2006年10月30日

トライアスロン 完走

決してブル太の結果ではなく・・・・

ちょっと報告が遅れたけど先週末お台場で開かれたトライアスロンの日本選手権に
支援対象アスリートを原田隆史を応援に行きました。


このコース。 なかなかのツワモノで・・・

スイム(海の中を80人ぐらいが蹴り合い、ドツキアイながら2周します) 
その距離1.5KM
バイク(お台場周辺を全速力で駆け抜けます) 
その距離、確か5KM×8週の40KM
そしてラン(観光客がのんびり買い物をしているペースの十倍ぐらいの速度で最後の踏ん張りで走ります) 
その距離、10KM


しんどいでぇー。 考えただけでもツライ。

昨年は、バイク途中で棄権と 不本意な結果に終わった原田選手。 
今回も練習環境面など様々な点で課題を抱えながらの挑戦でしたが、何とか最後まで完走しました! 拍手!

しかし、男子でトップになった田山選手。
実況中継によるとかなり早めのスパートやったらしいが、ランニングスピードは相当速かった。 
まぁそもそもスパート切る前の速度がほとんどの残りの選手よりも早い状況で、
トレーニングとレベルの差を見せ付けたという印象。

「あんだけ泳いで、自転車こいだ後にようやるわ」

そんなトライアスロン競技も日本では、まだまだこれから。

ちなみにオーストラリアでは、IRONMAN RACE(鉄人レース)とか言われてかなりのメジャースポーツ。
実際にトップアスリートは、日本でいうプロ野球選手なみの扱いで、
テレビCMや商品のイメージキャラクターなどに抜擢されてる。

オーストラリアのビーチだと水もキレイし、トライアスロンやるにはかなり環境がええけど、
お台場の海ってキレイなん?

Posted: keni : 2006年10月30日 

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2006年10月24日

激闘の秋、ジョホールバルに歓喜する。 ~その2~

「メタフットボール」こと、菅野芳伸です。


10月11日の日本代表とインドとの対戦。

すでに出場が決まっているアジアカップの予選だったわけですが、3-0で勝利。

いろいろチャレンジするオシム監督は、この試合も中村憲剛を初先発させ(遠藤の発熱はあったものの)、
DFの水本が負傷して後半からは3バックに鈴木啓太をポジションチェンジ。
DF全員が本来はMFの選手にしてしまいました。


DFの投入を考えなかったのかと問われ
「それではサッカーとして面白くないだろう」
と一言。

ピッチがデコボコだったり、照明が消えたり、犬が走ったり。いろいろなことが起こった試合でした。
改めてアジアのアウエーは環境面で厳しいことを改めて知らされました。


で、「ジョホールバル」です。

前回はまだ最終予選の途中でした。97年11月16日の「ジョホールバル」は
予選グループ2位同士のプレーオフですから、その前に最終予選のドタバタをふり返らなければなりません。
やはりアウエーで苦しむのです。

日本代表は、フランス・ワールドカップのアジア最終予選で、
ウズベキスタン、カザフスタン、UAE、韓国と同じBグループになります。
ホーム&アウエーで対戦し、グループ1位はフランスへ。2位はプレーオフへ回ります。

最初の試合は97年9月7日、ホームでのウズベキスタイン戦。満員の国立で、
カズと城のツートップがキックオフ前にボールに祈りを捧げたシーンを覚えている人も多いでしょう。
この試合を6-3という大味なスコアで勝った日本は、続いて9月19日にUAEとのアウエーに臨み、
灼熱のなかでスコアレス・ドロー。
テレビ画面からもその暑さが伝わってきました。

9月28日の韓国戦はホーム。山口素弘のループシュートで先制したものの、
残り6分で逆転を許してしまいます。
試合の1週間前からサポーターが国立競技場の前にテントを張るなど、日本中の注目を集めた決戦。
それだけにショックな敗戦でした。
ライバル韓国にホームで負けてしまったことに日本中がパニックに襲われたのです。
フランスへ行かなければ、日本は2002年の日韓大会が初出場となる。
これまでの歴史でワールドカップに出場していない国が開催国となることはありませんでした。


プレッシャーを抱えた日本代表は10月4日のアウエー戦のため、
カザフスタンの首都、アルマトイへと向かうのです。


この頃、わたしはサッカー指導者の講習会に参加していました。

2年前に草サッカー界に再デビューを果たして改めてサッカーの魅力にとりつかれてしまい、
もっとサッカーを知りたいと、コーチになる当てもないのに
「横浜市立大学リカレント講座 少年サッカー指導者セミナー」に申し込んだのです。

当時、日本サッカー協会では指導者育成のためのシステムの整備を進めていました。
わたしが受けた講座は、現在の「公認D級コーチ(旧 少年・少女サッカー指導員)」の原形となるもので、
この年からサッカー指導者の質・量の確保を目的に、小学生世代の指導者ライセンスをつくろうとしていたのです。

3日間の講習にはテスト的な意味合いもあり、充実した講師陣が揃っていしまた。
その中心が、現在のサッカー協会・専務理事の田嶋幸三さん。
ジーコ監督時代の「技術委員長」と紹介した方がわかりやすいかもしれません。
わたしより少し年上ですが、日本代表選手としても活躍し、ドイツでコーチ学を学び、
当時は日本サッカー協会指導員・筑波大学客員助教授を務めていて、
コーチ育成システムの構築に自ら取り組んでいたのです。
我々の世代にとってあこがれのプレーヤーが直接指導してくれるのですから、期待を胸に講習に通いました。


そして講座の2・3日目が10月4日(土)・5日(日)。まさしくカザフスタン戦とかぶっていたのです。

10月4日、朝10時から夕方6時までみっちりと実技を含む講習を受けたわたしは、
疲れた体で自宅のテレビの前に座ります。キックオフは日本の夜11時頃だったでしょうか。


今日こそはすっきり勝ってくれ。


前半23分、名波のコーナーキックを秋田がヘッドで合わせ先制。

しかし試合終了間際、同点ゴールをけり込まれ、勝ち点3を逃がしてしまいます。

やはりピッチではデコボコでした。

なんたる失態。

ドーハでいったい何を学んだんだよ、日本代表。

この夜、加茂監督は更迭され、岡田武史コーチの監督就任が決定されました。

翌5日、日曜日の朝、講習に集まる受講生約30名は、みな一様に暗い雰囲気です。
スポーツ新聞の一面は「ワールドカップ絶望」「日本代表崩壊」と大きな見出し。

「やばいよね」。


誰とはなしにそんな会話が始まります。
そこに田嶋幸三講師がこれまた暗い雰囲気で教室に登場。

「みなさん、おはようございます。昨夜はとても残念な結果でした。
でも、まだ予選は始まったばかりです。暗くなる必要はありません。まだまだこれからです」

と、少しも明るくない表情で語り始めるのでした。

ただし、だからといって講習の内容が暗くなるわけではありません。すばらしい講習をしていただきました。

特に「ゲームフリーズ」。

これは、ゲーム形式の練習の途中でゲームを止めて、指導すべきポイントを
選手に伝える指導手法なのですが、そのタイミングと内容が見事なのです
(当たり前といえば当たり前です)。受講者が5対5のゲームをして田嶋氏が指導の模範を見せるのですが、
ある瞬間に笛を吹いてゲームを止め、指導を始めます。


「今のボールの位置で、あなたのパスコースはいくつ見えますか。ひとつだけですね。
それをふたつにできるようにするには、味方はどのようなポジションに移ればよいですか」

なんてことを言ってから、
またゲームを再開するのですが、すると見事にパスがスイスイつながりはじめます。


まるで魔法を見ているみたい。


指導者のレベル向上は競技力向上に欠かせません。
日本のサッカー界がそれを全国的に展開しようというなかで、日本代表は中央アジアで戦っていたのです。

岡田武史監督となった日本代表は、カザフスタンからそのまま移動し、10月11日、
ウズベキスタンの首都タシケントでの第4戦に臨みます(ピッチ、デコボコ)。
そしてこの試合もまたもや1対1のドロー(ただ、これは試合終了間際に呂比須が決めて追いついた試合)。
もはやプレーオフに進出できるグループ2位すら危うい状態に、日本中が代表チームへのパッシングを始めます。

そして10月26日、UAEのホームでの試合にまたも引き分けると、サポーターの怒りと絶望は頂点に達し、
試合後に国立の外でカズを取り囲むという騒ぎも起きました。

追いつめられた日本。

そして迎えて11月1日。韓国とのアウエーでの戦い。

韓国はすでにグループ1位でフランス行きを決めています。
日本は負ければ、本当にワールドカップへの道が閉ざされてしまう。しかし、日本代表は蘇ります。
名波、呂比須のゴールで2対0。
アウエーで13年ぶりの勝利でした(チャムシル競技場はグッド・コンディション)。
さらに翌日にはUAEとウズベキスタンが引き分けてしまい、日本は最終戦に勝てば、
プレーオフ進出が決まるという願ってもない状況となったのです。


そしてカザフスタンを国立で5対1と撃破。


日本代表は、苦しんで苦しんで、やっとの思いでプレーオフ進出を果たしたのでした。
相手は、グループAの2位、恐怖のFWアリ・ダエイを擁する、強豪イランです。

さて、3日間の講習を終え、簡単なテストに合格して、わたしは公認ライセンスを得ることができました。
一応、小学生を教える資格が得られたわけですが、残念ながらその資格を生かすべく、
コーチをする機会はまだありません。
ただ、その時に得られたさまざまな基礎的な知識はいろいろな意味で役に立っていますし、
サッカーを見たり楽しむ上での貴重な財産になっています。

そして、講座には真剣にサッカーを教えたいと勉強する人々がいたことを忘れることができません。
子供たちにちゃんとコーチしなければと、往復4時間以上もかけて
通い続けたサッカー経験のないお父さんたち。

「塾に行かされるように親に言われて、いやいやサッカーをやっている
子供に、サッカーの楽しさを伝えるにはどうしたらよいのか」

と悩んでいた女性コーチ。

いろいろな人がいました。みなさん、きっと今でも週末はグラウンドで
真っ黒になってコーチを続けているに違いありません。
わたしはテレビや新聞などで田嶋幸三氏を見かける度に、
あの講習と苦しみ続けたワールドカップ予選のことを思い出すのです。

現在、「公認D級コーチ」は週末の2日間で取得することができます。

わたしが受けた受講内容より簡略化されていますが(わたしはラッキーでした)、
興味のある方はサッカー協会のWebサイトで調べてみてはいかがでしょうか。

2回で終わらせようとした「ジョホールバル」でしたが、
あの歓喜の瞬間は延長戦(第3回)で語りたいと思います。


◆


で、先日の10月11日のインド戦です。

それにしても、日本の選手はボール・コントロールに苦しんでいました。
プロの選手がワンタッチでボールが止まらないのですから、
かなりひどいピッチ・コンディションだったのでしょう(これは皮肉です)。


それから、今回の遠征でのオシム語録のランキング1位は「ポリバレント」。
いろんなポジションが的確にこなせることを意味するのでしょうが、
草サッカー・プレーヤーにとっては何を今さらって感じっすね。
なんせキックオフされてからポジションを決めるというスーパー・アバウトな(楽しい)
草チームでプレーしていたわたしにとって、ポリバレントなんてのは当たり前。

初めて一緒にプレーする「ゲスト参加」も日常茶飯事。その時その時に応じて、
どのポジションでもこなさなければならないのです。
メンバーが寝坊をすれば、8人でも闘うのです。なにも驚くことではありません。

それにしても、“ドン”オシムは、走れとか、考えろとか、チャレンジしろとか、
リスクを冒せとか、ポリバレントとかとか、いろいろ言うわけです。
ただ、改めて考えればサッカー・プレーヤーにとって当たり前のことばかり。
当然、選手だってわかっているでしょう。プロなんだから。

ということは、当たり前のことをことさら大げさに記事にしているマスコミの話題づくりばかりを追った
報道というか、右習え的な姿勢が、なにやら事態をややこしくしているようにも感じます。
もちろん、サッカーに詳しくない読者や聴取者の方がたくさんいるので、何かわかりやすいテーマ(話題)
があればこぞってそれに飛びついてニュースにまとめてしまいたい気持ちもよくわかります。

でも、それだけでいいのかなぁ。
なあんてことを考えつつ、11月15日サウジアラビア戦(札幌ドーム)に期待いたしましょう。

Posted: sugano : 2006年10月24日 17:15

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2006年10月15日

水泳マラソン6万キロの終点に立って

タミー・ヴァン・ヴィッセさん。
彼女はこれまでの人生の大半を、普通の人よりも顔を下に向けて過ごしてきた。
余りきれいとは言えない水の中であれ、凍えるような水の中であれ、
自分自身を精神的にも肉体的にも極限に置いて次々と記録を塗り替えてきた。

それは、長くて過酷なスポーツの経歴だった。
そして、彼女のスポーツ歴は、太っていじめられた時の少女からスポーツスターへの勝利の軌跡・・・
オリンピックのように満員の観衆の中で行われるスポーツとは違う自己との闘いの軌跡である。

彼女は、まず苦痛に耐えることを学び、次に苦痛とうまくつきあっていくことを体得し、
実際、苦痛を愛することを学んできた。


彼女がマラソン・スイミングの本当の楽しさを見つけたのは、
1996年、オーストラリアとパプアニューギニアの間にあるバス海峡を、
17時間46分かけて横断した時だった。未だに、この海峡を横断した人はいない。


彼女は英仏海峡を2回横断している。成功率はわずか7%と言われている海峡でだ。水の冷たいネス湖の縦断(1999年、9時間6分)、クック海峡横断(1999年、6時間49分)、2000年11月から2001年2月までの3ヶ月(106日)をかけて南オーストラリアのマレー河の全長を泳いだ。


「ガートルード・イーダールさんは80年前の1926年に英仏海峡横断に成功して、
7時間11分の世界記録を作りました。女性でも、男性と対等に出来るのだという勇気を
女性に吹き込んでくれました。だから、彼女をいつも私は尊敬しています」

「困難な中で、彼女は英仏海峡横断に成功した最初の女性ではありませんが、
男性の記録を2時間も縮めました。当時の女の子で、それがどれほど大変だったか。
女性は男性より劣っている、スポーツで女性は男性と競うべきではないと言われていた時代に、です」

イーダールの英仏海峡横断に鼓舞されたヴァン・ヴィッセさんも、また寡黙に人の愚かな
間違いに挑戦しながら、男女は同等に競争できるのだと証明してスポーツを楽しんできた。


「私は挑戦が好きです。挑戦に応えるのが好きです。私の尊敬できる英雄は、スポーツの分野で
女性の壁を壊していったゲートルードさんやドー・フレーザーさんのような人たちです」


彼女のスポーツキャリアの中で常に解答をみつけだそうとしてきた質問は、なぜ?という問いだった。
それは、彼女が答えをみつけようと苦闘してきた問いですらあるし、毎週100キロの水泳をしながらいくつかの答えを探し求めていた。

「それは、おそらく最も答えにくい難問です。人々に納得してもらうことは難しいでしょう。
私は、ほとんどの人が信じれないとか、極端だとか思うスポーツで挑んできたことは確かです。
超クールである必要があります。しかし、その解答への挑戦は、喜びと満足を与えてくれます」

「私はマラソンを走るのは好きではありません。飛行機からジャンプするのもどうかと思います。
方法は違うけどいろいろな物事はすべて関連しあっています。
なぜ地獄の苦しみを味わっているのかと聞いて始めて、自分と反対側にいる人を理解出来るのです」

「私は心身を限度まで持っていくことが好きです。
私は低体温症や吐き気の時はどうすればいいかは慣れました。
人が得意なもの、情熱を傾けられるもの、達成できそうと思えるもの、
個人的な満足感を引き出せるものを発見すれば、それはやりがいのあることなのです」

「しかし、それは単に個人的な満足に終わるものではありません。なぜかというと、
私が水泳をする時に、私と一緒に働く支援チームがいるわけです。
そのことが、同じ目的に向かって一つのグループを異体同心にまとめるのです」

「私は、支援チームといくつも素晴らしい経験を味わってきました。
ドーン・フレーザーさんもその一人ですが、彼女はいつも私のためにいてくれます」


なぜ、こんなに頑張れるのか?

「私は、クラスの中でオーバーウェイトの子でした。私は、いじめに遭った子です。
いつもあら探しをされ、いつもプライドを傷つけられていました。私にとっては、つらい時期でした。
いじめやなじりは、ほんとうに長い間、私に付いて回りました」

10歳の時、両親が水泳教室に手続きをしてから、彼女の生活が変わった。

「健康的で、より活動的になることで、私たちはより多くの事が達成できることがわかりました。
私は、身を以てわかりました。なぜなら、私が生き証人ですから」


今、世界の著名なマラソン泳者の一人として20年を過ごして、彼女は、合計6万キロをしのぐ距離を泳いできた。これは、地球1周半分に相当する。多くの人が、飛行機や船で世界1周を果たす中、彼女は最も過酷な方法を選んだ。そして、彼女は、もう十分泳いだと思い始めた。


そして、ニューヨーク市のバッテリー公園から対岸のニュージャージーのサンディ・フックまでを、先人ガートルード・イーダールさんが、1926年の19歳の時に英仏海峡横断に挑戦するためにその前年の1925年に選んだコースに挑戦した。これが、彼女の最後の挑戦になった。

サポート・チームの中に、婚約者のマクハティーさんが入っている。プロのテレビカメラマンだ。

ニューヨークのマンハッタン島では、これまで3回も競泳に参加している。だが、水は汚かった。水を飲むことからいつも病気になる恐れを抱いて泳いできた。犬の死骸、ネズミの死骸が流れていた。コンドームまでも。1997年にマンハッタンで勝ったときには、レース後2時間して激しい病に倒れた。それは、そういう水をのんだからだった。

「今回はすべての注射をうちました。口を出来る限り開けないようにします。
私は、自分の手に何がひっかかってくるかなんて考えたくもありません。
只、自分の水泳のことだけに集中したいです。
7時間も泳いできたのに・・という風に考えないで自分の心を騙さなくてはなりません」


果たして、7月中旬、彼女は、ニューヨークからニュージャージーのマンハッタン島まで
35キロを5時間6分という速さで泳ぎ切ったのである。
そして、この7月に、婚約者のクリスさんが見守る中、までの35キロを泳ぎ切って、
自分のマラソン水泳人生を締めくくった。

37歳のビクトリア州の女性だ。今度は、妻として、母としての、
新しい人生を泳いでいくことを、彼女は決断した。


幸あれ!! お幸せに!!

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posted by gensan |09:55 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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