2008年02月29日

Speedoおじさん オーストラリア勲章の受賞

ファッションには、時代によって浮き沈みがある。
しかし、クラシックにはそれなりのしっかりした市場がある。世界のトップスイムブランド「SPEEDOS」の陰にいた一人の男性に、建国記念日のオーストラリア・デーにオーストラリア勲章が送られた。

 
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その名を、ピーター・トラヴィスさん(下の写真左の人)という。すでに80歳の方だ。ベトナムでは60歳以上を“”とよぶが、ベトナム流でいけば、とっくにトラヴィス翁だ。シドニーは、1929年に海岸の街マンリーで生まれた。デザイナー、彫刻家、陶芸家、凧製作家、教師という彼の総合的な業績に対する勲章だった。

 

変わったところでは、1950年代初期に、ミス・マンリー・パレードの最初のエスコートになった。

 
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写真:「シドニー・モーニング・ヘラルドより」
 

彼がSpeedo Holdingsに入ったのは1959年。そして、1960年には、ボスから、ハワイをモチーフにした海外用のファッション・ブリーフを作ってくれないかと、相談を受けた。

 

彼の答えは、こうだった。

「そういうものは、やがて世界の人たちが誰も考えることだ。私ならスイム・トランクスを始めたいね」と。

 

ピーター・トラヴィスさんは、若い時に音楽教師の訓練を受けていた。しかし、デザイナー、芸術家であり教育家のフィリス・シルト氏に師事していた彼は、子どもの時からの工芸の情熱を捨てきれなかった。

 

彼は、ファッション・ハウスのバイヤーとしての仕事をし、その後、子ども服の商標の仕事を始め、更にその後工業デザインの仕事についた。

 

「私はデザインと色にはものすごくこだわりをもっています。それに全力を打ち込みます」・・・過去形ではなく、現在形で答える。

 

有名なコスチュームのデザインに当たって、欠かすことの出来ないことは、ヒップにどうパンツを位置づけるか、どうフィットさせるか、だという。

 

「お尻は安定している。胸の当たりに何かを付けるのとは違うんです20080229-03.jpg


 
トラヴィスさんは、安定しているお尻に目をつけた。腰ではなかったのだ。美学的にも理由のあることだという。尻に付けた物は、7.6センチ以上には広がらないことがわかったのだ。そして、「スピード」のブリーフが誕生したのだ。

 

トラヴィスさんは、尻の側の素材を3インチ短くカットした。機能性のあるスイムスーツにとって、それがギリギリの線だったとも言う。「もし脚を正常な角度であげるなら、カットの形はまさにピタリです」

 

そのコスチュームは直ちに当たった。だが、すべてのオーストラリアのスイム・トランクスのメーカーがそれに右習えしたわけではない。そのデザインは取り澄ました人たちの怒りを買った。やれ、ゲイが履くものだ。やれあまりにもセクシャルだ。やれエロティシズムだ。このカットを受け入れない人も多かった。

ボンダイ・ビーチの風紀委員は、海岸でそのコスチュームを着用した人を逮捕した、という。なんとも今考えると滑稽なことだ。

 

トラヴィスさんは、判事は罪を追求しなかったという。それは公衆の面前でヘアーを見せるのとは違うと判断したからだ。

やがて、プールでのトライアスロンや海岸でのサーフボード競技会などでスポーツ素材としても広がりをみせた。

 
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このスイムスーツは、多くのオージー・スラングを生んできたようだ。しかし、一つの文化がはやるということは、こういうものだと、私は思う。


シドニーでは、「スピード」のスイム・トランクスを5000着も集めている人がいると聞いて驚いた。


デザインにおけるトラヴィアさんの想像力と新機軸、習慣に対する挑発的とも言える取り組み、材料、形、色に洞察的考察と十分に調査した取材の固さなどは、今となっては知られているが、当時はほとんどの人が知らなかった。十分な調査があって、初めて世界の水泳選手が使うスイムトランクスが誕生したのだ。

 

トラヴィスさんは、1961年にSpeedoを退社した。そして、芸術家として教え、自身も学ぶことにした。

 

「会社は、普通のビジネスマンになって欲しかったようです。一緒にゴルフをやりたかったようです」

 

トラヴィスさんは、陶芸の世界に入った。以来、トラヴィスさんは、大学、高校で何千回と教壇に立った。そして、主として陶芸家として、マンリー・美術館・博物館やパワーハウス・ミュージアムなど国内はもとより、世界の美術館、博物館で展示会を開いてきた。

 

その後、色の布の世界にはまった。それでボンダイ・ビーチでのたこ揚げ大会につながるひらめきを得る凧作りに携わる。

 

心は常に地域社会参加を念頭に置いて、家族で楽しめる凧揚げのワークショップも80回も開いた。この30年、トラヴィスさんは、巨大な凧を国外での揚げてきた。

 

首都キャンベラの議会のカラー・デザイナーとして活躍し、主要部分の木材や大理石も選別した。吊り天井のようなデザインをした公共建築物も建設してきた。

 

80歳。まだまだ一暴れも二暴れもできる。楽しみだ。(了)


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2008年02月21日

乳ガンと闘う豪州ピンク軍団

ことスポーツをするにおいて、太っていようが、痩せていようが、頭に髪の毛がなかろうが、気分が優れなかろうが、最悪の状態であろうが、魅力的な人であろうが、あるいは貧相であろうが、全く関係はない。スポーツをやろう・・という意志が大事である。

 
オーストラリアのドラゴン・アブレストのボート・クルーたちは、乳ガン患者か経験者、あるいは彼女らを支えてきた人であれば誰をも歓迎するピンク軍団である。「どうぞ、いつでも私たちのボートにお乗りください」と。

 
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元気になりたい、新しい友達を作りたい、楽しみを得たい・・と言う人は大歓迎だ。みな、その気持ち以外にないだろう。

 
ガンを患っている人、ガンを患ったことのある人なら、みなそういう気持ちをもっているのだ。



ドラゴン・アブレストでは、「あなたではボートが漕げないでしょう」「あなたはボートを漕ぐには十分な健康ではありません」という言葉は禁句になっている。

 

そう話すのは、ドラゴン・アブレストのシドニー支部でコーディネーターを務めるシンシア・クイパーさんだ。「私たちは、ボートでレースをしたことのない人たちとよくレースをします」

 

ここでの最高齢は72歳。しかし、女性の大半は50歳代後半だ。女性長寿国の仲間入りをしたオーストラリア。50代後半といえば、これからの人生が長い。


ボート気違い・・と自ら名乗る先ほどのクイパーさんは、2002年に乳ガンにかかった。その6週間前には、乳房X線写真で、疑い無しとされながら、風呂場の明かりの下でしこりをみつけたのだ。乳腺腫摘出手術をして、放射線療法を受けた。しかし、この病気で、彼女は人との接触を遠ざけることになり、孤独になった。

 

「ドラゴンズ・アブレストにいれば、髪の毛がなくても人前で顔を見せられる。リンパ浮腫で手が膨らんでも人目を気にすることはない。誰も、じろじろ見る人はいない。なぜなら、多くの人がそういう経験をしてきたし、皆分かっているからです。逆に、誰もがその話を拒んだりもしません」

 

「ボートに乗って如何に楽しむか。でも、皆が、お互いの病状の進行状況に関心をもっています」

 

クイパーさんは、彼女の人生のほとんどの期間を、“たゆみ無く”スポーツを避けてきた。だから、ボートを始めるにあたって、体力に全く自信がなかった。しかし、今や、かつてよりも、彼女は健康になっていると認める。

 

「ドラゴン・ボートに乗ると、何か不思議な力が湧いてきます。自分で考えているよりも、努力がもっと可能になるとわかります20080221-00.jpg


多くの女性は、乳ガンに巡り会うと、自分の体を過保護にします。当然です。しかし、実は人間の体はいろいろなことが出来るのです。冒険の気持ちが湧いてきますし、もともと持っていた生命の火を燃やすこともできるのです。しかし、そういう女性の気持ちは治療を受けている間に打ちのめされて消えてしまったのです」



ドラゴン・ブレストは、オーストラリア全国で31のクラブがある。友好と楽しみを主眼としており、ボートは競争を排除している。もちろん、女性の中には、もうちょっと先を進んで競争も大事だと言う人たちもいるが。

 

ジェニー・ピーターソンさん、44歳は、その一人である。彼女は、国内、国際競技会でのボート競技に参加しているスポーツ・ウーマンだ。

 

ピーターソンさんは、10年前に乳ガンにかかった。そして、3年後に肺に転移した。彼女が、ボートをこぎ始めたのはその時だった。

 

「ボートは好きです。ガンについてはあまり考えすぎることはありません。楽しく漕ぐことを考えるだけで精一杯でした」

 

カヌーもどきのボートの長さは12メートル。2列になって20人が座れる大きさである。他に、舵取りのような長いオールをもったスイープが一人と、主として式典などの場合には、鼓手が一人乗る。

 

従って、ドラゴン・ボートの1チームは、サッカーの2チーム分に匹敵する大人数だ。1艘のボートに乗り込むクルーの力は偉大だ。

 

ピーターソンさんは、こう話す。

「チームは大きく、仲間意識も大きいです。常に気分は高揚します。あまりスポーツをしていなくても、ついていけるスポーツの一つです。ボートに乗っている仲間に加わればいいのです。出発すれば、楽しさが一杯乗っています」

 

病院を退院したピーターソンさんは、また、このボートに戻る計画をしている。

 
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シドニー・ドラゴンズ・アブレスト・クラブは、昨年は、中国の旧正月、春節の行事の一環として参加した。オーストラリア全国から参加したクルーが、競い合った。腫瘍学者、放射線治療医、看護婦らシドニーの病院で医療に従事している医療関係者もチームを作った。患・医一体の楽しみ方だ。

 

クイパーさんは、ドラゴンズ・アブレストという言葉を、ガン治療している医療現場の人に広めたいという。そうすれば、医療従事者が、患者にその話が出来るからだという。その結果、ガンを生き抜いた人が、さらに多く、ボート漕ぎの良い面を発見出来るという。

 

「患者は、ガンにかかったと知って、完璧に打ちのめされます。それは、生存率が低い時代にかかった患者の事が頭にあるからです。近年は、生存率は非常に高くなってきました。多くの人が早期発見をしているのと転移に対処する医師の治療が極めて向上したからです。昔と同じように健康に戻れない理由はありません。あなたを励まし、さらに楽しみを同じくする多くの人々と一緒にいれば、一層そう感じるはずです」

 

最近、中川恵一先生という癌対策法の制定に尽力された東大病院放射線科準教授が書いた「がんのひみつ」(朝日出版社刊 定価:680円+税)という、極めて優れものの本が出版され、関心を呼んでいる。『がんのひみつ』の最新情報をお書きになっている。ぜひ一度ご一読を。
自身の誤解を正し、安心をえるには、この定価は安いのではないか。

 

ガンにかかったからといって、閉じこもらないことだ。仲間を作り、楽しく過ごすことだ。そこにこの「ドラゴンズ・アブレスト」運動の良さがある。オーストラリアのポップ・スター、カイリー・ミノーグさんも見事に立ち直り、芸能活動を元気に再開している。

 

ドラゴンズ・アブレストの女性たちは、オーストラリア、カナダ、イタリー、ニュージーランド、香港、シンガポール、アメリカの乳ガン患者とも連帯している。なぜか、日本の名がみあたらない。言葉の問題? 違うだろう。心の問題か。

 

今日も、オールを漕いで水しぶきを飛ばしながら、乳ガンの患者や乳ガン経験者の女性たちのピンク軍団の元気な声が、川面に、水面に聞こえる。(了)


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2008年02月08日

タスマン海を横断した若者の話(下)

1日1食を続けながら、行程の2/3あたりになると、1日12時間を漕ぐことから派生する上半身の疲労は別として、何週間も座ったままの時間が多く、足の筋肉が激しく落ち、体重も落ちた。


二人は、ついに1月13日日曜日の昼過ぎに、ニュージーランド、ニュープリマスのガモツ海岸に到着した。マオリ族伝統のカヌー“艦隊”の出迎えを受け、海岸にはニュー・プリマスの町民全員を上回る5000人以上が祝福したという。生バンドの演奏に加えて、海岸には、テレビの大型スクリーンまで登場。

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二人は、髪の毛も髭もぼうぼうだった。「思った以上に元気だ」と、出迎えた人々は驚いた。両親との再会は、言葉にならなかった。


予定より1100キロ多い3300キロを超える距離を、“漕”破した二人の若者。世界最長のカヤックによる航海になった。カストリッションさん(ゴードン在住)とジョーンズさん(パディントン在住)は、2007年の11月13日に出てまるまる2ヶ月の62日の航海を終えた。途中の支援は一切無しの横断だった。総費用は25万ドル(約2500万円)にのぼるという。

カストリッションさんの妹ライアンさんは、「彼らは次に何をするか言わなかったが、どっちみち大きいことでしょう」と言った
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精神的な疲労から速く立ち直ってもらいたい。
成功 おめでとうと、心より祝福したい。



戦時と平和時の違いはあるが、この若者の横断は、日露戦争当時の沖縄の若者とどこか符合するのである。


時は明治38年。西暦1905年。

日本はまさに日露戦争の真っ只中。ロシアのバルチック艦隊の出現に備えて、日本軍は日本沿岸中に監視所を置き警戒を続けていたがバルチック艦隊の所在の情報は得られなかった。


そんな5月25日、奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年が、宮古島沖を北上しているバルチック艦隊に遭遇した。バルチック艦隊も彼を視認していたが、独特の長髪のために中国人と判断して捕えなかった。


奥浜は宮古島の漲水港(現:平良港)に26日午前10時頃に着き、駐在所の警察官とともに役場に駆け込んだ。

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宮古島は大騒ぎとなった。当時の宮古島には通信施設がなかったため、島の重役・長老達の会議の結果、石垣島にこの情報を知らせる使いを出す事となり、宮古島「松原」「久貝」地区から垣花 善・垣花 清・与那覇松・与那覇蒲・与那覇蒲(同姓同名)の漁師5人を選抜した。垣花 善を除けば、全員が20代である。


5人は15時間、荒れた海の中170キロの距離をサバニ(琉球列島の漁業従事者に古くから使われていた漁船のこと)を必死に漕ぎ、石垣島の東海岸に着いて、さらに30キロの山道を走り、5月27日午前4時頃、八重山郵便局に飛び込んだ。局員は宮古島島司(島長)からの文書を垣花善から受け取って電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。


しかし、電報は中継が多く連合艦隊に達したのは信濃丸の「敵艦見ゆ」の報告とは1時間遅れであり、あまり評価されることもなかった。 
昭和の初期にこの事実が発掘され、国文教科書に「遅かりし一時間」と題する見出しで初めて世に紹介され、五勇士は沖縄県知事等から顕彰された。


南海の孤島の5人の漁師がこのような困難な任務を果たしたとは、当時の日本人の普通の庶民であっても国難にあたり素朴な国への勤めを身に付けていたあかしだ。いつの時代も、若者があってこそ歴史が作られていく。

(終わり)



>タスマン海を横断した若者の話(上)


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2008年02月05日

タスマン海を横断した若者の話(上)

我が家にほど近いワールンガという地区にあるノックスという学校の卒業生2人が、シドニー・ハーバーを出て、向こう側のニュージーランドまで、2200キロをダブル・カヤックで漕いで渡りきった。

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因みに、30年以上も前の1976年には、67日間かけて、ニュージーランドのコリン・クインシーさんがボートでタスマン海を単独で漕ぎ、クインズランドのマーカスビーチに到着した、という歴史がある。

 

昨年の11月13日に出て、今年1月13日にニュージーランドのニュー・プリマスに到着するまで、62日間の決死のパドリングだった。

 

この若者たちをご紹介してみたい。

 

二人は、ジェームズ・カストリッションさん(25歳)と、ジャスティン・ジョーンズさん(24歳)だ。

 

当初45日から55日をかけて横断するつもりだった。

 

無謀と思えるかも知れないが、スポンサーから集まった金は、シドニーの子ども病院を援助するために送るという、大目的があった。

 

彼らにとって、これが3度目の航海となる。

第1回は、2001年。スレドボからグールワまでのマレー川全長2560キロを“漕”破した。49日をかけて。これが、マレー川全長の初の縦断となった。

 

第2回は、バス海峡に挑んだ。350キロ。3月から4月にまたがった。9日かかった。6日間漕いだが、3日間は悪天候で待機を余儀なくされた。しかし、バス海峡の横断に成功した。

 

3回目のタスマン海横断の計画は、目標を絞って5年の歳月をかけて暖めてきた夢だ。

 

特注のダブルカヤックを“造船”した。船名を“ロット41”。パドル・オールには、堅忍不抜の決意をこめて、resolutionと入れた。寝る船室も作った。自然の猛威からの保護も考えた。悪天候、鮫、コンテナー船、海水に晒される・・などが当面予想される敵だった。

 

「バス海峡探検では、オーストラリア本島とタスマニア島の間の島々で寝ることが出来たので、ラッキーだった」

 

「今度の探検では、シドニー・ハーバーを出たら、次の陸地はニュージーランドの西海岸しかない」

 

二人の毎週のトレーニング内容は、55キロをカヤックで漕ぐこと。短距離のカヤッキングを週2回。週2回ジムでの体力強化。週2回の心臓トレーニング。ブルーマウンテンでの1日登山をやり抜いてきた。この他にも、寒いときや雨の日に朝4時半に起きて、トレーニングをするなど全天候型で訓練を積んできた。カストリッションさんは言う。


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タスマン海を世界で初めて横断することができるという自信と信念が、最も強い動機が推進力だ」

 

「毎朝起きて、この夢を完全に成し遂げられると信じるのだ」

 

先ず、「成功すると決める」結論ありきだ。

 

二人は昨年11月13日に、シドニーから北へ200キロのフォスターから出発した。この日の出発までに、2回も出発の延期があった。より一層装備を充実させるためだった。クリスマスまでにはニュージーランドに着くだろうと期待して・・・。

 

しかし、計算通りにはいかなかった。

 

海水を真水に替える電気式の脱塩器のパワーが故障した。ニュージーランド北部のサイクロンのため強い向かい風と、強い海流が待ち受けていた。途中、サイクロン6メートル、8メートルの大きなうねり、時には10メートルの波もあったという。船酔い、疲労・・睡眠不足 船室内の高温。

 

向かい風は漕ぎ手にとって、最大の敵だ。スピードは、もろに影響をうける。だから、楽しさも吹き飛び、漕ぐ喜びが失せる。カヤッカーの精神が試される。

 

大波をかぶり、船室のドアから浸水して寝具からすべての衣類を濡らした。何日かかけて乾燥させた。

 

速い海流に苦闘した。探検の最後の方では、全く流れの少ないスポットに当たり、助けられたこともあった。

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海流に押し流れたことも何日もあった。

大自然を前にして、人間の力は時として全く無力だ。2200キロを42日間で、当初の目標は、強い潮の流れで大きく崩れた。探検の途中当たりで、向かい風と強い流れで、オーストラリア方向へ押し戻された。写真でみるように、大きなループを描いて、航路を戻さなくてはならず、合計で1、000キロ以上のロスが出た。日数にして20日近くを余計に櫓で漕がなくてはならなかった。

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どうしたら、これをのりきれるか?」

「オーストラリアを出てから最高のおしゃべりをしてた」

「話はすばらしかった。今までわれわれがやってきた探検の話をしながら、漕いだ」

「ある日の午後はすばらしかった。タスマン海に全く波がなくなり、これぞ最高のパドリングだった」

二人きりだが、意見の食い違いもあった。彼らはこう言った。
「We bring each other through the hard times and the good times and the bad times」

(つづく)
 

【お詫び】前号で、川越尚子さんのご紹介に正確さを欠いていました。川越さんは、森林インストラクターという肩書きで講師として活躍されているほか、(日山協)自然保護指導員として山の清掃、管理を手伝い、また(社)日本山岳会の会員でもいらっしゃいます。ここにお詫びして訂正申しあげます。


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