2006年09月25日
『メタフットボール』こと、菅野芳伸です。
秋の気配が色濃くなり、いよいよJリーグの優勝争いが白熱してきました。
優勝争い以上に盛り上がる残留争いも、毎年すごいドラマばかり。
気温と湿度が下がるにつれて選手のコンディションは上がり、毎週、各地で激闘が繰り広げられています。
で、「秋」、「激闘」とくれば、
中年サッカーファンは瞬時に「ドーハ」、「ジョホールバル」へと連想を広げるのが鉄板。
前回に引き続き、今回もおじさんの昔話におつきあいください。
まずは「ドーハ」から。「ドーハの悲劇」という言葉は、多くの人が知っていると思います。
1993年(平成5年)10月28日、カタールのドーハで日本代表がイラクを相手に
ロスタイムに同点ゴールを決められてしまい、94年のアメリカ・ワールドカップの
出場を逃してしまいました。あと1分守りきれば、悲願のワールドカップ出場が決まる。
サッカーは、試合終了のホイッスルが鳴るまでわかりません。
日本中のサッカーファンがテレビの前で泣き崩れた、伝説の試合です。
前回、1985年10月26日のメキシコのワールドカップ予選の韓国戦について書きました。
それから8年、日本のサッカーを取り巻く環境は激変していました。
この年、93年5月15日、マリノス対ヴェルディの対戦から、Jリーグがスタートしたのです
(実質的には前年の秋、ナビスコカップで当時のJリーグ10チームが公式戦を戦っています)。
突然訪れた、Jリーグ・ブーム。日本中がサッカーに熱中します。
その勢いはヨン様か、ハンカチ王子。老いも若きもJリーグ、カズ、ラモス、アルシンド。
「友だちならあたりまえ」。スタジアムは連日の満員です。チケットはプラチナとなり、
チケットが買えずに「Jリーグ・チップス」や「Jリーグ・カレー」を買う子供たちが全国にあふれました。
今ふり返っても、異常なほどの盛り上がりです。
1985年の敗戦から日本のサッカー界はプロ化へ向けて大きく動き出し、
サッカー関係者とファンの情熱、そしてバブル景気末期の勢いも借りてスタートした Jリーグは、
幸運なスタートを切ったのです。その背景には、以前から全国各地で少年サッカー・チームが
地道に根を広げていたことも見逃せません。小さい頃から技術を磨いてきた子供たちが次第に成長し、
この頃からテクニックに優れた選手が多く出てきたのです。
日本のサッカーは、「とりあえず前にけって走るサッカー」から
「テクニックで組み立てるサッカー」へ質が変わろうとしていました。
Jリーグが注目されれば、当然ワールドカップにも注目が集まります。
ときを同じくしてワールドカップのアジア予選が始まっていました。
当時の監督はハンス・オフトです。92年4月に就任、代表監督では初の外国人
(オランダ)で、「アイコンタクト」「スリーライン」「トライアングル」と
いったキーワードを全面に出し、個性的なメンバーをまとめ、その年の秋のアジアカップを制覇。
93年4月からのワールドカップ予選も一次予選を無敗で勝ち進み、
本大会へ向けて大きく自信を深めていました。
そしてJリーグ開幕で盛り上がる10月、日本代表は最終予選の行われるカタールの首都、ドーハへ乗り込むのです。
1970年代、部活でサッカーに熱中していたわたしはといえば、複雑な心境でした。
誰も彼もが口を開けばJリーグ、サッカー。
「菅野さん、サッカーやってたんですよね」、
「まあね、昔の話」。
「カズのフェイント、すごいっすね」、
「そうでもないよ」。
「サッカー選手って、かっこいい!!」、
「………」。
素直に喜べないのです。
とまどい、もあったでしょう。
「オレは誰も見向きもしない頃にサッカーをやってたんだ。けっ、ブームに乗っかったやつらにサッカーを語ってほしくない!!(女の子にぜんぜんもてなかったし)」 と心の底で叫んでいました。
今思えば、嫌な中年です。自宅でポテトチップを食べながらテレビ中継にかじりついているくせに
(チケットが手に入らないので、スタジアムへ行けないのです)。
ドーハでの戦いには、日本中が注目していました。なんといってもワールドカップですから。
最終予選に残ったのはサウジアラビア、イラン、イラク、北朝鮮、韓国、日本。
6カ国の総当たりで、上位2カ国が本大会に進出。このときは、現在のようなホーム&アウエーではなく、
1カ所で集中的に行う「セントラル方式」で行われたのです。
日本の初戦は10月15日、サウジアラビアにスコアレスドローで、まずまずのスタート。
次のイラン戦は1-2で落としてしまい、いきなり崖っぷち。第3戦は北朝鮮を3-1で破り、
息を吹き返す日本代表。カズ、2得点。わたしはテレビの前で叫びました。
「おまえのフェイントは最高だ」。
続いて宿敵の韓国を1-0で沈めます。カズ、決勝ゴール。
「ありがとう、カズ。あなたはすべてが最高です」。
そして10月28日、最終戦の相手がイラク。勝てば文句なく、ワールドカップ。
引き分ければ、他の試合の結果に左右されます。
キックオフは日本時間の22時。もちろん、わたしはテレビの前です。
食事も入浴も早々に済ませ(身を清めて)、テレビに向かって祈ります。
'「カズ、おれをワールドカップに連れてって」。
'
しかし、ご存じのように、その願いはかないませんでした。
2-1で迎えた後半ロスタイム。ショートコーナーから、ボールにプレッシャーを
かけたカズの足元をすり抜けるようにゴール前にクロスが入る。
長身のオムラムのヘディング・シュートが、ゆっくりとゴールネットに吸い込まれる。
GK松永成立は、ボールの軌道を目で追いながら、反応できない。その後は、思い出したくありません。
日本は引き分けに終わり、得失点差で韓国がアメリカへの切符を手にするのです。
わたしがサッカーで涙を流したのは、初めてでした。
中学3年と高校3年のとき、部活の引退が決まる試合(敗戦)で涙があふれそう
になるのを我慢したことはあっても。へこんだわたしに残されたのは、
これが本当のワールドカップ予選なのだと、無理矢理思うことだけでした。この試合の視聴率は48.1%。
どのようなスポーツも、いきなり強くなるということはありません。
まして世界の舞台で戦うということにおいては。いくつもの激闘を重ねた上に、
さらに厳しい戦いと悔しさを味わい、そこから何かをつかんだものだけが、上を目指せる。
しかも、努力をしたからといって、望んだ結果を必ずつかめるものでもありません。
何の結果も得られずに終わることの方が多いのです。それでも、激闘を積み重ねなければ、何も得られない。
最も不幸なのは、戦う力と意志がありながら、そのチャンスを得られないことかもしれません。
サッカーは、たとえ負けてばかりでも、常に世界へのチャレンジを続けて来ました。
最初の国際大会出場は1917年(大正6年)の第3回極東大会
(日本、フィリピン、中華民国<当時>が参加)と記録されています。
FIFAに加盟したのは1929年(昭和4年)。
ワールドカップ予選に初めて参加したのは1954年(昭和29年)のことでした。
1985年、日本のサッカーたまたまワールドカップ一歩手前まで進んだものの、
韓国の厚い壁を崩せませんでした。その4年後、89年のイタリア大会(90年)のアジア予選で
またも一次予選で敗退となったことから、やはり本来の力がついていなかったことが証明されています。
そしてJリーグ(プロ)が生まれて初めて挑んだ93年のドーハが、本当の意味で
ワールドカップ出場を懸けた最初の激闘だったのです。そして、手が届きながらも土壇場で敗れました。
やはり甘くなかった。経験が足りなかった。プロになったからといって、
簡単にワールドカップの舞台に立てると思うな。
この激闘の経験は、4年後に引き継がれることとなるのです。
この間、わたしのサッカー人生もひとつの転機を迎えます。
そのお話は、次回に。
◆
オシム監督率いる日本代表は、10月4日(水)、ガーナとの親善試合を控えています。
ガーナといえば、ドイツ・ワールドカップでアフリカ勢として唯一、決勝トーナメントに進出。
実は、わたしはワールドカップのインターネット配信の制作チームの一員としてガーナの試合を2試合、
担当しました。アフリカ人特有のフィジカルの強さはもちろんですが、組織的にもしっかりしたチームです。
特にアサモア・ギャン(21歳)のスピードとシュートを打つ積極性が印象に残っています。
FWなのになぜか背番号3をつけていました(今回来日するかどうかは不明)。いつも言われることですが、
フィジカルではかなわないアフリカのチームに対して、日本の組織力がどこまで通用するか。
オシム翁が繰り出す語録と共に、期待してテレビの前に座りたいと思います。
それにしても、水を運ぶ選手が必要なことはわかりますが、では誰がその水をおいしく飲むのか。
みんなが水ばかり運ぶわけにもいかないわけで。そこに注目。
posted by sugano |14:58 |
sugano |
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2006年09月11日
『メタフットボール』こと、菅野芳伸です。
先日、「BLUETAG」プロジェクトメンバーのフットサルの仲間に入れていただきました。
キックオフは21時。終わりは23時。その2日前にサウジアラビアとアウエーで戦った
日本代表が夜中に練習したそうで、“プチ代表気分”でライトの下で楽しくボールをけりました。
が、現実の厳しさも思いっきり味わったのでした(特に翌々日の筋肉痛)。
メンバーのみなさん、おつかれさまでした。
で、9月に入り、だいぶ過ごしやすくなりました。
秋は、わたしのような中年のサッカーファンにとって、ちょっぴりせつない季節。
そうです、あの10月26日が、やってくるからです。
1985年(昭和60年)、ワールドカップ、メキシコ大会のアジア予選。
日本は予想に反して(?!)快進撃を続けます。
一次予選で同じグループのシンガポールと北朝鮮を下し、準決勝へ進出(このとき、
北朝鮮とのアウエー戦ではピョンヤンの人工芝のグラウンドで戦ったのです)。
そして、香港を破って決勝へ駒を進めた日本代表。
決勝の相手は宿敵、というか当時プロ化していてまったく歯が立たなかった韓国。
ホーム&アウエーを勝ち抜けば、夢でしか語れなかったワールドカップに出場できるのです。
その初戦が10月26日。舞台は国立競技場です。
実はこの頃、27歳のわたしは仕事やらなにやらで、ほとんどサッカーから離れていました。
せいぜい年に数回のテレビ中継を見る程度。
しかし、日本がワールドカップへの切符をかけて韓国と戦う、というニュースを耳にして、
何かが鋭く全身を走りました。 絶対に、国立へ行かなければならない。
高校時代はサッカー部の仲間とよく国立に通いました。
日本代表の国際試合の会場は必ず国立だったからです。
「じゃ、明日、聖火台の下で」。これがわたしたちの合言葉。
当時のスタンドはガラガラです。聖火台の下にはわたしたちしかいませんでした。
試合が始まると好きな席に移動し、ヤジを飛ばすのが楽しみでした。
普段グラウンドで大声を出しているわたしたちの声は、まばらな観客席だけでなく、
枯れた芝の上で戦う選手にも届きます。あるサイドバック(現解説者)はヤジに反応して、
高校生のわたしたちにガンを飛ばします (注:ガンを飛ばす=にらみつけるの意)。
「ほらほら、よそ見しているとまたドリブルで抜かれちゃうよ、あっやられた」。そんな時代が長く続いたのです。
さて、韓国戦。
わたしは決戦を前に、前売り券を買いました。
初めての経験です。何かの予感がしたのでしょう。当日、通い慣れた千駄ヶ谷の駅を降りると、
人があふれています。こんなことも初めてです。そして国立のスタンドを目にしたわたしは、
呆然としてしまいました。キックオフ1時間前なのに、ほとんど人で埋まっているのです。
初めて見る光景を表現する言葉が見つかりませんでした。しかし、呆然とばかりもしていらない。
席を確保しなければならないからです。
この日、わたしはつきあい始めて間もない女性と一緒でした(現在は妻)。
森孝慈監督率いる当時の代表チームのメンバーは、
森下申一、石神良訓、松木安太郎、加藤久、勝矢寿延、都並敏史、田中真二、
西村昭宏、宮内聡、木村和司、長澤和明(女優・長澤まさみのお父さん)、
岡田武史、与那城ジョージ、水沼貴史、柱谷幸一、原博実、手塚聡、戸塚哲也などなど。
ほとんどが指導者や解説者として、現在の日本のサッカーを支えている人ばかり。
わたしと同世代の男たちが、世界の舞台を目指して戦っていました。
なんとかゴール裏の端に2人分の席を確保し、
改めて6万人の大観衆を目にした感動が胸に迫ってきました。
サッカーを応援している人が、国立に来なければと思った人が日本にはたくさんいる。
サッカーなんて、マイナースポーツだと思っていたのに。
サポーターという言葉はまだありませんでしたが、観客が多ければ多いほど選手を鼓舞するのと同時に、
同じ空間と思いを共有する観客同士もお互いに鼓舞されることを、初めて実感したのです。
午後2時。
大声援のなか、キックオフの笛が曇り空に響きます。
しかし、わたしは試合内容をほとんど覚えていないのです。
あの伝説のフリーキックのシーンを除いては。
前半終了間際、2点のビハインドを負った日本は、韓国ゴール前でフリーキックのチャンスを得ます。
もちろんキッカーは木村和司。ここから記憶は鮮明になります。
日本側のゴール裏のスタンドから、遠くに見える背番号10。わたしはその背中に願いました。
決めてくれ。
そして誰もが願っていたことが、現実となります。短い助走から右足が振り抜かれる。
カベをこえたボールがゴールネットを揺らす。爆発するスタンド。
わたしも思わず立ち上がり、全身をふるわせ、両手を突き上げ、大声を出していました。
スタンドが歓喜でわき上がる瞬間。その喜びを忘れることはできません。
そしてその後の記憶がまた薄れていくのです。結局、この試合を1対2で落とした日本は、
続くアウエーでも0-1で負け、韓国がメキシコへの切符を手にしました。
86年のメキシコ大会といえば、ディエゴ・マラドーナの大会。
「神の手」、「5人抜き」。あの大会に日本が出場していれば。今さらながら、
そんなことを考えてしまいますが、この敗戦から日本のサッカーは大きな変化への胎動を始めます。
プロにならなければ韓国に勝てない、ワールドカップにも出場できない。
J リーグは、あの満員の国立がなければ生まれなかったかもしれません。
ただ、サッカーは世界の国々でいちばん人気のあるスポーツですから、
経済やメディア、交通手段など、いろいろな意味でグローバル化が進むなかで、
その魅力に日本だけが取り残されるということはなかったでしょう。
プロ化に向けていろいろな人の努力があったことも事実ですが、
今の日本のサッカー人気は必然だったとも思えるのです。
今では日本代表の試合は必ず満員になり、夢でしか語れなかったワールドカップが当たり前となりました。
しかも、共催ながら日本でワールドカップが行われた。夢が現実となったのですから、
日本のワールドカップ優勝もまた、夢ではないのです
ま、そう思えるくらいワールドカップは遠い存在だったということを強調したいわけで)。
スポーツを愛する人の多くは、試合観戦の原体験や忘れられない試合があると思います。
初めて連れて行ってもらったプロ野球。最近は、サッカーのスタジアムも多いでしょう。
身近なところでは、同じ学校の仲間が出場する試合を応援するために足を運んだ体育館やグラウンド。
好きなチームや選手、友人を応援するあの高揚感や、
勝敗に一喜一憂する楽しさをもっともっと多くの人に経験してもらいたいと思います。
わたしにとって、1985年、秋の国立競技場がそのひとつであるように。
10月26日。
一部のおじさんサッカーファンはこの日を「和司記念日」と呼んでいます。
◆
オシム監督率いる日本代表は、9月3日、6日と続いた厳しい中東2連戦を、1勝1敗で終えました。
ゲームそのものより、炸裂するオシム節の方がニュースになるという状況もなんだかと思いますが、
わたし自身、その記事を読むのを楽しみにしていることも事実。あの老練なジイサマは、
時々本意とは逆のことを言って選手や報道陣を煙に巻くそうです。
どれが本意で、どれが逆説なのか。読み切れないところがまた、
ッカーは人生であるということでしょうか。
日本代表チームはOSを「オシム」に切り替えて再起動したばかりで、まだまだβ版、
というかそれ以前の企画段階のデモ版に過ぎません。
これからの進化に期待したいと思います(サッカーチームはいつでもβ版なのかもしれませんが)。
posted by sugano |11:30 |
sugano |
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2006年09月08日
ちょっと ネタとしては遅くなったけど、この前のイエメン戦。
なんやあれは?
まーきー。 まーきー。
M(まともに) A(あたまで) K(コントロールして) I(入れとけボケ) MAKI!
ピッチが悪いか、標高があってしんどいんかしれんけど、オープンゴールに浮いている
ライナークロスをお前がヘディングで決められへんで、どーすんねん!
我ら日本代表に、前監督にも(多くの候補者を抜いて)認められ、
現監督にも認められてスタメンで出てる数少ない選手やから、あえて厳しく言う。
クラブに戻ってもサッカーというメジャースポーツで十分食っていける
プロフェッショナルアスリートやから、なおさらや。
遠くイエメンの地までサポーターも応援に行ってくれてる。
日本では、夜九時から放映される番組を見るために、
ブル太をはじめ多くの人が仕事を切り上げて応援しとんのや。 頑張ってくれ。
最後結果を残したのは良かった。 拍手 拍手
まぁ、試合もレベルは低かったけど、一番レベルが低かったのは。。。。。
「なんや、あのカメラは! ちゃんと流せ! 見えへんやんけ」
標高の問題で、カメラマンもフラフラやったんか? って現地の人やんな?
たのむでーーー。
でも、えーなー。 たくさんの人にみてもらえて。
この前の、菅さんのブログにもあったけど、ちょっと昔やと考えられへん環境や。
他の競技に挑戦しているアスリートも、他の競技で日本代表やっているアスリートも、
もっと多くの人に感動を伝え、みてもらえる環境を用意していかな・・・
さぁ。 次の企画、次の企画。
posted by keni |17:58 |
buruta |
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