2008年01月20日

平均年齢67歳のコジオスコ登頂に万歳

オーストラリア最高峰のマウント・コジオスコをめざして、平均年齢67歳の日本の登山グループ30人が来豪した。

 

季節良し、天気良し。30人の登山愛好家の皆さんの登頂を祝福するように、夏山の好条件が揃っていたように思う。

 

1月14日の昼前に、ガイドの黒沢亜都志さんから私の携帯に電話がかかってきた。「今コジオスコの山頂です」

「えっ?・・・」 正直驚いた。山頂から電話をもらったのは初めてだった。

「皆さん元気に登りました!」

「おめでとうございます!と、宜しくお伝え下さい」と私。

30人の息づかいが聞こえるように鮮明な声だった。

 

彼は、頂上で聞いた。

「頂上と言えば、何を食べたいですか?」

質問の意味がつかめず、皆キョトンとした。

「頂上と言えば、おにぎりでしょう」

彼は、朝早く起きて、炊飯器で2回炊いて、30人分のおにぎりをこっそりと作った。

「皆さんに喜んでもらいました」

ガイドの心遣いが、登頂に大きな花を添える。


コジオスコ・マウンテン・レンジのスレドボ側にある高速リフト、コジオスコエクスプレスを利用すると、1400米弱のところにある麓から、オーストラリアで最も高所のレストランがあるイーグルズネストハット(約1900米)まで運んでくれる。

 

そこから標高2228メートルの山頂までは、標高差300米。富士山より1500メートルも低いという気安さもある。

 

ハットから山頂までほぼ7キロ弱。オーストラリアで最も高所にあるちっぽけな氷河湖クータパタンバ湖を見ながら山頂へ。整備された登山道を歩かれた皆さん。オーストラリアの夏山のすがすがしさを堪能されたに違いない。




登山家の田部井淳子さんが登頂したのが1991年。あれから17年もたっている。コジオスコの人気は、夏冬とも衰えない。

 

今回コジオスコを登頂された30人を代表して、最高齢の76歳の川越尚子さんにお話をうかがった。愉しそうに話される川越さんは、声も姿もお若い。歯切れがいい。澄んだ空気たくさん吸うと、声も澄み、心の中まできれいになるのだ。

 

マウント・コジオスコは、なんとポーランド人の名前だ。由来は、1840年に、ポーランドの探検家が、祖国の人造の小山の形が似ているために祖国の英雄コジオスコ将軍の名を命名した。

 

川越さんは、この山を「女性的な山でした。優しく迎えてくれました」と、美しく表現してくれた。「別に6大陸の最高峰に挑戦というそんな大それた気概ではなく・・・仲間も今回多かったので参加しました。雲一つ無い好天で・・・」

 

「自然がすばらしかったです。花がとっても綺麗でした。来る前に想像していたよりはるかに良かったです。国分寺の山の会にも入っているので、帰ったら是非ここを勧めようと思います20080120-05.jpg


日本の環境庁のお役人さんに、ここの登山道をみてほしいと思いました」と、一段と声を高めた。川越さんは、森林インストラクターや日本山岳会の自然保護指導員も務めて、講演もされている。

 

「金網が敷かれていて・・滑らない・・水は染み込む・・草も下から生えてくる。ほんとうにすばらしいと思いました。日本では大台ヶ原などで木道ができています。宮大工につくらせた、釘は1本も使っていません・・なんてお役所は言います。でも、木は濡れたら滑りやすくなります。オーストラリアの細かい配慮がすばらしいと思いました」

 

「ストックなんかでも、先の細いのではなくて、キャップをはめて・・・それで突けば、すこしでも土にダメージを与えないようにと、そういう考え方も持っています」

 

川越さんが日本山岳会に入ったのは10数年前だが、山を歩き始めてもう50年以上もたつ。

 

タンザニアのキリマンジャロ(5895米)、アンナプルナのベースキャンプ、ボルネオ島のキナバル山(4101米=東南アジア最高峰)、パプアニューギニア最高峰ウィルヘルム山(4508米)、ロンボク島のリンジャニ山(3776米)などなど。そしてロシアの山にも挑戦されている。

 

川越さんの長い登山歴を彩ってくれる世界の山々の代表だ。

 

今まで一番印象に残る山を一つあげてくれますか?

 

「たった一つだけですか?・・・ロンボク島のリンジャニ山ですね。登るときが辛かっただけに・・良かったと思います。68歳の時の登山です。夫が71~2歳だったと思います」

 

ご夫婦一緒の登頂だった。だが、3年前にご主人を心筋梗塞で亡くされた。


「前日までボランティアをしていたんです。半月前まで登山していました。急性心筋梗塞でした」

 ご主人が生きていらしたら、1月14日もきっとお二人でコジオスコ登山をされたに違いない。

 

リンジャニ山は、霊峰である。信仰者もいる。病を治す温泉もある。カルデラ湖もある。インドネシアの火山に愉しい思い出を残されたようだ。

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ご主人が亡くなられても、登山はおやめに・・?

 

「いえ、やめません」 即座に答えが跳ね返ってきた。

「生き甲斐と言えるほど力強いものではないですけど、やはり好きなんですね。山って面白いんですよ。登っている時は、しんどいでし、辛いんです。なんでこんな所に来ちゃったのかと。頂上について素晴らしい景色をみて、よかったと思うんです。で、帰りには、この次どこへ行こうかと思うんです」

 

山がほんとうにお好きなのだ。

 

「欧州にも、主人と1ヶ月くらいアパートを借りて住んだことがあります。3週間ツェルマットに、1週間はシャモニーに。シャモニーの娘夫婦と4人で歩き回りました。60代後半でしたが。毎日窓を開けると、前にブライトホルン(4164米)とマッターホルン(4478米)が見えて・・今日はどこへトレッキングしようかと・・。モンブランには登りませんでしたが、年齢相応、体力相応に登り方があると思いますので20080120-04.jpg


だんだん年をとってきますと、天気の悪い日は無理をしません。われわれは、転んだらおしまいですから。日本の山のように段差があったり、岩があるところでは、格好悪くても両手でつかんで転ばないようにしています。沢を渡る時も、若い時は飛び跳ねて渡っていましたが、今は一歩一歩ゆっくりと渡るようにしています。人様に迷惑をかけないように、それだけ気を付けています」

 

何でも若ぶったり、見栄をはる必要はない。自分に真面目に歩くことである。心から楽しむことである。他人のためではない。「安全が一番大事です」という川越さんの話は、どこでも、いつでも通用する話しだ。



で、今回の下山の時に次はどこへと決められました?

お答えはなかった。エアーズロックも登られた川越さんだから、オーストラリアなら、タスマニア最高峰のオッサ山(1617米)、ロードハウ島最高峰のゴウワー山あたりか、と勝手に想像してみた。

 

若さたっぷりの川越さん。ご主人の分も併せて、大地を踏みしめながら生きる小柄なご婦人・・そんな気がした。


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今回コジオスコに登山された30人の皆様のご健康を祈り、又のご來豪をお待ちしたい。

 

【取材はHISシドニー支店とガイドの黒沢亜都志さんのご協力を頂いた。厚く御礼を申し上げたい】




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posted by buruta |21:01 | gensan | コメント(1) | トラックバック(0)
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2008年01月06日

偉大なるスポーツ選手に学ぶ  パット・ラフター

テニスのオーストラリア・オープンが近づいてきた。

 

パット(パトリック)・ラフターという世界ランキング、ナンバーワンで、USオープンを2度制覇したオーストラリア人選手がいた。

 

彼はリーダーではないのではないか・・という考え方には疑問がある。確かにテニスは、個人競技だ。チームを率いたこともなければ、チームをコーチしたこともない。

 

だからといって、彼がリーダーでは無いというのは全くあたらない。彼は、スポーツマンシップを通して、オーストラリア人を引っ張ってきたからだ。

 

オーストラリアでもそうだが、単に勝者になるだけでは十分ではない。オーストラリア人の目には、ゲームに勝利するのと同じくらいに、どのくらい環境や諸事に勝利してきたかが大事だ。それを、オーストラリア人は、スポーツマンシップと呼ぶ。

 

一人のスポーツ選手の尺度を、勝利だけで見るのではなく、敗北という点で捉えるなら、彼はトップランクに値する。

 

パットは9人兄弟の一人。子ども時代のテニス少年は、特別に目だった子ではなかったようだ。他の兄弟は順調に大人になったが、パットは体力的にも強い方ではなかった。だから、敗北に次ぐ敗北だった。

 

勝利がなかなか得られないなかで、唯一継続的に繋がっていたのは、家族であり家族の支援だった。特に母親ジョセリンだった。

 

「母親は、トーナメントに全部ついてきてくれた。ネットの向こう側でボールを打ち返してくれた」

 

17~8歳くらいになって、ようやく同じ年齢の子の中で頭角を表すようになってきた。

 

パットは母親と試合を巡っていくことは好きだった。が、父親のジムとは同じことはしなかった。


「父親にコーチしてもらうことは嫌いだった。トーナメントに父親と行くと、真のプレッシャーがあった。楽しめなかった。父は好きだし尊敬もしているが、ことテニスに関しては、尊敬を払うことは出来なかった」

 

「父は、試合後には、建設的だが批判をする。それを、私は個人攻撃と思えてしかたがなかった。父はそれは分かってやっている。私がコーチのところに行くと、“こうしなさい”と言われる。父は、『それは自分が言ったことと同じじゃないか、と言う。50ドルも節約できたのに・・』」と。

 

父親は、一徹だった。サーブを手伝うにもまともなサーブをしないので、役にたたなかった。

 

父親は、パットのドライブに、冷静さを失ったこともあった。あるトーナメントで、父親はフェンス越しに、ラケットを蹴ってコートに入れた。父親はすぐコートからつまみ出された。そういう中で、パットは、スポーツマンシップを身につけていった。

 

パットのテニスが伸びて来るにつれ、希望も広がった。目標は、世界ランク50位以内に入ること、選手生活の最後には自分に家を買いたい・・と。

 
だが、パットの心が揺らぎ始めた。


「1992年だった。プレッシャーは大変なものだった。6~7週間、アジアのツアーを母と一緒に回っていた。当時、世界ランクは、250位~300位だった。参加資格のあるトーナメントに出場して回った。大体1回戦か2回戦で負けるのだ。東京にいた時だ。母と私は、マクドナルドで夕食を取っていた」

 

「2~3年学校にも行かず、ほとんど20歳に近かった。勝ち上がってきた同年齢の選手のプレーを見ていた。自分も勝ち上がっていていても不思議ではないという期待があった。この時の夕食で、母に言った。『このプレッシャーに耐えられるかどうかわからない。どうなるかわからない』と言った。すると、母はこう言って私のプレッシャーを取った。『パット、偉大な選手にならなくていいの。そんな必要ないよ。もしそうなる必要がないなら、それで構わないよ』と。母が言ってくれた言葉の中では最高だった。その言葉が、すべて私のプレシャーを取り除いてくれた」

 

兄のジェフも、大きな影響を与えてくれた。ジェフは、選手だったし、一時期パットのコーチも務めた。パットのプレッシャーをとるために、ジェフも一緒に動いてくれた。ジェフの考えは、プレッシャーとうまくつきあえた選手などいない、プレッシャーを脇に置き、違った行き方の出来た人、何か他に集中できた人は、真に成功できる人になる、と。

 

ジェフはこのアドバイスをしたが、ジェフ自身がこのアドバイスの犠牲者となった。1997年のオーストラリア・オープンで、パットはコーチを変えたのだった。彼は、兄が好きだった。兄ジェフとも仲が良かった。しかし、パットは、自分の経歴のこの時点で、誰か他の人が必要と感じた。

 

「兄を傷つけたことを後悔した。そのことは、母も父にも傷つけることになってしまった。彼らには、まだそのことで傷が残っていると思う。そして、ジェフも、少し変わって欲しいと願っていた。だが、すべての人は、それ(コーチを変えたこと)はいずれは自分のためにやらなくてはならないことと分かってくれていた」

 

新しいコーチで、8ヶ月後のUSオープンに勝利して、パットの経歴は期待を遙かに凌ぐものになった。国民はこの結果に湧いた。それ以上に国民は、パットを愛した。それからの数年は、オーストラリア人が愛したのは、勝利にしろ敗北にしろ、彼のフェアプレーと不屈の闘志だった。

 

しかしながら、彼の偉大な成功にも苦悩は付き物だった。


パットは、スポーツマンシップは、電気のスイッチのように付けたり消したりすることのできないものであると感じた。もしプレッシャーに躓けば、自分のプレーに差し支えるものだった。

 

フェアプレーの真髄だけでなくて、パットはトレーニング中であれ、試合中であれ、コート上に自分の何らかのものを残した人だった。

 

彼のコーチの一人だったギャリー・スティッカー氏は、「逼迫した感じのトレーニングは、必ず試合でいい結果を生む」という信念を教え込んだ。体力強化訓練は、4時間毎にコート上で行われた。パットは磨かれて闘士になった。決して投げ出さなかった。意志とスタミナで相手を圧倒した。

 

パットは一人のチーム・プレーヤーである。彼が尊敬するスポーツ選手は、クインズランド、ラグビー・リーグの語り草の人物マル・メニンガ選手である。パットは、チーム・スポーツがもつ仲間意識を羨ましいと思う。テニスの唯一の答えは、デイビス・カップだ。そして、パットは毎年の初めにカレンダーをめくり、4大トーナメントに印を付けた後、デイビス・カップにもマークを。

 

パットには、テニス選手なら、誰もが目指すウィンブルドンにも苦い思い出がある。彼には2回ウィンブルドンを制するチャンスがあった。

 

最初は、2000年の対ピート・サンプラス戦だった。パットは敗れた。

 

次は、翌年のクロアチアのゴラン・イワニセヴィッチ戦だ。

「ゴランに負けるとは思わなかった。最後の何回かは、彼に勝っていたから。その前年にも勝っているし。俺の時代だと思った。負けが来るとは思わなかった」

 

打ちのめされたにもかかわらず、彼はすぐゴランのところに駆け寄って握手した。気高いスポーツマンシップの手抜きをすることはしなかった。

 

父親がラジオのインタビューで、国民の気持ちを代弁した。


「われわれは、彼が素晴らしい選手だと思う。彼が心で狙ったタイトルを取れずに敗れるたびに、彼の試合にかける姿勢をみて自慢に思う」と。

 

彼は、国民を湧かした選手として、その後オーストラリアのスポーツ殿堂入りした。「彼が負けた時にこそ、『私の息子は偉大な人だ』と感じさせる」と、父親は語った。

 

そして、オーストラリア人もそう確信している。

 

【パットが挙げた指導者の条件】

・結果ではなくて、過程が大事だ。
・良いサポートチームを身の回りに置くこと。
・頭脳と効率に長けた準備。トレーニングと体力作りは不二。
・プレッシャーを取ること。
・敗北と勝利にどう向かい方を知ること。
・尊敬とスポーツマンシップを保てること。
・常に全力を尽くすこと。
・闘うことを学ぶこと。
・できるだけ簡潔に。
・自分を信じること。
・決して甘く見ないこと。二度チャンスは来ないかも知れないから。 

(了)

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posted by buruta |20:42 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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