一座、ジミー・シャーマン一座、フレッド・ブロフィー一座。
ジミー・シャーマンの唄があった。
スポットライトに照らされて・・戦う
目は肌より輝く黒くなる
ジミー・シャーマンのボクサーにとって、
勝てってもそれ以上のことはない。
暗闇の中に立って、ゴングを待って並ぶ。
最初で最後のホテルで
日々酒を飲んで明け暮れる。
どうして、われわれはこんなことのために戦うのか?
どうして、こんなことのために人はカネを払うのか?
人はカネを払って、まるで 爆弾のように
俺が床に倒れるのを観る
その訳は何なんだ?
その訳はあるのか?
それを求めてひっきりなしにやってくる
観客の理由は何なのだ?
ジミー・シャーマンと言う男は、1911年にニュー・サウスウェールズ州南部にあるワガワガという町で、ボクシング一座を興した。ショーをしながら、60年もの間、ドサ回りをしていた凄い男だ。
しかし、一座が一座、皆姿を消していき、世界のテント・ボクシングで生き残ったのは、フレッド・ブロフィー一座のみという。
フレッド・ブロフィーの妻サンディは、常にゴースト・タウンに惹かれている。クインズランド州のバンダーバーグの西200キロのクラコウを訪れた時、彼女は町の古いホテルに惚れ込んだ。
フレッド・ブロフィーは、クインズランドのクラコウでクラコウ・ホテルを経営するプレーイング・マネージャーだ。ホテルの中をオージー好みのアウトバック風のパブに改造した。どうすれば、アウトバック・パブをひと味違うものにできるか? ゴースト・タウンのクラコウに輝かしい将来はあるか?を大まじめで考えている。
今も、妻のサンディ、息子のフレッド・ブロフィー・ジュニアとともに、オーストラリア中を旅していると聞いた。ブロフィー・ジュニアは、テント・ボクサーの世界では、世界で唯一人の第4世代の子どもだ。
初期のテント・ボクシングについては、ほとんど詳しいことが知られていない。現代になってからも、主催者がメディアを遠ざけたために写真もほとんど残っていない。
豪州では、テント・ボクシングは、選手の健康上の問題から1971年に基本的に禁止された。フレッド・ブロフィーは、死ぬまでボクシング旅一座の興行を続けると言い張っているらしい。
フレッド・ブロフィー・ジュニアは、世界最後のテント・ボクシングのショーマンだ。旅一座の芸術家として、第4代を継ぐ。
テレビやラジオが発達する前に、奥地には物を語るという強い伝統があった。 夜の人々のキャンプファイアの周りでは、糸をつぐみながら話を聞く。真実の話は、糸つむぎの邪魔にはならなかった。フレッドはこの伝統をもって生まれてきた。彼と飲むチャンスがあれば、確実にその昔の夢物語を聞苦ことができるという。
彼の話から、テントボクシングが何であるかを学び、生き残った現役のショーマンから酒場の話しも聞ける。
ブロフィーの下には、デイヴィッド・クラークというボクサーがいる。アマチュア時代には、52戦48勝だったらしい。キッド・ゴアンナというボクサーもいる。闘いの後は、必ず対戦相手にビールをご馳走するというお人好しだ。
“カウボーイ”ブレア・ウィルソンはテント・ボクシングの語り草の人物である。 彼は、有望なプロのボクシングキャリアを築き、テント・ボクサー人生を送った。
12年もの間、カウボーイは、テントの中で闘った。それは、成人してか
らの彼の人生の大半であった。そして、一度も負けたことがないというのだ。
テント・ボクサーがグラブ裁きが上手であるだけの必要はない、カウボーイとはそもそも何者であるか、つまりは偉大なるテント・ボクサーの話をしまくるという。一度是非会えないものかと密かに考えているのだが。
楽しみの少ないオーストラリアのアウトバックと言われる砂漠地帯に潤いを与えていた、テント・ボクシングはすでに絶滅種。そこで観客を湧かせていたボクサーたちの話をたっぷり聞ける機会はないものか、つくずく思う。
posted by buruta |10:25 |
gensan |
コメント(0) |
トラックバック(0)