2007年03月27日

ペダル・パワー(1)

シドニーは、3月25日の日曜の夜、市内中心部のビルなどの灯りを消した。


少しでも、地球温暖化の防止に努めようという意識向上のためだった。


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自転車は、地球温暖化時代の持続可能な交通手段と言える。


若干、難しい話をさせてもらうなら、オーストラリアの温室効果ガスの排出は、
1990年以来40%増えた。これを2002年までに20~30%減らして
1990年レベルに戻さなくてはならない。

この削減を現実あるものにするには、どうしたらいいのか?



まあ、こういう大きな命題も身近にあるのだが、日常的には、シドニー市内の交通渋滞がはげしく、
通勤者としても、公共輸送機関に信頼をおくわけにいかなくなってきた。
給与をもらっている以上、始業時には職場にいなくてはならない。

シドニー市内に、ついに自転車専用レーンが登場することになりそうだ。
交通混雑緩和、省エネ、健康増進などのいろいろの思いをこめて。

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シドニー市内の専用レーンとしての距離は55キロに伸ばし、上り下りの1車線ずつで、
クイのようなものを建てて、車とは完全に区別されるらしい。
自転車戦略行動計画法案は、3月26日月曜日の市議会で承認された。


何事も、新しいことに挑戦しようと思えば時間はかかる。
ムーアというご婦人が市長に就任した2004年に前議会の案を引き継いでから2年有余を経過している。
市長スポークスマンは、「前議会の案は、専用レーンになっていなかたりで、欠陥があった」と説明する。
新計画は今年6月に、170万ドルの予算をかけて工事を始め、2010年の完成を目標にする。
道路には、標識やマークを付けなくてはならない。


市の中心部から10キロ以内の圏内にすむ住民に、市が調査をした。
それによると、215人の住民が、月に1回は自転車に乗ると答えた。
しかし、5人に4人もの人が、定期的に自転車乗っていないことがわかったが、
それは交通混雑して危ないからというのが理由だった。


市では、今後10年以内に、自転車利用者を今の6倍の500%増やすことを狙っている。


「道路混雑解消のために、自転車専用レーンを設けることは、自転車と徒歩の奨励になります。
そして歩行者の便益を改善することになります。市に人間性を与え、生活の質に寄与しながら、
公共のスペースの質的向上を図ることになるのです」と、ムーア市長は語った。


1974年に設立された地域の自転車愛好家の集まりである
『自転車・ニュー・サウス・ウェールズ』のアレックス・アンウィン理事長は、
「これは、シドニー市の卓越した指導力の発揮とみたい。
州政府がこれにならってほしい」と歓迎し、さらなる拡大を期待した」


「これは、政治の問題ではない。すぐれた公共政策だ。自転車道路の整備でも、
間違いなく州政府は追いついてくれると確信する。
これまでは、大型輸送の道路整備に焦点を当ててきた。特に大型幹線道路の整備だ」


そもそも、自転車は、近年、輸送手段としてだけでなく、健康・環境の問題と深いつながりをもつ。
「自転車で安全に通勤できるようにすれば、1トンの温暖化ガスの削減につながります」と同理事長は言う。

オーストラリア自転車業界のノエル・マクファーレン氏は、「ニュー・サウス・ウェールズ州は、
州民一人あたりの自転車道路整備にかける予算の面で、他州に遅れをとっている」と。
この8年、状況は悪い方向に向かっていた。道路・輸送監督局のスカリー局長時代は、
自転車問題を真剣に考えていた。だが、その後の局長は、否定的な態度だった。

マクファーレン氏は、自転車もバスに持ち込めるように、種々調査すべきだと提言する。
シドニー市は、ラッシュ時でも電車で自転車を運べる乗車券を買えるようにすべきだと、自転車通勤派を援護している。

道路・輸送局は、「すでにニュー・サウス・ウェールズ州には、3600キロを超す自転車レーンがあります。
州政府は、1999年以来自転車利用者に対して2億2000万ドルも資本を投下してきました」
と説明する。だが、マクファーレン氏は、引き下がらない。
「自動車輸送に投下してきた予算にくらべれば、あと5千万ドルくらいはなんでもないでしょう」という。


マギー・ジェニングスさんは、簡単に自転車を手に入れた。

彼女は、51歳の誕生日のプレゼントしてもらった。
ピーターシャムからシティのマーティン・プレースの職場まで自転車に乗るために、
ガッツを奮い起こす。「最初は、怖かったです。歩道を走りました。なかなか車道をいくわけにはいきませんでした」


1年後、彼女は見事に自転車通勤者になるまでに腕をあげた。
「もうバス通勤することはないでしょう。バスは時間通り来ませんから。
バスは暑いし、気を遣わない人もいるし、疲れます。いまでは、車でシティに来ることはありません。
駐車場もありませんし、あの交通事情にはたえられません」


自転車通勤のおかげで、彼女の健康は著しく増進した。
自転車のコストは安い物。
「車を減らすために、ほんのちょっとのお手伝いをしたいと思います。地球温暖化についても、何か貢献しようとしています」


マギー・ジェニングスさんは、車を捨てて自転車通勤を選んだ一群の一人だ。
とはいうものの、自転車道整備のお粗末さに悩んでいる一人でもある。
自転車道の数は、自治体の区域が変わると、変わってしまう。しかも、それが連結していないのが欠陥である。


自転車は、当地では、2台ならんで走行することが許されている。
が、そうはいっても、理解のない自動車運転手からの罵声が飛んでくることがある。
気を付けなくてはならない。そして、多くの自動車運転手の意識が高まるのをひたすら待つしかないのが現状だ。


シシドニー西部の自転車利用者グループ、マーリックビルバイク・バス計画には、賛同者が増え続けている。
そしてシドニー東部郊外の自転車利用者は、入会無料の同好会を結成した。


「われわれは週末親友会員と会って、職場までの安全なルートを相談している。
今後、シティに勤める他のグループとも連絡をとりあっていつつもり」と
同会のコーディネーターを勤めるジョン・オニール氏は言う。


「自転車は健康にすばらしくいい」と、オニール氏は力説する。


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では、いま、なぜ、いま自転車なのか? 理由を考えてみた。


▼質の高い公共輸送機関を創るためにも、予算の無駄遣いを抑えるべき時だ

▼個人の財政改善に寄与できる

▼健康を増進する

▼精神的、情緒的健康を向上することが出来る

▼肥満人口を削減することができる

▼(渋滞による時間的ロスをへらし、自分にとっての)自由時間を増やすことができる

▼より美しくなれる

▼高齢者の参加を増やすことが可能

▼より多くの人を動貸すことができる

▼騒音の削減で、より静かな街作りが出来る

▼低収入者との均衡をたもつことができる

▼地域社会の連帯を深めることができる

▼個々人によるより安全な移動のための機会を創ることができる

▼道路混雑の緩和ができる

▼より持続可能な生活様式への転換ができる

▼完全な環境政策への主導権を多くの人が認識するのに役立つ

▼空気の浄化に役立つ

▼都市の美観をみがくことができる

▼表流水と地下水をより浄化出来る

▼地球温暖化の速度を遅くすることができる

▼女性の生活を向上することができる

▼公共が使える資源をより確保できる

▼より安全で静かな街にすることができる

▼信頼に足る都市イメージを強化できる

▼富全体との相関関係を認識出来る

▼地域の財産の価値を上げることができる

▼他の環境問題に先手をうつ用意が出来る

▼ハイテクビジネスを魅力たらしめるためには、
環境を意識においた生活の質の向上を目指すことが出来る。などなどがあげられるのだろうか?



いよいよ、体力向上が求められる時代にはいったと言えるのか?





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2007年03月15日

昔の名前で出ています ローラー・ダービーの日々

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初めての人にとって、それはあまりにもスピード感ある乗り物だった。

それで、皆がへとへとになるまで楽しんだ。


1960年代後半は、ローラー・ダービーの全盛期。


ローラー・ダービー(ローラー・スケート)は、オーストラリアで多くの愛好者を勝ち得た。

そもそもは、1935年にアメリカで始まったローラー・スケート。その人気は、
アメリカを飛び出して、多くの国に入り込んでいった。その速さは、あまりにもすごかった。

オーストラリアに入ってきたのが1955年。

アメリカからデモンストレーション・チームがやってきて、シドニー・スタジアムで披露された。


1965年から1972年まで、テレビに頻繁に登場すると、
オーストラリアの若者は、このゲームの生中継に夢中になった。


1966年に、当時ヘラルド紙の記者だったハリー・ロビンソン氏は、こう書いている。

「この遊びは、家族に抑圧されている内気な人、職場のボスからいじめを受けている人、
官僚から痛い目に遭っている人には、受けに受けたと言われる。
これに興ずれば“勝ち組“になったように感じ、フラストレーションを発散できたという」と。



シドニー、メルボルン、ブリスベンなどの大都会では、すごく盛り上がった。
それよりも新しい流行が出まわると、ローラー・スケート場は姿を消していった。

このローラー・スケートは、頑固一徹の昔好みの人やこの遊びを続けるために
アメリカに行ってしまった少数のオーストラリア人の記憶にだけ情熱的に生きていたと思っていたのだが、
最近、このローラー・スケートが復活したのだ。



昨今のローラー・ダービーは、男女で楽しむようになり、男5人、女5人の2チームが、
交互に12分の試合を8回行うなどのルールで復活した。
2人の攻撃選手が、2人の守備側の選手がいて、相手のスケーターの合間をすり抜けることによって、
スコアを上げることになる。バスケットの中軸選手に相当する選手は、ブロックも、攻撃も出来る。


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ローラー・スケートを密着型のスポーツに進化させたことが、身体障害のスポーツ選手の心を引いた。


通常このゲームは、自転車レースのコースのように、スピードをつけるために
傾斜角のついたコースで行われる。そのコースの幅と長さはまちまちだが、
長さ26メートル、幅15メートルというのが一般だ。


1965年、テレビでアメリカのローラー・ダービーを観たオーストラリアのグループが、
このゲームが大変気に入ったため、自分たちでリーグを結成したのだった。


ピーター・ケリーは、オーストラリアで競技を始めたが、ゲームが失敗に終わるとアメリカに移住した。

「まず、われわれは、平らなコースで練習した。自分ではスピード狂なので、
自分にとってはローラー・ダービーは自然の展開だった」と、ケリーは語る。

1966年、ビル・グリフィスというプロモーターが、多くのアメリカ人スケーターと
コースをオーストラリアに持ってきた。
そして、プロレス式のローラー・ダービー・ショーとして本家に対して分家を作り上げた。


「オーストラリアのファンは、アメリカ人スケーターを見ている方が好きだった」と、ケリーは当時を振り返る。


当時のオーストラリアファンとして、ニール・ドノホーは、話が止まらない。


「初めてローラー・ゲームを観たのは13歳というガキの頃だった。
誰の名前も覚えていないが、ただ、人々が相手を倒しながらコースの上をスケートしていたのを思い出す。
シドニー・スタジアムってのは、レスリングーボクシングのスタジアムで、
そこでゲームが始まると雰囲気は電撃的でね」


「コースは、ボクシング・リングの周りに作られてね。
選手同士の殴り合いや演技が始まると、戦うためにリングにはいっちゃうんだよ。
当時、シドニーじゃ、週に2回、水曜日と土曜日にね、やってたよ。
土曜の夜のゲームなんて、入場券はいつも売り切れさ。
メディアが、ゲームと暴力はどうやって始まったかを報道するために、ファンはいつも追っ払われて・・。
1967年に、アメリカ人は帰っていった。そして、最後のゲームには、
私は涙をいっぱいためていたのを思い出すね。最後は、観衆が総立ちで、
”Now Is the Hour”という歌を歌って別れを惜しんだよ」・・てな具合だ。

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そのアメリカ人が、1967年に戻ってきた。しかし、1972年には、またすべてが終わった。
プロモーターのグリフィスは、アメリカでの競技に、ずっとオーストラリア人スケーターを使い、
そのチームを、“オーストラリア・カンガルー“と言う名前にした。前出のケリーは、その時の選手である。


「演技はスポーツを傷つける。アウェーのチームは、悪党になるように指導されたことを覚えている。
それが、時々危険を呼ぶんだよ」と、70年代にアメリカでスケートしていたケリーは言う。


ファンが、相手チームに瓶を投げたりしたからだ。時々、警察が、場内、場外で、訪問チームを護衛した。
ケリーは、時々相手チームに似た黒い帽子をかぶっていたものだ。
ケリーは、「フィラデルフィア・ウォーリアーのファンの前でニューヨーク・ボンバーと試合していると、
何人かが、ゲームの後に殴ろうと思って、試合場に入ってこようとしたことがあった」と言った。


もう一人のチームメンバー、ジュディ・ソウィンスキさんは、
車の所まで警察の付き添いが必要だったことを思い出す。
「それは、私が車で出ようとすると、私の車に岩のような瓦礫を投げる人がいたからだ」と言う。

ローラー・ダービーは、アメリカで完全に復活を遂げている。
女性リーグが全国で結成されている。

新しい選手は、このゲームが1955年に初めてオーストラリアで受けた時に、
アメリカチームのマネージャー“エルボーズ・アンダーソン”さんが言った言葉を心に留めておく必要がある。

「多くの人が、これはいけると思った。確かに、外見は魅力のあるものだ。
そして、中もすべてが悪いっていうものではない。やがて、歯が何本か折られる。
多分、足の骨も折れる。もはや、魅力なんていうのものではない。
確かに、チームの女性たちの多くが、入れ歯をしていた」






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posted by gensan |14:14 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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2007年03月11日

パンツ問題

メタフットボール」こと、菅野芳伸です。


歴史的な暖冬と言われつつ、春になってしまいました。

それにしても、あたたかい冬でした。かつて、わたしが学校のサッカー部でボールをけっていた頃、
冬は寒くて寒くて、いくら走っても体があたたまらない日が何日もありました。

しかも高校時代は顧問の先生の方針で、どれほど寒くてもジャージのズボンをはけません(GKは例外)。
当時は短いサッカーパンツが主流でしたから、太ももが寒風にさらされ鳥肌がたち、
そこにボールが当たるとしびれるように痛いのです。

今ではサッカーパンツは長めがスタンダードとなりました。
ただ、女性のスカートの長さが流行で上下するように、
サッカーパンツの長さも時代とともに変わるのは、なぜでしょうか。

さて、サッカーパンツというと、おじさんサッカー・プレーヤーにとって忘れられない重要な問題があります。
で今回は、パンツ問題です。


◆


1974年のワールドカップ西ドイツ大会、西ドイツとオランダが決勝で戦った時代は、
パッツンパッツンのサッカーパンツがトレンドでした。
ヨハン・クライフ率いるオランダ代表が着ていたサテン地のように輝きのある素材は、
当時15歳だったわたしにとって憧れでした。

しかし、そのトレンドを無視し、独自のスタイルを追求する人々がいました。
ツッパリ君=不良(今でいうところのヤンキー)たちです。
彼らはロングタイプのパンツ(通称「ロンパン」)に強いこだわりをもっていたのです。

当時のサッカー部にはなぜか多くのツッパリ君たちが所属していて、
ツッパリとスポーツの両立という崇高なライフスタイルを貫いていました。

なぜかツッパリ君の多いサッカー部は、学校の部活のなかでもちょっと異質な存在で、
しかも他の部活は白い体操着を着て練習するのに、目立ちたがりの多いサッカー部は
色とりどりの派手なウェア。といっても今のようにたくさんウェアの種類があるわけではなく、
ただ色のついたTシャツを着るだけで目立ったのです。


で、ツッパリ君たちにとって、絶対に譲れないのがロンパン、そしてリーゼントの髪型でした。


当時、サッカーショップには普通のパンツの他にロンパンがしっかりラインナップされていて、
ツッパリ君たちは必ず一番大きいLLサイズを購入していました。
そして、彼らのこだわりはそのパンツの大きさだけではありません。
彼らの美意識は、いかにしてかっこよくパンツを下げてはくか、ということにあります。

最近の若者がぶかぶかのジーンズをずるずるに下げてはいていますが、あの感覚とまったく同じです。

「短いサッパン(サッカーパンツの略称)はまじめでヤワなやつがはくもの」。

気合の入ったツッパリの象徴であるロンパンを抜きにして、彼らのサッカーライフはあり得なかったのです。
もちろん、リーゼントも大事です。ポイントはその固さと角度ですが、それを詳述するのはここではやめましょう。

彼らの試合前のチェックポイントは、チームメイトとの連係でも、シュートの精度でもありません。
いかにパンツが下がっていて、リーゼントが決まっているかに集中するのです。
もちろん、試合前に整列するときから彼らの戦いは始まっています。
ロンパンを腰の位置に下げ、リーゼントを固めて、対戦相手にガンを飛ばし(にらみつけ)、唾を吐く。

唾は、10秒に1回はペッと吐かなくてなりません。
なめられてはいけないのです。

試合中も、彼らにとって大事なのはロンパンの位置と、リーゼントです。

走りながらパンツが上がらないように、常に手で押さえてお気に入りの位置をキープしなければなりませんし、
リーゼントが乱れることは絶対に許せません。彼らは滅多にヘディングをしませんが、
たまにしてしまうと、気になるのはボールの行方ではなく、リーゼントです。
すかさず両手を使って、髪形の乱れを整えます。


当時はそれほどユニフォームの規定も厳しくはありませんでしたから、
チームの2~3人がちょっと違うパンツをはいていても、審判はうるさいことを言いませんでした。
今は常識となったロングパンツを見ると、どうしてもわたしの頭に浮かぶ言葉があります。


「つっぱってんじゃねえよ」。


そしてもうひとつ、当時はもうひとつの重大なパンツ問題がありました。

それはサッカーパンツの下に何をはくか。今のようにスポーツ用の下着はほとんどありません。
ショートタイプが主流ですから、ふつうのトランクス型の下着ではサッカーパンツからはみ出てしまいますし、
さらに「ヨコチ○」という危険性をはらんでいます。

ブリーフもなんだか落ち着きに欠ける。
普通のサッカー部の選手にとってはそれほど重大ではありませんが、
本気でサッカーに取り組む選手にとっては、悩みのひとつだったようです。


で、実際に何をはいていたかというと、なんと女性用の下着でした。
というが当時のもっぱらの噂です。噂なんてあいまいな言い方になるのは、わたし自身、
そのような経験がありませんし、実際に女性用の下着でプレーしている選手を目撃したこともないからです。
ただ、トップクラスの選手はフィット感のある女性用の下着を奥さんや彼女に買ってもらっている、
ということは当時のサッカー専門誌に載っていましたし、ほとんど常識化していました。
わたしは、まさか母親のパンツをはくわけにもいかず、
普段はいているパンツか、ときには水泳パンツをはいていました。

今ではさまざまなインナーウェアが開発され、ほんと、すばらしい時代になったものです。


◆

たかがパンツ、されどパンツ。パンツへのこだわり、
その変遷もサッカーという文化の一部であるということでしょうか。

いよいよJリーグが開幕しました。

各チームのユニフォームのデザインも変わり、新鮮です。
しかも、ユニフォームの機能性はさらに向上していて、なかでもジェフ千葉の新ユニフォームは、
素材そのものが「臭い」を科学的に中和・消臭するのだそうです。
スポーツが汗臭さと同義だった時代もいよいよ終わりを迎えたのでしょう。
そう、もうひとつ思い出しました。昔のサッカーパンツにはお尻のところになぜかポケットが付いていました。
サッカーパンツにポケットが必要なのかどうか、今も謎のままです。


ただ、スポーツにとってウェアというのは、単に機能を満たせばよいというわけではありません。
デザインの好き嫌いや誰かのプレゼントだとか、いろいろな意味合いで
モチベーションやパフォーマンスに大きく影響を与えます。


今やショップへ行けば商品があふれかえっているサッカーは幸せですし、恵まれすぎているかもしれません。
その一方で、専用のウェアや用具が乏しく、選手自身が工夫しながら競技に取り組むスポーツもあります。


まさに30年前、サッカー・プレーヤーがパンツで悩んだように。

そんな苦労も創意工夫も、あれやこれやも、
やはりスポーツのエッセンスであり、アスリートにとっての成長の糧なのかもしれません。

Posted: sugano : 2007年03月11日 22:26

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