2008年07月30日
主要なメディアがこの試合を壮行試合と呼んでいるが、オーストラリアとアルゼンチンが日本を励ます試合じゃあるまいし。
■ オーストラリア戦
海外のチームは練習と本番でかなりの違いを見せるが、日本代表はどちらもほぼ同じような戦い方ができる。この差が試合に現れた。オーストラリアをアメリカに見立てて勝ったが、北京五輪のアメリカ戦は、まったく別のサッカーが繰り広げられるだろう。
1点目は理想的な得点だった。フォワードへの速いパスとミッドフィルダーの上がりだ。2点目は、低いクロスをフォワードが直接決めた。シュートを狙った点に価値がある。この2点以外にも、左右からゴールラインへの切り込みを見せたが、攻撃が単発だった。オーストラリアの守備があまかったので、ある程度の攻撃ができたが、得点を取ったようなプレーをもっともっと繰り返さなければならない。
日本よりオーストラリアのほうが、パスをつないでボールをゴールに運ぼうとする姿勢を見せたが、日本の守備がよかったのでシュートまで持ち込めなかった。後半開始早々に、ゴール前にボールを放り込むプレーもあったが、あまり効果的ではなかった。また、日本と同じように速いカウンターがないのも気になった。本番ではもっといいプレーを見せると思うが、力不足の感は否めない。
■ アルゼンチン戦
日本は、オーストラリア戦のように前からプレスにいかずに、下がってゴール前を固める守備をしていた。このやり方のほうが点を取られないかもしれないが、アルゼンチンのような強豪に対してプレスをかけて攻撃を遮断できるかを試すいい機会を自ら放棄してしまったことになる。ボールを取っても、カウンターをほとんど仕掛けなかった。日本代表の消極さは、永久に変わらないのだろうか。
バチスタ監督はチーム状態があまりよくないと話していたが、日本のふがいないプレーに呼応するかのように、アルゼンチンもプレーに精彩を欠いた。リケルメはいつも調子悪そうな顔をしているが、ほんとうに絶不調らしい。そんな中でも、アグエロとディ・マリアがすばらしいプレーで1点を取るあたりは、さすがアルゼンチンである。彼らは、この種のプレーを何度も繰り返しているから、点が取れるのである。日本には、この精神を持った選手が残念ながらいない。やらなければできない。日本代表選手はアルゼンチンから何かを学ぶことができたのだろうか。
posted by ボウヤ |02:38 |
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2008年07月22日
日本人だから、日本らしいサッカーを確立することが、世界に通用する近道になる。サッカーの日本化だ。トルシエ氏は日本代表監督のときに、どんなときにも感情をむき出しにしない日本人の冷静さを見て、「日本人の精神性は武器になるかもしれない」と考えたらしい。そこで、日本らしいサッカーとは何か(日本的サッカー論)を考えてみた。
日本人は和を大切にする。テレビでサッカーの試合を見ていると、非常に興味深いことが繰り返される。解説者が、シュートで得点を取った選手ではなく、その周りを動いていた選手をベタ褒めするのだ。つまり、周りの選手が相手を引き付けたので、シュートコースが生まれて点が入ったという訳だ。シュートを打った選手とそれを助けた選手の共同作業こそが、日本人の考える美しい組織サッカーなのだ。そして、主役より助演のほうを褒め称える。これが日本的サッカー論の原点である。
ある解説者が「怪我をしないようなプレーを心掛けなければならない」と盛んに言っていた。3対0で勝っている試合のときである。海外の試合で、もう試合が終わろうとして勝ちが決まっているのに、ゴール付近でイエローカードを貰うプレーをするときがある。当然、日本人なら「非常に愚かな行為」と批判するだろう。しかし、その選手は異なるサッカー観を持っているかもしれない。それは、瞬間、瞬間に全力を尽くすことこそがプロだという考えだ。この種の考えは、日本的サッカー論では通用しない。どんなときにも、冷静に状況を判断しなければならないからだ。この場合、1点は仕方ないと考え、怪我をしたりカードを貰ったりしないプレーを冷静に選ぶのだ。
ゴールラインに近いサイドでボールを受けたら、どうすべきだろう。ドリブルでゴールライン方向に切り込んだり、無理にセンタリングを上げたりしてはいけない。理由は、ボールを取られるリスクが高いからだ。日本的サッカー論では、味方が自分の後ろを駆け上がるまで待っていなければならない。これにより、パスの選択肢が増えて、パスまたはセンタリングの成功率が上がるからだ。追い越す選手が間に合わない場合は、バックパスをするのが基本だ。
サイドチェンジもロングキックを使ってはいけない。ちょっと間違えれば相手にインターセプトされるからだ。ミッドフィルダーが横一列に並んで、短いパスを素早くつないで、サイドを変える。大事なことは最も簡単なプレーを選ぶことだ。なぜなら、精度が保証されるからだ。日本的サッカー論では、精度が落ちるプレーを選んではいけない。
ある選手が次のように言っていた。「ボールがこないときの動きをしっかり繰り返すことで、周りが生きる」。私が子供たちとサッカーで遊んでいたときに、私の息子はボールに触れることができずに、いじけてやめてしまった。ボールを扱わずに、ただ走っているだけでは面白くないからだ。しかし、日本的サッカー論では、ボールを持たないときの動きこそが大人のサッカーで、ただボールを追いかけるサッカーは稚拙なサッカーなのだ。ボールを欲しがってはいけない。さらに、サッカーをボールを使って自分を表現するスポーツと考えてはいけないのだ。サッカーにおける最高のプレーは、ボールを持っていない選手の相手をつる動きから生まれるからだ。キーパーをゴールから誘い出せば、点は簡単に取れる。
日本的サッカー論では、パスをつないでゴールにボールを入れるのが基本だが、もう1つ点を取る方法がある。それが直接フリーキックだ。問題は、いい場所でフリーキックを貰うことだが、これは相手のすきを見て、フォワードに縦パスを入れることによって実現する。もちろん、フォワードには相手のマークが付いているので、フォワードはワンタッチでフリーな味方にボールをパスしなければならない。この時に、相手が反則をしてくれれば、めっけものだ。フリーキックのエキスパートを揃える日本代表なら2回に1回ぐらいは、何の苦労もなくネットを揺らすことができる。
アルゼンチン代表のグティエレスのブラジル戦でのプレーは非常に印象的だった。味方が自陣でボールを取ると、一目散にサイドライン沿いに駆け上がった。そのため、ブラジルの選手はグティエレスを必死に追いかけた。グティエレスは相手を引き付ける最高のプレーをしたことになる。しかし、日本的サッカー論では、これは無謀なプレーになる。つまり、ボールを途中で取られたら、グティエレスの守備範囲ががら空きになり、点を取られるリスクが増すからだ。左MFのグティエレスは、ボールが確実にフィードされるまで、待っていなければいけない。大事なことは、今ボールがどこにあるかということだ。つまり、状況判断こそが最も重要なのだ。日本的サッカー論は先走りを禁じている。
ミスをしても笑顔でいなければいけない。心の動揺が一番問題なので、どんなときでも平常心を保つための笑顔だ。ふかしたシュートはゴールキックから始まるので、最もリスクが少ないと考える。パスや守備でミスをしたときは、互いの団結心をさらに強いものにするいい機会と考える。ミスをした選手がむきになってボールを取り返しにいってはいけない。和が個人のミスを帳消しにするのだ。
絶対に点を取られない方法が1つある。それは、90分間ボールを支配することだ。だから、日本的サッカー論では、ボールを失わないことを最優先にする。100%の支配率は無理だが、できる限りボール支配率を上げることによって、相手の得点機会を少なくしなければならない。だから、ボールを取られそうになったら、ボールを後ろに戻して、そこでゆっくりとボールを回す作戦を多用する。
日本的サッカー論は究極の組織サッカーだ。攻撃では、相手がくる前にフリーな味方にパスを出し、ボールを簡単につないで、キーパーをも誘い出して無人のゴールにボールを入れる。相手と接触するプレーは絶対にやってはいけない。さらに、ドリブルのようなリスキーなプレーや強引なパスやシュートも絶対にやってはいけない。守備では、ボールを持った相手を一瞬のうちに複数で取り囲んで、何もさせないようにしてからボールを奪い取る。ボールを取ったら、すぐに攻撃せず、ボールを戻してゆっくり回して支配率を上げる。大事なのは、みんなで協力して単純かつ高い精度のプレーを繰り返すことだ。攻撃でも守備でも、常にリスクを最小限にすることを意識して、的確なプレーを選ばなければならない。この考えを徹底させることによって、日本代表は日本らしいサッカーで世界にはばたくことができるのだ。
最後に一言:これは逆説的サッカー論。
posted by ボウヤ |13:39 |
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2008年07月15日
ブラジルに勝利したアトランタ五輪の西野監督は英雄扱いされたが、私は当時、非常に大きな問題を感じていた。北京五輪の反町監督はOA枠で非常に悩んだようだが、西野監督はOA枠どころか、当時Jリーグで頭角を現してきた23才以下の有能な選手さえも使わなかった。1試合または2試合試したが、最終的に「若い年代から一緒にやってきた仲間で五輪に臨む」という結論を出した。おそらく、最初から新しい有望な選手を使う気はなかったのだろう。レギュラーの中には、プロでやっていけるのだろうかと思わせる選手も入っていた。
それまで一緒に代表でやってきた選手を外すことは、敗者のレッテルを貼ってしまうと考えたのだろう。また、戦術面でも長く一緒にやってきた選手のほうが徹底しやすい。しかし、西野監督のやり方は、一度得た権益は他人には渡さないという身勝手な考えに通じる。旬の選手を選んで、うまくまとめるのが代表監督の務めだ。
反町監督は非常に優柔不断だ。プロになってからプレーに精彩を欠くある大型FWを代表を背負う選手と持ち上げた。ところが、調子の悪いときに代表に呼んで、調子が上向いてきたら代表に呼ばなくなった。OA枠でも、選んだ二人が出られないと、「足りない部分の補強が必要」から「U-23の選手だけで十分」と発言を変えた。トゥーロン国際大会後には、「アジアレベル」から「世界レベル」への変更を宣言。スペインで修行した人がどうして初めから「世界を目指す」サッカーをしないのだろう。サッカーに対する自分なりの信念を持っていないのだろうか。クラブの監督ができたからといって、代表の監督ができるとは限らない。選手と接する時間が著しく短い代表の監督は、クラブの監督とは発想を変えなければ務まらない。
14日に発表した五輪代表メンバーにしても、選ばれた選手が落ちた選手より、代表でいいパフォーマンスを示したか非常に疑問だ。反町監督は期待値だけで選んでしまったらしい。監督はもっと冷静に選手を分析できなければならない。
病気で代表監督を辞めたオシム氏は、クラブでの実績とユニークなコメントで神格化されてしまった。だが、本人はそれを望まないだろう。私は、オシム監督の約1年半の代表作りに疑問を感じていた。その1つがポリバレントだ。2人のレギュラーCBの控えがポリバレントなミッドフィルダーだった。どうして、控えとしてCB専門の選手を選ばなかったのだろう。結局、CBの一方が出場できない試合は、守備が非常に不安定になった。この問題はSBでも露呈した。頼りないレギュラーを脅かすような選手を控えとして選ぶ必要があったが、ポリバレントがそれを邪魔した。
オシム監督のもう1つの問題は消極さだ。監督に就任したドイツ・ワールドカップ直後は新鮮な選手を使ったが、約1年後のメンバーにはドイツ組を10人も選んだ。彼らが成長したのならともかく、ほとんど成長していないにもかかわらずだ。一番がっかりしたのは、アジアカップの準決勝でサウジに負けたあとに、フレッシュな選手を考えていると言ったが、結局実現しなかったことだ。さらに、アジアカップでは、同点で1人多い状況が約120分もあったのに、積極的に選手を交代して攻めの姿勢を示さなかった。監督の消極的さは選手に伝染する。
非常に気楽な状況で試合に臨めたにもかかわらず、オシム監督が指揮した代表が面白い試合をすることは、残念ながらほとんどなかった。
岡田氏は、途中からオシム監督を引き継ぐという難しい状況で監督を引き受けた。そのため、ある程度の混乱は仕方ないかもしれない。気に掛かるのは、どのようなチームを作りたいかである。選ばれた代表メンバーを見ると、二つの方向がある。1つは、ボールを取ったら積極的に仕掛けるチームだ。もう1つは常にゆっくりと攻撃を組み立てるチームだ。この2つが同居すると、チーム内に混乱が起こる可能性がある。
もう1つ岡田監督で気に掛かることがある。それは選手へのおべっかだ。「いいサッカーをするし、うまい選手も多い。頑張ってもいる」「私にとってはこれだけうまい、スマートな選手たちが、泥臭く点を取ってくれたことがうれしく思います」。これは岡田監督の選手掌握術なのかもしれない。しかし、ちょっと間違えると、選手の油断につながる。また、単なるマスコミ対応かもしれないが、サッカーについてきちんと話して欲しい。最近、監督と選手の間に「内容ではなく勝てばいい」という雰囲気が強くなっている。しかし、このような考え方でアジア予選を突破しても、南アフリカでの本戦では、惨めな思いを繰り返すだけだ。
岡田監督のいいところは若い選手の登用だ。彼らのプレーはちょっと心もとないところもあるが、代表を経験して成長することを期待している。
私が代表監督で覚えているのは、マスコミが取り上げ始めたオランダ人のオフト監督からだ。ただ、あまり興味がわかなかった監督は評価できないので、ここでは取り上げなかった。監督が管理者だという意識がまったくないジーコ監督は、監督以前の問題なので取り上げなかった。トルシエ監督は選手に恵まれていた。当時はいろいろ感じたかもしれないが、特に批判するようなことを覚えていない。今振り返ってみると、トルシエ監督が一番よかったかもしれない。ただし、もう一度やって、うまくいくとは限らない。
日本代表監督には、勝つことではなくいい試合を見せて欲しい。つまり、将来を担う子供たちにサッカーとはどういうものかを表現できる選手を選んで、面白い試合をやって欲しい。当然、監督の役目はワールドカップや五輪に出場することだし、代表監督が日本のサッカーを大幅に変えることは無理だ。それでも、目先の目標ではなく日本のサッカー文化を変えるぐらいの気持ちで監督を務めてもらいたい。これには相当な勇気が必要なので、日本人監督には無理かもしれない。将来、協会の役員になる踏み台と考えているような人は、当然御免だ。
追伸
日本サッカー協会会長が川淵氏から犬飼氏に代わった。川淵氏は名誉会長になったが、協会から潔く身を引くべきだ。居座れば目の上のたんこぶになるだけだ。川淵氏がサッカーにもっと貢献したいのなら、自分の財産を注ぎ込んでサッカーに係わればいい。
犬飼会長は、日本代表戦の入場料収入が落ち込んでいることに対し、ドイツを例にして「選手は積極的にテレビ出演などしてアピールすべき」と述べたらしい。これは「代表選手が協会の宣伝マンになって、協会にもっと金をもたらせ」と言っているに等しい。テレビと協会の利益のための暴走が心配だ。
posted by ボウヤ |18:02 |
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2008年07月11日
サッカーが同じように好きでも、サッカーを語るには資格が要るらしい。以前、あるサッカー掲示板で超有名選手を名指しで批判したら、逆に掲示板の他の参加者から集中攻撃を受けた。前回の「攻撃の基本」というテーマでも、同じような種類のコメントがあったので、その辺について述べたい。
「選手へのリスペクトがない」
これは、プロのサッカー選手はエリートなので、プロにもなれない人が批判すべきではないという意味なのだろうか。それとも、もっと言葉を選ばなければならないという意味なのだろうか。私は、選手の人格を否定しているのではなく、選手のピッチ上のプレーを批判しているのだ。
どうして、このようなコメントをするのか不思議だ。もしかしたら、テレビの影響かもしれない。テレビは、サッカーの面白さを伝えるより、個々の選手の話題を取り上げて、アイドルに仕立てるのが好きだ。つまり、サッカーをアイドル的エンターテイメントに変えようとしている。サッカー選手がアイドルなら、そのアイドルを批判するなんて、とんでもないことになる。
「サッカーをやっていない人間には分からない」
これは、自分はサッカーをやっているのでプロの大変さが身にしみて分かるが、サッカーをやっていない人にそれが分かるわけがないという意味らしい。しかし、プロは天空の人ではなかったのか。プロとアマを同じ土俵の上で論じてよいのだろうか。また、プロに対する優しさがプロにとっていいことだろうか。私は、あくまでも見る側の立場で、もっといいプレーをすべきだと選手に要求しているのだ。
プロ・サッカーは、選手、関係者、そしてファンで成り立っている。一番多いのはサッカーをやっていないファンかもしれない。上記のコメントは、そのファンに対して「サッカーをやらないなら、プロのサッカーを観るな」と言っているに等しい。
その他に「Jリーグの試合を観ずに代表を語るな」「スタジアムに行かずにテレビだけで本当のサッカーは分からない」というコメントがあった。
この2つも最初の2つのコメントと同じ考え方に基づいている。サッカーを自分たちだけのものに囲い込もうとする考え方だ。つまり、自分たちだけがサッカーに貢献しているという自負によって、部外者を排除したいらしい。結果的に、サッカーを非常に小さな世界に閉じ込めようとしている。
上述したコメントはすべて、批判の資格を決めているにすぎない。選手への敬意が足りない人、サッカーをやっていない人、Jリーグを見ない人、またはスタジアムに行かない人は、サッカー日本代表を語る資格がないと言っているのだ。サッカーは、この全資格を有するサポーターだけのものではない。このことを理解して欲しい。もちろん、私のサッカーに対する見方や考え方に対する反論は、大いに歓迎する。
posted by ボウヤ |16:36 |
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2008年07月07日
■ Show you how to beat the opponent.
この文章は、英国BBC放送のサッカー・アカデミーというウェブページに書かれていた。「相手を打ち負かす方法を教えよう」という意味だ。つまり、これがサッカーの基本で、ピッチ上の全プレーヤーが攻守でやるべきことである。局面ごとの戦いで相手に勝つことによってゴールにつながり、結果として試合に勝利することができる。日本人は、最初からチームプレーありきと考えるが、チームプレーは個人から始まる。そこで、蛇足かもしれないが、攻撃の基本について考えてみた。
サッカーで一番大事なことは、ボールを受けたら相手ゴールに向かうことだ。その努力によって攻撃のリズムが生まれる。日本より格下のタイやインドでも、その姿勢が見てとれる。ところが、日本はこの基本が非常に乏しい。ボールを後方でだらだらと回している時間が非常に長い。欧州や南米ならブーイングだが、日本ではなぜかブーイングも起きない。それどころか、この種のプレーを「攻撃を組み立て直す」とか「時間を作る」とか言って、賞賛するサポーターやサッカー関係者も多い。
■ ドリブル
ボールを受けて前が空いていたら、どうすべきだろう。当然、前方にいる相手に向かってドリブルを仕掛けるべきだ。相手から見ると、自分に向かって突進してくるプレーヤーが何をやるか分からないので非常に対応に困ることになる。「ボールを取りにいくか」それとも「下がりながら様子を伺うか」。ここで相手の判断ミスを誘えれば、チャンスにつながる。
ドリブルで相手を抜ければ最高だが、近づいてからパスを出すこともできる。相手が二人いれば、二人を引き付けたことになり、パスを受ける味方がフリーでボールを扱えるチャンスが増える。もう一度言うが、相手に向かうドリブルはサッカーの基本だ。このような状況では、ボールを持っている側のほうが相手よりはるかに有利な立場にいる。このチャンスをみすみす逃してはならない。
日本語には、この状況を表すのにぴったりの言葉がある。「突っ掛ける」だ。相撲では反則行為だがサッカーでは正当なプレーである。言葉があるということは、そういう文化または気質があるということだ。ところが、日本人プレーヤーは突っ掛けるプレーが少ない。サイドバックがセンターライン付近でボールを受けても、サイドラインに沿ってドリブルをすることも稀である。ほとんどが意味のない横パスである。最悪の場合、フリーなのにバックパスをするプレーヤーもいる。
ある試合でこんなシーンがあった。自陣でのコーナーキックがこぼれ、ペナルティーエリア外でフリーでボールを受けた日本人プレーヤーがいた。相手が上がっていたので、前にはスペースがあった。ところが、そのプレーヤーはドリブルをせずに、味方のプレーヤーが自分を追い越すのを待っていたのだ。結局、絶好のカウンターのチャンスを逃してしまった。
日本では、パスがつながれば攻撃ができると考える人が多いが、サッカーはそんなに簡単ではない。スペインやアルゼンチンは、パスとドリブルをうまく組み合わせて攻撃を構築している。
■ トラップ
一昔前と比べると、トラップの技術が相当上達したように思う。サッカーでは、トラップ・ミスでチャンスを逃すことが非常に多いので、ボールを受けるトラップは非常に重要だ。
トラップにもいくつかある。止まった状態でボールを正面から受ける場合だ。これが一番簡単。走りながらのトラップは非常に難しい。しかし、ここで思うようにボールを止めることができればチャンスになる。また、速いショートパスを正確に止めなければならない状況もある。日本代表も、最初に述べた静的なトラップは非常にうまくなった。しかし、動的なトラップはまだまだである。もっと問題なのは、動的なトラップが必要になる状況を作らないことだ。
トラップと同じくらい重要なのが、ボールを受けた後の前を向く動作だ。体をゴール方向に回転して、自分の前にボールを置く動作である。なぜなら、前を向いて初めて相手にプレッシャーをかけることが可能になるからだ。プレッシャーというのは、守備だけの言葉ではない。
縦パスの場合、受ける側は、パスが後ろからくるので、ゴールに背を向けてボールを受けることになる。また、当然相手がすぐ後ろにいる。そのため、いろいろなアイデアと技術を駆使して、前を向く必要がある。ところが、日本代表は、ほとんどがボールをはたくだけである。これをワンタッチ・プレーと呼んで最高のプレーのようにやっているが、そのほとんどは子供でもできるバックパスだ。ワンツーさえやらない。
このトラップと前を向く動作は、うまければうまいほど、相手にとって大きな脅威になる。この部分での世界との差はまだ非常に大きい。
■ パス
パスはサッカーの基本中の基本だ。蹴る前に狙いを定めて、蹴る瞬間はしっかりボールを見なければならない。日本代表から、「たまたま合った」「偶然だった」というようなコメントをしばしば聞く。そのたびに、それでもプロかと言いたくなる。ボールは狙いを定めて蹴る。これがパスの基本だ。
また、パスは味方との会話だ。だから、ボールにメッセージを込めて蹴ることが重要だ。受ける側は、そのメッセージを汲み取って、次のプレーを展開しなければならない。この繰り返しによって、1つの連動したプレーが生まれる。たとえば、サイドチェンジのパスは、ボールを受けるプレーヤーに対して、ゴールまたはゴールラインに向かって切り込めという合図を送っているのだ。
シュートはゴールへのパスである。日本代表はシュートをふかす場合が多いが、ボールを蹴る瞬間にボールをしっかり見ないためだ。もう一度繰り返すが、ボールが止まっていようと動いていようと、蹴る瞬間はしっかりボールを見るのが基本だ。
パスでもう1つの大事なのは、そのスピードである。日本代表は、遅いパスをインターセプトされることがしばしばある。速いパスはトラップがしづらいが、その非常に短い時間でシュートに結びついたり、次のいいパスに結びついたりする。さらに、味方がトラップをしづらいということは、相手はもっとインターセプトがしづらいということになる。日本はもっとパス・スピードを上げないと、世界には追いつけない。
ある日本代表が、試合後に「ボールが来るとは思わなかった」と言った。これは論外だ。パスを貰うために動くのが基本なのに。
■ 考察
上述した3つの基本(ドリブル、トラップ、パス)をきちんとやれば、試合が必ず面白くなる。アフリカのプレーヤーは、精度という点で少し難があるが、この3つの基本に忠実なので試合が面白い。何事にもまじめな日本人がサッカーでは、基本に劣り、基本に忠実でないというのは非常に不思議だ。おそらく、日本人が持っている慎重さが弊害になっているのだろう。
ドリブルで突っ掛けると、ボールを取られる可能性が高くなる。だから、簡単にパスを出す。ボールをトラップして体を回転させると、やはりボールを取られる確率が増す。だから、ボールをワンタッチではたく。この2つは、相手が自分の近くにいなければボールを取られないという消極的な発想から生まれる。最初にBBCの言葉を示したように、この種の考え方はサッカーではない。相手に対して戦いを仕掛けるのがサッカーの基本だからだ。
パスに関しては、非常に不思議だ。遅いパスは、パスを受ける側を思ってのことだから、いかにも日本的だが、意味の分からないパスがどうして多いのだろう。セットプレーでは非常に正確なキックを蹴るのに。おそらく、ボールを持っているときは、その責任をひしひしと感じるが、ボールが足から離れた瞬間に責任から解き放たれるためだろう。相手との激しい戦いの中で、いいパスを出そうという気持ちより、一刻も早く責任から免れたいという気持ちのほうが勝ってしまうためだ。こう考えると、日本人はサッカーが永久にできないかもしれない。しかし、サッカーに携わる人々がサッカーに対する見方をちょっと変えるだけで、トルコのように急激に世界に追いつくことができるかもしれないのだ。
posted by ボウヤ |01:49 |
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