2009年11月11日
豪州最高齢の陸上選手
今日は、長寿の現役選手の話です。オーストラリアのスポーツおばあちゃんか、などと宣(のたま)うこと、なかれ。
ラス・フリスさん(100歳)。この8月に100歳になったばかり。オーストラリア最高齢の現役陸上選手です。10月の世界マスターズ大会にも出場しました。ヘレン・シアールさんは、ラスさんのお嬢さん。70歳。コーチであり、元オリンピック選手です。同じくマスターズ大会の陸上競技に出場しました。二人とも、オーストラリア記録と世界記録を保持しているというのですから、凄いです。
今、ブリスベンに近いクインズランド州で、親子で住んでいます。
ラス・フリスさんは、野菜を摂らないダイアテリアンとして、この10月にシドニーで開かれた世界マスターズ選手権大会を沸かせた。世界マスターズ選手権シドニー大会で6つの金メダルを獲得しました。その秘訣は?100才の原動力は何か?
それは、「車を使わず」「愚痴をこぼさず」「気候変動を忘れること」だそうだ。
ハンマー投げで2個目の金メダルを手中に。 鉛のボールを10m投げた。
彼女は、ラスさんの年齢グループの槍投げ、砲丸投げ、円盤投げなど困難な4時間の重量五種競技種目と陸上グランドチャンピオンを目指してメダルをとるために競技場に立ちました。
「成功するために、自分自身に忠実でなければならない。自分を信じなくてはならない。自分のすることを信じなくてはならない。もし勝負に関係なければ、それは問題ではない。成功は、態度に現れてくる」
「あなたが持っているものに満足になさい。現代の人たちの問題は、暮らし方です。私は、成長するとき、楽しみを求めて何をしたか? 私は歩いんです。」
「子供たちは現在決して自分の足で歩き回りません、彼らはバスに乗れば、学校までいけます。そして、彼らは年をとって、車を買って、飲みに行って、おそらく、事故で車を壊します」
当たってますね。
オリンピック選手の血が流れている彼女のお嬢さん・・と言っても、もう70歳ですが、ヘレン・サールさんも、今大会で、母親と同じ競技で金メダルを取りました。しかしながら、「孫は陸上に関心がありません」
「すべての子供たちがこの頃はエンターテイメントの虜になっています。自宅でコンピュータの前に座りっぱなしです。あれに私の方が狂ってしまいます。でも、ティーンエイジャーには何も言えませんね」
では、偉大なる祖母のラスさんの一人トークです。
「子どもの時から、走るのが好きでした。20代で結婚して子どもが生まれましたが、それまでは陸上競技とホッケーをしていました。子どもが生まれて、やめました。淋しくはなかったです。最初の娘ロザリーは、スポーツに全く興味がありませんでした。しかし、下の娘のヘレンは、私に似て、走ることがすきでした。しかし、15歳のとき、彼女は走り高跳びに鞍替えしました。地元の高校大会で優勝し、シドニーの全国大会でも優勝しました。
今のように、子どもが車を持つということはありませんでしたので、主人のレイと私が、競技会場まで連れて行き、コーチもしました。私はいつも、娘に冗談を言います。『あなたのために動かなかったら、おカネが貯まっていただろうね』って。でも、それは価値のあることだったと思っています。
娘は、1958年にカーディフ(イギリス)で行われた英連邦大会で銅メダル、1962年の英連邦大会では、走り高跳びと走り幅跳びの2種目でそれぞれ銅メダルを取りました。
主人と私はとても誇りに思いました。それ以来、彼女は、自分が特別の人だなどと思ったりはしなくなりました。『でも、私は、一度も金メダルを取ったことがないのよ』と言いましたので、私は娘に、あなたはわが国の代表選手となったじゃない。金メダルは重要じゃない。大事なのは、いかに闘うかよ、と。
ヘレンは、1970年代で、競技生活から引退しました。いまは、マスターズになっています。私がスタンドに座って、競技をみていると、人は、『私のバッグをみててくれる。フリスさん』と、声をかけて来ました。こんなやり取りが74歳までつづきましたが、74歳の時に、突如、私はもう人のかばんの面倒をいやというほどみたから、自分のことをするわって思ったの。
それで、1983年に、私はプエルトリコの世界マスターズ選手権大会に出場しました。砲丸投げで、一投目はすばらしい投げでした。私は興奮して、リングからはみ出してしまい、それはカウントされませんでした。でも、銅メダルはとりましたよ。これは、今でも、最高に誇りのある成績です。その後また、競技生活を続け、円盤投げと槍投げも始めました。走りも続けました。70代でも、100メートルを18秒で走れたんですよ。それに、三段跳びと走り幅跳びもしました。1987年に、女子ハンマー投げが採用された時にも、それもやりました。
ヘレンは、とても喜んでくれました。一緒に旅が出来る人ができたからです。その頃には、娘も車を買い、今度は、私を送り迎えをしてくれる番になりました。
そのうち、主人のレイも加わって、私たちはマスターズ選手権で世界中を旅したものです。イタリア、アメリカ、フィンランド、日本、南アメリカ、イギリスへと・・・。
私は、今でも1993年に日本で出した3段とびの世界記録をもっていますよ。
私は飛ぶのが好きでした。でも、私が90歳になったとき、医者からやめなさいと言われました。彼は、3段飛んで砂場に着地するのは背中に衝撃を与えすぎるから・・と言いました。私は不快になりました。私は言ってやりました。そんなこといって、私を100歳位にみてるんでしょうって。
その頃、娘のへレンは女子7種目競技と砲丸投げをやっていました。それで、娘が私のコーチになったのです。今でも私のコーチですよ。彼女は、他に4人のコーチをしています。私たちは、毎週水曜日と木曜日の午前8時にトラックに行き、砲丸投げ、円盤投げ、ハンマー投げ、槍投げの練習を2時間するのです。娘がいろいろ教えてくれます。「はい、つま先で立って、かかとを上げて。ハンマーを持って手を伸ばして、ここで回転して・・・」と。私は常に技を磨いているんです。
娘は週3回体重管理をしてくれます。いまでも、25キロのベンチプレスが出来ますよ。ジム用自転車も漕ぎますよ。
100歳になったら、私と競い合う人がいないと思うでしょう。多分そうでしょ。75歳プラスの人と競うんです。だから、私より若い人と競うんです。娘が70で、私が100。親娘で陸上競技で競っているのは不思議でしょうか?私たち二人は競い合うのが好きですし、チャレンジしあうのが、好きです。それが、私たちを前進させているんですよ。
では、お嬢さんのヘレンさんにもひとこと。
是が非でも勝たなくてはならない・・というプレッシャーは我が家にはありませんでした。しかし、私が競技に出る時には、両親に負担をかけていました。特に経済的には。たとえば、1958年に英連邦大会に出場する時には、2500ポンドの負担でした。航空券、ユニフォーム、宿泊費が自分もちです。幸いなことに、私たちが住んでいたリスゴー(シドニー西部ブルーマウンテンの先)の住民達がお金を集めてくれました。1960年には、私達4人がオリンピックにいけるようになったのです。
すばらしい人たちに恵まれました。
母は100歳の誕生日に、重量五種競技(砲丸投げ、槍投げ、ハンマー投げ、重要投げ、円盤投げ)をして、スコアは11,000ポイントでした。信じられませんよ。
死ぬまで青春。生涯現役。自分の人生に定年を作ったら、そこでおしまいです。
全国の皆さん、ラスさんを見習いましょうよ。今から・・・。明日からでは遅すぎませんか?
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posted by buruta |22:45 |
gensan |
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