2006年08月31日

昔、サッカーが貧乏だった頃

みなさん、はじめまして。

縁あって、「ブル太と仲間たち」の仲間になった菅野芳伸です。

得意なお題は、サッカー。 中学、高校とサッカー部で毎日ボールを追いかけ、
今ではボールに追いつけない日々を過ごしています。


さて、最近、Webの技術関連のニュースで「Ajax」という言葉をよく目にするようになりました。

ん、Web技術に「アヤックス」……。「Ajax」=「アヤックス」とは、
言わずと知れたオランダの名門サッカークラブ。ところが、よく調べると
「Ajax」はWebの世界では「エイジャックス」と読んで、
しかもブラウザ上でソフトを起動して利用できる革新的技術だそうな。

ITの進化に置いていかれないよう必死になっているオジサン世代にとっては、
何とも紛らわしいネーミング。若者に「Ajaxはアヤックスと読むんだよ」
なんて偉そうに講釈しないでよかったぁ。


んで、本題。


現在、日本のサッカーの話題は、オシム監督一色。ジーコがお父さんなら、オシムはおじいちゃん。
世代的には後退したものの、ガンコ一徹なおじいちゃんに
「人間は、読み、書き、そろばん(考えて、走って、日本人の特徴を生かせ)」
とガツンと言われているようで、個人的にはかえって新鮮な印象です。


それにしても、日本のサッカーの環境は大きく変わりました。

ここで時間は1970年代に一気に飛びます。


私が中学・高校のサッカー部でボールを追いかけていた頃、
ある通達がサッカー部の部員たちに届きました。
「日本代表チームをワールドカップ予選に参加させるために、寄付をお願いします」。
「ワールドカップ」ではなく、「予選」というところがミソ。
つまり、当時の日本サッカー協会は、代表チームをアジア予選に参加させるための予算がなく、
全国の部活の生徒に寄付を募ったのです。

もちろん、大学や社会人でサッカーをしている人も同様でしょう。
それも1度ではなく、数回こうしたことがありましたから、ワールドカップだけでなく、
オリンピックの予選などでも寄付を集めたのです。もちろん、私は寄付をしました。
詳しい金額は覚えていませんが、数百円か千円程度だったと思います。
寄付をすると、協会特製のステッカーが配られました。
3本足のヤタガラスがデザインされていたことはしっかりと記憶しています。
ノートに貼って、毎日学校で見ていましたから。


当時のサッカー少年たちの寄付と願いとはウラハラに、日本代表は弱いチームでした。
1968年のメキシコ・オリンピックでの銅メダルの後は弱体化する一方で、アジア予選に出場しても
タイやマレーシア、シンガポールにも勝てなかった時代に、ワールドカップは夢の世界のお話。
韓国にはまったく歯がたちませんでした。日本のサッカーはアジアの格下で、本当に地味で貧乏だったのです。


「BLUETAGプロジェクト」がもし当時存在していれば、
サッカーが真っ先に支援をお願いしていたに違いありません。今から30年ほど前のお話です。


で、時計を現在に戻しましょう。


この10数年で、環境は大きく変わりました。
今やワールドカップやオリンピックは本大会に出場して当たり前。
日本代表チームの成績が日本経済に大きな影響を与えるとの報道があちこちでされるのですから、
その注目度はまったくの別世界です。代表選手は誰もが知る人気者で、新幹線はグリーン車、
飛行機はビジネスクラス。広告代理店を経由した巨額のオフィシャルサプライヤー契約などで、
日本サッカー協会の年間予算は約157億円となりました。

これは日本オリンピック委員会(JOC)の2倍に相当する規模です。
その予算には全国の選手の登録料や指導者ライセンスの更新料など、「上納金システム」が確立され、
“取れるモノはすべてしっかり取る”という仕組みができ上がっています。


もちろん、サッカーがビジネスと一体化してお金で動いているのは、世界の常識です。
強くなるために、人気を維持するために、底辺を広げるために、お金は必要です。
スポンサーのおかけで、私たちは代表の試合を年間に何試合も見ることができる。


しかし。


貧乏な組織が一気にリッチになり、なにやらそれを維持するのに汲々として
(もう貧乏はいやだ、という気持ちはわかりますが)、
かえって余裕のないように感じられてなりません。高度に組織化された協会の
マネー・システムの一環に私個人もからめとられているのですが、
正直あまり居心地のいいものではありません。


サッカーにおいて牧歌的な時代は終わってしまいましたが、本当に価値のあるものは何か、
そこにお金がどうのように支えられるのか。そのバランス感覚こそが最も難しいことだと思うのです。


そんなことを考えながら、オシム翁の率いる日本代表がこれからどのように進化するのか、
見守っていきたいと思います。次の代表の試合は9月3日(日)と9月6日(水)。
アジアカップ最終予選、サウジアラビア戦とイエメン戦。アウエーでの厳しい連戦です。

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posted by sugano |10:42 | sugano | コメント(0) | トラックバック(0)
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2006年08月30日

新しい仲間を紹介 ~サッカー通です~

先日のブログで軽く触れた、新しい仲間です。
ブル太の仲間としての参加を快く引き受けてくれました。

まずは、ブル太から紹介させていただきます。
早速面白い記事を用意いただいておりますので、一両日中にはアップする予定です。


名前: 菅野 芳伸(すがの よしのぶ)

生年月日: 1959年6月20日

出身地: 福島県

性別: 男


ブログ:  http://www002.upp.so-net.ne.jp/y-sugano/


使命: サッカーの仲間を増やすこと、その楽しさを伝えること


特徴: 「先輩(年長)」の風を吹かせ、背番号「5」を死守する(ビブスも)

性格: スパイクをはくと戦闘モードに切り変わること(バイクのヘルメットをかぶっても変わります)


好きな食べ物: 梅干し以外すべて


尊敬する人: 「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー(背番号5)とカールおじさん


普段は?: ふつうのおじさん(CIデザイン会社の調査・企画担当、サッカー関係のお仕事も)

得意技: 必殺のスライディングタックル、ウィリー(すべて昔の話です)


座右の銘: 「シンプルなプレーこそ難しい」(c)ヨハン・クライフ


ブル太より一言・・・・
サッカーに関するお仕事もしてはる方で、なかなか普通の人だと経験できないような
場所や角度からサッカーを見られてます。 「こういう時代もあったんや」 と感じるブログを投稿してくれそうな気がしてます。
それでは、近々第一回目をアップしますんで、楽しみにしといてください!

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posted by keni |15:08 | buruta | コメント(0) | トラックバック(0)
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2006年08月25日

豪州式チャリティ 深夜のフル(珍)マラソン

先日のシドニーマラソン、シティ To サーフ・マラソン。大会史上初の6万3千人が走った。
走破した人は正確に、53,669人だったという。1万人が落後したわけだが、笑ってはいけない。
参加することに意義あり、だ。日曜の朝、自分の体を試してみることは、それ自体立派な行為である。


オーストラリアの北の果て、クインズランド州ヨーク岬半島。

20070410-04.gif

半島の西側にウィーパ(地図にWeipaとある)という、人口3千人の僻地の町がある。
ケアンズから840キロ西北西に行ったフロンティアの町であり、リオティントという鉱山会社の鉱山のある町だ。
地理的にはクックタウン・シャイアという行政区域にはいるのだが、
特別にクインズランド州議会からウィーパという町に管理が任されている。
道路事情のよい日ですら、12時間かけなければケアンズに出られない。雨季に入れば、
病人が出ても、外とのアクセスは空路しかなくなる。


日本人には、全く馴染みの無い場所だが、実はかなり昔の歴史に登場する場所である。
ヨーロッパ人が初めてオーストラリア大陸の存在を知ったのは、ウィレム・ジャンス率いる
オランダ東インド会社船ダウフケン号が、ニューギニア南岸からヨーク岬半島の西岸に到達した
1606年3月であるといわれる。それが、ウィーパを含む海岸であったと思われる。
北部のアルバトロス湾に北から突き出る岬を、いまでもダウフケン岬と呼んでいる。


そして同じ年の9月、ルイス・バエス・デ・トレス指揮する2隻のスペイン船が、
トレス海峡を東から西に通過しており、おそらく大陸とは知らずにヨーク岬を目にしたと思われる。


もう一人、マシュー・フリンダースは、この地域の鉱物資源に最初に注目した人であった。


このウィーパの鉱山で1290人の労働者のうち30人ほどが解雇されたのが、1992年であった。
気持ちが沈んでる労働者を励ますために、どうしたら、カネが集められるかを冗談まじりに皆が話していた。

20070410-05.jpg
↑この写真は、ウィーパで、ボーキサイトの積み込みをするところ

第1回のマラソンが計画された。


13人の勇気ある男性が、町の目抜き通りを、深夜募金活動のためにフルマラソンならぬ、
フル珍マラソンをした。男性が、身につけるのは、ジョギング・シューズと大きな笑顔だけ。
集まった金は130ドルだった。いまから14年前、田舎町でその金額は多かったかどうかはわからない。
そのカネは、とにかく即報恩感謝の気持ちでフライング・ドクターに贈られた。


「フライイング・ドクターに仲間の家族が何人救われたことか。それは、我が社会の大事な一部だ」
と主催者の一人ナイジェルは言った。彼は、リオティントのボーキサイト鉱山の運転手だ。


一見唐突な金集めとも言えるが、社会性に根ざしたマラソンだった。
熱帯地方の田舎町のこの行事・・もちろん地元警察もうるさいことは言わない・・
いやあなんの、町議会だって協力的だ。 
スペイン・パンプローナの牛追い祭りにひっかけて「裸の雄牛のチャリティ・ラン」と銘打ったこの行事。

1998年には、196人が参加して、2300ドルの募金が集まった。

私には、この町のマラソンに忘れられない思い出がある。


私が取材を予定していた1999年には、女性も参加を希望したのだった。
「これは男の意志ではないんだが・・・ぁ」 と、 組織委員会のナイジェルは言った。
ボディペイントも始まって、オーストラリア検疫局からは基金への応募だけではなく、
ベスト・ボディ・ペイント賞が男女に贈られるようになった。


スタートは、雨期に入った後の最初の日曜日の午前2時とか3時。

「お湿り程度じゃだめ、どっと降らないと、ね」 と、 主催者のナイジェルは電話で言った。

1999年のことだった。私は、しっかり取材の態勢を整えていた。地元のラジオ局が、


「今年は、マイケル・ジャクソンも参加し、日本のテレビ朝日も来る」と伝えてしまった。
当時、私は、シドニーの支局長をしていた。おまけに、休暇に来ていたマドンナも参加するとの噂も広まって、
雰囲気は盛り上がった。だが、東チモールでより緊急性のある仕事が発生して、
残念ながら私の取材は取りやめになった。


当日のビデオ映像を借りて見たが、椅子に座ってマラソンランナーの到来を待つ人。
走ってきた人を懐中電灯で照らし出す主婦。自宅前に大型の照明器具を備え付けて、サービスする住民。 中には、
「裸で走ってるんだから、募金にご協力を」 と仲間に迫る人。
参加した人も沿道の人もすべてが笑顔で慈善マラソンを楽しんでいた。いやらしさはなかった。


いつも、私は、日本から来た人に話をするのだが、「私、会社人間、あなた事故があれば市民の命を守る人」
では、社会は成り立たない・・。
過疎の町まで飛んできて命を守ってくれるフライイング・ドクターを支援することは、自分の命を守ることと同じだ。
その思いを、マラソンに結びついたのだ。 「人に何かが起きたときにほっておけない」それが、過疎地の市民の心のどこかに共通に置かれている。
「人ごとではない」そういう思いが、このウィーパのマラソンを支えているのだと思う。


日本では成立しないマラソンだろう。

いくら深夜に行われるとしても。裸はいけない・・もっと健全なものを・・・

枠をはめた社会が、一層市民の閉塞生を増す。
それを考えると、“楽しんで”チャリティを行うオーストラリアにいつも、私は脱帽だ。


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posted by gensan |15:29 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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2006年08月25日

近々新しい仲間が加わります

ブル太です。

世界バスケ、 限定版のBLUETAGリングの売れ行きは順調でしたが、
日本代表の成績は残念な結果になってしもた・・・・。 
でも、まだまだこれからの競技。 世界にドンドン出て行ってもらいたいなぁ。


と、話は変わって、先日プロジェクトメンバーからあるサッカー通を紹介してもらいました。
近々ブル太の仲間として加わってもらえる予定なので、楽しみに待っといてください。

この後、gensanの新しいオーストラリアからの記事を紹介します。

マラソンの話やねんけど、めっちゃオモロイ。 フル●●マラソン?

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posted by keni |13:59 | buruta | コメント(0) | トラックバック(0)
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2006年08月11日

マイナー時代ありてこそメジャー時代来る(下)

対東ドイツ戦。ハンブルクのフォルクスパークス・スタジアムでの開幕の日、
オーストラリア戦の観衆は、わずか1万7千人だった。
いや、1万7千人も観てくれたのだ。そのうちの2000人が、オーストラリアから駆けつけた応援団だった。


西ドイツの観衆はサッカー・ルーズに声援を送った。
なかでも鉄の男、牛乳配達員のDF“マンフレッド・シェーファー”には特に。
この男は東プロセインのコニグスバーグ生まれだった。シェーファーは、ブレーメンに住んでいたが、
ロシア軍が侵攻してきて、家族とともに3歳の時にオーストラリアに移住した。
彼は、この1974年にドイツで“ヒーロー”として迎えられたのだった。
彼は、自分が同年代のドイツ人にまだ記憶されていることに先日驚いた。
今回のワールドカップ戦取材のため、ドイツのテレビ局が取材に来たからだ。


東ドイツ戦で、ディフェンスのバトルを想定したラシック監督は、シェーファーに、
東ドイツのスター・ストライカー、ジョアチム・シュトレイヒをマークするように命じた。
開始から50分以上は、この作戦は功を奏した。

「 『信じられない。われわれは何もチャンスが作れない。こんなことで負けるわけにはいかない』
とシュトレイヒが私に言ったのです」


ところが、57分。DFのコル・カランが、ボールをそらせて、オウン・ゴール。
その10分後、例のシュトレイヒがうまくシェーファーをかわしてゴール。試合は2-0で終了。
“負けたが、不名誉な敗北ではない”と、シドニーの新聞は、闘争心を讃え、
敗北の中に勇敢な行為ありとした。「(10人の小人に喩え)こびとが10フィートに成長」
という当時の新聞の見出しが、ラシック監督の頭の中にまだはっきりと残っている。


対西ドイツ戦。西ドイツにはスターがぎっしり。フランツ・ベッケンバウアー、
ゲルト・ミューラー、セップ・マイエルなどなど。シェーファーはラシック監督に言った。
「もし自分のマークが成功して彼が無得点に終われば、自分の経験の中ではそれが最高の得点です」と。
シェーファーには不幸だったが、ミューラーは唯一のチャンスをものにしてしまった。
しかもバックヘッダーで。
西ドイツにとって決して圧倒的な勝利とは言えなかったが、手堅い勝利だった。


そして、グループ最終戦チリ戦のために、サッカールーズはベルリンに飛んだ。
ラシック監督は、3つの目標を選手に掲げた。この試合で最初のポイントを獲得すること。
最初のゴールをあげること。FIFAのフェアプレー・トロフィーを勝ち取ること。
「われわれは、勝ち続ける友人を阻止しなくてはならない。ウィニング・ポイントを取ろう」と。


「もしオーストラリアが勝ち上がるようなことがあれば、俺はフットボールをやめて、ニワトリの面倒をみるよ」と、
馬鹿にしたのは、チリ代表のヴァルデス主将。


試合は雨中の決戦となった。しかも大雨。ラシック監督は、
イラン人主審をセカンドハーフの時に、ピッチに呼んだ。
試合は、混乱の内に終わった。


フルバックのカランは、違反気味のタックルにやられてタンカで運ばれた。
レイ・リチャードは前半でイエロー・カードを出されていたが、
後半明らかに人違いの判定で退場をくらった。ピッチには、チリ反動政権反対のデモ隊が侵入した。
勝利の希望もフェア・プレーの・トロフィーの夢も去り、
オーストラリアは最初で唯一のポイントにしがみついた。
ラシック監督は0-0の引き分けに満足を表明したが、監督辞任の時と悟った。


強欲な選手は、法外なサラリーを要求しているとして、世間からは非難された。
オーストラリア・サッカーの黎明期とか、大きな風穴とか、まことしやかな話が
交わされたにもかかわらず、それから32年には何も起きなかった。
今年サッカールーズの夢は、32年かけて正夢となった。


1974年当時のスコードで今回ドイツに戻ったのは、
あのドイツ生まれのマンフレッド・シェーファーだけだった。

「これが他国だったら、われわれの胸像くらいできていたろうね。
残念ながら、ここはオーストラリアだ。しかし、われわれがどんなことをしたか、
認められ始めたのはいいことだ。あれから32年かかったということは、
われわれがやったことのマグニチュードの大きさを測ってもらえると思う」
と、多くの元スコードがこう思っている。


下積みの時代をようやく脱皮して、サッカールーズは緑輝くピッチの上で
観衆を呼んでプレーが出来るようになった。(了)

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posted by gensan |16:50 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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2006年08月10日

マイナー時代ありてこそメジャー時代来る(上)

サッカーワールドカップに沸いた今年の前半。
サッカールーズが負けても、イタリア代表が勝ち上がると、メルボルンやシドニーのイタリア人社会が沸きに沸いた。
敗北を悲しんでいる人がいても、どこかに喜んでいる人たちがいる。優勝の時は、暁の大パーティであった。
オーストラリアの移民社会は、そういう社会なのである。


ところで、またまたサッカールーズの登場である。アジア・サッカー連盟に加盟したオーストラリアは、
8月16日、2007年アジアカップ予選で、ホームのシドニーでクゥエート戦を戦うので、
30年前のマイナーな頃のサッカールーズの話をしておこう。


オーストラリアのサッカールーズのワールドカップ初出場は、1974年のドイツ大会だった。
今日のように32チームと違って、16チームの時代であった。
彼らは、シドニーから、赤道をまたいでハンブルクへ遠征。


1974年大会の2年前のミュンヘン・オリンピックではテロ事件があった。
テロの脅威・・と薬物検査の導入。
のどかなオーストラリアから来たサッカールーズには、セキュリティは厳しく感じた。


だが、18面のフィールドを擁するオクセンツォルのトレーニング・キャンプ。
卓球の設備も整って、サッカールーズは退屈しなかった。
メルセデスの大型バス。アディダスからスコードに支給された無料の道具一式。
どこでも、何事にも、サッカールーズは欧州ドイツの豊かさを感じた。


ドイツに着いてから、ダウンアンダー(オーストラリアのこと)から来たサッカールーズの選手は、
田舎物扱いだった。“うすのろ”“観光客”“珍奇な者たち”、そして心なくも
“チケットのない入場者”と、書いたのは、宗主国のイギリスの新聞だ。
イングランドがファイナルに出場できない苛立ちもあったのかも知れない。


地元ドイツの大衆紙「ビルド・ツァイトゥング」でも、
「これらのカンガルーを、われわれはなぜ呼んだのか? 
勝ち目もないこの集団を迎えて、世界最大のトーナメントをいかに閉幕しようというのか」と。
勝利の確率は、250分の1。ハイチやザイールよりも低かった。


「そういう話は聞こうとしませんでしたね、われわれはただ笑い飛ばすだけで・・・・」
と、当時のラシック監督は言う。


ラシック監督の回顧録では、“それまでの4年間ハード・ワーク、拷問にも似た苦痛、
家族の犠牲、仕事の犠牲の上でつかみ取った出場だった“としている。


1974年と言えば、ベトナム戦争終了の前年である。選手の中には、戦場経験者もいた。
「われわれは、ベトナム戦争のような戦場に行かなくてはならなかったんだ。
あそこではコーラとバナナで生き延びたようなもんだよ。
あそこじゃ水は飲めないからね」と言ったのは、レイ・リッチモンドさんだ。


おまけに、当時は専業選手ではなくて、パートタイマー主体のサッカールーズだった。
今日に見るような、金持ち選手から構成されていたのではない。カネはもらっていたが、
とても今日の金額に匹敵するものではない。大きな会社と契約出来る時代でもない。
ナショナル・チームに参加してやっと一日20ドル(現在の価値で約1700円)だ。
そこから税も引かれる。選手は、貿易関係者、炭坑労働者、セールスマンといった本業を持ちながら、
フットボールを副業にした代表チームと言えるものだった。
例えば、ゴールキーパーのジム・フレーザー。仕事の都合で不参加を余儀なくされた。


MFだったマンフレッド・シェーファー氏(ドイツのメディアから最優秀選手の一人としてあげられた)は、
シドニー郊外で毎朝牛乳の配達をしていた。だから、練習時間は午後にしかなかった。
すべてが、被雇用者だったために、国際試合や海外遠征のたびに、
雇用主に休暇申請を出さなくてはならなかった。高級ホテルでトレーニング合宿を張ったり、
1974年にワールド・カップ出場資格を得ても、高価な賞金がころがりこんでくるはずもなかった。
彼らの歴史は、ささやかに、事情を知る人々の賞賛の言葉と写真の中に凝縮されていた。


「人生の大半を地下で過ごしていた者が、わずか2週間ペントハウスで過ごしたような感じ」と、
ワールドカップ初出場当時を振り返ったのは、当時のキャプテン、ジョン・ウォレン氏(故人)。
この正直な気持ちの表現に、私はすがすがしさを覚える。
彼のことも書きたいがスペースがない。彼は、一昨年惜しくもガンで亡くなられたが、
サッカールーズの今年の出場と16強入りを、心の底から喜んでくれていると思う。


当時の世代のスター・プレーヤーだったレイ・バーツ氏(豪州ニューカッスル在住)は、
シドニーでのウルグアイ戦で負傷して戦列を離れた。その彼が、ドイツへ代表団と同行した。
「今日と同じように、ワールドカップに行けば、1ゲーム1ゲームが難しいという認識はありましたよ。
でもわれわれには威圧感などはなかった。皆、次のラウンドにいけると思っていましたから」


この自信は、プレ・トーナメントで西ドイツと引き分けても消えることはなかった。
ドイツが一つだったら??? 

「十分最悪でしたね。とにかく二つのドイツとあたったのですから・・ハハハハ・・」


大会のテレビ放映で、世界中で何百万、何千万という人が観た。
サッカールーズのゲームは、当時は当地のABCで放映された。 
([下]につづく)

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posted by gensan |13:45 | gensan | コメント(0) | トラックバック(0)
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2006年08月02日

亀田 興毅 VS ファン・ランダエタ

12Rまで戦い判定の結果、亀田が世界チャンピオン!  

ってホンマか!?

ボクシング素人のブル太が見る限り、
ランダエタのほうが、上手いし、強いし、勝っとったで・・・ あれは。

というか、おそらく、試合直後&判定前の解説の元世界チャンピオンの方々のコメントを
聞く限りにおいても、明らかに亀田が負けた印象を持っていたと思う。

亀田が勝ったことが嫌とかじゃなくて、筋書きのないドラマがスポーツやし、
負けを認めなアカン時もあるんとちゃうかな。
まだまだ将来のあるアスリート。
本人も恥ずかしい試合をしたことは十分分かっているようやし、次につなげて欲しい。

エンターテイメントとして盛り上げるのもプロの仕事やから、あれだけの観客を呼べ、
大阪城公園でパブリックビューイングまで仕込み、ゴールデンタイムに放映し、
なんと言ってもブル太の仲間でBLUETAGプロジェクトを応援してくれている
森友嵐士さんが君が代を歌ったわけやから、それはそれでホンマすごい。
非常に盛り上がって、実際の試合が始まるまであそこまで引っ張った番組構成に感服。

そやけど、そういった筋書きは試合前まで。


何でも「バランス」が大事やと思う。

亀田3兄弟や親父さんには、素晴らしい絆があり、バランスがあると思う。
亀田選手の心・技・体にもそれなりのバランスがある。
けど、まだまだそれぞれがもっと成長できるすごいポテンシャルを持った環境に身を置けていると思う。

でも、今日の試合にバランスはあったか?
判定直後なぜかすぐにTVを切ってしまうアンバランスな印象を持ってしまった。

印象といえば、久しぶりにみんなの前で歌声を披露してくれた、森友さん。
感動しました。 響いてましたねぇー。 映像は残念ながら亀田選手に取られてましたけど・・・

あともうひとつ。一番効いたパンチは、最終ラウンド前の親父さんからの気合の平手フックとちゃうか?


死に物狂いで12R戦ったアスリートのことを偉そうに語る前に、BLUETAGプロジェクトをしっかりとビジネスとしてバランスの取れたプロジェクトにせなアカン。


========================================
ヤフーショッピングで、「亀田興毅」で検索したら、あのサングラスとスリムスーツが見つかった。

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posted by keni |22:02 | buruta | コメント(0) | トラックバック(0)
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