2007年08月17日

サッカルーズ、新監督へ

すでに、多くのメディアも触れているが、オランダ出身の元サッカー選手、ディック・アドゥフォカート氏の監督就任は必至の情勢だ。彼は、今年の9月で丁度60歳を迎える。

 

アジアカップで敗れたグラハム・アーノルド現監督は、現在オリンピック・チーム(U23)を率いているが、9月のアルゼンチン戦と10月の対中国戦の国際親善試合後に、サッカールーズ監督からは引退することになりそうだ。

 

アドゥフォカート氏が、自前のアシスタント・コーチを連れてくるか、アーノルド氏をアシスタント・コーチとするかは、まだ不透明な部分がある。

 

今、当地選手の間にどういう感情がおきているかというと、サッカールーズの主体はAリーグ主体の有能な選手で構成される方針で、Aリーグの選手にはワールドカップがより身近になったことだ。

オーストラリア・フットボール連盟は、多分、今日、会合を開き、アジアカップ敗退の総括と、来るべきワールドカップ・南ア大会へ布石を検討する。

もちろん、この中には、ディック・アドゥフォカート氏の監督就任の件も含まれる。アジア・カップの早期敗退は、種々の角度から検討されねばならないが、沈没したオーストラリア・サッカーが浮上するには、Aリーグの選手をいかにして構成していくかが、欠かせない状況になってきた。

 

この会議議題の中心は、チームを率いるマネージメント能力、ゲームの計画と準備、そして、誰が監督になろうが、海外で活躍する選手よりも国内選手でより多くの成果をあげられる“何か”を探し出すことにある。

 

先週、アジアフットボール連盟は、2010年のワールド・カップに関するお触れを出した。それでは、一次予選でのオーストラリアの6試合のうち3試合は、週半ばに開催されることになった。

 

これの意味するところは、欧州で活躍する選手がキックオフの48時間前に、試合場に着くことは不可能であるし、仮に着くことが出来ても、時差や疲労の克服ができるかどうかとなると、これは正直不可能である。

 

二つの予選は、6月7日と14日に予定されている。この時は、ヨーロッパ在住の選手は、オフ・シーズンの真っ最中で、来年のワールドカップ予選の6試合のうちの5試合は、必然的にAリーグの選手を主体としたチームを組まなくてはならない。

 

アデレード・ユナイテッドとメルボルン・ヴィクトリーの選手は、アジア・チャンピオン・リーグがあるので、それより一足早くトレーニングが始まるが、

他のクラブの選手もAリーグが終わってもトレーニングは続く計算になる。

 

そういう点でも、来年は、Aリーグの選手に大いに活躍の場が与えられることになる。また、海外での活躍の重さは、そのまま選手の希望にもなる。何にも増して、選手にナショナル・チームの一員になれるというやる気を起こさせることは間違いない。

 

来年の最初の二試合の2月6日と3月26日は、サッカールーズは何が何でも、Aリーグの選手を必要とする。2月6日の試合にあっては、ヨーロッパ選手の参加する余地はない。そして、いいことに、Aリーグの選手のレベルは、欧州選手の不参加を心配させないところまできていることだ。

 

そういうことを考えると、イングリッシュ・プレミア・リーグのフルハムと契約したメルボルン・ヴィクトリーのDFエイドリアン・レイジャーの不在、デイヴィッド・カーニーのシェフィールド・ユナイテッドへの移籍で、予選出場が困難になったことは残念だ。

 

背に腹は代えられないこともあってベテラン勢に頼むことはあろうが、大事なことは、国際スタンダードをもった若手へのスイッチが必要だ。


新監督が常に情報を把握できることが大事である。



アドゥフォカート新監督発表は、11月で期限の切れるロシアのゼニット・サンクトペテルブルクとの契約が切れる11月までお預けで、来年2月のワールド・カップ予選には、指揮をとれるはずだ。

 

オーストラリア・フットボール連盟は、監督の更迭に踏み切ったと言っていい。

 

リトル・ジェネラルと呼ばれるアドゥフォカート氏の略歴だ。


2002年1月からルイス・ファン・ハールの後を受けて、オランダ代表監督に就任し、EURO2004では準決勝進出を果たしたが、2004年7月に辞任。
ボルシアMG、アラブ首長国連邦(UAE)代表監督を経て、2005年9月からドイツW杯まで韓国代表を率いていた。

EURO2004での采配ミスや、ボルシアMGや韓国代表での失敗により評価が下がってきているとも言われる。EURO2004グループリーグの大一番チェコ戦では、大活躍したアリエン・ロッベンをベンチに下げて逃げ切りを図ったが、守勢に回り逆転負けを喫した。地元メディアから皮肉を込めて「防衛大臣」の仇名を贈られ、国民の批判で大会後の監督辞任に至ることになった。


韓国代表監督を経て、2006-2007シーズンからはロシアサッカー・プレミアリーグ、ゼニット・サンクトペテルブルクの監督に就任。その時に、ドイツW杯で指導した韓国代表選手3名をゼニットへ加入させている。


選手経歴

デン・ハーグ(オランダ)

ローダJC(オランダ)

スパルタ(オランダ)

ユトレヒト(オランダ)

最後は、シカゴ・スティング(アメリカ)



コーチ及びアシスタント・コーチ経歴

オランダ代表: アシスタントコーチ 1984-1987 

ハーレム(オランダ) 1987-1989 

SVV(オランダ) 1989-1991 

オランダ代表: コーチ 1992-1994 

PSVアイントホーフェン(オランダ): 監督 1994-1998 

グラスゴー・レンジャーズ(スコットランド): 監督 1998-2001 

オランダ代表: 監督 2002-2004 

ボルシアMG(ドイツ): 監督 2004-2005 

UAE代表: 監督 2005 

韓国代表: 監督 2005-2006 

ゼニット・サンクトペテルブルク(ロシア連邦)2006- 

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2007年08月06日

ツール・ド・フランス

今年もやってきた世界最大の自転車レース「ツール・ド・フランス」。栄光のマイヨ・ジョーヌを目指し、死闘が展開された。


ツール・ド・フランスは、すべての信頼を失ったのか?


選手の相次ぐドラッグ使用で世界最高峰の自転車ロード・レースは高まる危機の中で、今年も開催された。


個人的には、こういうドラッグ使用が増えていることは非常に残念で遺憾に堪えないが、人が考えているほどこのレースに傷が付いているとは思わない。104年の歴史を誇る一つの確立された競技だ。


ドーピング・スキャンダルは、この10年ほどの最大の問題となっていることは確かだ。その前には政治的スキャンダルもあった。


昨年の優勝者アメリカのフロイド・ランディスの問題の後の今年ですら、問題が根絶やしになっていないことが証明された。

 

ステージ11の後、T-Mobileのパトリック・シンケヴィッツ(昨年プエルト事件に関与していたチーム"T-Mobile"所属)にプレ・ツール・レースでテストステロンの陽性反応が出たと発表された。ロイター通信によると、34歳のクリスチアーノ・モレリは19日の第11ステージ後の検査で筋肉増強効果があるテストステロンの陽性反応があった。その後、ステージ13で、優勝候補の一人、アレクサンドル・ビノクロフ(カザフスタン)に血液ドーピングが発覚した。2人目の違反者となった。その結果、カザフスタンのアスタナ・チームは辞退した。これで、オーストラリアのエヴァンスが2位に上がってきた。

 

しかし、“ツール”は単なる自転車競技ではない。ロマンが入りこんでいる。歴史がある。それに3500キロの競技だ。わずかながら、自浄作用もみえている。多くの疑惑の選手も認め始めている。

このスポーツを汚名のスポーツにしないためにも、死なせることはないだろう。

選手、主催者、団体、が真面目に競技に取り組み、マスコミなどが厳しく監視することで、善の動きに期待したい。

 

昨年の“オペラシオン・プエルト”以来、動きは多少変わってきたように思う。

こうした、ある意味では一方的なやり方で選手のキャリアを踏みにじるやり方に対してはファンからも疑問の声が上がっており、2006年ツール・ド・フランス優勝のフロイド・ランディスのドーピング疑惑と併せて、ツール・ド・フランスに他国の有力選手を出場させない為の陰謀なのではないかという憶測も絶えず、関係者のフェアにして厳正な対処がのぞまれる。

いずれにしても、“清潔で綺麗な人”が、きちんと勝利して、薬漬けの人を駆逐して行くしかない・・と思う。

 

バイシクル・モトクロス・キッドのエヴァンス 世界の頂点へ

 

7月7日:プロローグ ロンドン(7.9キロ)
 観光名所をめぐり、短いスピンが多い。

 

7月8日:第1ステージ ロンドン~カンタベリー(203キロ)
 ケント州の田舎の走りは、一定のウォームアップになる。
 

7月9日:第2ステージ ダンケルク~ゲント:ベルギー(168.5キロ)
 本格的なレースの開始。群衆とフランダース平野での風との闘いになる。
 

7月10日:第3ステージ ワレゲム~コムピエーニュ(236.5キロ)
 フランスに入っての初日。相当の全力疾走が要求される。
 

7月11日:第4ステージ ヴィエルコトレ~ジョワニー(193キロ)
 シャンパーニュやブリーを過ぎると、次のスプリントが。

 

7月12日:第5ステージ シャブリ~オトン(182.5キロ)
 難問を抱えたくねった山の道に入ると、競争は一層激しくなる。

 

7月13日:第6ステージ スミュルアノクソワ~ブールアンブレス(199.5キロ) 
 スプリンターが、山が現れる前に実力を見せる最後のチャンス。
 

7月14日:第7ステージ ブールアンブレス~グランボルナン(197.5キロ)
 山に入る。実力者が一歩抜ける所。
 

7月15日:第8ステージ グランボルナン~ティーニュ(185キロ)
 短いが急坂。ここでも実力のある者と素人を振り分ける。


7月16日:休養日。ここまでで選手は1500キロを走破。

     

7月17日:第9ステージ ヴァルディゼール~ブリアンソン(159.5キロ)
 アルプスの冷たい空気を中を行く。レースは一層過酷に。

 

7月18日:第10ステージ タラール~マルセーユ(229.5キロ)
 山の後。長くて平坦な区間が続く。ここで相手に攻撃を仕掛ける。

 

7月19日:第11ステージ マルセーユ~モンペリエ(182.5キロ)
 地中海の気候は、思わぬアクシデントを生む。風が予想外の展開を。

 

7月20日:第12ステージ モンペリエ~カストル(178.5キロ)
 スプリントのチャンスを生かせるか、チームワークが物を言う。

 

7月21日:第13ステージ アルビ(54キロ)
 このタイム・トライアルでは、技術の能力の見せ場。
 

7月22日:第14ステージ マザメ~プラトードベイユ(197キロ)
 ステージの最後にかなりの上り坂。体力の有る者が最後につなげる。

 

7月23日:第15ステージ フォワ~ルダンヴィエイユ~ルルーロン(196キロ)
 この1ステージに5つの山の上りが。ポイントの稼ぎ場。

 

7月24日 休息日 残り800キロ。ポーで足を休める最後のチャンス。

 

7月25日:第16ステージ オルテズ~グレット・オービスク
 ピレネー山脈のかなりの登りは、山岳コース終了のお土産。
 

7月26日:第17ステージ ポー~カステルサラザン(188.5キロ)
 この丘陵地帯で、トップグループが抜け出せる所に。

 

7月27日:第18ステージ カオール~アングレーム(211キロ)
 長くて平坦でないコース。驚異の逆転もあり得る。

 

7月28日:第19ステージ コニャック~アングレーム(55.5キロ)
 堅固な精神力をもつスペシャリストが試されるタイム・トライアル。



7月29日:第20ステージ マルクシス~パリ・シャンゼリゼ(130キロ)
 長い勝利へのパレードの道。神への感謝の道のりになるか?
 

マイヨ・ジョーヌは新人のコンタドールに。

2位になった、オーストラリアのキャデル・エヴァンス選手。3659.9キロを走行した。

 

オーストラリア人として、初めてツール・ド・フランスの表彰台にあがった彼の偉業もまた簡単に述べることはできない。

 

彼の心のヒーローは、エルジュの漫画「タンタン」。タンタンが自転車に乗っている漫画をフレームに入れて彼の寝室に飾ってあるという。

 

今回は、自分でそれを実現してしまった。しかも、他国の有名ライダーにように、有能なサポートチームがあったわけではない。

 

総合3位まで31秒差という激しいデッド・ヒートは、何を意味するのか。

 

小柄なマット・ギタウが、重厚なフォワード無しにラグビー・ワールドカップに勝つのに似て居ているものがある。

 

いや、もっと例をあげないと分かって貰えないかも知れない。一人のオーストラリア人アスリートが、1種目のスポーツの大タイトルを取れる寸前であったのだ。もしこれに勝てば、1983年のアメリカズ・カップの優勝、2000年シドニー・オリンピックの400メートルで取ったキャシー・フリーマンの金メダル、1996年のアトランタ・オリンピックで、キエレン・パーキンスが8レーン目から走って奪取した1500メートルの金。イアン・ソープのいくつもの世界記録や金メダルをしのぐ勝利だったと言えるかも知れない。

 

彼の第一声は、「勝てなくて、ごめんなさい」だった。

 

7月7日にスタートしたツール・ド・フランスが始まって以来、彼のひと漕ぎひと漕ぎに声援を送ってくれた人への彼のメッセージであった。

 

104年の伝統を誇りながら、近年数多いドラッグ・スキャンダルまみれになってきたツール・ド・フランスは、今年94回目を迎え、ロンドンからベルギーに入った。その後フランス、スペインを抜け、7月20日にチャンゼリゼへ。


彼は、更にメッセージを送った。「自分のベストを尽くした。自分が出来ることをやり遂げた。これは私の3回目の挑戦だ。だから、後何年か素晴らしいチャンスがある。来年また挑戦させてもらいたい」

 

身長174センチのエヴァンスは、完全に勝ちへ向かっていた。アルプスでもピレネーでも、彼は高く立っていた。

 

彼が生まれてからの4年間、オーストラリア北部準州のアバルンガ・ボリジニー社会では、友人は数えるほどもいなかった。お互いが離れていた。そういう生活環境の中で、彼の最も親しい友人はバイクしかなかった。

 

彼は2歳から自転車に乗った。その自転車は、祖父と父親が地元の店でみつけた部品から手作りで作ってもらったものだった。

 

母ヘレン・コックスはローカルの銀行を経営し、父親はポールは地元役所の職員だった。

父親は彼が7歳の時になくなり、父親は馬に蹴られて7日間昏睡状態が続いた。

 

母親とヴィクトリア州南部のぎーロングの近くのバーウォン・ヘッドに引っ越した。彼が自転車競技に興味を持ち始めたのは、1991年に入ってからだった。彼は、クロス・カントリーのマウンテン・バイクに熱中した。15歳で、コジオスコーのスレドボ・マウンテン・バイク選手権にも出場。

 

やがて、彼は、1998年と1999年の2回、マウンテン・バイク・ワールドカップに優勝。1996年(9位)と2000年(7位)にはオリンピック出場を果たした。

 

そして、2001年にプロに転向。

 

2005年にツール・ド・フランスにデビュー。デビュー戦は8位だった。

昨年はオーストラリア人としてタイ記録の5位へ上昇。3回目の今年、エヴァンスをほとんどの区間をチームメート無しに走行した。

 

ラグビー・ワールド・カップの準備が行われているマルクシスからの130キロ。最後のステージだ。ツアー・リーダーのアルベルト・コンタドールが優勝しそうに見えた。19回のタイム・トライアルを終えて、黄色いジャージを着たコンタドールに23秒差だった。コンタドールには、十分なマンパワーを抱えた豪華さがあった。彼のチームメイトの8人のうち、2人は10位以内に入っている。アメリカのリーヴァイ・ライプハイマーだ。コニャックからアングレーメまでの55.5キロのタイムトライアルを時速53.1キロで制して3位入賞を確実にしただけでなく、エヴァンスに逆転を迫る勢いだった。第20ステージを始める時点で、エヴァンスとライプハイマーの差は、8秒しかなかったのだ。それにウクライナのユロスラフ・ポポヴィッチがピタリ付いていた。

 

エヴァンスのPredictor-Lottoチームは、多難だった。第8ステージで、クインズランド出身のマッキーウェンがタイムリミット外で脱落。この脱落の衝撃は、エヴァンスにとってまだ小さいものだった。残り8人で、エヴァンスへのサポートに回ることになった。が、そのうち、山岳部でエヴァンスをアシストできたのは、クリス・ホーナーとダリオ・チオニのたったの2人だった。そして、彼らがペースを落としていくかなり前ですら、助けに回ったはこの二人だけだった。

 

ツールに勝つためには、8人の選手の固い支援が必要だ。そして、少なくとも4人が山登りに生き延びなくてはならない。しかし、仮にそういう支援が無くとも、彼は、山越えは出来ると言うことをオーストラリア人に見せつけた。

 

彼の最大のファンは、母親のヘレン・コックスを別にすれば、妻チアラだった。彼は、今、妻とイタリア暮らしだ。彼女には、“ツール・ド・フランス”デビュー戦でゴールしたその日に、エヴァンスがプロポーズした。(おわり)

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2007年08月01日

サッカー・アジア・カップ(11)決勝戦

日本の選挙は、自民の惨敗だった。

年金問題、事務所経費の不始末の連続、人のこともわからず侍りまくる失言スパイラル。サッカーに例えれば、自民のオウンゴールの連続で、これほど観客(有権者)を馬鹿にした話はないからだ。自滅・敗北は当然だ。


アジア・カップの優勝杯はイラクがさらっていった。

ほんとうに、よかった。

 

イラク・ナショナル・チーム おめでとう。アジアにおける象徴的な出来事だ。

 

ずっと書きたい記事があって、イラクの優勝を私は願っていた。

 

国は戦場だ

国は戦場なのだ。なんとしても、この優勝が確たる平和のきっかけにならないものかと強い期待と願望を私は抱く。


もし、世界のサッカーの監督の中で、選手をまとめるとか、異体同心にさせるにはどうしたらいいかと、大きな悩みを抱えている監督がいるなら、イラクの監督のことを少しでも考えてみる価値はあるのではないだろうか?

 
ジョルヴァン・ヴィエイラ監督は、54歳。ブラジル人である。正確に言うと、ブラジル系ポルトガル人である。ヴィエイラ氏が、イラクの監督を引き受けたのは、アジア・カップが始めるほぼ5週間前である。チームの編成は、お国が争乱状態なので、隣国ヨルダンのアンマンで行った。アジア・カップ出発前に、彼は選手の名前を覚える時間もそこそこに、選手の力量把握につとめた。


そもそもヴィエイラ氏に当たっては、最初から監督就任の白羽の矢が当たったわけではなかった。彼は、イラク・フットボール連盟の4番目の候補者だったのだ。前の3人は、死の恐怖やらで、辞退した。辞退につぐ辞退で、いわば自動的に転がり込んできた監督の座である。

 
ヴィエイラ監督の経歴は多才である。1986年のワールドカップの時は、モロッコ・チームのアシスタント・コーチをしていた。その時、アフリカ勢として初めて第2ラウンドの進出した。そして、アジア、中東のアラブ諸国のクラブやナショナル・チームで、25年以上も監督をしてきた。

 
20年ぶりのアジア・カップ予選通過であるイラクの選手にとって、国は争乱状態だから、まともな準備も何も出来なかった。

 

ヴィエイラ監督は言う。

「人には想像が出来ないと思います。毎日、どこで練習をしたらいいのか、わからないのです。選手と話し合うために、私と2~3時間会いたいと言ってくる人がいたりします。それどころではないと、椅子を蹴飛ばした日もありました。いや或いはすべてを蹴飛ばすこともありました」

 

ヴィエイラ監督は説明する。

「戦争に引き裂かれた国のナショナル・チームだから、チームの現実は、家を持たないホームレス・チームです。組織がないのです。全くないんです。私は、そこを理解しなくてはなりません。なぜなら・・・・・これらの人々が毎日過ごしている暮らしぶりの故にです。自分の家がどこにあるかわからない時に、自分の物がどこにあるかわからない時に、人は完全に宙に舞ってしまいます。彼らはあの戦争の故に、失われた人々なんですイラクというだけで苦労がつきまとう

仮にナショナル・チームの選手であっても、イラクのパスポートを持っているだけで、問題になる。


「今回のアジアカップのために一部の選手が、ヨルダンのアンマン空港に着きました。彼らは空港で、6時間も7時間も待たされるのです。ヨルダン警察が入国を認めようとしてくれません。イラクのパスポートをもっているだけで、選手に苦痛を与えます。でも、彼らは普通の人なのです」

 

ヴィエイラ・スコードの構成は、イラクからだけではない。イランからも、ヨルダンからも、レバノンからも、キプロスからも馳せ参じる。監督の期待がかかる、モハンマド・ナセルは、キプロスのクラブ、アポロン・リマッソルでプレーしている。スコードの半分以上が、イラク国外からの参集だ。
 

「彼らを指導してみると、個人的には、全く他の国の選手と違いはありません。違いは、これらの選手の故国が戦争で引き裂かれていることだけです」

 
「このグループの中に、自分の家族の誰かを失っていない人は一人もありません。しかし、彼らは、決してこのチームに政治を持ち込みません。彼らは、決して政治について口を開きません。スンニ派の選手もいます。シーア派の選手もいます。でも、問題はありません。皆親しいです」

 
そうは言いながらも、トーナメント中、チームの和が崩れた時があった。

 
「選手間の関係がおかしくなりました。問題を解決しなくてはなりません。相互に尊敬しあうこと、政治や宗教を持ち込んではならないことを話しました。選手がここで戦争をしてはなりません」

 
因みに、ウィンガーのハワール・モハメドはクルド族だ。スキッパーのユニス・マフムードはスンニ派だ。


タイ戦の後の記者会見では、モハメドが口論について質問を受けた。

 

ヴィエイラ監督が、すぐ中に入った。

「あなたには兄弟がありますか? ボールやおもちゃのことで、兄弟と争ったことがありませんか? こういうことはどこでもあることです。こういうことは何も問題ではないんです」

 

チーム内に絆は戻り、団結はより強化された。

 
プレーする選手が置かれている条件を、文章にすることは難しい。



 
すべてが容易ではない

長引く戦争の中で、2世代の選手が育ってきた。最後のホームでの試合が1980年と言うから、30年近くも、戦火がスポーツを遠のけてきた。だが、選手のスピリットは細るどころか、強まっていると、ヴィエイラ監督は言う。

 
「状況は、誰にも容易ではありません。私にも容易ではないです。私も、イラクには住んでいません。でも、私も心配です。一体誰が、人の死をみたがっているでしょうか?この戦争には意味がありません。・・・・でも、われわれに何ができるのでしょうか? われわれは状況を変えることはできません」


「もちろん選手も心配しています。毎日自宅に電話をかけています。それが、彼らの毎日の姿です。戦争は、今週起きたのではありません。何年も続いているものです。彼らは、こういう状態の中で暮らしているのです。そして、私も彼らと暮らし始めました。私も彼らとともに心配を始めました。われわれ全員にとって、厳しい状況です。しかし、彼らはずっとしっかりしています。彼らは、断然強いです。私を信じてください」

 

初戦はタイだった。イラクのグループ・ステージの最終戦はオマーンだった。ヴィエイラ監督は、以前オマーンの監督も務めたことがある。その間に、優勝候補と言われるオーストラリア戦が入った。

 
タイ戦のセカンド・ハーフで、イラクは体力切れになるという評判をはねのけた。

「雨中での戦いでした。ピッチは重く、事は簡単ではありませんでした。我が選手は、体力をコントロール出来ませんでした。前半張り切りすぎて、後半、私が願ったほどうまく行きませんでした。でも、オーストラリア戦でも、問題はありました。高温です。選手は疲れました。オーストラリアも疲れました。われわれは皆同じです」

 
そこを勝っていかなくてはならないという意味だろう。

 

理想的な場所ではないが、イラク・チームはアンマンでごく短期のキャンプを張った。似た気象条件ということで、シンガポールでキャンプを張ったオーストラリアは、1億円の費用をキャンプにつぎこんだ。イラクが聞けば、うらやましい限りに違いない。

 

参加するだけでは意味がない

アジア・カップが始まる前にヴィエイラ監督はこう言った。「出来るだけ、勝ち進みたい。われわれのグループ(Aグループ)のトップでなくともいい。でも、準々決勝には進みたい。オーストラリアがトップになる可能性があるから」

 

しかし、サッカールーズは、ご覧の体たらくだった。

イラクは、3-1で勝利した。


「私は、オーストラリアに負けるとは言いませんでした。一度も言ってませんよ」

彼はニコッとした。その時、監督は、しっかりと、そして密かに、準決勝入りを決意していたのだ。

 

彼は、やがて、サッカールーズについての事実、数字、統計などすべてのリストを広げた。

「私のファイルには、すべてが入っています」

 
いつ、作ったのだろうか?

アジアカップ、対オーストラリア戦の前日、北京オリンピック予選でオーストラリア対ヨルダン戦のビデオで研究していたのだ。

「いくつかメモをとりました」

「参加するだけではつまりません。このAグループ全チームが第2ステージに行ける実力をもっています。私は、決勝戦に出られるように戦っているつもりです」

 

事実、イラクは、2004年のオリンピックでは、オーストラリアのオリルーを破って、準決勝に進出したことがる。

 

監督は危険な職業

監督にプレッシャーがかかると言っても、ヴィエイラ監督の場合、他の監督の比ではない。彼は選手のコンディションや戦術、戦略を扱うだけではない。死の恐怖を抱えている人だ。2003年の米英の介入とサダム・フセインの追放以来、イラクのフットボールは、国全体の混乱を反映してきた。国は地獄の状態だ。宗教間の対立は深まり、文字通りチームはホームレスの状態だ。頚がかかっている監督はいても、命そのものがかかっている監督はヴィエイラ監督をおいて他にいるまい。

 

イラクの監督が空席のままだった理由は、簡単である。

前任者は、死の恐怖とイラクフットボールの難しい政治に恐れをなしたからだ。

イラク・フットボール連盟の何人かの役員は誘拐され、一人は殺された過去がある。彼の家族は、モロッコにおいたままだ。

 

ヴィエイラ監督のアシスタント・コーチは、イラクに戻らない。それは、前回バグダッドにいるときに、武装した男が彼の息子を誘拐すると脅したからだ。

 
なぜ、こんな厳しい仕事を引き受けたのか?と質問したジャーナリストがいた。

「なぜ? それは、彼らがフットボールを続けようとしてきたからだ」と。

 

「イラクの全ナショナル・ゲームをクルド族の地域でやって、そのシーズンを終わることが出来ると思いますか? すべてこういう問題があります。殺人あり、爆撃あり。そういう中でも、誰もがフットボールを続けようと願ってきている・・・。もちろん、それはチャレンジです。私はチャレンジが好きです。どうして、“ノー”と言えますか?」

 

イラク・チームのゲームは、隣国ヨルダンの首都アンマンで行う。選手の所属は、中東やキプロスのクラブをベースにしているのだ。多くの選手が疎開状態だ。祖国が戦場状態だから、仕方がない。

 

イラクフットボール連盟本部も監督の事務所も、アンマンのホテルの中にある。そのホテルのロビーで、監督は人と会う。

 

目標は高く

ジョルヴァン・ヴィエイラ監督は、中東における豊かな経歴を背景に、イラクチームを高いレベルにまで引き上げる自信をもっているようだった。


「約束はできません。私には予言者がいませんから。しかし、この選手たちの精神構造を変え、問題に向き合い、問題を解決し、決勝に進める準備はしたいです」  これは、決勝戦の何日も前に語っていたことだ。

 

7月29日、ジャカルタでの決勝戦。かつてのアジアの王者サウジを1-0で下した。

ヴィエイラ監督と選手の夢は実現した。いや、監督の期待に応えて選手が実現しせたのだ。レフトバックのバッシム・アッバス、MFのハワール・モハメド、ストライカーのユーニス・マフムード、駆け回ったMFのナシャット・アクラム。いずれもイラク外から来た選手だ。アクラムは23歳。サウジでプレーしている。

「いつか、オーストラリアの監督をしみたい」いつか、ぽろっとこぼした。

 

選手とともに栄光を掴んだヴィエイラ監督。


イラクの首相が、選手に1万ドルの報奨金を上げると公言した。


それは結構なことだが、この優勝が一政治家に利用されてはなるまい。

選手と監督は、1万ドルより遙かに価値のあるものを掴んだ。

 

イラクにいるアメリカやイギリスの兵士よりも、いかなる政治家よりも、いかなるゲリラよりも、鋭い眼光をたたえたこの小柄で痩せた男は、自分たちはひと味違うのだ、自分たちはまとまって進めるのだということを、イラクのみならず内外に示した。

 

この優勝が、祖国の早期平和の実現に大きく寄与することを願って止まない。そして、これら選手や監督が、一般市民と同じように、内戦の標的にならないことを祈るし、早く自国でゲームの開催が出来るように、そして連盟本部とヴィエイラ監督の事務所がバグダッドに戻れる日が早くくることを強く願う者だ。

 

'イラク 優勝 おめでとう。

ヴィエイラ監督 おめでとうございます。'

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