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    <title>田村大五『新・白球の視点』</title>
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    <description>週刊ベースボール、往年の人気コラムがブログで復活！</description>
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      <title>白球の視点 第236回</title>
      <description>　センバツ大会2日目（23日）の第2試合、延長10回表、履正社の攻撃、二死二塁でセンターフライ。守っている下関商ナインも応援のスタンドも、地元でテレビ観戦応援の関係者も瞬間、ホッとしたことだろう。そのとき思いもかけない落球。いまも、テレビ画面で見た、ポロリとグラウンドに落ちた球の白さが眼に浮かぶ。あとで聞けば、日頃は好守に定評のある中堅手だという。それが、“まさかの落球”によるサヨナラ負け。 　0対2の9回裏、2本のホームランで同点となり、勢いづいたあとだっただけに、泣きくずれる中堅手の姿を見るにしのびなかった。“これが野球というもの”とか、“甲子園には魔物が棲んでいる”というような常套句ですますことのできないものも感じた。 　テレビを消して、目をつぶると、過去のいくつかの“落球シーン”が甦えってきた。 　プロ野球でいえば、そのむかし、巨人－南海の日本シリーズで、南海の“勝利寸前”、一塁側ベンチ前のファウルフライを、南海の気鋭の一塁手がポロリ、そこから巨人の猛攻があって一気に巨人は勝利への道を進んだ。 　阪神・江夏豊投手の全盛期にも、あった。甲子園球場での阪神－巨人戦。センターへ上った打球を見て“これで勝った”と江夏投手がベンチへ歩きはじめたとき、スタンドのウォーッという音に驚き振り返ると中堅手がグラウンドに倒れており、“勝ち試合”がそれをきっかけにまたたくまに“負け試合”になってしまった“よもや”のケース。江夏投手の口から聞いたことだが、その中堅手は深夜、江夏宅を訪ねてきたが、うつろな眼で立ちつくしたままだったという。いわゆる放心状態で、詫びようにも言葉が出なかったのだ。 　「日頃、闘志も満点でイイヤツでね、あまりの落ちこみようで翌日からのプレーも心配されたほどだったけど、ちゃんと立ち直ってくれて、次の巨人戦でみごとなヒットを打ってチームの勝利に貢献、あんなにホッとしたことはなかった」ということだった。 　野球というゲームは、ときにそういう残酷なシーンをみせる。それも江夏投手の言葉ではないが、“闘志もあってイイヤツ”に、“勝負の神様”は残酷な仕打ちをしてみせてくれるのだからせつない。 　高校野球でも、いまなお語り継がれる簑島－星稜戦での一塁ファウルフライの落球というシーンがあった。その後、さまざまなことがあっただろうに、その選手はのちに明るくそのシーンを語るようになり、むしろ“野球の道”に懸命に生き続けたと、聞いた。下関商の中堅手もぜひ、そうであってほしい。 　ソフトバンクが開幕4試合で3試合のサヨナラ勝ちという異色の展開で始まったパ・リーグ、その間にメジャー・リーグの開幕戦をはさむ妙なスケジュールで28日からはセ・リーグも開幕していよいよ本格的な野球シーズン。25日午後、東京ドーム横のレストランで昼食をとって店を出ると、まだ午後2時前だというのに、もうレッドソックスのジャンパーを着た若者が小走りに球場へ向かっていた。いかにも“ジッとしていられない”といった風情だった。 　試合開始は午後7時だから、まだ開門もしていない時刻。しかも、レッドソックスのジャンパーを着ているくらいだから、ポケットにはとっくに前売りチケットは入っているはず。それでもつい小走りになるというところに野球ファンの胸のハズミがみてとれる。選手には、どうか、全試合、このファンの“胸のハズミ”を忘れずにいてほしい。 　毎年、シーズン前にいいかわされていながら実現にはいたらなかった試合のスピードアップ化だったが、パ・リーグの開幕3カードは、いずれも投手戦でにぎやかな“打の応酬”はなかったとはいえ攻守交代もキビキビしていて気持がよかった。さて、いつまで続けてくれるか。見守っていこう。 　本格的野球シーズンを前に恐縮だが、このコラム、みなさんとお別れになる。短かい期間ではあったが、さまざまなご意見ありがとうございました。またどこかでお会いするまで、さようなら。</description>
      <pubDate>Tue, 25 Mar 2008 18:31:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第235回</title>
      <description>　3月16日付け、日本経済新聞の俳壇欄（茨木和生選）に、思いもかけない句を見て、驚きもし、「ほう」と声をあげた。 　「ああ、ホームスチール、三原脩の忌」（豊橋・河合清）というものだ。 　31年春、当時の日本野球界の最高の人気カード、早慶2回戦、同点の7回二死満塁で早大の三塁走者・三原脩が慶大バッテリーの意表をついて敢行したホームスチールによる勝ち越し点。「驚天動地」と評した新聞もあって「三原脩」は一躍、時の人となった。 　最近、「いま三原脩の勝負論・コーチングから学びとること」という副題がついた中西太著「西鉄ライオンズ 最強の哲学」（ベースボール・マガジン新書）が好評で版を重ねているし、2月6日が三原さんが亡くなった日ということも知ってはいたが、それにしても08年春の新聞の俳句欄に、77年前の、その「驚天動地のホームスチール」の句が出てくるとは、ほんと、思いもしなかった。 　プロ野球春のオープン戦も東上してきて、どのチームも“開幕近し”を感じさせる戦かいぶりを見せているし、その俳句が掲載された同日の新聞の運動面は、アメリカの松坂大輔投手に無事第二子が誕生して晴れて？　日本でのメジャーリーグ開幕戦（レッドソックス対アスレチックス）に登板しそうだとか、怪我の後遺症が心配されていたヤンキースの松井秀喜も元気に戦列復帰……といった、それこそ77年前には夢想すらしなかったであろう野球記事が並んでいた。そこに（私にとっては）「突然」といっていい「ああホームスチール三原脩の忌」という句。「ほう」と思わず声があがったのは、野球生命の長さ、逞しさに思いが至ったからだ。 　そして、これは単に“ああ、2月6日がきた、球場をどよめかせた三原のプレーが懐かしい”というような、故人を偲ぶだけの句ではないだろうとも思った。 　「野球」といっても、その中味はずいぶん変わった。三原さんがプロ野球監督として1950年代後半から60年代、「機略縦横」と謳われ、西鉄ライオンズや大洋ホエールズで日本シリーズも制した時代とも野球は“まるで”といっていいほど変貌してきている。 　攻守にかかわる野球用具やトレーニング設備の高性能化、医療環境の充実、グラウンド上では投手の分業化、多くなった球種、複雑なサインによる多彩な戦術の駆使などなど、“三原脩の時代の野球”では語ることのできない多面性をもってきている。しかし、それでも何故いま、句の作者は77年前のホームスチールをあえて“ああ”という感嘆詞とともに世に出したのだろう。 　私は、「鮮烈さ」だと思う。77年間も、その「鮮烈なプレー」が残像として生き続けてきた。三原の忌日がくるとあらためてその鮮烈さが甦えり、野球シーズンがくるとそのことを誰かに伝えたくなってくる……そういう心境だったのではないか。 　当時、ネット裏では「最高の評者」といわれ、「学生野球の父」と崇められた故飛田穂洲氏は、この三原のホームスチールを「定石はずれ」と断じ、「慶大バッテリーの不用意による偶然の成功」とハネつけたという。しかし、中西太氏は前記著書で、こうつけ加えている。 　──三原は後年、「定石通りにやれば同じ結果しか出ない。意表に出ることが私の野球の原点」といっている。このホームスチールこそが、三原の著書のタイトルを借りれば「風雲の軌跡」を予感させるものだった──と。 　野球は、1分先、1秒先になにが起きるかわからないスリルを伴う。観客は、それゆえにコブシを握り、目をこらしてその瞬間を待つ。プレーヤーは、その「瞬間」に賭ける。そこにドラマが生まれ、私たちはそのドラマに酔う。どんなに野球用具が高性能になっても、球種が複雑になって戦術が多彩になっても、そのことには変わりは、ない。 　プロ野球開幕。リニューアルされた甲子園球場で第80回センバツ高校野球大会も始まる。 　長い高校野球の歴史でも、名勝負、名対決が、いまもことあるごとに語り継がれているように、今季のプロ野球も、いつまでも語り継がれていくような名シーンが誕生するよう願うばかりだ。</description>
      <pubDate>Tue, 18 Mar 2008 21:03:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第234回</title>
      <description>　公式戦ではない。“たかが春のエキシビション・ゲーム”であるのに「7試合、22打席ノーヒット（9日現在）とは、どうしたのだ。なにかあったのか」と大騒ぎされるのだから“さすがイチロー”ということか。マリナーズのマクラーレン監督は、心配する周囲に対して「シーズンに入れば250本は打つよ」と笑って見ているそうだが、過去の記録によれば、日米通じてエキシビション・ゲームであれ公式戦であれ、5試合連続ノーヒットはあっても「7試合連続」はかつて一度もなかったというから、やはり、気になることではある。一方、たとえDHでも公式戦開幕メンバーに名を列ねることができるかどうか不安視されているヤンキースの松井秀喜の動向ともども、どうも気になって落ち着かない。 　次元はまるで違うが、“気になる”といえば、キャンプ報道以来、プレーのことだけでなくちょっとした言動のはしばしまでも他のどの選手より大々的に報じられてきた日本ハムのルーキー、中田翔が、「公式戦開幕が近づいて調子をあげてきた各主力投手たち」にてんで歯が立たずしょんぼり、すっかり気落ちしてしまったとか、同じ“甲子園の人気者”ヤクルトの由規投手もコントロールがままならず悩みはじめたとか、“パ・リーグの新人王候補の双璧”と評判高かったソフトバンクの大庭翔太投手がめった打ちにあったとか、楽天の長谷部康平投手が左ひざ半月板を痛めて戦線離脱とか、このところ話題のルーキーをめぐる香ばしからざるニュースが続いていることも、気になってならない。もともと“騒ぎすぎ”といってもいいことなのだが、それにしても……だ。 　長谷部の故障が発覚する前の、2日の対ロッテ戦で好投したとき「面白い存在。合格点。ノムラ捕手がリードすれば新人王」などと大喜びしていた野村監督も、長谷部が開幕に間に合わないかもしれないとわかると一転、「これでまた最下位か……」とすっかり気落ちしたコメントを発していた。まだ春のオープン戦もはじまったばかりだというのに、気の早い落ちこみように、そんなコメントを読んだこちらのほうまで気持が萎えてしまった。そんな弱気でどうするの？　野村さん。 　そんな報道があった1日前、8日、土曜日午後、NHK教育テレビで、野村監督の約2時間にも及ぶ長いインタビュー番組を見た。苦労した少年時代からテスト入団した頃の話、ホームラン王になってからの西鉄・稲尾投手との丁々発止の戦かい、南海ホークスの兼任監督からロッテ－西武の“生涯一捕手”時代、“チャンピオン・ヤクルト監督”から“悲哀の最下位・阪神監督”、そしていま……と波瀾万丈の野球人生物語は興味深く、時間が経つのも忘れるほどだったが、その中で、野村監督は、現役時代の思い出の中で「監督のひと言」についてふれていた。 　ベンチ裏の通路ですれちがったとき、当時の鶴岡監督が「バッティング、ようなったな」とポツリとひと言、いってくれた。「それがものすごく嬉しかった」と。選手は、監督の言葉を気にしている、それをわかっていて、つい、いってはいかんことをいうてしまう……と。最近の言動についての自己反省もあったが、それだけわかっていて、ルーキーの故障だけで「また最下位か」とは“今季こそAクラス”と意気込んでいるチーム全体に冷や水を浴びせるようなものではないか。 　野村監督独特の“ボヤキ節”だから、そんなにイキリたつこともないだろうが、多くの名言至言を口にしてきた知将だけに、これも気になったことのひとつだ。 　外電をみていると、メジャーでもこのところ故障選手が続出しているようだ。8人のレギュラーのうち6人が負傷欠場中というニューヨーク・メッツのようなチームがあるように、どのチームでも主力が開幕前の手術を余儀なくされているというから、この時期の怪我は怖い。ヤンキースのジラルディ監督は、相手走者が、アウトのタイミングなのに自チームの捕手にタックル、そのせいで捕手が右手首を骨折したということで激怒して相手チームに抗議したということだが、この季節、紙一重のプレーで今シーズンの運命が決まることだってあり得る。 　一軍入りすれすれの線上にいる日米両球界の選手にはくれぐれも体のケアには万全を期してもらいたいところだ。</description>
      <pubDate>Tue, 11 Mar 2008 16:29:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第233回</title>
      <description>　「時代が移っていく」、「時代が変わっていく」……そういうことを身に沁（し）みて感じる昨今だ。 　折りにふれ、お互い大好きな盃をかわしながら「野球というもののすごさ、すばらしさ」を長い間語り続けてきた友・稲尾和久急逝のショックがまだ消えていないとき、今度は、プロ野球史上ただひとりの「両リーグの首位打者」・江藤慎一の死。なんだか「共有していた時代」が、どんどん雲の上へ去っていったような気がして、たまらなく寂しい。 　3月2日、日曜日朝、新聞を開いて、またもうひとつの「去って行く時代」を思って、一日中、もの思いに沈んだ。 　強い個性と名ピッチング、名バッティングで私たち野球ファンの心をとらえた稲尾、江藤両個人と違って、こちらは、チーム名「近鉄バファローズ」。朝日新聞（東京）運動面によれば、オリックス球団が、携帯電話会社のイー・モバイルとスポンサー契約を結び、昨季まで「近鉄」のロゴが入っていたユニフォームの左袖に、イー・モバイル社のロゴマークが付く。近鉄の契約は昨季限りで終了。49年にプロ野球界に参入して以来、歴史を刻んできた「近鉄」の名前は、ユニフォームからも消えた……うんぬん。 　同じ紙面にトップの大見出しは「怪物堂々」で左が「2回12球でケリ」のメジャー・リーグの松坂大輔で、右が「初打席で完璧1発」の日本ハムの中田翔。そのずっと下に小さく小さく「近鉄完全消滅」と、あった。スポーツ紙には、探せど探せど「近鉄の名が消える」という話題はなかった。これが「時代」というものなんだろうなぁ、それにしても寂しいものだと、書庫に入って、04年発行の週刊ベースボール別冊「さらば、大阪近鉄バファローズ」の夏を繰りながら、ひとりで、各頁に懐しのユニフォームを着ている監督、コーチ、選手たちに“別れのあいさつ”をした。 　巻頭には「不器用なまでに猛々しく、そして心優しき男たちは、焼け焦げるほど熱い魂で戦いつづけた」という文字があった。編集者の熱い思いがこめられていた。私は、その号で、長い間お世話になった西本幸雄監督の思い出話を聞く役目を仰せつかった。いま「週刊ベースボール」の佐藤正行編集長が、「週刊プロレス」から異動してきたばかりのときで、2人で宝塚の西本宅を訪れ、約2時間、弱わかったチームがリーグ優勝するまでの苦闘の日々を語ってもらった。75年の阪急とのプレーオフで羽田選手をポカリとやった話、79年前期最終戦の対南海戦での平野選手の奇跡的なセンターからの猛返球の話、エース・鈴木啓示や4番打者・マニエルとの初めて聞く秘話などなど、西本さんは思いのたけを語ってくれたが、いまでも情景が浮かんでくるのが、長いインタビューが終わったとき、佐藤君が「ぜひ、ひと言を添えてサインしてほしい」と色紙を差し出したときのことだ。 　西本さんは、急に黙って庭をみつめ続けた。1分、3分、5分、7分……沈黙したままだ。“ご機嫌を損じたのか”と不安になった。その間、約10分間。西本さんはおもむろにサインペンをとりあげると、一気に書いた。 　「熱い心の野球を、ありがとう」 　その言葉を、じっと考えていたのだった。 　もうひとつ。これも別れぎわの話。 　「ずいぶん、ファンレターをもらったけど、忘れられないのは、北海道の女学生からもらった一通の手紙だった」という。 　その女学生は、こう書いてきたそうだ。 　「私は勉強もできない。顔も美しくない。スタイルもよくない。だから日頃、ずっと落ちこんでいる。でも、近鉄の選手を見ていたら、コツコツ積み重ねていったら、いつか何かができると思うようになった。エリートではない無名の人たちが集まって一所懸命にここまできたことに感動します」 　西本さんは、その話を披露して、いった。 　「ひとりのファンでも、そう思ってくれたということが嬉しかった。近鉄というチームで野球をやってよかったと心底、思った」。 　そういうチーム名が、ついにユニフォームの袖からも消えていった。 　かつて「近鉄」のユニフォームを着てプレーしていた選手が、いまなおオリックスにもいる、楽天にもいる。中日・中村紀洋が、どん底から甦えって07年の日本シリーズでMVPに選ばれたように、オリックスと楽天の選手たちも「熱い心」をもち続けなければならない。ユニフォームの袖から「近鉄」の2文字は消えても、「熱い心」でファンの心をゆさぶれば「近鉄」の名は語り継がれるであろうと思うからだ。</description>
      <pubDate>Tue,  4 Mar 2008 17:26:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第232回</title>
      <description>　オリックス・コリンズ監督の「若い選手がチャンスをつかんで活躍する姿は見ていて楽しい」（24日の対阪神オープン戦で満塁ホームランを打った田中彰選手について）というコメントや、前日の対ソフトバンク戦で“オープン戦打点第1号”になる右中間突破のタイムリー二塁打を放った広島のルーキー・松山竜平外野手の「高校生の中田クンに負けたくない」というような言葉を聞くと“さぁ、この若者たち、この勢いでどこまでチームを刺激してくれるだろうか”と、つい期待したくなってくるのは、この季節独特のプロ野球観戦の楽しみだ。春のオープン戦での活躍を足場に、レギュラーの座へ颯爽と躍り出たケースは過去にもいろいろとあるだけに、“さぁ、誰が躍り出るか”とふくらんでいく想像が楽しいのだ。 　この土曜、日曜、1冊まるごとワン・テーマ特集の隔月刊誌「ベースボール・マガジン」編集部に頼まれ、「開幕からペナントレースをにぎわせたルーキーたち」と、もうひとつ「開幕先発メンバーの変遷からみた12球団それぞれの最強チーム」の調査。戦後、プロ野球が2リーグ制になってからの、半世紀を越える各球団の開幕メンバーを調べているうちに、個人的興味も深まって、まるまる2日間、朝から深夜まで、みっちりたっぷり楽しんだ。 　“個人的興味”というのは、各球団それぞれに“強かった時代”はいくつかあるわけで、世代も環境も違うチームの比較。そんなことは絶対にありえないことなのだが、同じチーム名を名乗っていて10年前の強チームと20年前の強チームがもしガチンコ対決をしたら、さてどちらのほうが強かっただろうかというような“想像対決”は、ほんと、楽しかった。 　たとえば「巨人」でいうと、どういうことになるか。 　絶頂期のONを中心に柴田、土井、高田、黒江らがまわりを固め、城之内、堀内らに金田が加わった投手陣の、いわゆる「V9時代」、これはなんといっても強チームだったが、オールドファンの中には「与那嶺をトップに千葉－青田－川上と続き、別所、藤本、大友らの充実した投手陣」の1950年代のチームを懐かしむ人もいる。若い世代の中では「いや、それは“懐旧の情”というもの」といい、70年代と90年代ともに2度ずつの長嶋監督時代の優勝チームをあげる人、「いや、斉藤、槙原、桑田をそろえた」藤田監督時代、いやいや、原監督時代の優勝チーム……と、さまざまな見方に別れるだろう。今度の大型補強によるチームが、歴代のそういう強チームと比べてどんな戦かいぶりをみせるのか。 　一方、横浜や広島のように、衆目のみるところ一致するであろう“球団史上、突出した強チーム”があるチームも存在する。横浜でいえば、「大洋ホエールズ」と名乗っていた頃、三原脩監督が率いて「奇跡の優勝」といわれた60年のチームがあるが、打線の力が弱わかった。それに比べると、それから38年ぶりに優勝した権藤博監督の98年チームは「マシンガン打線」の迫力と“大魔神”佐々木主浩の存在できわだっていた。だれがみても“98年チーム”が最強だろう。広島でいえば、70年代から80年代にかけての古葉監督時代。高橋慶彦から山本浩二、衣笠祥雄らへとつながっていく打線、投手では北別府学、池谷公二郎、そして“あの”江夏豊。最近のカープの低滞をみると、夢のようだ。 　では、阪神の歴代のチームをどうみるか。バース、掛布、岡田のバックスクリーンへの3連発もあった85年の優勝チームか。いや、87勝もあげた星野監督時代の03年チームか。中日はどうだ。やはり星野監督のときの88年チームか、いや、球団史上初めて優勝した54年の、エース・杉下茂、4番・西沢道夫の時代も強かった、いやいや、なんといっても落合監督になってからの最近のチームが力は上……と、ここでも意見は分れるだろう。それはパ・リーグの各チームについても、いえる。昨年、一昨年のリーグの覇者・日本ハムと、かつて球界を席捲した62年の東映フライヤーズ。投の中心は土橋正幸、尾崎行雄で打の中心は張本勲。あの若さと迫力には、いまの日本ハムは及ぶまい……と、私などは見るのだが、さて、どんなものか。 　かつて相撲界で“大鵬と双葉山はどちらが強いか、なんて設問はナンセンス”といわれた時代があった。それと同じように、ここまでくどくどと各チームの史上の強チームを並べて比較しようというのも、およそ他愛のない“ヒマつぶし”なのだが、そんな“ヒマつぶし作業”の中からぼんやり浮かび上ってきたこともある。 　強チームの中にそろっているのは、いってみれば“老・壮・青”が実にうまくかみ合い、解け合っていることだ。円熟のベテランと、充実の中堅組と、伸び盛りの若手組が一体となっているチーム。 　では、08年の12チーム、その条件を満たしているのは、どこか。そういう眼で、ペナントレースの進み具合をみてみるのも一興だ。</description>
      <pubDate>Tue, 26 Feb 2008 16:30:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第231回</title>
      <description>　沖縄・名護の日本ハム・ダルビッシュ投手と石垣島のロッテ・成瀬投手、宮崎・南郷の西武・涌井投手のテレビでの三元インタビュー中継とか、NHK午後7時のニュース番組のスポーツ・ニュースではいつもまっさきに「メジャー・リーグの日本人選手」の動向を伝えることとか、関東地区のスポーツ紙の一面もずっと日本ハムのルーキー・中田翔の動き……公式戦前の“春のプロ野球報道”もずいぶん変わってきたなぁと、あらためて思う。10年前、いや、5年前でも考えられなかった一種の“激変”だといってもいいのではないか。そういう“春の予報”に接しながら、08年という新しいペナントレースは果してどんな展開をみせるのだろうかという、いいようのない“ワクワク感”に包まれている。 　前記の新鋭たちの動向とは別に、西武の渡辺・新監督が、“カブレラなきあとの4番打者がいない”という質問を受けて「なにいってるんだ。ホラ、あそこにちゃんといるじゃないか」と指さした方向に、今季で19年目になる江藤智選手がいた……という話も、大いに気に入った。「山崎（武司・楽天）の例があるじゃないか」。伝え聞いた江藤本人、テレまくったというが、なに、テレることはない。いつ会っても笑顔をたやさず、誠実な受け答えで感心している選手のひとり。95年のセ・リーグのホームラン王。その翌96年のホームラン王が山崎だったのだから、もうひと花咲かせる可能性、大いにありじゃないか。ぐんぐん台頭してくる新鋭と、負けじと頑張るベテランの競い合いが、ずっとプロ球界の発展の元になってきた。“人のいい江藤の笑顔”より、“もう一度、タイトルに挑む江藤の笑顔”を見たい。山崎のホームランが“仙台の楽天”を活気づけたように、江藤のバットが爆発すれば、26年ぶりにBクラスに落ちた西武ライオンズの若い選手にも勇気を与えるだろう。 　あちこちのキャンプ地から、これまであまり名前も聞かなかった“台頭めざましい新鋭”の情報がひっきりなしに入ってくる。ま、それは“スプリング・キャンプ報道の常”といってしまえばそれまでだが、それにしても“レギュラーの位置、とれるかも……”といわれると、いますぐにでも飛んでいって、そのプレーぶりを見たくなってくる。“勢いのある新鋭”というのは、それだけワクワクするものなのだが、いざシーズンに入るといつのまにか一軍公式戦から姿を消してしまっている選手が多いのも、これまでの例だ。 　私が“新鋭台頭”というニュースを聞くとき、いつも思うのは、「ともに競い合い、刺激し合う友はいるか」ということだ。その相手は、誰の目にも“レギュラーの座安泰”というベテランではなく、まだレギュラーではないが、ともに刺激しあってチームの中心の座にのし上がっていこうではないかと燃えている“同年の友”だ。巨人V9時代のONや、広島黄金期の山本浩二－衣笠祥雄クラスになると、もうこれは別格中の別格。私がいつも、“刺激し合ってトップの座をめざした若者”というと思い出すのは、西鉄ライオンズというチームがズタズタに引き裂かれて弱わくなったとき、最下位チームにあって歯をくいしばって投げ続けた東尾修と加藤初両投手のことだ。 　東尾は最多敗戦の4年目、加藤はドラフト外でみずから希望して入団したルーキー。加藤が7ヵ月年上の、ともに22歳。東尾が55試合にも登板、リーグ最多の投球回数で、被安打も自責点もリーグ・ワーストで最多敗戦（25敗）ながらそれまでの自己最高の18勝をあげ、のちの最多勝利投手への道を開けば、加藤も51試合に登板、17勝16敗で新人王を獲得した72年のことだ。のちに東尾本人から抱腹絶倒のエピソードをまじえてくわしく聞いたことだが、グラウンドでの練習はもちろん、私生活も若夫婦同士、いつも一緒で語り合い、お互いに「負けんぞ」と言い合って「加藤の17勝にどれだけ刺激されたか」と“加藤の存在”を持ち上げ、加藤は加藤で東尾との1勝の差を悔しがったという。 　新鋭が仰ぎ見るような大スターとの競争ではない。気心の知れた同年代のライバルとの熾烈な戦かい。それが技の向上を生み、心の鍛錬となってチームに貢献した典型的な例といっていいだろう。 　そういう思いで08年の各球団のキャンプ風景をみると、いました、いました。けっこういるのである。東尾－加藤のような、“仲好しで、しかも猛烈なライバル心をもった友”という意識が薄いだけだ。それが、どんな選手たちか、おいおい明かしていくことになるだろう。</description>
      <pubDate>Tue, 19 Feb 2008 17:28:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第230回</title>
      <description>　「これじゃ、どのチームもみんな優勝チームで、各選手ともみんな首位打者候補か最多勝候補だな」と、現役時代には何度かタイトルをとった実力者が現役引退してスプリング・キャンプの報道を見て言ったのは、40年ほど前のことだった。“40年ほど前”というのは、ようやく、プロ野球のキャンプ報道が派手になりはじめた頃だ。いわゆる「ON時代」がきて、巨人の王・長嶋と対抗する他球団の投打の主力たちの動向もにぎやかにこまかく報道されるようになり、以後、年々キャンプ報道は過熱化し、ON引退後も次々に現れる新しい魅力をもった選手に関する報道は拡大する一方で、ここまできた。 　冒頭の大物実力者の言葉は、そんな過剰報道を皮肉ったものだが、かつて長い間、スポーツ紙の運動部デスクを務めてきた身としては「そうはいうけど、ああいうにぎやかな報道が、公式戦開幕を待つファンをワクワクさせていると思うけどなぁ」などと“反論”？　したものだった。 　いま連日の「中田翔・関連記事」など、その最たるものだろう。公式戦が始まって、百戦錬磨の相手のベテラン投手が立ち向かっていったらどうなるか、キャンプ期間中の、狭い地方球場での“場外ホームラン”で大喜びしているようなわけにはいかないだろう。それでもテレビやスポーツ紙の「中田翔報道」には、どこかワクワクさせるものがある。また、それがスプリング・キャンプの楽しさというものだろう。 　そんなスポーツ各紙のスプリング・キャンプ報道の中で、私個人だけかもしれないが、思わずクスッと笑ったのが、「サンケイ・スポーツ」2月7日付けの5面に掲載されていたヤクルトの高田繁・新監督の談話である。 　“談話”といっても報道陣との応対ではない。ヤクルトのキャンプを“偵察”にきた巨人の高田誠スコアラーにいったという言葉だ。その記事によれば「開幕ローテーションを教えてやるから帰れよ」といったという。3月28日の開幕は、ヤクルトの本拠地・神宮球場でのヤクルト－巨人3連戦だ。高田監督は、ズバリ、いったというではないか。 　「ウチは、増渕、加藤、由規、村中でいく。村中は巨人にぶつけるからな」 　巨人の高田誠スコアラーは、高田監督が巨人の二軍監督時、二軍のバッテリー・コーチだった人。お互い、その性格は熟知している。それでいて、スコアラーのほうの高田は、監督のほうの高田の言葉が本音か冗談か判断つきかねたという。 　増渕竜義は昨年、6試合登板で1勝1敗の右腕、加藤幹典は慶大出身のルーキー左腕、佐藤由規は中田翔と並ぶ話題のルーキー、そして村中恭兵は3年目の左腕。私が、その場に居合わせたら、高田監督の肩を叩いて「それで行け！」と叫んだことだろう。 　グライシンガーと藤井秀悟がいなくなったとはいえ、7年目の左腕・石川雅規もいる。韓国プロ野球で昨年22勝もあげた長身のダニエル・リオスもいる。そういう実績ある投手をさしおいて、4人平均20.7歳の男たちを並べて巨人に挑ませるとすれば、その意気や、壮！　というべきだろう。“豪華”としかいいようない布陣で今季に臨む巨人に対してはそういう“捨て身作戦”しかないだろう。報道陣のいるところで発した言葉、まんざら冗談とも思えない。11日の対阪神の練習試合で好投した左腕・村中を、巨人は急きょ調べはじめたというからユカイだ。 　今季のセ・リーグ、「AクラスとBクラスにはっきり分れた」という予想というか批評がある。巨人・中日・阪神グループと横浜・広島・ヤクルトのグループ。最初から予想通り、分れてしまっては面白くもなんともない。Bグループといわれる3チームの健闘あってこそのペナントレースだ。BグループがパクッパクッとAグループにかみつき倒していってこそペナント争いの興味が増してくる。ヤクルトの“若手カルテット”が、その先陣役を果せるかどうか、興味津々だ。</description>
      <pubDate>Tue, 12 Feb 2008 18:20:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第229回</title>
      <description>　1955年（ずいぶん古い話になるが）、当時の高校球界は俊英が数多く出てきて、プロ球界は、自由獲得競争時代だから、各球団は大物選手をめぐって激しい獲得合戦を演じた。本人、両親だけでなく、学校関係者から後援会幹部、さらに本人や両親に影響力をもっているとみられる親類縁者から市町村の実力者にまで網を張って勧誘につとめた。当然のように、それには金品がからんだ。そういう悪弊が、いまにいたるドラフト制度を生むことになるのだが、その55年、高校生選手とプロ球団の間に二重契約が相次いだ。 　そのときプロ野球コミッショナーは不在で56年1月、井上登・元最高裁判事が“2年ぶりのコミッショナー”に就任、着任早々、その二重契約問題を裁いていったのだが、そのときの裁定のキーとなったのは「対面契約」だった。選手は未成年だが、親権者である両親と同席して球団関係者と直接対面して契約したものであるのかどうかを再検証して、“両球団からコミッショナーに提訴されている選手”の所属を定めた。その中のひとりに、野球殿堂入りしている“350勝投手”米田哲也投手（阪急－阪神－近鉄）もいる。 　ドラフト制度が施行されてから、そういうことがなくなった（当り前だが）。「二重契約」ではないが、“二重契約らしきもの”があったとしたら外国人選手に二例、あった。93年、巨人を解雇されたバーフィールド外野手をヤクルトが一度、「獲得した」と発表した。だが、あとで代理人が「入団同意書」を送ったことがわかって、バーフィールドは自分でヒューストン・アストロズと交渉、入団した。もうひとつは95年、韓国アマ球界のエース、林仙東。「ダイエー・ホークス入り」といわれたが、高校時代に韓国プロ野球・LGにドラフト1位指名されており、LGに永久交渉権があるとされ、林投手は勧告の裁判所に提訴したものの「LGと契約せよ」という判決でLG入りしたというケース。 　今度のジェレミー・パウエル投手とオリックス、ソフトバンク両球団との“二重契約問題”は、これまで例のない、私にいわせれば“珍種”だ。 　オリックスは1月11日に「獲得」を発表、18日後の同29日、今度はソフトバンクが「獲得」と発表。すると連盟は翌30日、「双方ともに契約は有効」という。つまり二重契約だ。違いがあるとすれば、オリックスの条件が「年俸5500万円プラス出来高5500万円」でソフトバンクが「年俸1億円プラス出来高」。オリックスが契約書のコピーをファックスで送り、サインをもらったもので、ソフトバンクが関係者が渡米して直接サインをもらったもの。しかし、コピーによるサインの送受信はこれまで球界の慣例で、だから「有効」という。そして2月4日の「強制力のない勧告」は「交流戦明けの6月23日以降という条件つきでソフトバンクとの契約を優先する」というもの。それには両球団とも不満で「とことん戦う」という。経過がわかりにくいし不快なことおびただしい（いま5日正午、まだパウエル自身の弁明を聞いていない）。 　わからないことが多い。オリックスは「獲得」と発表したあと、ソフトバンクが獲得交渉に入ったことを感じとっていたらしいが、その時点で何故ソフトバンクに抗議するなりパウエルに事実確認をしなかったのか。またソフトバンクは、オリックスが「獲得」と発表までしていることを承知の上で（連盟も「オリックスの契約は有効」といっている）何故、米国まで統一契約書持参で出かけたのか。そのあたりの事実経過がなんとも不透明だ。 　パウエルは、オリックスの書類へのサインは「就労ビザ取得用」といっているそうだがその辺も不透明だ。連盟の「強制力のない勧告」は、会長の形容を借りれば「三方一両損。苦渋の見解、政治的解決」だそうだが、よけい混乱を招いた感もある。不透明だからだ。 　関係者の間では、この際、パウエルも代理人も日本球界に入れるなという極論さえ、あるし、「外国人戦力依存」の風潮を絶てという声も高まっている。 　このところ西武・涌井やロッテ・成瀬、巨人の内海や阪神の上園などなど若手投手の台頭もめざましく野球ファンの“若者へのまなざし”も熱くなっている。一方で、くる年もくる年も、どの球団もとっかえひっかえ、外国人選手を入団させてはクビを切り、クビを切っては入団させる傾向は強まるばかりだ。そしてパウエルの例であらためて浮きぼりになった代理人という名の、いわくいいがたい実態がよくわからない介在人。「外国人戦力補強に関する新たなルール作りを」という声が高まるのも当然だろう。 　いい機会だ、不明朗な背景を明確透明にして、とことんウミを出しきって、関係者は大討論を行なって新しい秩序を形成しなければならないときだろう。</description>
      <pubDate>Tue,  5 Feb 2008 19:57:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第228回</title>
      <description>　「週刊ベースボール創刊50周年記念企画」第3回（2月4日号）で、「週刊ベースボール」は、いまのようにメジャー・リーグの情報がほとんどない時代から大選手の自伝ものや戦術・戦法ものなど、他のメディアにはない数々のメジャー・リーグ情報を読者に提供してきたといい、その「早くからのメジャーへのアプローチは、日本の野球を変える一助となっていた」と自画自賛？　していた。 　月刊「ベースボール・マガジン」時代に長期連載した「ドジャースの戦法」が単行本になって、それが当時の巨人・川上哲治監督の目にとまって、それが「V9野球の基礎」となって球界全体に広がっていったというのはよく知られた話だが、「週刊」になって、故・中野好夫・東大教授らに「白眉の自伝」と賞賛されたのが「球聖タイ・カッブ自伝」（翻訳が、のちのコミッショナー・内村祐三氏）だった。いま、イチローの安打記録のたびに話題として登場してくる9年連続を含む12度も首位打者になった大打者。のちに映画にもなった“もうひとつの顔”をもつタイ・カッブのスキャンダル書がアメリカで発売されるなど毀誉褒貶（きよほうへん）の多かった選手だが「タイ・カッブ自伝」のほうはグラウンド上の闘争心が燃えさかる“闘魂の勝利の記録”だった。 　久しぶりに、その「タイ・カッブ」の名前に接して思い出したのが、名中堅手と謳われた故・坪内道典（36～48年は道則）さんのことだ。「タイ・カッブ自伝」が単行本になった頃は、坪内さんはコーチ生活を続けていたのだが、当時のベースボール・マガジン社の池田恒雄社長に長い手紙をよこし、「私が現役時代にあの本を読んでいたら、現役プレーヤーとしてあと2シーズンは続けられただろう」と悔しがったという話。坪内さんは、日本プロ野球史上初の通算1000本安打（次に続いたのが“打撃の神様”川上哲治だ）記録の持ち主。1メートル64という小柄な体ながら、三振の少ないシュアなバッティング、盗塁王2回（1イニングに二盗、三盗、本盗と3盗塁をやってみせたこともある）の俊足、幅広い守備範囲……と走攻守三拍子そろった名外野手と定評のあった人だ。真面目な性格で選手間にも人望があった。そんな人が「タイ・カッブ自伝」の闘魂の話を読んで「私にも、ああいう闘魂があれば、まだまだ選手としてやれたのに」と悔しがったというのだ。 　坪内さんが中日ドラゴンズの二軍監督だった頃、宮崎・串間キャンプの宿舎に泊りこんで、坪内さんの長い野球人生のあれこれを聞いたことがある。そのときも「若い選手たちにあの本を読め、読めといっているんだが」と苦笑いしていったものだった。“苦笑い”の理由は「本を渡して“読め”といってもなかなか読んでくれん」からだ。「その気になって心して読めば、打率なら1分、投手なら1勝は上乗せできるといってけしかけているんだけどね」。 　スプリング・キャンプの季節がやってきた。「プロ野球選手にとってキャンプ・インの日がお正月」とは、いつ誰が言い出したことだったか。一般の人が新年に誓いをたてるように、プロ野球選手は。キャンプ・インにそれぞれ新たな誓いをたてて臨む。一度、宮崎・青島の巨人の二軍宿舎に部屋をとってもらったことがあったが、キャンプ初日の早朝に目覚め、窓からのぞくと、朝日にむかって手を合わせている選手の姿が目に入ってドキリとしたことがある。“ああ、ずっと、いまのその気持を忘れずにいてほしいな”と思ったものだった。 　キャンプ直前になってケガをしたという報道に接することが怖い。せつない。体調の万全を祈るばかりだが、ここにきて気になるのは、ソフトバンクの王監督が予防医学の権威を招いて「選手の故障を防ぐため」の講習会を開いたり、巨人も栄養学の先生を招いてキャンプ中の選手の食事に気をつかっているというようなニュースだ。球団のほうが、それだけ気をつかうというのは、選手側にそういうことへの意識が薄いということだろう。ソフトバンクがまだ「ダイエー」を名乗っていた頃の高知キャンプで、「宿舎で豪華な夜食を用意しているのにほとんど箸もつけず、コンビニで買ってきたスナックをかじっている選手がいたりしてガッカリする」というコーチの慨嘆を聞いて驚いたことがある。豊饒な世界の裏側を見せられたような気持になってガッカリしたものだ。 　特に、いま一軍入りをめざし希望に燃えている若い選手には“体調の万全を”と願うばかりだ。 　幸多きキャンプ生活であることを祈る。</description>
      <pubDate>Tue, 29 Jan 2008 16:48:00 +0900</pubDate>
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      <category>第221回～第240回</category>
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      <title>白球の視点 第227回</title>
      <description>　トレード選手について書こうと思っていた。 　期待されて阪神からオリックスへ移っていったというのに、コリンズ監督から「ハマナカ？　フー？」といわれたという浜中治外野手。“コリンズさん、そりゃ、ないぜ”と記事を読んでハラがたち、“浜中、気にしていないかな”と心配していたが、「週刊ベースボール」2月4日号の巻頭インタビューを読んでいたら「アイツのホームランを見に行こう、アイツの勝負強いバッティングを見に行こう、といわれるくらいの選手になる」と力強いことをいっているのでホッとした。 　セ・リーグからパ・リーグへ移る選手ではヤクルト→西武の左腕・石井一久投手、落合監督が「手放したくなかった」と悔しがった和田一浩外野手の補償選手・中日→西武の岡本真也投手、そしてヤクルト→日本ハムの左腕・藤井秀悟投手。それぞれ、どんなピッチングをしてみせてくれるだろうか、強い興味をもって見ることにする。 　それにしてもヤクルトの高田繁・新監督も思いきったことをやるものだ。藤井にプラス坂元弥太郎投手と三木肇内野手の3人と、日本ハム・押本健彦、橋本義隆両投手と一軍公式戦経験はこの2年間で34試合という川島慶三外野手の3人との交換トレード。聞けば、川島は、高田監督が日本ハムのGM時代に強く推薦してドラフト指名入団させた快足選手で内、外野ともこなせるユーティリティ・プレーヤーだということだ。“高田監督好みの機動性のある野球をめざす狙い”という解説が多かったが、新天地で羽ばたけるか。 　補償選手でいえば、FAの石井一久投手に代わってヤクルトに移った福地寿樹外野手も07年は117試合出場でホームランは0本だが28盗塁もしてみせた“走の選手”だ。広島→西武に続いて2度目の移籍で、古巣のセ・リーグに戻る。福地のプロ入り初安打は巨人の上原投手からだった。岩村もいない、ラミレスもいない新生・ヤクルトで新しい世界をつかめるだろうか。 　「トレード選手」というと、いつも加藤博一選手を思い出す……と、21日午後、“下書き”に書いた。書いてから、かつて編集した「トレード史」を書棚からひっぱりだし頁をめくりながら、あの選手この選手を思い出し往時を懐かしんだ。新天地を得て光り輝いた選手、すばらしい実績をあげていたのに移籍してしぼんでいった人。その中でも「トレードがあったから、私はプロ野球の世界で生きてこられた」といいきっていたのが加藤博一だった。帰宅して構想をまとめようとした夜10時過ぎ、テレビで、その加藤さんの訃報を知りガク然とした。“虫の知らせ”というものがあるとしたら、こういうことをいうのだろうかと思った。 　現役時代も、引退してからも、いつ会っても明るく、話が面白く、よく座談会にも登場してもらった。70年、佐賀・多久工からテスト生で西鉄入り。「テスト生なんていってももっぱら“ファームの球拾い”。外野で打球を追っかけていたら、スタンドにいた女学生から“あんた、どこからきたアルバイト？”といわれるんだから情けない」。決まった給料もない。加藤さんにいわせると、“ただのおぼしめし”。だから、時間があるとアルバイトもやった。オフも働いた。「プロ野球選手になる」といって出てきた故郷に帰れなかったからだ。 　「プロ野球人国記」の取材で多久へ行ったことがある。町の人が“多久工の加藤”と絶讃した。グラウンドの中堅に高い金網。そのむこうに道路。「あの金網を越したのは加藤だけだった。体は小さいが、リキはすごかった」。その加藤も“プロの世界”に入れば“アルバイト”に間違われる存在だった。 　それでも加藤は希望を失わなかった。プロの世界では非力と知って、スイッチ打法に取り組んだのが73年。背番号75で登録され、74年に背番号は35になったが、一軍公式戦出場75年の3試合だけ。その加藤が76年、片岡新之介捕手の“付録”の形で阪神へ移籍、79年から監督になったブレイザー監督に見出されるのだ。「すばしっこい選手が好きだということを人づてに聞いたから、こっちはもう必死よ」。闘志をむきだしにして、走りに走った。79年、プロ入り初ホームランが巨人戦で江川卓投手から。以後、“江川キラー”。80年、ついに規定打席に達して打率.314で打撃ベストテン5位。83年、次は大洋に移って「スーパーカー・トリオ」に名をつらねての活躍は、もうよく知られるところだ。 　加藤博一選手に関して多くを語ったのは、いまの若い選手に“こういうプロ野球人生もある”ということを知ってもらいたかったからだ。一度や二度は、誰も壁につきあたる。「そういうとき怖じけづいたら、もう終わり」と加藤さんは、口ぐせのようにいっていた。 　ベースボール・マガジン社刊の「小・中学生と指導者のための軟式野球クリニック＝ヒットエンドラン」誌で“出張コーチ”をしていた連載「野球伝道師・加藤博一が行く！」が好評だったのも、そういう志が少年たちに伝わったのだろう。 　トレードで新天地に挑む選手たちにも、“加藤博一の志”を伝えたい。</description>
      <pubDate>Tue, 22 Jan 2008 18:25:00 +0900</pubDate>
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