2007年10月24日

白球の視点 第216回

 たとえば、日本ハムの森本稀哲外野手。僚友の首位打者、リーグ最多安打(176安打)の稲葉篤紀に次ぐ175安打を打ってリーグ最多の91得点は、みごとといっていい。一塁走者で、次打者の外野の間を抜けていく長打を見つつ塁間を疾駆するしなやかな体は、日本にいた頃のイチローのベース・ランニングを思い出させるにじゅうぶんだった。「得点王」というタイトルはないが、「得点王こそチーム勝利の貢献者」という論者もいるほどで、森本は、日本ハム投打の主柱、ダルビッシュと稲葉に並ぶリーグ優勝の功労者といっていいだろう。同じ日本ハムでいえば、58犠打のパ・リーグ新記録を作った田中賢介もそうだが、タイトルこそとれなかったものの、前年までの成績と比べると、格段の進歩をみせた選手の印象が強く残るシーズンだった(田中賢介がプロ入りした年、イースタン・リーグでタイトルこそとれなかったが、ベースボール・マガジン社制定の「ビッグホープ賞」に選ばれて以来、シーズン前の激励会で顔を合わすたびに「ビッグホープ賞受賞者は、イチロー以来みんな立派な選手になっている。頑張れ」と励まし続けてきたのだが、今季、7年目、25歳、みごとな“オトナの選手”に成長してくれたと喜んでいるひとりだ)。

 同じ「田中」でいえば、ヤクルトの田中浩康内野手も、その進境ぶりに目をみはった選手のひとりだ。後半戦になって二塁に定着した昨年に比べ、今季は青木宣親とラミレスの間を打ち続けるというむずかしい立場で常時出場して打率.2949、よくつなぎ役を果たしてリーグトップの犠打51(2位が中日・荒木雅博の30犠打だからダントツだ)。もうひとつのリーグトップの三塁打8という数字も新鮮だ。森本のような“走る、走る、また走る”というイメージが重なってくるからだ。チームは最下位。打者の話題といえば青木とラミレスの首位打者争いのことばかりだったが、台頭してきた田中浩康は、青木に次ぐ若い打者の出現ということでもっと注目されていい存在だと、ずっとプレーを見ていたのは私ひとりだっただろうか。

 移籍組でいえば、オリックス-巨人の谷佳知。パ・リーグ2冠王から巨人入りした小笠原道大とともに、パ・リーグからきたこの2人の活躍なしに(他の要因はあったにしても、だ)、今季の巨人のリーグ優勝は考えられなかったと思う。そして、私が特筆大書したいのが、ロッテの早川大輔外野手だ。06年、オリックスで一軍公式戦21試合出場、46打数9安打、打率.196だった男が、07年、ロッテに移って133試合出場、459打数、130安打、打率.2832で、リーグトップの8三塁打の快打好走。“旧オリックス組”の谷と早川が新天地で大活躍、交換に巨人とロッテからオリックス入りした選手がほとんど“戦力”にならず、このトレードを行なった球団フロントは“いったいなにを考えておるのか”とオリックスのオーナーは激怒したというが、ホント、谷との交換で巨人の誰がオリックスへ行ったのか、早川との交換でロッテの誰がオリックスへ行ったのか名前と顔がとっさに思い浮かばなかった(ゴメンね)。それほど、このトレードには大きな差があった。“球団フロントの戦い”とはこういうところにあるのだろうが、早川の活躍は、それをあらためて形にしてみせてくれたといえようか。

 “タイトルこそとらなかったが表彰ものの選手”といえば、私は中日・森野將彦をあげる。打率.2943とか打点97という数字を超えた勝負強さ、それをバッテリー以外の7つのポジションを守りきって、シーズンを通じて発揮し続けた気力と体力。ウッズのあとの5番を打てば5番打者の役割を果たし、福留が抜ければ3番打者の役割を果たし、それが内、外野、ときに応じて守備位置を変えてのことだから、立派というほかはない。森野の“ツメのアカ”を煎じて飲ませたい選手がいっぱいいるから、よけいだ。

 今季は、若手の台頭も目立った。ロッテの成瀬善久は別格としても、ソフトバンクの本多雄一、日本ハムの稲田直人、阪神では林威助、桜井広大が大きな拍手を浴びるようになったし、それにようやく勢いがついてきた楽天の草野大輔や渡辺直人を含めてもいい。次々と“若々しい戦力”が出てくるではないか。だというのに、またぞろ他チームで活躍した外国人選手に触手をのばそうとしている球団が続出している気配がある。嘆かわしい!

posted by 田村大五 |12:08 | 第201回~第220回 | トラックバック(0)
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2007年10月16日

白球の視点 第215回

 夜遅いNHKテレビで、このところ多い、いわゆる「アーカイブス」番組でひと昔、ふた昔前の映像を懐かしく見ている年齢だが、家人が見ていたバラエティ番組で、若い歌手(氷川きよしとベッキー)が「長嶋(茂雄)さんと王(貞治)さんが巨人の選手だったことを知らなかった」といったシーンには、番組で同席していた年配のグッチ裕三さんも椅子の上でひっくりかえっていたが、私などは、驚きのあまり、座っていた椅子からとび上がったほどだ。普段、さまざまなことで“時代はまるで変わってきている”ことはわかっているつもりでも、このふたりの若いタレントの「ON=巨人」は「知らなかった」発言は、“そういうことなんだぞ、お前!”というような“旧人間・私”への強烈なメッセージにも聞こえてきたものだ。

 そういう“プロ野球の歳月”に関していえば、このところ、ひとつのテレビ・コマーシャル・フィルムに、“感慨あらた”といえば聞こえはいいが、ある種のショックをおぼえた。かつての巨人-阪神の小林繁さんと、阪神-巨人の江川卓両投手が共演する日本酒のテレビ・コマーシャル。“ああ、そういう時代になったんだなぁ”というのが、私個人のまっさきの感想である。

 「ON=巨人」を知らない人がいるのだから「江川問題」を知らない若い野球ファンもいるだろう。「どうしても巨人に入りたい」と太平洋クラブ・ライオンズ(いまの西武の前身)のドラフト1位指名を拒否してアメリカの大学へ行き、1年後に帰国してドラフト会議の前日に「空白の一日」という理論? で巨人と契約、リーグ会長が拒否すると巨人はドラフト会議をボイコット、巨人欠席の会議で阪神が1位指名するが江川側は応じず、この77年暮れから78年春まで、江川家があった栃木・小山には報道陣が殺到、新聞はスポーツ面だけでなく社会面まで大きくさいて報道、一種の“社会問題”となって世間をにぎわせた。78年、キャンプ・イン直前に、江川は阪神と契約した上で巨人・小林繁投手とトレードという“コミッショナー裁定”で、この問題は一応のピリオドをうったが、そのとき一度姿をくらました小林投手と「週刊ベースボール」は独占会見、「私は江川投手とのトレードに応じたのではなく、(混乱した)プロ球界の正常化のためにあえてこのプランをのんだ」という言葉を引き出した。

 ふたりは以後、直接会って話をしたことがなかった。いや、小林投手に聞いた話では、一度だけ寿司店でバッタリ遭遇したことがあるそうだが、江川投手は気まずそうに頭を下げて去ったという。“事件”の流れからいって江川投手は“ダーティ・ヒーロー視”され、小林投手はキャンプ地の高知から安芸まで車が続いて大渋滞を起こすほどの人気者になり“輝けるヒーロー”となった。

 それから29年。ドラフト制度は、それ以後もさまざまな問題を生んだが、「江川事件」のような大騒動は、もうなかった。「江川問題」の渦中で取材に明け暮れた身にとってはそれでも事件の“後遺症”がずっと残った。

 そのふたりがいま、日本酒の宣伝で、テレビ画面の中で、笑いをふりまいている。歳月はすべてを流してしまうのだろうか。29年間という歳月の中の、ふたりの野球人生を思い、あらためて“歳月”というものが身に沁みた。

 今年の高校生ドラフトの、“ビッグ3”といわれた大阪桐蔭高・中田翔→日本ハム、仙台育英高・佐藤由規→ヤクルト、成田高・唐川侑己→千葉ロッテの抽選が決まったときの3人の笑顔を見たとき、“ああ、ドラフト制も選手の心の中にここまで浸透、成熟したんだな”と思ったものだった。それを“自分の運命”と正面から受けとめて、その中で自分の野球の力を思いっ切りためし伸ばそうという思いと志。そういう確たるものがあるからこその、あのさわやかな笑顔だったのだろう。

 パ・リーグのクライマックス・シリーズ、第2ステージ第2戦、4回表、カメラマン席にとびこんでファウル打球をつかみ、7回裏二死から6連打のきっかけを作った日本ハム・稲田直人はドラフト5位指名、7回表二死一、二塁のピンチで“あわやロッテ逆転の長打?”と思われた左翼への大飛球をつかんでバレンタイン監督を悔しがらせた工藤隆人は9位指名の入団だった。彼らは、そこから“自分の野球の世界”を作りあげた。

 “江川事件”から29年、確かにプロ野球の世界は変わった。超満員の札幌ドームがドッと揺れているのを見ながら、思ったことだった。

posted by 田村大五 |18:43 | 第201回~第220回 | トラックバック(0)
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2007年10月09日

白球の視点 第214回

 6月の広島-横浜最終戦、10対0と広島リードの9回表二死、すでに引退を表明している広島・佐々岡真司投手のカウント1-3からのストレートを左中間席に打ちこんだ横浜・村田修一が「こんなにつらいホームランを打ったのは初めて」と、泣きながらダイアモンドを一周したという報道を複雑な気持ちで読んだ。

 “ホームランを打って泣きながらベース一周”というと、70年のパ・リーグ最終戦、阪急-東映戦での大杉勝男を思い出す。ずっとホームラン・レースのトップを走っていたが南海・野村克也がジリジリ追いあげてきて、ついに追いつかれる。不調に陥った大杉は、「オレはもうダメだ」といい続け、うちひしがれていたという。当時“兄貴分”だった張本勲さんに聞いた話だが、「そばにいても見ておれなかった」というほどの沈みこみよう。そして最終戦、ついに一発、打席の中で打球の行方をじっとみつめ、打球が外野席でハネかえったのを見届けたとたん、大声で泣きはじめ号泣しながらのベース一周、ベンチにかえってからも張本の胸に顔を埋めて泣きじゃくり、いま日曜朝のテレビで「喝!」と叫んでいる、あの張本さんももらい泣きしたほどだったという。それが、大杉にとって初のホームラン王タイトルだった。

 村田が泣きながらベースを一周したという話を聞いてとっさに思い出した“むかし話”だが、どうも村田の場合は、大杉とはかなりニュアンスが違うようだ。8月の時点で、中日のウッズに8本も差をつけられていたというのに9月に13本と大ブレーク、一気に追いつき、ついにウッズと巨人・高橋由伸を追いぬく36号を放ったというのに「こんなにつらいホームランは初めて」とは……。

 10対0という広島の圧倒的リードという試合状況。投手は引退表明の佐々岡。カウント1-3からの直球。そういうことの“うしろめたさ”だったのだろうか。だが、私は、そこまで考えなくてもいい、と思う。10対0だろうが、9回二死走者なしだろうが、“もうどうでもいい”と考えることはない。全力で打ちにいくのは、プロの打者として当然のことだろう。佐々岡投手も「最後は直球で勝負したかった」といっている。しかも、報道によれば、「遠慮なく打ってこい」といっていたという。それでは「こんなにつらい……」はないだろう。胸を張って「オレは36号を打った」といえばいい。

 いや、逆に、とにかく“あと1本”が欲しいが、残り試合はどんどん少なくなる、“とにかく打ちたい、とにかく打ちたい”という思いだけが先走る。なかなか出ない。そういうときの9回二死からのホームラン。それが「こんなにつらい……」という言葉になったのだろうか。そうすると、37年前の大杉勝男と似たようなものになる。しかし、報道記事を読んでいると、どうも違う。どうも“佐々岡投手に対して申しわけない、すまなかった”という思いの涙、というふうに感じてしまう。それが、報道記事を読んだだけの、私個人の間違った解釈だったとしたら許してもらうしかないのだが(「週刊ベースボール」の担当記者か私自身が次に村田修一に会って確かめなければならない)、もし、村田の「つらいホームラン」が「10対0、9回二死」からで「引退する佐々岡への仮借ない追撃」だったことへの“謝罪めいた思い”からの発言だったとしたら、私は、あえて、村田に「つらいホームラン」などといってはいけない、と訴える。

 投手が投げる、打者が打つ。そこからくりひろげられる筋書きのないドラマ。だから、野球は面白い。あらかじめ仕組まれたドラマにロクなものは、ない。村田修一は、どんな状況にかかわらず、プロの打者として、ちゃんと打ったのである。恥ずかしがることではない。

posted by 田村大五 |20:06 | 第201回~第220回 | トラックバック(0)
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2007年10月02日

白球の視点 第213回

 61年8月19日、甲子園球場。第43回、夏の甲子園大会、準決勝の浪商-法政二高戦。浪商・尾崎行雄-法政二・柴田勲の投げ合いで大いに沸いた試合だ。1回裏、法政二が先手をとった。それが二死一塁からの攻撃。次打者の打球は、二塁ベースカバーに走ろうとした遊撃手の逆をついて左前へと転がっていった。そのときの一塁走者が柴田で、「日本高等学校大会50年史」は、次のような「飛田穂洲評」を掲載している。

 「浪商左翼手の内野返球の怠慢に乗じての柴田の快走による先取点。柴田の走塁はケイ眼というべきだが、浪商外野手の不覚もまた見逃すわけにはいかない」。

 その浪商の左翼手が、初めて甲子園の土を踏んだ「1年生の高田繁」だった。私は、のちに高田が明大からドラフト1位指名で巨人入りしたとき、報知新聞に在籍中で「高田繁物語」の連載執筆を命じられて約1ヵ月、毎日のように本人の話を聞いてまとめたのだが、約40年も前の話、いまはもう細部に関してはほとんど忘れてしまっているのに、その甲子園の話だけは、そのとき語り続けていた高田の表情や、ほかの追憶話とは語調まで違っていたことをハッキリ記憶している。高田自身よほど衝撃的な体験だったからだろう。

 「ぼくは別に怠慢プレーをしたとは思っていなかった。ただ、ごく普通に打球を捕って内野に返球したら、もう三塁をまわりかけている走者の背中が見えたとき、“こんなことってあるか”と思った。“ああ、野球って、こういうものなんか”と思った」。そして、こう、いうのだった。「あれが、私の野球の原点になった」。

 以後、東京六大学野球の盗塁記録(当時)、法大の強肩捕手・田淵幸一との丁々発止の攻防、新人王に選ばれた“巨人1年生”の日本シリーズMVP、攻守両面のぬけめのないプレー、わけても「絶妙の返球プレー」といわれた左翼守備、それでも張本勲の入団で長嶋監督に三塁へのコンバートを命じられたとき正月も返上しての猛練習でベストナイン三塁手に……そういう高田繁の野球人生の原点が、浪商1年生のとき法政二・柴田勲の走塁を許した自分のプレーにあったというのである。

 球団初の連覇を成し遂げたというのに、いま急に日本ハムのゼネラルマネジャー役を降りるといいだした高田繁の、そんな古い話を突然、思い出したのは、日本ハムが連覇を決めた9月29日、対ロッテ23回戦、0-0の6回表無死、一塁走者・稲葉篤紀が、次のセギノールの三遊間をゆるく抜けたヒットで一気に三塁へ走って生き、それが先取点につながったシーンを見たときだった。“こういう野球で勝ってきたんだな”という思いである。

 小笠原が抜け、新庄が抜け「マスコミに日本ハムは弱いといわれて、順位予想などでも下位におかれ、みんなでクソーッと思っていた。だからみんなでとにかく次の塁を狙おうと思いつづけた」という選手たちのひたむきな姿勢。久しぶりの東京ドームでの試合を見にいったときにハッと胸をつかれたのは、守備位置につくときでもみんな背をのばし、全力疾走に近い走り方をみせていたことだった。

 中継ぎ役を含めた抜群の投手陣、リーグ最多安打を競い合った稲場と森本稀哲……そういうヒーローとは別に、私はずっと、小谷野栄一とか工藤隆人、稲田直人や飯山裕志、それに一度、戦力外をいいわたされたが再びユニフォームを着た坪井智哉を含めてもいい、そういう選手たちの、攻守にわたる“ハツラツ・プレー”に注目してきた。彼らのプレーが何度、チームを救い、勝利に結びついてきたか。それが、守備位置につくときもひたむきに走っていく姿と結びつく。そして、それがまた、自分ではミスとも思わないプレーの虚をつかれ相手に走られてしまったことから野球をみつめ直した高田繁の姿とダブッてみえてきたのである。

 大型補強にたよらず、ファームとの密接な連係による人材発掘も、今季の日本ハムの特徴といわれた。チーム編成の責任者・高田繁と現場の責任者・ヒルマン監督のみごとなチーム運営の成果といっていいだろう。なんということだ、その2人が去るという。ひとつのサンプルを示しておいて“ハイ、サヨナラ”はないだろうと思いつつも、後任者にさらなる課題をつきつけたひとつの“勇気”かと思ってみたりもする。いや、これは“金にあかした大型補強”への皮肉かもしれない。

posted by 田村大五 |17:06 | 第201回~第220回 | トラックバック(0)
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2007年09月25日

白球の視点 第212回

 9月17日からの甲子園球場での阪神-巨人3連戦が「テレビ中継(地上波)なし」で、スポーツ紙だけでなく一般紙にも「プロ野球関係者やテレビ局はなにを考えているのか」という野球ファンからの声が相次いだ。私もかなりイライラしたひとりだ。プロ野球のオーナーの中には「NHKの大リーグ中継が多すぎる」と批判した人がいたそうだが、なんということをいうのか、自分たちで日本のプロ野球の熱戦をテレビで全国のファンに提供して楽しんでもらおうという努力もしないでよくそんなことをいえたものだ(NHKの大リーグ中継は、日本プロ野球中継の時間と違うので、ずいぶん楽しませてもらった)とハラがたっていたので、首位争いの渦中にある3連戦の「テレビ中継なし」には、ホント、「自分たちで人気低迷に手を貸しているのか」と思うほどイラだった。

 当然、ラジオの実況中継を聞く。聞きながらスコアカードを埋めていくのだが、そのうち、テレビ中継を見ているときより、「ラジオの実況中継-スコアカード作成」の作業のほうがずっと熱中度が高くなっていることに気がついた。1球、1球に、1場面1場面に不思議な“自分だけの野球の世界”が生まれ出てくるのである。これは、思いもかけない奇妙な体験だった。

 たとえば、追いあげているチームのほうが一死一、二塁のチャンスで同点か逆転かというときの二ゴロ併殺。ラジオだから、投手の表情も打者の表情もわからない。打った瞬間のコース、球種も、中にはパッパッと表現してくれるアナウンサーもいるが、なにしろ瞬時だから「投げました、打ちました、セカンドの正面」といった式のアナウンスも多い。その瞬間である、“自分だけの野球の世界”が生まれるのは。日頃、よく見慣れている投手、打者なら、“瞬時の想像”が生まれて、スコアカードの記号につながっていく。それはそれで、“野球大好き人間”にとっての一種の愉悦だ。深夜のスポーツ・ニュースでその瞬間をテレビ画面で見たとき、ラジオ中継で聞いた瞬間に自分で想像した場面と同じだったとき、深夜の居間でひとり、“やったぜ”と快哉を叫んだりする(たまに同室にいる同居人は「バカみたい」といっているが)。

 テレビ中継がないからずっとラジオ中継を聞いているうちに、ホワーッとウン十年前の、世の中にラジオ野球中継しかなかった少年時代の風景まで甦ってきた。つい「奇妙な体験」と書いてしまったのは、そのせいかもしれない。北国の小さな町の少年にとって“遠い世界の名選手たちのプレー”は、しょっちゅうガーガー、ピーピーと雑音が鳴りっぱなしのラジオのむこうにある、想像力でふくらませて楽しむものだった。それが楽しかった。

 だが──。この9月24日、午後はNHK衛星テレビで札幌ドームの日本ハム-ソフトバンク最終戦をたっぷり楽しんだ(5時間10分!)。やはり、テレビでなければわからないと思ったのは8回裏、日本ハムが同点に追いついたとき、フラフラッと右翼線ぎりぎりに落ちた小谷野の打球で一気にホームをついた一塁走者・工藤の走塁であり、12回裏二死、代打・田中幸の左翼塀上段に当たった快打で一塁からの代走・紺田が間一髪、アウトになった幕切れのシーン。いずれもスリリングなシーンで、“こりゃ、やっぱり、いくらラジオの名アナウンスに想像力をふくらませてもテレビ実況にはかなわないな”と思ったものだ。そして夜、セ・リーグの決戦、巨人-中日22回戦はまたもやテレビ中継なし。ここでも3時間22分、“ラジオがお友達”の夜を過したのだが、昼のゲームのスリリングな走塁シーンが印象に残っていただけに、1回表、荒木の左前安打で一塁から三塁へ走った井端の走塁や5回表二死で走り三塁へヘッドスライディング、貴重な追加点に結びつけたウッズの走塁などは、深夜のスポーツ・ニュースではなく、その場でその瞬間を見ておきたかった(お~い、巨人のバッテリーよ、ウッズは21日の対広島戦でも延長10回表、盗塁してみせているんだぞ。ナメたらいかん)。

 阪神がここにきてぐらついたのは残念だが、最後の最後までハラハラドキドキのペナントレース、選手もムキになり、ファンも熱くなっているというのに、アラ不思議、肝心なところで「テレビ中継はありません」とシラけさせてしまうということは、今後、ないでしょうなぁ、関係者諸兄。

posted by 田村大五 |17:11 | 第201回~第220回 | トラックバック(0)
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2007年09月18日

白球の視点 第211回

 「タラ・レバ」の話はしてはいけないことになっている。“してはいけない”ことはわかっているのだが、つい「あのとき……だったら」とか「あのとき……していれば」と口にしたり“あと批評”してしまうのはネット裏の常だ。私も、しょっちゅう、やる。

 小笠原の好投があったが浜中の一発で敗れた15日の対阪神21回戦、試合後、中日の落合監督は「タラ・レバの話はいかんよ」と口をつぐんだが、翌16日の試合前、前日の1回表、2走者を置いてのウッズの中堅への大飛球について「風が逆だっタラ……」と残念がっていたとテレビ解説者が明かしていた。「タラ・レバはいかんよ」といっていた監督自身もやはり、つい「タラ・レバ」を口にしてしまうというところが、ペナント争いの大詰め、心身を削る激戦の日々をよくあらわしている。

 優勝争いの渦中にはいなくても、たとえば16日のパ・リーグの下位チーム、楽天・野村監督は、8回二死からの逆転負けに「野球は1球のスポーツ」と“1球の配球”を嘆き、延長10回で敗れたオリックスのコリンズ監督は「リリーフ投手の準備不足?」と問われて「準備不足の投手を出すと思うか」と報道陣の質問に怒ったという。私にいわせれば、いずれも「タラ・レバの世界」の嘆きや怒りだったと思う。

 激しい攻防と、一戦一戦の一喜一憂で、日々、僅差で順位がめまぐるしく変わるセ・リーグ上位3チームの試合を見ていてこのところずっと私は個人的な「タラ・レバ」で試合を楽しんでいるのだが、いまもこだわっているのは14日の巨人-広島22回戦、8対3で広島リードの9回裏、巨人が5点を入れて追いつき、巨人が延長12回、9対8でサヨナラ勝ちした、あの例の少ない激戦だ。あの試合における私の[タラ・レバ」は、7回まで力投を続けていた広島・黒田投手が、そのまま続投していたらどうなっていただろうかという思いだ。あとを継いだ投手たちには申しわけないが、黒田だったら疲れていたとはいえ5点もとられただろうかという思いがずっと心の底にくすぶっている。終盤の巨人にとってあの試合が「1勝」になるか「1敗」になるかでその後に大きく影響したであろうから(これだって“タラ・レバ”だが)なおさらだ。

 それというのも、広島だけでなく、このところずっと球界を支配している、100球を越えたあたりで先発投手を降板させ、中継ぎ役から抑え役へとつないでいく風潮のことがある。いや、“風潮”というより、それはいまや“定型”といったほうがいいかもしれない。14日、ボストンでヤンキース相手に5回2/3を被安打4に抑えながら交代、そのあと大敗したレッドソックス・松坂投手の悔しさをここにダブらせてもいい。あのケース、日本にいたときなら交代はなかっただろう。むしろ松坂のピッチングでよくみられたように後半のほうが調子にのってノリノリの完投をみせたかもしれない。いや、やめよう、いまもう日本球界も100球を越え7回を越えたら先発投手は交代させられるのだから。

 でも、私は、黒田にも松坂にも投げさせたかったといまも思い続けている。これは「タラ・レバ」を越えた思いだ。

 私は、もう20年以上も毎日、両リーグのペナントレースの記録ノートをつけているが、このところ「登板投手」の項目がすぐいっぱいいっぱいになり、20年以上続けてきた欄の幅を広げなくてはならなくなってきた。それだけ、いわゆる「中継ぎ役」の登場がどのチームでもめっきり増えてきたからだ。それほどどのチームも「中継ぎ役の投入」がひんぱんだ。見ている私にすれば、それはそれで、それまであまり見たこともない投手のピッチングを見ることができるので“ひとつの楽しみ”ではあるのだが、それにしてもそのことで肝心の勝負の行方がきまってしまったりすることが多いのでガッカリすることも多い。

 JFKが話題の阪神でいえば、中継ぎ役も健投でこの限りではないが、最近、完投といえば、パ・リーグ、日本ハム・ダルビッシュ、西武・涌井、ロッテ・成瀬……。もっともっと「完投」を見たいと思っているのだが、いまの若い野球ファンは、どうなのだろう?

 知っている人は知っているが、私、古くは別所毅彦、杉下茂(古いなぁ)らの完投ピッチングを見ている身。稲尾和久、杉浦忠といつもピッチングを語り合ってきた世代。「白球の視点」再開ということで一つの問題提起。

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2006年07月21日

白球の視点 第210回

 私の机の引き出しの中に、昭和9年(1934年)8月24日付けの、古くめずらしい手紙のコピーがある。「大日本東京野球倶楽部」の三宅大輔氏から、「大阪・鐘紡の牧野元信氏」への手紙だ。「大日本東京野球倶楽部」とは、いまの巨人に至る、生まればかりのの「職業野球団」で、三宅氏とは巨人の初代監督。「牧野元信」とはこの18日に亡くなった前日本高野連会長の牧野直隆さんのことだ。手紙の中で、三宅氏はしきりに情熱をこめて牧野さんに「職業野球入り」を懇願している。断わった牧野さんに「職業野球というものを誤解しないでほしい」と訴えている。高野連会長の座を現・脇村会長にゆずった直後、大阪で食事をしたとき、直接、牧野さんにその手紙をみせ、話したら、笑っていった。「私は水原(茂)君たちのように名選手じゃなかったからね。選ばれたエリートの中で野球をやるより、日本全国に数えきれないほどいるシンから野球好きのアマチュアの人と一緒に野球を楽しみたかった」。精力的に地方をまわり、高校野球指導者たちと膝をまじえて話し合っていた中でも、私が忘れられないのは「ゆとりと休養の日」プランだった。いわゆる「しごき」が蔓延する中で「ゆとりと休養」とは、なんという新鮮な提案だっただろう。

 野球のこと、プロ球界のこと、学生野球のこと……顔を合わすたびにそれぞれの立場で熱っぽく語りかけてきた長いつきあいの秀れた人たちが次々に、もう顔も見ることもできず声を聞くこともできない彼池へ旅立っていったことが悲しくつらく、ショックを受け続けている日々だ。昨年から仰木彬さん、藤田元司さん、先には、こちらも社会人野球のことでいろいろと教えて頂いた山本英一郎さん、現役投手時代からコーチ、解説者時代まで投手心理の機微について語ってくれた宮田征典さん、そして今度は19日、元ヤクルト球団社長・田口周さんの訃報に接してガク然としている。

 日大三高の監督として選抜大会で準優勝した(62年)あと「日刊スポーツ」(東京)の記者になったとき、報知新聞の記者だった私は、いつも肩を並べて観戦して以来の仲だった。サンケイ(現ヤクルト)の二軍監督に就任すると、ベースボール・マガジン社を訪ねてきて「大リーガーの伝記シリーズ」を全巻購入して帰っていった。「合宿にいる若者たちに強制的に読ませようと思ってね」とにやりと笑っていった。「野球選手として、まだまだみんな甘いんだよ」。

 フロント入りしてスカウト部長から球団代表、そして球団社長へ。役職が変わるたびに、球団フロントの仕事の中味をレクチャーしてもらった。「現場とフロントの気持ちが合体していないといいチームはできない」が口グセだった。しして90年代、4度のリーグ優勝と3度の日本シリーズ優勝。古田兼任監督の「チームメートという感覚でした」という死を悼む談話が、その人物をよくいいあらわしていた。

 球界が“いい人”を次々に失っている現実をみるのが、ますますつらい。 

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2006年07月12日

白球の視点 第209回

 テレビ、ラジオの横に、必ず選手名鑑を置いておくようになったのは、一昨シーズンあたりからだろうか。毎年、ドラフト終了後から翌春の選手名鑑発行時にかけて新しいプロ入り選手に関しては、おおよそのところは頭の中に入れているつもりだが、3、4年前にプロ入りしてずっと芽が出ずほとんどファームで過ごしている選手については、ついつい頭の中から消えてしまっている。覚えきれていない。それが、このところ一軍メンバーもかなり新陳代謝が激しくなって次から次へと“新鋭”が登場して活躍、いいプレーを見せてくれるようになった。で、つい“ハテ”この選手、どこ出身で何年生まれで、プロ入り前はどうだったのだろうか”と選手名鑑のページを繰ることになる。

 今年に入っていえば、たとえば広島の井生(いおう)崇光。東筑高時代、甲子園に出場しているとわかって、“あ、そういえば……”と、東筑高出身の大先輩・故仰木彬さんに、当時、「ウチの後輩にバネのある足のええ子がおるらしい」と聞いたことを突然、思い出したりする。

 「週刊ベースボール」7月24日号の特集「最後の夏にあいまみえた男たち」で井生の高校“最後の夏”は、福岡大会決勝で東福岡高に大勝したことを知ったがそこにいたのが、いま横浜の4番打者、セ・リーグの打点争いのトップを行く村田修一。そうか、あの井生も、昨年までの7年間、こういう日を夢見て耐えてきたんだな……などとなにがしかの感慨にふける時間をもてるのも“名鑑のおかげ”といえるかもしれない。

 たとえばまた、このところよく打っているソフトバンクの城所(きどころ)龍磨。“確か、中京高からのドラフト2位指名だったな”と思いつつ、名鑑を見直してみると「高校の先輩が入団してきて刺激を受けている」と、あった。亜大を経て希望ワクで入ってきたルーキー・松田宣浩のことだ。城島がいない、井口がいない、バチスタがいないという中でソフトバンクがよく頑張っている底流にはこういう男たちの戦いもあるんだなとうなづいたりする。

 11日夜、札幌ドームでの巨人- 広島10回戦をテレビで観戦していて驚いた。9回表、代打・鈴木尚典の2ランが出て横浜5-1巨人となったとはいえ、“さあ、連敗中の巨人、最後の攻撃” というところで“テレビ観戦のみなさん、ではサヨウナラ”と中継放送はプツンと終わってしまった。中継局は、ジャイアンツとは“親戚関係の友局だというのに、午後9時前にサッサと中継をやめてしまう、そういう時代になったのかと唖然とした。

 ならば、中継放送されない他の各カードの戦いぶりを、深夜のスポーツ・ニュースでなんとか想像をたくましくして、前記のような野球人生物語を自分なりに編んでプロ野球を楽しんでいくしかない……と、自らを慰めている。 

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2006年07月06日

白球の視点 第208回

 イチローが、アメリカのオールスターのファン投票で選ばれ、喜びのインタビューの中で、特に、選手の互選による「ベスト外野手」に選ばれたことを「すごく嬉しい」といっているという新聞記事を読んだとき、2週間前、かつてのパ・リーグのホームラン王・門田博光さんと会ったとき、聞いた話を思い出した。

 40歳のとき、一代のホームラン王・王貞治も打てなかったシーズン44本塁打を打った門田さんは、常に目標を「高く、高く設定した」という話の中でイチローについて触れた。「イチローは50歳までプレーを続けていたいといっている。それは単なる“50歳”ということではないと、私は推測している。それはね、日本球界にはもちろんない、アメリカにもない史上最多のヒットを狙ってという意思表明ではないか。誰にも破られることのない大記録への挑戦。そこがすごいと思う」。

 自身、「50歳までプレーしたかった」という門田さんは、しきりに最近の若い選手が「打率3 割、20本から30本台のホームラン」でも打てば年俸は上がるし、“それでじゅうぶん”と考え、「もっともっと、その上、その上を狙ってみようという気概、意欲がないと嘆いた上で、イチローの例をあげたのだった。「それがお金を越えた野球選手の生きがいだと思うんだけどねぇ」と寂しそうに笑った。

 いま記録集を開いてみても、投手、打者の別なく、通算記録をみれば一目瞭然、上位のほとんど「かつての選手」ばかりだ。打者でなんとか「歴代の強打者たち」と張り合って? いるのは清原和博くらいのものだろう。その清原も、このところ故障ばかりで、ファンの期待とは遠い世界にいる。

 門田さんは昨年の宮古島キャンプで久しぶりに会って歓談したときのイチローの目の輝きが、いまも忘れられないという。目標を「高く、高く上におき、それに挑んで達成してみようという強い意思の輝き」に魅せられたという。

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2006年06月28日

白球の視点 第207回

 交流戦スケジュールが終わって、また元のリーグ戦にもどったというのに、いや、“もどったから”というべきか、「交流戦の是非」論議が、あちこちでかまびすしい。「もう、やめよう」という極論から、「長すぎるから、全6試合対戦をふたつに分けて、オールスター戦をはさんで各カード3試合ずつ2回にわけて行なう」という分割論から現状維持論までさまざまな意見がとびかっている。

 私は「交流戦は、面白い」と思っている「交流戦支持者」のひとりだ。

 いまヤクルトにもどってきた石井一久投手が、渡米前の絶頂時、当時「季刊ベースボールマガジン」の田中記者に「つい1週間前に巨人打線相手に投げたと思ったらまた巨人、3日前に阪神相手に投げたと思ったら阪神……じゃ、つまらない。みんな、知っている相手ばっかり、なんの新鮮味もない」と胸中を告白したという話を聞いたときから、“実力派”といわれる人たちに、投手、打者の別なく“狭い世界、力を発揮できる相手が決まっていて面白味が落ちすぎる”という思いが濃くあることは知っていた。力のある人に限って、投手なら“もっと違う強打者と対決したい”、打者なら“もっと違う球質、スピードのある投手と対決したい”と思うのが、“真のプロ”の心というものだろう。そういう意味からも“もっと多彩な対決”がほしいなぁと。ずっと思っていた。そこに「交流戦の実現で、個人的にも大いに喜んだものだ。

 「週刊ベースボール」7月10日号の特集にあるように、交流戦実現前には考えられなかった魅力的な対決の数に、それらが「野球の面白さ」を倍加させてくれた。そのことを交流戦否定論者は、どう考えているのだろうか。

 「パ・リーグとセ・リーグの野球は違う」などということも、交流戦実現までは、よくいわれていた。違うスポーツをしているわけではないのだし、“そんなこともあるものか……と、ずっと思ってきた。特に“セ・リーグの野球が緻密でパ・リーグは荒っぽい”式の論評にはハラをたててきた。そういう一種の“差別論”が意味がないことも、交流戦でよくわかった。ずっとずっと続けてほしい。

 さて、久しぶりにそれぞれのリーグ戦にもどる……と6月 27日朝、新聞を広げたら、なんと、その夜の横浜-巨人7回戦のテレビ中継がないことを知って驚いた。その夜は、リーグ公式戦再開というのに1試合もテレビ中継はなかった。ラジオ中継に耳を傾けながら“こんな夜はいつ以来だろう”と思った。プロ野球は大丈夫かいな。 

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