2008年04月08日
「押忍」は主体性のない人間をつくる?
明日(4月8日)発売の格通は、カラテ特集。 エヴェルトン・テイシェイラがK-1参戦、アンドリュース・ナカハラが桜庭和志と対戦、フランシスコ・フィリョにDREAMからオファーあり…と、極真空手で世界タイトルを獲った3人に他競技挑戦の流れがあったためだ。 そのなかで、テイシェイラのK-1参戦に関しては、ちょっと不思議だった。 彼を数ヶ月前にインタビューした際「K-1やMMAへ挑戦する気は?」と訊いても「空手以外には興味はない」と答えていたから。なぜ、こうなったのか? 本人は“最近になって、提案されたから…”といった回答をしているようだが、それでは強い動機には思えない。 そんな疑問に対し、ある編集スタッフは「空手家なんですから“行け!”と言われれば押忍ですよ!」と、力強く、返答した。そうなのか…。そうだとしたら、それが美徳だというなら、少し違和感を覚える。 ◎ 空手の挨拶は「押忍(オス)」。 先生から無理な注文をされても、弟子側は、とにかく押忍。否定形の返事はない。そんなイメージがある。先輩のひとことごとに、「押忍! 押忍!! オッス」とただただ大きな声で返事している後輩集団を目にすると、体育会的なムードに自虐的に酔っているような、マゾヒスティックな印象すら受ける。 絶対服従の厳しさが、強さを生み出すようにも思えるし、一方で、そのシステムの中では、主体性が育まれず、自己主張なく権力に媚びへつらう人間性ができあがってしまう気もする。 本来、武道は、“自分に厳しく人にやさしい心”や礼儀を養いうるもの。 日本が世界に誇るべき、かけがえのない財産だ。 一方で、悪用されれば“非難を浴びずに奴隷的な存在をつくる道具”とも、なりうるのでは、ないか? 本来、楽しむことを目的としているはずのスポーツ。それが、この国において“体育”という形で教育に組み込まれ、発展したのは、明治以降の富国強兵政策の影響だったようにも考えられる。 武道が明治以降、重んじられたのが、同様に、従順な兵士を育てるのに都合がよかったからだとしたら、ゆゆしき問題だ。実際“押忍”という言葉自体に、海軍由来という説もある。 日常とは異なる言葉を用いることが、気持ちを引き締め、凛としたアティテュードを自然と生み出すのであれば、その伝統の記号を今後も使い続けることに関して、否定するつもりはない。 ただ、その道を嗜む若者には、必要なときに「NO!」といえる空手人になってほしい。 ◎ 話は戻って、今回のテイシェイラに関していえば…。 極真の世界王者にまで昇りつめた男のことだ。 「やれ! といわれたからやる」などというレベルの心変わりだったのではなく、空手の道に活かすべき何かをみつけたからこそ、K-1という寄り道を選んだのだと、信じたい。
posted by あさおか |00:52 |
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